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- 新聞部の少女["Here we are"表紙SS]
雨上がりの庭は雫がきらきら光って、アニメ映画の世界みたい。花の名前はわからないけど、オレンジや黄色の花々は夏らしくてとても好き。 中庭の見える窓際席に一人で座り、私はメニュー表をまた広げた。もう注文は済んでいるのに、手持ち無沙汰で何度も開いてしまう。写真のないメニュー表はレトロな感じが物珍しい。左下の余白に、それほど上手ではない素朴なクリームソーダのイラストがある。 メロンソーダ、早く来ないかな。 午前十時の店内は、半分くらい埋まっている。客層はお母さん世代と老人。一緒に来たお母さんは、知り合いを見つけ同席し、私は一人席になった。中学生は私一人。知らない人がチラチラ見てくる。夏休みなのに、ズル休みしているみたいに居心地が悪い。 一人で喫茶店のテーブル席に着く。こんなのって初めてだからキンチョーする。なんか都会の人みたい。 私はメニューを閉じ、朝から何度も鏡の前で確かめた自分の服装チェックをする。マリンボーダーのカットソーとショートパンツ。白いサンダル。この前、買ってもらったばかりの新品。うん。結構いけてるんじゃない? このお店に初めて来た時は、クタクタのTシャツと、ダメージ加工でも何でもない穴の空いたジーパンにビーサンだったもんね。あれは恥ずかしかった。リベンジ成功。 だってカフェなんて洒落たもの、生まれて初めてだったんだもん。 喫茶海猫。私の街にオープンした喫茶店。市街地からは結構遠くて、自転車なんかじゃ行けないところ。大人は車があるからいいなあ。あーあ、早く大人になりたい。 「お待たせいたしました」 ドキン、と心臓が跳ねる。体に電流が走ったみたいに背筋が伸びた。学校でもしないような膝に手を置くいい姿勢で、私は顔をパッと向ける。 店員のアメさんがにっこり笑った。金髪猫毛の先っぽが、外の光を透かしてキレイ。 「庭を眺めてらしたんですか? ありがとうございます。僕が手入れしているんですよ」 彼の目が庭に向いた。私はドギマギしながら、必死に言葉を探す。 「えっ、あの、はい……! オレンジ色が綺麗だなって」 「オレンジ色? ……ああ、本当ですね」 アメさんは微笑んで、トレイのドリンクをテーブルに置く。音が全くしないのがすごい。 泡が弾けるエメラルドグリーンのソーダ。トッピングはまん丸のバニラアイス、真っ赤なチェリー。ストローとスプーンを紙ナプキンの上に置いた。男の人の手ってあんまり近くで見たことないかも。肌は白くて、大きさの割に細くて関節が出っ張ってる。爪は深爪したのかなって心配になるくらい短い。指先の皮膚は乾燥して少し荒れてけれど、私は綺麗な手だと思う。 「お先にメロンソーダです。パンケーキは、もう少々お待ちくださいね」 ぺこり、とわかりやすい会釈をしてアメさんは背中を向けて去っていった。後ろ姿が外国映画の俳優さんみたい。 はあー、かっこいいなぁ。 「ねえ、アメさんこっち」 「はい。ご注文ですか?」 「コーヒーのおかわりいただける?」 お母さんたちのテーブルに捕まって、少し立ち話。お母さんたら声が大きくて恥ずかしい。ここまで聞こえてくるんだけど……。 「ねえ、アメさんご結婚は?」 「いえ、今は」 「誰か紹介しましょうか?」 「えっと、その、間に合ってますので……」 「アメさん。これ運んで」 男の人の声が割って入った。はっと顔を向けるけど、カウンターは壁に遮られて見えない。 「あ、なおくん。はい。ご注文は以上ですね。では、僕はこれで」 タタッ、とアメさんがカウンターに向かった。トレイに大盛りのパンケーキを乗せてやってくるのを、私は庭に顔を向けて待つことにする。
- 灯台のコウモリ_9
夜光雲が星を覆い、灯台は闇に包まれた。人影は夜に溶け、虹彩の一つの赤と二つの碧が彗星のように光る。 「僕の左目の話をしようか」 伊奈帆は左目の眼帯に指で触れた。額を横切る斜めの紐は、ビショップの刻印めいて彼の容貌に溶け込んでいる、とスレインは思う。 「この左目について、君は一度僕に聞いた」 その時のことを覚えている。左眼をどうしたのか、と僕は聞いて、伊奈帆はそれに答えず僕の感想を尋ねた。 「はぐらかしてごめん。あの時は、君に伝える勇気がなかった」 「勇気?」 雲が濃く、星の届かない影の中。伊奈帆の声が聞こえる。 「この左目は、セイレーンとの取引で失った」 「……セイレーン?」 スレインは尋ねる。伊奈帆は一呼吸の後、芝居がかった動きで両手を広げた。 「人魚だよ。水の魔性。美しい歌声で航行中の船乗りを魅惑し、船は難破する」 その末路が、七つの海に彷徨う無数の幽霊船。 「取引って、何だ?」 「岬の通行許可」 「岬?」 スレインは自身の胸を掻き抱いた。呼吸が浅い。胸騒ぎがする。伊奈帆の次の言葉に耳を塞ぎたい思いと、必ず聞かなければならないという、使命のような予感。 言ってくれるな。という思いで、目を見開いて彼を見る。 伊奈帆の喉仏が上下する。 「呪いの岬の美しい亡霊。彼女の名はセラム」 雨も嵐もないというのに、雷鳴が視界で明滅する。 「セラム……?」 スレインは呟く。その名前を、初めて聞いた。初めて口にした。でも、決して初めてではない気がした。 僕はその人を知っている。 「これを君に」 伊奈帆は、それをコートの胸元から取り出した。四つの碧玉が埋め込まれた、銀の鎖のペンダント。 スレインは雷に打たれたように固まった。青褪めた唇が震える。 「アセイラム姫……」 木枯らしで梢が擦れるような、聞き取れないほど微かな発声。 「そういう名前だったんだ」 伊奈帆は微笑む。淋しそうに。悔しそうに。そして満足気に。こんな表情の彼は初めてだった。 「どういうことだ?」 冷静さを取り戻し、スレインは問いかけた。伊奈帆はスレインに歩み寄り、ペンダントを持った腕を伸ばす。彼の手からしゃらりと鎖が下り、古い意匠の宝石飾りが瞬いた。 「恋に破れて海に身を投げた女性は、セイレーンになる」 ヴァンパイアになるのと同じ摂理。恋は時に死を拒み、人の本性を魔性へと変えてしまう。 スレインは、ペンダントを受け取った。確かに、これは本物だ。同じところに傷がある。 不吉な確信を持ちながら、スレインは聞いた。 「……アセイラム姫は、今どこに?」 「それは彼女の形見だ。君に渡すよう頼まれた」 伊奈帆は簡潔に答え、彼女の最期を伝える。伊奈帆の左目と引き換えに、極海の泡となって消えたこと。 「僕が憎い?」 静かな問いに肩が強張る。伊奈帆の隻眼は真っ直ぐにスレインを見ていた。 塩風が夜雲を散らす。一人分の影が輪郭を濃くし、ドッペルゲンガーのように同じ姿で映し出される。 「セラムさん……アセイラム姫は、僕のせいで消えた」 伊奈帆の影の先端を見つめ、スレインは窓枠の形そのままに白やかな床に目を落とす。僕はいつ、影を失っていたのだろうと考えながら。 「君のせいじゃない」 スレインは、自身の言葉を意外に思った。色を失った空洞のような生の中、アセイラムとの記憶だけが鮮やかだった。もうずっと。果実めいた血の匂いが、残酷だったが優しかった。 手のひらの上、星夜に静かに輝く古い飾り。スレインは、後ろ手に両手を回しチェーンの金具を嵌めた。欠けていたものがようやく埋まった、そんな感覚が遠い日に動きを止めた心臓部から広がった。 「もともと、僕が差し上げたものだ。御身をお守りしますようにと」 鼓動を錯覚する胸に右手を当てる。アセイラムは、ずっと身につけていたのだ。人としての生を終え、海の亡霊となってなお。これを。 「そうだったのか」 伊奈帆の呟きが聞こえた。形見だ、と言ってこれを渡した彼は、言葉にせずとも事情を理解したらしかった。彼は一度しっかと口を引き結び、そして慎重に発声した。 「灯台のコウモリは、人柱だろう?」 風が通る。潮騒が展望台の天井床に反響する。星がさざめき、影は踊る。 スレインは両目を細め口角を上げる。 「知っていたのか」 微笑んだつもりだが、伊奈帆の表情は沈んだ。彼はスレインの背後、広い窓の向こうを眺めた。 「ここは、古来から死の海域だった」 そう。船の墓場と船乗りたちに恐れられる魔の岬だった。 「僕が通行手形に左目を差し出したように」 伊奈帆の左手が、掌を天に向け差し出される。 「君は、自由を差し出したんだ。岬の安寧と引き換えに」 その理由が知りたい、と彼は言う。 「誰のため?何のため?セラムさん……、いや、アセイラム姫は、ここにも、どこにもいないのに」 きっと、出会った時から。八歳の孤独な子どもであった頃から、彼はこれを聞きたかったに違いない。 自由を奪われ何故生きられるのか、それはなぜか。 「期待させて悪いな。理由はない」 海賊らしい、海を棲家の男としてはもっともな疑問だ。しかし僕は海賊ではなく、人でもない。鼓動はなく、影はなく、未来もない。世界の摂理の外側にいる。 「なんとなく、だ。そして、贖罪とは考えていない」 「そう。安心したよ」 あっけないくらいに軽やかな即答。伊奈帆は、人差し指をピンと立てる。 「じゃあ、その命の使い道として、僕から一つ提案がある」 「提案?」 「これ見て」 伊奈帆のブーツが木箱を軽く蹴り出した。カラカラ、と乾いた音で位置をずらしたそれの中身を覗き込む。 「空っぽだ」 「うん。空っぽ」 意図がわからずスレインは首を傾げる。確か、伊奈帆は前に言った。箱いっぱいのオレンジを持ってくる、と。 暁の虹彩に、悪戯っぽい色が浮かんだ。 「南の海に、オレンジをもぎに行こうと思う」 少しの間、思考が停止し言葉が消えた。見たことも感じたこともない、極彩色の南国の風が脳裏を過ぎ去っていく。珊瑚の深海。星の砂浜。太陽よりも眩しいオレンジの果実。 「人手が足りない。一緒に来て」 伊奈帆の声で我に帰る。幻燈は消え、星の光が瞼を透過し青く光る。 「一緒に?どこへ?」 「南の島だよ」 「南の島?」 伊奈帆が両腕を広げた。フロックコートの裾がはためき、彼の影は翼をもつもののように床を羽ばたく。 「オレンジを、この箱いっぱいにしたいんだ」 この空洞に光を愛する金の果実を。 この男は、最初、風を連れてきた。理知と人の感情とが、時の止まった灯台の扉を開けて吹き込んだ。いくつかの手土産が窓枠に飾られ、それらは夜半に静かに語るのだ。そのものの記憶を。知らぬ世界の物語を。 今その風は、霧を晴らして海へ向かおうとしている。 「ここの岬はどうなる?」 スレインはまず一つ聞く。伊奈帆は大きく肩を上下させ、右手がひらりと空を切る。 「別にいいでしょ。誰かの犠牲の上に成り立つ平穏なんて、いつか崩壊する」 なるほど、とスレインは不敵に微笑む。海賊らしいというか、伊奈帆らしい言い分だ。では、もう一つ。 「君の友だちはなんて?」 「カームのこと?暗幕張って待ってるって」 「暗幕?」 「君の部屋。僕の部屋でもあるんだけど」 「君の部屋?それって船長室じゃないのか?」 「個室がないから我慢して」 要領を得ないが、既に船内も納得づくらしいと悟り、スレインは苦笑混じりのため息を吐く。 「強引だな……」 伊奈帆の片眉が上がった。差し出される右手。 「それで、君の意志は?」 スレインは屈んで、左腕に木箱を抱えた。乾いた木は軽い。木のささくれがたくさんある。古いフルーツクレート。 箱いっぱいのオレンジ、か。船乗りたちの命の果実を南国の月の下で収穫するコウモリ。そういう一枚絵を、伊奈帆は風の先に描いているのだ。 スレインは伊奈帆に近づき、一歩の距離で片目を瞑って右手を握る。 「乗った」 伊奈帆は歯を見せて笑った。手をほどき、サーカスの座長めいた仰々しさで、胸に手を当て一礼する。 「ようこそ、海賊船スレイプニールへ」 波音が拍手のように打ち付ける。星が幾つも空を横切り、星月夜のセイルは白銀。どこまでも広がる海原を目指し、四つの踵が螺旋階段に少しずれた拍を刻んだ。
- 灯台のコウモリ_8
三六六、三六七、三六八……。 一段一段、螺旋階段を上る。下から吹き上げる風に抱えた木箱がカタカタ鳴る。波の音は遠く、星の声が近い。 地下室には誰もいなかった。錠はなく、扉は簡単に開いた。テーブルからずれた位置の彼の椅子は、主人を失い途方に暮れていた。 三七〇、三七一、三七二……。 これで終わりかもしれない、という諦念と、これが始まりかもしれない、という願望。世界の中のいくつかの物語の交錯を思い、伊奈帆は階段を上る。 三七六、三七七。 「調子はどう?」 上り切った展望台で、界塚伊奈帆はそう聞いた。 「見ての通りさ」 囁きの返答は後ろ姿から発せられた。 「煩いくらいの星空だ」 スレインは、展望台の窓枠に両手をついて夜空を仰いだ。潮騒が髪の輪郭を逆立て、金の髪が鬣のように星影を照り返す。 「界塚伊奈帆」 スレインは足を踏み換え、伊奈帆を向いた。微笑んでいるのに、頬は乾いているのに、泣いているような表情に見える。 「君は、知っているんじゃないのか?」 「うん」 伊奈帆は頷き、抱えた木箱を床に置く。湿った夜風が床を撫でる。 スレインが、箱を覗いて小さく笑う。 「空っぽだ」 「うん」 伊奈帆は、同じ角度でまた頷く。 「答え合わせをしよう。スレイン」 展望台の床の円形。波風と星々の元に向かい合う海賊とヴァンパイア。真昼の海と闇夜の雪をそれぞれ棲家とする二人。 スレインが口を開いた。声に雪の柔さが滲む。 「雪の足跡は、姫様のもの」 「姫様?」 伊奈帆が問い返す。スレインは気のせいかと思う静けさで首を振った。 「彼女は、僕の目の前で撃たれた」 彼女の名前も、足跡の理由も、撃たれた経緯も。 「僕も撃たれた。最後に見たのは、雪に飛び散った、木苺みたいな血痕だった」 何もない。彼の話には、彼自身の痕跡がない。忘れられた歌のように、その声は過去を紡ぐ。 スレインは表情を歪ませ両目を細める。もしかしたら、笑おうとしたのかもしれない。 「僕は生きていた。いや、違うな。死んで、蘇った」 その時、彼はヴァンパイアとなったのだ。白い音の中、木苺のような生き血を嗅いで。 「ひどく空腹だった。血が甘く香った」 それでも、彼は姫君の血を一雫も飲むことは無かったろう。魔性に理性で抗うことは、どれほどの覚悟を伴うのかを伊奈帆はそっと考える。 スレインは、彼女の住む国と彼女の愛した風景について訥々と語った。 「彼女は誘拐され、殺された。僕によって」 意識のない彼女を運び街に入ると、そういう話になっていたのだ、と彼は他人事のように話した。 「姫には妹がいたんだ、腹違いの。隠して育てられていた」 可憐な少女は足が悪く、外の世界を知らなかった。 「僕は姫が目覚めるのを待った」 それは、鳥の囀りや狼の遠吠えの聞こえる深い森の屋敷。 「僕は、妹姫と結婚した」 声は掠れていたが、眼差しが優しい。愛していたのだろう。苦しみを抱きながらも。 「姫は、ある夜消えた。忽然と」 枕の凹みもそのままに。窓は開け放たれ、カーテンが夜風に踊っていた。 スレインは、息を止め吸い、伊奈帆を見据えてこう言った。 「お前は、何を知っているんだ?界塚伊奈帆」
- 灯台のコウモリ_7
甲板に照り返す光の照度が目に見えて低くなった。潮風の変化がコートのフリンジを直線的にする様を、影の動きで認識する。 「伊奈帆、ちょっといいか?」 「カーム。何?」 伊奈帆は首を左に向けた。甲板長のカームだ。彼は伊奈帆の反対側へ周り、ズボンのポケットから出した両手を船縁に置き口を開いた。 「灯台のコウモリのことだけど」 「うん」 カームは自身の後頭部を後ろ手で掻く。短い金髪は、秋の大地の草木の色にくすんでいる。 「あまり、言いたくないけどさ」 「それなら、言わなければいいんじゃない?」 「話の腰を折るなよ。あのな」 じっと目が合う。カームはやがて、はあ、と大きく息を吐いた。 「話してないんだろ?」 「何を?」 「左目のことだよ」 灰色がかったブルーの双眸。その焦点が横滑りする。伊奈帆は自身の眼帯に右手で触れた。右目を閉じ、すぐに開く。 「スレインは関係ないよ」 「お前の方が、関係あるんだろうが」 ざぶん、と大きな波が船体を揺らした。伊奈帆は体の向きを変え、波間にじっと隻眼を凝らす。 「どうする気だ?」 カームの声を波音と聞く。冬空にカモメが二羽。点の大きさで南に向かって飛んでいる。 伊奈帆はフロックコートの胸ポケットに右手を入れた。チャリ、と鎖の音がする。 心臓近くに仕舞い込んだ、四つの碧玉が飾られたコイン型の首飾り。首に下げないのは、預かり物だからだ。 「まだ持ってんだろ。返さなくていいのか」 「うん」 首を巡らせカームを見ると、呆れた顔でそばかすに皺を寄せている。 「どっちのうん、だよ。それ」 「カームの言う通り、って意味のうん」 預かり物を、返しに行く。 ーー救ってあげてください。 何から、とは聞かなかった。彼女もそれ以上は言わなかった。 「約束は果たすよ」 だから、僕は会いに行った。他愛のない話と、再会の約束を残して。 今度の邂逅に約束はない。持っていくのは、届け物と空の箱。 次が最後だ。 「今度は俺も中まで行こうか?」 カームに伊奈帆は首を振る。 「いや、いい」 黄昏に灯台が見える。とても小さな石の灯台。岩壁だらけの張り出た岬に佇むそれは、日没のグラデーションで磔のように見える。 錨を下ろし、ホーサーで固定。船員達は、複雑そうに時折伊奈帆を見た。 伊奈帆は桟橋に降り立つ。船を見上げて周囲に聞こえるように言う。 「朝焼けで出航。いいね」 「たとえ、僕がいなくても、ってか?」 間髪入れず、カームが応えた。伊奈帆はタラップの上を見上げる。 「迎えに行くんだろ」 「そうだよ」 「なら、ちゃんと帰ってこいよ。弱気かぁ?伊奈帆らしくないぜ」 カームが身を乗り出して自身の力瘤をぱん、と叩いた。伊奈帆は数秒静止して、やがて小さく吹き出した。 「それもそうだね」 ベルトから、ピストルとサーベルを引き抜く。 「これは置いていくよ」 「おう、預かっとく!」 上空へ放り投げる。カームが腕を伸ばしてキャッチし、スターボードから落ちそうになり他の船員に服や足を引っ張られた。 伊奈帆は右手の二指を額へ運び、ブーツの踵を打ち鳴らす。 「行ってきます」 「おう!コウモリ連れて戻ってこいよ!」 暗幕窓に張っとくぜ!という声を背に、伊奈帆は木箱を抱え灯台へ向かう。
- 灯台のコウモリ_6
コトン、とテーブルに接したステム。ゴブレットのカットが、月明かりを紅色に照り返す。 「あんまり美味しくないな」 「そうか?」 伊奈帆の言葉に、スレインはボトルを引き寄せ持ち上げた。 「ラベルは擦り切れて読めないけど、良い物だろう」 「君がいうなら、そうなんだろうね」 グラスを傾ける。土や落葉。木枯らし。山葡萄。木苺。豊穣の大地を思わせる香りと苦味のフルボディ。スレインは格別だと感じるが、伊奈帆は渋い表情で頬杖をついている。 「界塚伊奈帆。君は、酒は嗜まないのか?」 「付き合い程度だし、海賊の飲み物はラムだよ」 「甘い酒だな」 ラムは、サトウキビのスピリッツ。海賊は皆甘党なのだろうか。 伊奈帆は再びワインを口に運んだ。目視できる限り、グラスの中身が減った感じはしない。 「これは苦い」 「苦くはないだろ?甘くもないが」 「渋いよ」 「ヴィンテージのフルボディだからな」 「好きなら、君が呑んじゃって」 「そうする」 くすり、と笑い、スレインは自分のグラスに酒を注いだ。 「彼は?」 「カームのこと?」 「名前は知らない」 「同じ船に乗ってるんだ。付き合いは一番長い」 「へえ」 半月の夜に来客が二人。一人は界塚伊奈帆であるが、青年が一人背後にいた。扉の外に荷物を置いて、すぐに彼は帰ったが。 開いた扉の境目越しに、カームという名の彼はスレインに笑顔を見せたけれど。複雑そうな表情だった。 コトン、とステムが机を鳴らす。スレインはグラスの水面を見つめて聞いた。 「いいのか?君はここにいて」 「朝焼けまではね」 朝焼けか、と口の中で呟きスレインは両目を閉じる。目蓋の裏に一枚の残像がある。 「雪に覆われた地面を知っているか?」 うっすらと目を開くと、伊奈帆がぱちりと大きく瞬くのが見えた。 「見たことないよ。どんな感じ?」 「色を忘れる」 「なんで?」 「そのくらい、白いんだ。歩く以外の音もしない」 そこで伊奈帆は、ああ、と息を吐いた。かつて自身の発した問いを思い出したのだろう。 「誰の足音なの?スレイン」 伊奈帆はテーブル上で両手の指を組み合わせ、重心を少し前に傾けた。スレインは、ゴブレットのステムを握って持ち上げた。 「木苺を見たことあるか?」 「話飛んだね。ま、山育ちだし」 「この酒の色は、木苺に似ている」 月光が赤い酒を透過する。クリスタルの切子が切先のような光を反射した。 「そうかもしれないね」 頷いて、穏やかな声で伊奈帆は問う。 「君は、ヴァンパイア?」 スレインも頷く。 「多分そう」 「いつから?」 「いつから、って?」 「人間だったんじゃないの?スレイン」 伊奈帆は続ける。 「雪と木苺の記憶は、その時のものなんじゃないか、と僕は思った」 半分の月が落とす影は青く柔い。風はなく、波もない。そんな夜。 世界の果てのような錯覚に陥る。こんなにも静寂が透明だと。 「飲み過ぎたかな」 スレインがテーブルの中央にゴブレットを押しやると、伊奈帆も同じことをした。 「そうかもね」 並んだグラスの水面の位置は、それぞれの語られない言葉のように思えてスレインは口を開く。 「伊奈帆」 「何?」 雪の白。足跡の灰。そこに落ちた血の雫。 「……僕には、木苺のように甘く香ったんだ」 「……何が?」 スレインは眉尻を下げて微笑む。少しして、伊奈帆は椅子から立ち上がる。 「また来る」 「ああ」 きっぱりと扉に近づき、ドアの取手に手をかけ彼は振り向いた。 「お土産、何がいい?」 スレインは苦笑しつつ肩を竦める。 「酒以外」 伊奈帆は口元を綻ばせこう言った。 「じゃあ、箱いっぱいのオレンジでも持ってこよう」 扉が閉まる。廃灯台に月だけが語る。
- 灯台のコウモリ_5
Fragments of memories 白。 それは音。 降り止まぬ雪の色は、十字の窓枠に静寂を刻んでいた。 足音がする。 キュ、キュ、と踏みしめられる雪の悲鳴。 赤。 木苺のような点描が、白雪に散る。 微笑みが虚になる。 風はなく、雪は止まぬ。
- 灯台のコウモリ_4
スレインは灯台の螺旋階段を駆け降りた。展望室からぼんやり眺めた夜雨の海、近づく船影が見えたからだ。 「やあ、スレイン。調子はどう?」 波の打ち付ける桟橋に、界塚伊奈帆が降り立ち言った。口調も身のこなしは軽やかだが、ブーツもコートも髪の毛も雨水と海水でぐっしょりと濡れている。 「出迎え?嬉しいよ」 屋根の下に入って伊奈帆が帽子を取る。逆さにするとざあっと水が地面に落ちて、髪の先からボタボタと雫が滴った。 「ずぶ濡れだな」 「風はないけど雨がひどい」 「拭くものは浴室にある」 「ありがと」 伊奈帆はブーツの底を掴み、脱いで逆さに持ち上げた。水たまりが二つでき、その真ん中で彼はブーツを履き直した。 コン、と硬質な音が存外に響く。g6に配置された白のビショップ、斜線の凹みへ雨音が流れる。 スレインは、黒のナイトを右手の中で転がしつつ口を開いた。 「その目……」 円テーブルの向かいに座る伊奈帆を見る。彼の右側頭部から左耳に向けて斜線のような紐があり、左眼窩を黒い眼帯が覆っている。 「左眼をどうした?界塚伊奈帆」 伊奈帆の隻眼の右が瞬く。 「君の感想は?」 「海賊らしい」 「あ、いいね」 スレインの返答に、伊奈帆がはにかむように口角を上げた。彼はボードを降りたチェスメンを傍に揃え、テーブル上で指を組む。 「スレイン、家族は?」 スレインは背もたれに身体を預け聞く。 「家族の話がしたいのか?」 伊奈帆はうん、と頷いた。 「僕、姉がいたんだ」 三つある燭台の炎の一つを、伊奈帆は指で摘んでそっと消す。皮膚の焦げる匂いが僅かに漂う。 「両親は知らない。二人で暮らしてて、姉貴と僕は海賊の一味になった」 スレインは、その港を想像する。大きな街だろうか。小さな村だろうか。伊奈帆の家は、その港の近くなのか。遠くなのか。 なんとなく、彼は海から遠い場所で生まれた男だとスレインは思った。伊奈帆の纏う空気に、風に揺れる穂の光を感じるのだ。 伊奈帆が上目遣いでじっとスレインを見た。瞳の虹彩が星めいて光る。 「君に初めて会った、その少し前のことだよ」 「そうなのか」 うん、と伊奈帆はまた頷く。やけに素直だ、と意外に思うが、初めて会った時からそもそも彼はわかりやすくて率直だった、と思い至る。 「前にここに来てから、今日ここに来るまでの間にさ」 スレインは顎を引き、伊奈帆の言葉を待った。二度の瞬き。口が開く。 「会えなくなってね」 しん、と沈黙が下りる。さあさあと降り続ける雨のような静けさは、壁の外の風景と完全に呼応している。静寂が踝くらいまで堆積した頃、スレインは尋ねた。 「その目は?」 「うん」 伊奈帆は声で頷く。ちぐはぐな応答の後、彼は左目の眼帯に左手の三指で触れた。 「その時無くした」 「そうか」 雨の音に耳を澄ませる。波音ばかりが響く灯台で、波に溶ける雨音を探す。一粒の音は認識できない。わかるのは、ただ、雨降る海の水音だけ。 風がないんだ。今夜は。 「父と旅をしていたよ」 瞼を閉じたが、伊奈帆がこちらを見るのがわかった。 「いろんなところに行ったけど、雪の降る街が多かったな」 風のない海。スレインには思い出す風景がある。 「一度だけ、海に行った。冬の海」 遠い日々。人だった頃の記憶。故郷と呼べる場所はなかったが、家族がいて、思い出と未来があった。流れる時間の中で見た景色。 「燕を見たよ。そこで」 「燕?」 それは、鳥の記憶。 「越冬にしくじった燕が一羽、灰色の空を飛んでいて」 父の隣で見た冬燕の黒い翼。灰色の空と海。淡い色彩の風景で、額と喉の赤い羽毛が鮮烈だった。 「今更仲間に追いつけないだろう、と僕は思った」 夏の鳥が、冬の海を一羽で飛び行く運命について、子どもの僕がどんな感想を抱いたかは覚えていない。覚えているのは見えたもの。 「止まり木のない海の上、飛ぶ事をやめないんだ」 空腹で、孤独で、向かい風を飛ぶ燕。 「一直線に冬空を横切り、南へ飛んで行ったよ」 今では、その姿に畏敬を覚える。向かいに座るこの男へ向けるような、今だけを生きる魂に。 「そう」 しばらくして、伊奈帆は一言そう言った。そして彼は、机に手を置きすっくと立ち上がる。 「また来るよ」 スレインは高窓を見上げた。小さく見える外は漆黒。雨音は続いている。 「朝までいればどうだ?」 「いや、合流しないと」 伊奈帆はトリコーンをくるりと回転させ、芝居がかった仕草で被る。 「船長になったんだ。僕」 なるほど、とスレインは肩を竦める。雨で濡れた甲板から、船員たちが複雑そうな様子で伊奈帆の背中を眺めていたのだ。船長の個人的な寄り道の理由を、それぞれに考えていたのかもしれない。 伊奈帆は扉に手をかける。肩越しに振り向き、彼はブリムを軽く触った。 「またね。スレイン」 「ああ。キャプテン」
- 灯台のコウモリ_3
「b6ポーン」 「f7ルーク」 「c1ナイト」 「g4ビショップ。そういえばさ」 スレインは瞼を開く。 星のない灯台の夜。テーブルに枝葉を広げるジランドールの影の向こう、燭明を照り返す界塚伊奈帆の顔があった。視線をとらえ、彼は尋ねる。 「スレイン。君の故郷はどのあたり?」 「故郷?どうして?」 向かい合うテーブルの壁際にある小瓶を無意識に見る。燭台の灯りに赤く染まった星の砂。その時の会話の断片が泡のように浮かんで消える。 「君の話が聞きたいって、僕は言ったと思うけど」 およそ一年前のこと。星月夜に彼は言い残し去っていった。 スレインは右腕を伸ばし、小瓶を持ち上げる。炎に透かして、左右に軽く振ってみた。 「返事をしたっけ」 「していない」 星の欠片は、一つの生き物かのように小瓶の中でさらさらと流動する。 「君の話を聞かせてよ」 伊奈帆の声。スレインは円形テーブルの端、カモメガイの巣の隣に、有孔虫の殻を置いた。 蝋皿の透明な液体をぼんやり眺める。ミツロウの甘い匂いが遠い記憶を溶かすように、思い出した音がある。 「雪の音って、聞いたことあるか?」 「雪の音?」 常より高い鸚鵡返しに喉が笑う。小首を傾げ、右手の平を上に向けてスレインは聞く。 「界塚伊奈帆。君は、雪を知っているか?」 「二回くらい、甲板の上で見たことがあるよ」 そうか、と微笑。ゆらめく炎の影が、古いテーブルにそれぞれの手の形を投影する。 スレインはその影の形を見ながら語る。 「風の音。雨の音。波の音。同じように、雪にも音がある」 色の失われた記憶。室内の静寂。白い息。窓枠の十字。 「梢を揺らす音」 冬枯れの梢に留まることなく落ちる雪。 「大地を静かに覆う音」 春を知らぬ土に滲み入り層を成す雪。 「誰かがそれを踏みしめる音」 深く刻んだ足跡も平らかにする止まぬ雪。 瞼の裏に、凍った薪の苦い匂いを錯覚する。 「そういう音が、一年中する街で生まれた。僕は」 閉じた双眸を開く。暖炉の炎のような瞳が、澄んだ色でこちらを見ていた。 「雪を踏むのは誰なの?スレイン」 スレインは再び瞼を閉じる。 「e6。チェックメイト」 「うん。負けたよ」 終局。互いに頭の中のチェスボードを仕舞う。 「また来るよ」 ギイ、と椅子を引く音。立ち上がる伊奈帆を、スレインは右手で頬杖をつき見上げる。 「気が向いたら、そのうち話してやってもいい」 「そのうちって、いつ?」 「さあ」 「僕が生きてる間の話?」 「ははっ」 「ジョークだよ」 「だから笑った」 伊奈帆は背筋を伸ばしたフロックコートの立ち姿で、トリコーンを右手でくるりと回転させた。表情は薄いが、拗ねているように見えなくもない。 スレインは片目を瞑り、ひらひら左手を振った。 「次に来る時は酒でも持ってきたらどうだ?僕の口が存外軽くなるかもしれない」 「何が好き?お酒」 「そのくらい、自分で考えたらどうだ?」 伊奈帆はぱちりとゆっくり一度瞬いて、海賊帽を頭にぐっと押し付けた。 「そうするよ」 靴音が遠ざかる。親指ほどの長さになった蝋燭の炎の糸をスレインは指でつまむ。一つ。二つ。三つ。遠くの波の音が聞こえる。
- 灯台のコウモリ_1
「やあ。コウモリ」 空耳か?と思い見ると、扉は開き影が床にくっきりと人の形を描いていた。 来訪者とは珍しい。 僕は視線を本へと戻し、読み終えていないページを捲る。 「人違いだ。僕はコウモリじゃない」 「じゃあ、なんて呼べばいい?」 面倒臭い。なんだこいつ。 バサ、と本を勢いよく閉じ、天井に視線を送って僕は聞いた。 「僕ら、知り合いか?」 「いいや。初対面」 視線を黴びだらけの天井から影の落ちる床へ。風変わりな来訪者の全身を頭の先から靴の先まで無言で眺める。逆光だが、無表情なのはわかった。 「君は誰だ?」 「界塚伊奈帆」 「年は?」 「八」 「へえ」 想像通りというか、見たままの年齢だ。 見たままの年齢、という言い回しの皮肉さに鼻からふっと息が漏れる。 「君は?」 「は?」 いつの間にか、八歳の子どもがすぐそばに来て僕の顔をじっと見ていた。視線の高さは、椅子に座っている僕と同じくらい。背筋を伸ばした直立は、少年の服装とあまり似つかわしくなく思う。 「君は誰?」 重ねての問い。こちらを見つめる瞳は、遠い記憶の朝焼けめいた暖色だ。少年の靴先を一瞥し、僕はゆっくり脚を組む。 「コウモリだろ。灯台のコウモリ」 それが僕の名前だ。ここに来る人間にとっての。 子どもは朝焼けの瞳を大きく瞬く。 「さっき自分で、コウモリじゃないって言った」 「チッ」 面倒くさいな。こいつの相手。そもそも、変なやつなんだ。廃墟となった岬の灯台へ、遭難でもなくやってきて、僕と会話を試みる。 立ち上がる。高い位置から見下ろすと、栗色の頭髪、つむじの形がはっきり見えた。 「君は僕のなんだ?友だちか?」 「なる?友だち」 「へ?」 「僕は伊奈帆。君の名前は?」 会話のテンポと振り幅についていけない。変な子どもだ。いや、子どもってこんなものか、と思考が記憶の糸を辿る。 真夏の雲が香った気がした。 「ふふっ」 「あ、コウモリが笑った」 「コウモリじゃない」 僕はすう、と息を吸う。久しぶりだ。空気が肺を満たす感じ。たとえ湿った黴臭い地下の空気だとしても、悪くない感覚だ。 生きてるような気分になった。 僕は、八年生きた少年に向けて右手を差し出す。八年だ。瞬くような刹那の生のその途中。この人間は、自分の意思で会いにきた。 岬の亡霊。ーー灯台のコウモリに。 「スレインだ。伊奈帆」 「よろしく、スレイン 」 二つの右手が握手の形で重なった。僕は眉を顰める。ゴツゴツとした硬い感触。 引き戻した手を開くと、穴だらけの歪な小石があった。 「なんだ、これ?」 「なんだと思う?」 問いに問いで返すのは、モテない男の特徴だぞ、と言いたくなったがやめにした。十年経ったら言ってやろう。 僕は、無数の穴に穿たれた石を手のひらで転がす。 この石は、僕の知らない場所にあった。最初は、もっと大きい岩。割れて砕けて、穴が空いた。八歳の少年の手で拾われて、廃墟の地下の、時を忘れたヴァンパイアへと手渡されたこの石は、ぴったりと僕の手の中に収まった。止まった臓器が脈打つような錯覚に襲われる。 「ーー地球の心臓か?」 僕が言うと、伊奈帆はこれ以上なく大きな目を見開いた。虹彩に星が見える。 「ふふっ、あははっ」 伊奈帆は声をあげて笑い出し、しばらくそれは続いた。笑いが収まると、目じりの涙を拭って彼は言った。 「面白いね、コウモリ。いや、スレイン」 「君の笑い方の方が面白い。生まれて初めて笑った?」 「あんな大笑いは、生まれて初めてしたかもね」 じゃあ、スレイン 、と彼は軽やかに踵を返す。 「お土産持って、また来るよ」 僕は少し考えてからこう言った。 「待て、街まで送る」 「君は閉じ込められているんじゃないの?」 街への道を歩く途中、波音を遠くに伊奈帆が聞いた。 「誰がそんなこと……。他に行き場がないだけさ」 伊奈帆が僕を見上げた。星明かりを照り返す彼の顔は、歳より大人びて見える。 「街に入れないんじゃないの?」 「灯りが見えるところまでさ」 灯台を背に、街を前に、どちらも視界に見えない道をただ歩く。星と波の囁きの中。 マリンスノーの海の底を歩くような夜だと思った。 「カイヅカイナホ。君は、この土地の子どもじゃないだろう」 「子ども扱い?」 「子どもだろう」 「今はね」 くす、と笑みが漏れる。その通りだ。伊奈帆は、すぐに大人になるだろう。大人になって、そしてまた、僕を残していなくなる。 首を振る。また、ってなんだ。彼は僕の何でもない。 「さっき、また来る、と言っていたが」 見下ろすと目が合った。八歳にしても幼い面立ちは、遠い国を故郷としている証であり、彼の衣服は風変わりだった。靴先がやけにくたびれて、風の通るゴワゴワとした布地の服だ。 「伊奈帆、君はどこから来て、どこへ行くんだ?」 伊奈帆は波の音に視線を送った。 「海だよ」 「海?」 再び僕の顔を見上げ、伊奈帆は口の端を引き上げる。 「海賊だからさ」
- 灯台のコウモリ_2
コツコツ、コツ。扉の前で靴音が止まった。スレイン は瞼を開き、瞬きを数度繰り返す。ぼやけた天井の幾何学模様の黒ずみがはっきり見えるようになっても、扉の向こうの来客は音を立てずに佇んでいる。 「……誰ですか?」 こんなことを聞いてやるのは、五〇年に一度くらいだ。しかも寝起きに。不可解な自分の行動原理に喉の奥で笑いが生じた。 「界塚伊奈帆」 「……え?」 「入っていい?スレイン」 身体を起こし、裸足のままで扉に駆け寄る。 ガチャリ。キィ。 「やあ。調子どう?」 「お前……」 一度下に向けた視線を上方に修正。確かに"界塚伊奈帆"だ。黒に近い茶髪と海の向こうの民族特有のあどけない容貌。スカーレットの大きな瞳。間違いない。 「鍵は壊れてる」 「見ればわかるよ」 「どうしてノックしない?」 伊奈帆は大きな目をまんまるにして二度瞬いた。石像のような静止ののち、彼は淡々と呟く。 「寝ている人を起こしたくない」 「……くくっ」 思い出した。この、ズレたやり取り。あの界塚伊奈帆だ。無謀にも、たった一人で"灯台のコウモリ"に会いにきた八歳の子ども。 スレインは立ち上がり、伊奈帆へと歩み寄る。吹き抜けの高窓からの星明かりで、彼の顔がよく見える。 「背が伸びたか?」 「そりゃそうだよ」 「声も変わった」 「当たり前だよ。いくつだと思ってるのさ」 スレインは伊奈帆の頭の天辺からつま先までを三往復し、首を傾げて腕を組む。 「君、いくつなんだ?」 「十五歳」 「七年か」 「七年だね」 改めて、スレインは伊奈帆の全身を眺める。身長はスレインより僅かに低いくらいで、声は低く柔らかい。幼く見える面差しも、額や頬、瞳の深みがに青年の様相が現れ始めている。彼に会うのは二度目だけれど、前に会った時との変化の大きさに感慨を覚える。 伊奈帆が部屋の奥に視線を送った。地下室ではなく、灯台守の個室の一つ。吹き抜けで波と潮風が唸る音が、星明かりの青い影に乱反射する。 夜風のいい夜だ。 スレインは右腕をくるりと翻し、彼に背後の椅子を勧める。 「本当は、もっと早く来るつもりだったけど」 「ふうん」 向かい合って席につき、伊奈帆の言葉に相槌を打つ。今更になって、彼の服装をしげしげ眺める。三角帽にフロックコート。皮のブーツと装飾品。帯剣は丈の短い曲がったサーベル。ベルトには指の形がくっきり残るクイーン・アン・ピストル。 海賊。彼の仕事のイメージと、理知的で静かな彼の呼吸のアンバランスが微笑ましい。 「はいこれ」 「へ?」 スレインは、テーブルにコトンと置かれた小瓶を見つめる。手のひらに収まるくらいの小さな円柱型のガラスの小瓶はコルクで栓がしてあった。 「なんだ?これは」 「星の砂」 「星の砂?」 砂の形を、よーく見てみて。伊奈帆の声にはどことなく愉快そうな響きがあった。見た目には随分と箔がついたが、年相応の心の動きがあるらしい。スレインは小瓶を右手で持ち上げた。額より上の位置に翳し、左右に軽く振ってみた。 「あ、星だ」 「でしょ?」 乳白色の小さな粒は、よく見ると一つ一つが星のような形をしていた。石が砕けてできたようには見えない。 「これはなんだ?界塚伊奈帆」 「有孔虫の殻」 「ユウコウチュウ?」 「原生生物の一群で、真核生物のうち菌類にも植物界にも動物界にも属さない一群」 有孔虫が死ぬと、原形質が失われ、丈夫な殻のみが堆積する。その殻を集めた小瓶だと。滔々と流れるような伊奈帆の説明に、スレインは瞼に沿って瞳をぐるりと一周させた。 「なんでも知っているんだな」 ごう、と風が唸る。星影が揺れ、瞬きの間に星の砂がきらりと笑ったようにも思えた。 「ここは寒いね」 「そうか?」 「その砂を集めた浜には、椰子の木があった」 「ヤシの木?」 「亜熱帯の植物。知らない?」 「僕は、故郷とここしか知らないから」 スレインは星の小瓶を机に置く。カチ、コチ、と懐中時計の秒針が響く。 世界の営みの中にいるのだ。僕は。そんなことを今更ながら思い知る。止まらない。戻らない。終わらない。そういう時間の中にいる。 正確無比に時を刻むその音を、どのくらい聴いていただろうか。伊奈帆は両手をテーブルにつき、立ち上がった。 「また来る」 そのままきっぱり扉へ向かい、一度姿が見えなくなって、足音が戻り顔が覗いた。 「次は、君の話を聞かせてよ。スレイン」 コートの翻る音が波音を呼び、星の光は静かに消えた。 [星の砂]


