灯台のコウモリ_9
- μ

- 10月27日
- 読了時間: 7分
夜光雲が星を覆い、灯台は闇に包まれた。人影は夜に溶け、虹彩の一つの赤と二つの碧が彗星のように光る。
「僕の左目の話をしようか」
伊奈帆は左目の眼帯に指で触れた。額を横切る斜めの紐は、ビショップの刻印めいて彼の容貌に溶け込んでいる、とスレインは思う。
「この左目について、君は一度僕に聞いた」
その時のことを覚えている。左眼をどうしたのか、と僕は聞いて、伊奈帆はそれに答えず僕の感想を尋ねた。
「はぐらかしてごめん。あの時は、君に伝える勇気がなかった」
「勇気?」
雲が濃く、星の届かない影の中。伊奈帆の声が聞こえる。
「この左目は、セイレーンとの取引で失った」
「……セイレーン?」
スレインは尋ねる。伊奈帆は一呼吸の後、芝居がかった動きで両手を広げた。
「人魚だよ。水の魔性。美しい歌声で航行中の船乗りを魅惑し、船は難破する」
その末路が、七つの海に彷徨う無数の幽霊船。
「取引って、何だ?」
「岬の通行許可」
「岬?」
スレインは自身の胸を掻き抱いた。呼吸が浅い。胸騒ぎがする。伊奈帆の次の言葉に耳を塞ぎたい思いと、必ず聞かなければならないという、使命のような予感。
言ってくれるな。という思いで、目を見開いて彼を見る。
伊奈帆の喉仏が上下する。
「呪いの岬の美しい亡霊。彼女の名はセラム」
雨も嵐もないというのに、雷鳴が視界で明滅する。
「セラム……?」
スレインは呟く。その名前を、初めて聞いた。初めて口にした。でも、決して初めてではない気がした。
僕はその人を知っている。
「これを君に」
伊奈帆は、それをコートの胸元から取り出した。四つの碧玉が埋め込まれた、銀の鎖のペンダント。
スレインは雷に打たれたように固まった。青褪めた唇が震える。
「アセイラム姫……」
木枯らしで梢が擦れるような、聞き取れないほど微かな発声。
「そういう名前だったんだ」
伊奈帆は微笑む。淋しそうに。悔しそうに。そして満足気に。こんな表情の彼は初めてだった。
「どういうことだ?」
冷静さを取り戻し、スレインは問いかけた。伊奈帆はスレインに歩み寄り、ペンダントを持った腕を伸ばす。彼の手からしゃらりと鎖が下り、古い意匠の宝石飾りが瞬いた。
「恋に破れて海に身を投げた女性は、セイレーンになる」
ヴァンパイアになるのと同じ摂理。恋は時に死を拒み、人の本性を魔性へと変えてしまう。
スレインは、ペンダントを受け取った。確かに、これは本物だ。同じところに傷がある。
不吉な確信を持ちながら、スレインは聞いた。
「……アセイラム姫は、今どこに?」
「それは彼女の形見だ。君に渡すよう頼まれた」
伊奈帆は簡潔に答え、彼女の最期を伝える。伊奈帆の左目と引き換えに、極海の泡となって消えたこと。
「僕が憎い?」
静かな問いに肩が強張る。伊奈帆の隻眼は真っ直ぐにスレインを見ていた。
塩風が夜雲を散らす。一人分の影が輪郭を濃くし、ドッペルゲンガーのように同じ姿で映し出される。
「セラムさん……アセイラム姫は、僕のせいで消えた」
伊奈帆の影の先端を見つめ、スレインは窓枠の形そのままに白やかな床に目を落とす。僕はいつ、影を失っていたのだろうと考えながら。
「君のせいじゃない」
スレインは、自身の言葉を意外に思った。色を失った空洞のような生の中、アセイラムとの記憶だけが鮮やかだった。もうずっと。果実めいた血の匂いが、残酷だったが優しかった。
手のひらの上、星夜に静かに輝く古い飾り。スレインは、後ろ手に両手を回しチェーンの金具を嵌めた。欠けていたものがようやく埋まった、そんな感覚が遠い日に動きを止めた心臓部から広がった。
「もともと、僕が差し上げたものだ。御身をお守りしますようにと」
鼓動を錯覚する胸に右手を当てる。アセイラムは、ずっと身につけていたのだ。人としての生を終え、海の亡霊となってなお。これを。
「そうだったのか」
伊奈帆の呟きが聞こえた。形見だ、と言ってこれを渡した彼は、言葉にせずとも事情を理解したらしかった。彼は一度しっかと口を引き結び、そして慎重に発声した。
「灯台のコウモリは、人柱だろう?」
風が通る。潮騒が展望台の天井床に反響する。星がさざめき、影は踊る。
スレインは両目を細め口角を上げる。
「知っていたのか」
微笑んだつもりだが、伊奈帆の表情は沈んだ。彼はスレインの背後、広い窓の向こうを眺めた。
「ここは、古来から死の海域だった」
そう。船の墓場と船乗りたちに恐れられる魔の岬だった。
「僕が通行手形に左目を差し出したように」
伊奈帆の左手が、掌を天に向け差し出される。
「君は、自由を差し出したんだ。岬の安寧と引き換えに」
その理由が知りたい、と彼は言う。
「誰のため?何のため?セラムさん……、いや、アセイラム姫は、ここにも、どこにもいないのに」
きっと、出会った時から。八歳の孤独な子どもであった頃から、彼はこれを聞きたかったに違いない。
自由を奪われ何故生きられるのか、それはなぜか。
「期待させて悪いな。理由はない」
海賊らしい、海を棲家の男としてはもっともな疑問だ。しかし僕は海賊ではなく、人でもない。鼓動はなく、影はなく、未来もない。世界の摂理の外側にいる。
「なんとなく、だ。そして、贖罪とは考えていない」
「そう。安心したよ」
あっけないくらいに軽やかな即答。伊奈帆は、人差し指をピンと立てる。
「じゃあ、その命の使い道として、僕から一つ提案がある」
「提案?」
「これ見て」
伊奈帆のブーツが木箱を軽く蹴り出した。カラカラ、と乾いた音で位置をずらしたそれの中身を覗き込む。
「空っぽだ」
「うん。空っぽ」
意図がわからずスレインは首を傾げる。確か、伊奈帆は前に言った。箱いっぱいのオレンジを持ってくる、と。
暁の虹彩に、悪戯っぽい色が浮かんだ。
「南の海に、オレンジをもぎに行こうと思う」
少しの間、思考が停止し言葉が消えた。見たことも感じたこともない、極彩色の南国の風が脳裏を過ぎ去っていく。珊瑚の深海。星の砂浜。太陽よりも眩しいオレンジの果実。
「人手が足りない。一緒に来て」
伊奈帆の声で我に帰る。幻燈は消え、星の光が瞼を透過し青く光る。
「一緒に?どこへ?」
「南の島だよ」
「南の島?」
伊奈帆が両腕を広げた。フロックコートの裾がはためき、彼の影は翼をもつもののように床を羽ばたく。
「オレンジを、この箱いっぱいにしたいんだ」
この空洞に光を愛する金の果実を。
この男は、最初、風を連れてきた。理知と人の感情とが、時の止まった灯台の扉を開けて吹き込んだ。いくつかの手土産が窓枠に飾られ、それらは夜半に静かに語るのだ。そのものの記憶を。知らぬ世界の物語を。
今その風は、霧を晴らして海へ向かおうとしている。
「ここの岬はどうなる?」
スレインはまず一つ聞く。伊奈帆は大きく肩を上下させ、右手がひらりと空を切る。
「別にいいでしょ。誰かの犠牲の上に成り立つ平穏なんて、いつか崩壊する」
なるほど、とスレインは不敵に微笑む。海賊らしいというか、伊奈帆らしい言い分だ。では、もう一つ。
「君の友だちはなんて?」
「カームのこと?暗幕張って待ってるって」
「暗幕?」
「君の部屋。僕の部屋でもあるんだけど」
「君の部屋?それって船長室じゃないのか?」
「個室がないから我慢して」
要領を得ないが、既に船内も納得づくらしいと悟り、スレインは苦笑混じりのため息を吐く。
「強引だな……」
伊奈帆の片眉が上がった。差し出される右手。
「それで、君の意志は?」
スレインは屈んで、左腕に木箱を抱えた。乾いた木は軽い。木のささくれがたくさんある。古いフルーツクレート。
箱いっぱいのオレンジ、か。船乗りたちの命の果実を南国の月の下で収穫するコウモリ。そういう一枚絵を、伊奈帆は風の先に描いているのだ。
スレインは伊奈帆に近づき、一歩の距離で片目を瞑って右手を握る。
「乗った」
伊奈帆は歯を見せて笑った。手をほどき、サーカスの座長めいた仰々しさで、胸に手を当て一礼する。
「ようこそ、海賊船スレイプニールへ」
波音が拍手のように打ち付ける。星が幾つも空を横切り、星月夜のセイルは白銀。どこまでも広がる海原を目指し、四つの踵が螺旋階段に少しずれた拍を刻んだ。



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