灯台のコウモリ_6
- μ

- 10月23日
- 読了時間: 3分
コトン、とテーブルに接したステム。ゴブレットのカットが、月明かりを紅色に照り返す。
「あんまり美味しくないな」
「そうか?」
伊奈帆の言葉に、スレインはボトルを引き寄せ持ち上げた。
「ラベルは擦り切れて読めないけど、良い物だろう」
「君がいうなら、そうなんだろうね」
グラスを傾ける。土や落葉。木枯らし。山葡萄。木苺。豊穣の大地を思わせる香りと苦味のフルボディ。スレインは格別だと感じるが、伊奈帆は渋い表情で頬杖をついている。
「界塚伊奈帆。君は、酒は嗜まないのか?」
「付き合い程度だし、海賊の飲み物はラムだよ」
「甘い酒だな」
ラムは、サトウキビのスピリッツ。海賊は皆甘党なのだろうか。
伊奈帆は再びワインを口に運んだ。目視できる限り、グラスの中身が減った感じはしない。
「これは苦い」
「苦くはないだろ?甘くもないが」
「渋いよ」
「ヴィンテージのフルボディだからな」
「好きなら、君が呑んじゃって」
「そうする」
くすり、と笑い、スレインは自分のグラスに酒を注いだ。
「彼は?」
「カームのこと?」
「名前は知らない」
「同じ船に乗ってるんだ。付き合いは一番長い」
「へえ」
半月の夜に来客が二人。一人は界塚伊奈帆であるが、青年が一人背後にいた。扉の外に荷物を置いて、すぐに彼は帰ったが。
開いた扉の境目越しに、カームという名の彼はスレインに笑顔を見せたけれど。複雑そうな表情だった。
コトン、とステムが机を鳴らす。スレインはグラスの水面を見つめて聞いた。
「いいのか?君はここにいて」
「朝焼けまではね」
朝焼けか、と口の中で呟きスレインは両目を閉じる。目蓋の裏に一枚の残像がある。
「雪に覆われた地面を知っているか?」
うっすらと目を開くと、伊奈帆がぱちりと大きく瞬くのが見えた。
「見たことないよ。どんな感じ?」
「色を忘れる」
「なんで?」
「そのくらい、白いんだ。歩く以外の音もしない」
そこで伊奈帆は、ああ、と息を吐いた。かつて自身の発した問いを思い出したのだろう。
「誰の足音なの?スレイン」
伊奈帆はテーブル上で両手の指を組み合わせ、重心を少し前に傾けた。スレインは、ゴブレットのステムを握って持ち上げた。
「木苺を見たことあるか?」
「話飛んだね。ま、山育ちだし」
「この酒の色は、木苺に似ている」
月光が赤い酒を透過する。クリスタルの切子が切先のような光を反射した。
「そうかもしれないね」
頷いて、穏やかな声で伊奈帆は問う。
「君は、ヴァンパイア?」
スレインも頷く。
「多分そう」
「いつから?」
「いつから、って?」
「人間だったんじゃないの?スレイン」
伊奈帆は続ける。
「雪と木苺の記憶は、その時のものなんじゃないか、と僕は思った」
半分の月が落とす影は青く柔い。風はなく、波もない。そんな夜。
世界の果てのような錯覚に陥る。こんなにも静寂が透明だと。
「飲み過ぎたかな」
スレインがテーブルの中央にゴブレットを押しやると、伊奈帆も同じことをした。
「そうかもね」
並んだグラスの水面の位置は、それぞれの語られない言葉のように思えてスレインは口を開く。
「伊奈帆」
「何?」
雪の白。足跡の灰。そこに落ちた血の雫。
「……僕には、木苺のように甘く香ったんだ」
「……何が?」
スレインは眉尻を下げて微笑む。少しして、伊奈帆は椅子から立ち上がる。
「また来る」
「ああ」
きっぱりと扉に近づき、ドアの取手に手をかけ彼は振り向いた。
「お土産、何がいい?」
スレインは苦笑しつつ肩を竦める。
「酒以外」
伊奈帆は口元を綻ばせこう言った。
「じゃあ、箱いっぱいのオレンジでも持ってこよう」
扉が閉まる。廃灯台に月だけが語る。



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