灯台のコウモリ_8
- μ

- 10月25日
- 読了時間: 3分
三六六、三六七、三六八……。
一段一段、螺旋階段を上る。下から吹き上げる風に抱えた木箱がカタカタ鳴る。波の音は遠く、星の声が近い。
地下室には誰もいなかった。錠はなく、扉は簡単に開いた。テーブルからずれた位置の彼の椅子は、主人を失い途方に暮れていた。
三七〇、三七一、三七二……。
これで終わりかもしれない、という諦念と、これが始まりかもしれない、という願望。世界の中のいくつかの物語の交錯を思い、伊奈帆は階段を上る。
三七六、三七七。
「調子はどう?」
上り切った展望台で、界塚伊奈帆はそう聞いた。
「見ての通りさ」
囁きの返答は後ろ姿から発せられた。
「煩いくらいの星空だ」
スレインは、展望台の窓枠に両手をついて夜空を仰いだ。潮騒が髪の輪郭を逆立て、金の髪が鬣のように星影を照り返す。
「界塚伊奈帆」
スレインは足を踏み換え、伊奈帆を向いた。微笑んでいるのに、頬は乾いているのに、泣いているような表情に見える。
「君は、知っているんじゃないのか?」
「うん」
伊奈帆は頷き、抱えた木箱を床に置く。湿った夜風が床を撫でる。
スレインが、箱を覗いて小さく笑う。
「空っぽだ」
「うん」
伊奈帆は、同じ角度でまた頷く。
「答え合わせをしよう。スレイン」
展望台の床の円形。波風と星々の元に向かい合う海賊とヴァンパイア。真昼の海と闇夜の雪をそれぞれ棲家とする二人。
スレインが口を開いた。声に雪の柔さが滲む。
「雪の足跡は、姫様のもの」
「姫様?」
伊奈帆が問い返す。スレインは気のせいかと思う静けさで首を振った。
「彼女は、僕の目の前で撃たれた」
彼女の名前も、足跡の理由も、撃たれた経緯も。
「僕も撃たれた。最後に見たのは、雪に飛び散った、木苺みたいな血痕だった」
何もない。彼の話には、彼自身の痕跡がない。忘れられた歌のように、その声は過去を紡ぐ。
スレインは表情を歪ませ両目を細める。もしかしたら、笑おうとしたのかもしれない。
「僕は生きていた。いや、違うな。死んで、蘇った」
その時、彼はヴァンパイアとなったのだ。白い音の中、木苺のような生き血を嗅いで。
「ひどく空腹だった。血が甘く香った」
それでも、彼は姫君の血を一雫も飲むことは無かったろう。魔性に理性で抗うことは、どれほどの覚悟を伴うのかを伊奈帆はそっと考える。
スレインは、彼女の住む国と彼女の愛した風景について訥々と語った。
「彼女は誘拐され、殺された。僕によって」
意識のない彼女を運び街に入ると、そういう話になっていたのだ、と彼は他人事のように話した。
「姫には妹がいたんだ、腹違いの。隠して育てられていた」
可憐な少女は足が悪く、外の世界を知らなかった。
「僕は姫が目覚めるのを待った」
それは、鳥の囀りや狼の遠吠えの聞こえる深い森の屋敷。
「僕は、妹姫と結婚した」
声は掠れていたが、眼差しが優しい。愛していたのだろう。苦しみを抱きながらも。
「姫は、ある夜消えた。忽然と」
枕の凹みもそのままに。窓は開け放たれ、カーテンが夜風に踊っていた。
スレインは、息を止め吸い、伊奈帆を見据えてこう言った。
「お前は、何を知っているんだ?界塚伊奈帆」



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