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灯台のコウモリ_7

  • 執筆者の写真: μ
    μ
  • 10月24日
  • 読了時間: 3分


 甲板に照り返す光の照度が目に見えて低くなった。潮風の変化がコートのフリンジを直線的にする様を、影の動きで認識する。

「伊奈帆、ちょっといいか?」

「カーム。何?」

 伊奈帆は首を左に向けた。甲板長のカームだ。彼は伊奈帆の反対側へ周り、ズボンのポケットから出した両手を船縁に置き口を開いた。

「灯台のコウモリのことだけど」

「うん」

 カームは自身の後頭部を後ろ手で掻く。短い金髪は、秋の大地の草木の色にくすんでいる。

「あまり、言いたくないけどさ」

「それなら、言わなければいいんじゃない?」

「話の腰を折るなよ。あのな」

 じっと目が合う。カームはやがて、はあ、と大きく息を吐いた。

「話してないんだろ?」

「何を?」

「左目のことだよ」

 灰色がかったブルーの双眸。その焦点が横滑りする。伊奈帆は自身の眼帯に右手で触れた。右目を閉じ、すぐに開く。

「スレインは関係ないよ」

「お前の方が、関係あるんだろうが」

 ざぶん、と大きな波が船体を揺らした。伊奈帆は体の向きを変え、波間にじっと隻眼を凝らす。

「どうする気だ?」

 カームの声を波音と聞く。冬空にカモメが二羽。点の大きさで南に向かって飛んでいる。

 伊奈帆はフロックコートの胸ポケットに右手を入れた。チャリ、と鎖の音がする。

 心臓近くに仕舞い込んだ、四つの碧玉が飾られたコイン型の首飾り。首に下げないのは、預かり物だからだ。

「まだ持ってんだろ。返さなくていいのか」

「うん」

 首を巡らせカームを見ると、呆れた顔でそばかすに皺を寄せている。

「どっちのうん、だよ。それ」

「カームの言う通り、って意味のうん」

 預かり物を、返しに行く。


 ーー救ってあげてください。


 何から、とは聞かなかった。彼女もそれ以上は言わなかった。

「約束は果たすよ」

 だから、僕は会いに行った。他愛のない話と、再会の約束を残して。

 今度の邂逅に約束はない。持っていくのは、届け物と空の箱。

 次が最後だ。

「今度は俺も中まで行こうか?」

 カームに伊奈帆は首を振る。

「いや、いい」



 黄昏に灯台が見える。とても小さな石の灯台。岩壁だらけの張り出た岬に佇むそれは、日没のグラデーションで磔のように見える。

 錨を下ろし、ホーサーで固定。船員達は、複雑そうに時折伊奈帆を見た。

 伊奈帆は桟橋に降り立つ。船を見上げて周囲に聞こえるように言う。

「朝焼けで出航。いいね」

「たとえ、僕がいなくても、ってか?」

 間髪入れず、カームが応えた。伊奈帆はタラップの上を見上げる。

「迎えに行くんだろ」

「そうだよ」

「なら、ちゃんと帰ってこいよ。弱気かぁ?伊奈帆らしくないぜ」

 カームが身を乗り出して自身の力瘤をぱん、と叩いた。伊奈帆は数秒静止して、やがて小さく吹き出した。

「それもそうだね」

 ベルトから、ピストルとサーベルを引き抜く。

「これは置いていくよ」

「おう、預かっとく!」

 上空へ放り投げる。カームが腕を伸ばしてキャッチし、スターボードから落ちそうになり他の船員に服や足を引っ張られた。

 伊奈帆は右手の二指を額へ運び、ブーツの踵を打ち鳴らす。

「行ってきます」

「おう!コウモリ連れて戻ってこいよ!」

 暗幕窓に張っとくぜ!という声を背に、伊奈帆は木箱を抱え灯台へ向かう。

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