灯台のコウモリ_2
- μ

- 10月7日
- 読了時間: 4分
コツコツ、コツ。扉の前で靴音が止まった。スレイン は瞼を開き、瞬きを数度繰り返す。ぼやけた天井の幾何学模様の黒ずみがはっきり見えるようになっても、扉の向こうの来客は音を立てずに佇んでいる。
「……誰ですか?」
こんなことを聞いてやるのは、五〇年に一度くらいだ。しかも寝起きに。不可解な自分の行動原理に喉の奥で笑いが生じた。
「界塚伊奈帆」
「……え?」
「入っていい?スレイン」
身体を起こし、裸足のままで扉に駆け寄る。
ガチャリ。キィ。
「やあ。調子どう?」
「お前……」
一度下に向けた視線を上方に修正。確かに"界塚伊奈帆"だ。黒に近い茶髪と海の向こうの民族特有のあどけない容貌。スカーレットの大きな瞳。間違いない。
「鍵は壊れてる」
「見ればわかるよ」
「どうしてノックしない?」
伊奈帆は大きな目をまんまるにして二度瞬いた。石像のような静止ののち、彼は淡々と呟く。
「寝ている人を起こしたくない」
「……くくっ」
思い出した。この、ズレたやり取り。あの界塚伊奈帆だ。無謀にも、たった一人で"灯台のコウモリ"に会いにきた八歳の子ども。
スレインは立ち上がり、伊奈帆へと歩み寄る。吹き抜けの高窓からの星明かりで、彼の顔がよく見える。
「背が伸びたか?」
「そりゃそうだよ」
「声も変わった」
「当たり前だよ。いくつだと思ってるのさ」
スレインは伊奈帆の頭の天辺からつま先までを三往復し、首を傾げて腕を組む。
「君、いくつなんだ?」
「十五歳」
「七年か」
「七年だね」
改めて、スレインは伊奈帆の全身を眺める。身長はスレインより僅かに低いくらいで、声は低く柔らかい。幼く見える面差しも、額や頬、瞳の深みがに青年の様相が現れ始めている。彼に会うのは二度目だけれど、前に会った時との変化の大きさに感慨を覚える。
伊奈帆が部屋の奥に視線を送った。地下室ではなく、灯台守の個室の一つ。吹き抜けで波と潮風が唸る音が、星明かりの青い影に乱反射する。
夜風のいい夜だ。
スレインは右腕をくるりと翻し、彼に背後の椅子を勧める。
「本当は、もっと早く来るつもりだったけど」
「ふうん」
向かい合って席につき、伊奈帆の言葉に相槌を打つ。今更になって、彼の服装をしげしげ眺める。三角帽にフロックコート。皮のブーツと装飾品。帯剣は丈の短い曲がったサーベル。ベルトには指の形がくっきり残るクイーン・アン・ピストル。
海賊。彼の仕事のイメージと、理知的で静かな彼の呼吸のアンバランスが微笑ましい。
「はいこれ」
「へ?」
スレインは、テーブルにコトンと置かれた小瓶を見つめる。手のひらに収まるくらいの小さな円柱型のガラスの小瓶はコルクで栓がしてあった。
「なんだ?これは」
「星の砂」
「星の砂?」
砂の形を、よーく見てみて。伊奈帆の声にはどことなく愉快そうな響きがあった。見た目には随分と箔がついたが、年相応の心の動きがあるらしい。スレインは小瓶を右手で持ち上げた。額より上の位置に翳し、左右に軽く振ってみた。
「あ、星だ」
「でしょ?」
乳白色の小さな粒は、よく見ると一つ一つが星のような形をしていた。石が砕けてできたようには見えない。
「これはなんだ?界塚伊奈帆」
「有孔虫の殻」
「ユウコウチュウ?」
「原生生物の一群で、真核生物のうち菌類にも植物界にも動物界にも属さない一群」
有孔虫が死ぬと、原形質が失われ、丈夫な殻のみが堆積する。その殻を集めた小瓶だと。滔々と流れるような伊奈帆の説明に、スレインは瞼に沿って瞳をぐるりと一周させた。
「なんでも知っているんだな」
ごう、と風が唸る。星影が揺れ、瞬きの間に星の砂がきらりと笑ったようにも思えた。
「ここは寒いね」
「そうか?」
「その砂を集めた浜には、椰子の木があった」
「ヤシの木?」
「亜熱帯の植物。知らない?」
「僕は、故郷とここしか知らないから」
スレインは星の小瓶を机に置く。カチ、コチ、と懐中時計の秒針が響く。
世界の営みの中にいるのだ。僕は。そんなことを今更ながら思い知る。止まらない。戻らない。終わらない。そういう時間の中にいる。
正確無比に時を刻むその音を、どのくらい聴いていただろうか。伊奈帆は両手をテーブルにつき、立ち上がった。
「また来る」
そのままきっぱり扉へ向かい、一度姿が見えなくなって、足音が戻り顔が覗いた。
「次は、君の話を聞かせてよ。スレイン」
コートの翻る音が波音を呼び、星の光は静かに消えた。
[星の砂]



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