top of page

灯台のコウモリ_3

  • 執筆者の写真: μ
    μ
  • 10月9日
  • 読了時間: 3分

「b6ポーン」

「f7ルーク」

「c1ナイト」

「g4ビショップ。そういえばさ」

 スレインは瞼を開く。

 星のない灯台の夜。テーブルに枝葉を広げるジランドールの影の向こう、燭明を照り返す界塚伊奈帆の顔があった。視線をとらえ、彼は尋ねる。

「スレイン。君の故郷はどのあたり?」

「故郷?どうして?」

 向かい合うテーブルの壁際にある小瓶を無意識に見る。燭台の灯りに赤く染まった星の砂。その時の会話の断片が泡のように浮かんで消える。

「君の話が聞きたいって、僕は言ったと思うけど」

 およそ一年前のこと。星月夜に彼は言い残し去っていった。

 スレインは右腕を伸ばし、小瓶を持ち上げる。炎に透かして、左右に軽く振ってみた。

「返事をしたっけ」

「していない」

 星の欠片は、一つの生き物かのように小瓶の中でさらさらと流動する。

「君の話を聞かせてよ」

 伊奈帆の声。スレインは円形テーブルの端、カモメガイの巣の隣に、有孔虫の殻を置いた。

 蝋皿の透明な液体をぼんやり眺める。ミツロウの甘い匂いが遠い記憶を溶かすように、思い出した音がある。

「雪の音って、聞いたことあるか?」

「雪の音?」

 常より高い鸚鵡返しに喉が笑う。小首を傾げ、右手の平を上に向けてスレインは聞く。

「界塚伊奈帆。君は、雪を知っているか?」

「二回くらい、甲板の上で見たことがあるよ」

 そうか、と微笑。ゆらめく炎の影が、古いテーブルにそれぞれの手の形を投影する。

 スレインはその影の形を見ながら語る。

「風の音。雨の音。波の音。同じように、雪にも音がある」

 色の失われた記憶。室内の静寂。白い息。窓枠の十字。

「梢を揺らす音」

 冬枯れの梢に留まることなく落ちる雪。

「大地を静かに覆う音」

 春を知らぬ土に滲み入り層を成す雪。

「誰かがそれを踏みしめる音」

 深く刻んだ足跡も平らかにする止まぬ雪。

 瞼の裏に、凍った薪の苦い匂いを錯覚する。

「そういう音が、一年中する街で生まれた。僕は」

 閉じた双眸を開く。暖炉の炎のような瞳が、澄んだ色でこちらを見ていた。

「雪を踏むのは誰なの?スレイン」

 スレインは再び瞼を閉じる。

「e6。チェックメイト」

「うん。負けたよ」

 終局。互いに頭の中のチェスボードを仕舞う。

「また来るよ」

 ギイ、と椅子を引く音。立ち上がる伊奈帆を、スレインは右手で頬杖をつき見上げる。

「気が向いたら、そのうち話してやってもいい」

「そのうちって、いつ?」

「さあ」

「僕が生きてる間の話?」

「ははっ」

「ジョークだよ」

「だから笑った」

 伊奈帆は背筋を伸ばしたフロックコートの立ち姿で、トリコーンを右手でくるりと回転させた。表情は薄いが、拗ねているように見えなくもない。

 スレインは片目を瞑り、ひらひら左手を振った。

「次に来る時は酒でも持ってきたらどうだ?僕の口が存外軽くなるかもしれない」

「何が好き?お酒」

「そのくらい、自分で考えたらどうだ?」

 伊奈帆はぱちりとゆっくり一度瞬いて、海賊帽を頭にぐっと押し付けた。

「そうするよ」

 靴音が遠ざかる。親指ほどの長さになった蝋燭の炎の糸をスレインは指でつまむ。一つ。二つ。三つ。遠くの波の音が聞こえる。

最新記事

すべて表示
灯台のコウモリ_9

夜光雲が星を覆い、灯台は闇に包まれた。人影は夜に溶け、虹彩の一つの赤と二つの碧が彗星のように光る。 「僕の左目の話をしようか」  伊奈帆は左目の眼帯に指で触れた。額を横切る斜めの紐は、ビショップの刻印めいて彼の容貌に溶け込んでいる、とスレインは思う。 「この左目について、君は一度僕に聞いた」  その時のことを覚えている。左眼をどうしたのか、と僕は聞いて、伊奈帆はそれに答えず僕の感想を尋ねた。 「は

 
 
 
灯台のコウモリ_8

三六六、三六七、三六八……。  一段一段、螺旋階段を上る。下から吹き上げる風に抱えた木箱がカタカタ鳴る。波の音は遠く、星の声が近い。  地下室には誰もいなかった。錠はなく、扉は簡単に開いた。テーブルからずれた位置の彼の椅子は、主人を失い途方に暮れていた。  三七〇、三七一、三七二……。  これで終わりかもしれない、という諦念と、これが始まりかもしれない、という願望。世界の中のいくつかの物語の交錯を

 
 
 
灯台のコウモリ_7

甲板に照り返す光の照度が目に見えて低くなった。潮風の変化がコートのフリンジを直線的にする様を、影の動きで認識する。 「伊奈帆、ちょっといいか?」 「カーム。何?」  伊奈帆は首を左に向けた。甲板長のカームだ。彼は伊奈帆の反対側へ周り、ズボンのポケットから出した両手を船縁に置き口を開いた。 「灯台のコウモリのことだけど」 「うん」  カームは自身の後頭部を後ろ手で掻く。短い金髪は、秋の大地の草木の色

 
 
 

コメント

5つ星のうち0と評価されています。
まだ評価がありません

評価を追加
bottom of page