灯台のコウモリ_4
- μ

- 10月15日
- 読了時間: 4分
スレインは灯台の螺旋階段を駆け降りた。展望室からぼんやり眺めた夜雨の海、近づく船影が見えたからだ。
「やあ、スレイン。調子はどう?」
波の打ち付ける桟橋に、界塚伊奈帆が降り立ち言った。口調も身のこなしは軽やかだが、ブーツもコートも髪の毛も雨水と海水でぐっしょりと濡れている。
「出迎え?嬉しいよ」
屋根の下に入って伊奈帆が帽子を取る。逆さにするとざあっと水が地面に落ちて、髪の先からボタボタと雫が滴った。
「ずぶ濡れだな」
「風はないけど雨がひどい」
「拭くものは浴室にある」
「ありがと」
伊奈帆はブーツの底を掴み、脱いで逆さに持ち上げた。水たまりが二つでき、その真ん中で彼はブーツを履き直した。
コン、と硬質な音が存外に響く。g6に配置された白のビショップ、斜線の凹みへ雨音が流れる。
スレインは、黒のナイトを右手の中で転がしつつ口を開いた。
「その目……」
円テーブルの向かいに座る伊奈帆を見る。彼の右側頭部から左耳に向けて斜線のような紐があり、左眼窩を黒い眼帯が覆っている。
「左眼をどうした?界塚伊奈帆」
伊奈帆の隻眼の右が瞬く。
「君の感想は?」
「海賊らしい」
「あ、いいね」
スレインの返答に、伊奈帆がはにかむように口角を上げた。彼はボードを降りたチェスメンを傍に揃え、テーブル上で指を組む。
「スレイン、家族は?」
スレインは背もたれに身体を預け聞く。
「家族の話がしたいのか?」
伊奈帆はうん、と頷いた。
「僕、姉がいたんだ」
三つある燭台の炎の一つを、伊奈帆は指で摘んでそっと消す。皮膚の焦げる匂いが僅かに漂う。
「両親は知らない。二人で暮らしてて、姉貴と僕は海賊の一味になった」
スレインは、その港を想像する。大きな街だろうか。小さな村だろうか。伊奈帆の家は、その港の近くなのか。遠くなのか。
なんとなく、彼は海から遠い場所で生まれた男だとスレインは思った。伊奈帆の纏う空気に、風に揺れる穂の光を感じるのだ。
伊奈帆が上目遣いでじっとスレインを見た。瞳の虹彩が星めいて光る。
「君に初めて会った、その少し前のことだよ」
「そうなのか」
うん、と伊奈帆はまた頷く。やけに素直だ、と意外に思うが、初めて会った時からそもそも彼はわかりやすくて率直だった、と思い至る。
「前にここに来てから、今日ここに来るまでの間にさ」
スレインは顎を引き、伊奈帆の言葉を待った。二度の瞬き。口が開く。
「会えなくなってね」
しん、と沈黙が下りる。さあさあと降り続ける雨のような静けさは、壁の外の風景と完全に呼応している。静寂が踝くらいまで堆積した頃、スレインは尋ねた。
「その目は?」
「うん」
伊奈帆は声で頷く。ちぐはぐな応答の後、彼は左目の眼帯に左手の三指で触れた。
「その時無くした」
「そうか」
雨の音に耳を澄ませる。波音ばかりが響く灯台で、波に溶ける雨音を探す。一粒の音は認識できない。わかるのは、ただ、雨降る海の水音だけ。
風がないんだ。今夜は。
「父と旅をしていたよ」
瞼を閉じたが、伊奈帆がこちらを見るのがわかった。
「いろんなところに行ったけど、雪の降る街が多かったな」
風のない海。スレインには思い出す風景がある。
「一度だけ、海に行った。冬の海」
遠い日々。人だった頃の記憶。故郷と呼べる場所はなかったが、家族がいて、思い出と未来があった。流れる時間の中で見た景色。
「燕を見たよ。そこで」
「燕?」
それは、鳥の記憶。
「越冬にしくじった燕が一羽、灰色の空を飛んでいて」
父の隣で見た冬燕の黒い翼。灰色の空と海。淡い色彩の風景で、額と喉の赤い羽毛が鮮烈だった。
「今更仲間に追いつけないだろう、と僕は思った」
夏の鳥が、冬の海を一羽で飛び行く運命について、子どもの僕がどんな感想を抱いたかは覚えていない。覚えているのは見えたもの。
「止まり木のない海の上、飛ぶ事をやめないんだ」
空腹で、孤独で、向かい風を飛ぶ燕。
「一直線に冬空を横切り、南へ飛んで行ったよ」
今では、その姿に畏敬を覚える。向かいに座るこの男へ向けるような、今だけを生きる魂に。
「そう」
しばらくして、伊奈帆は一言そう言った。そして彼は、机に手を置きすっくと立ち上がる。
「また来るよ」
スレインは高窓を見上げた。小さく見える外は漆黒。雨音は続いている。
「朝までいればどうだ?」
「いや、合流しないと」
伊奈帆はトリコーンをくるりと回転させ、芝居がかった仕草で被る。
「船長になったんだ。僕」
なるほど、とスレインは肩を竦める。雨で濡れた甲板から、船員たちが複雑そうな様子で伊奈帆の背中を眺めていたのだ。船長の個人的な寄り道の理由を、それぞれに考えていたのかもしれない。
伊奈帆は扉に手をかける。肩越しに振り向き、彼はブリムを軽く触った。
「またね。スレイン」
「ああ。キャプテン」



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