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ラ・カンパネラⅥ

  • 執筆者の写真: μ
    μ
  • 6月19日
  • 読了時間: 4分

Ⅵ 爪月の影

 

 

 ——ひどく寒い。

 気がつくと、静かな場所にいた。スレインはこじ開けるように瞼を開く。

 まず見えたのは、少し欠けた淡い月。明け方に近い星空が、丸い形に切り取られている。左右を見ると、石の壁と鉄格子。格子の向こうはすぐ壁で、人の気配は感じられない。ピチャン、ピチャンと壁から雫が伝い、床に水溜まりを作っている。

 体中が外も内もとても痛い。息をする度、焼けた肺が悲鳴を上げる。手も足も動かない。服は焼け焦げ、襤褸切れになった焼け残りが胴体に張り付いている。見える部分に髪があって、あれ、と思う。ヴェールのせいか、少し焦げていたが長さは元のままだった。

 生きているのか、僕は。

 この期に及んで、と歯を食いしばる。どのくらい、意識を失っていたのだろう。炎が消え、身体が再生を始め、人の姿を捕らえられ、こうして目を覚ますまで。

 月の形は針のよう。

 重なる脳裏の月は赤く丸い。リンドウが狐火を灯す庭が星空に瞬く。

 ——はい。

 骨だけの手が差し出した花は、満月に白く輝いていた。

 ——似合うよ。綺麗。

 そう言った時の、はにかむようなあの笑顔は、もう二度と見られない。

「伊奈帆……」

 彼はもういない。何もかも、炎に焼かれて消えてしまった。

「……?」

 手の中に、何かを握り込んでいることに気づく。腕をあげようと試みるが、上手くいかない。身体を動かそうと必死になるうち、それは手からこぼれ、床をころころと転がった。壁に当たり、水溜まりの中で静止する。

 伊奈帆の義眼だ。炎の中、これだけが焼け残ったのか。

 小さな旋風が起こり、円柱形の牢を上っていく。

『……スレイン』

「いなほ……?」

 伊奈帆の声だ。幻だろうか。

『こっちに来て』

 動けないなんてことを忘れ、背中や足で這いずって、転がって、水に濡れた宝石の眼を一心に見て近づいていく。その最中、あれ?と気付く。床に映る淡い灰色。

 影がある。僕に。

「伊奈帆……?」

 さんざん苦労して壁際までたどり着き、首を反らせて顔を起こす。水面を覗くと、自身の姿ではなく、黒い影がそこに映り込んでいた。

 吸血鬼は、影を持たない。吸血鬼は、鏡や水面に映らない。

 百年ずっと、そうだったのに。

 薄い影は次第に色を宿しだす。カーネリアンの瞳がぼうっと光と放ち、やがて影の左側の瞼の中へ。

『スレイン』

 伊奈帆がいた。泣きたい気持ちで、その顔を見つめる。伊奈帆が困った顔になって言う。

『泣かないで』

「泣いてない……」

 水面に波紋ができて、伊奈帆の顔がくしゃくしゃになる。

『君に、これを』

 青い光の不思議な風が巻き起こる。光の中で傷が癒え、右目に何かが収まった。背中の羽根が大きく広がる。身体が動く。立ち上がる。前はあんなに重かった羽根が、二片の花弁のように軽やかだ。

「羽根が……」

 床に落ちる影は漆黒の蝙蝠。伊奈帆が微笑む。

『飛べるよ』

 無音の羽ばたき。そこは雲の上だった。スレインの唇が伊奈帆と同じ形に弧を描く。

「さあ、行こう」

 月夜を飛ぶ黒い羽根。連なる雲の峰にその影が踊り行く。

 

 

 ——百年後——

 

 

 船乗りたちが決して近づかない岬がある。

 その岬に近づくと嵐が起こり、船は押し戻されてしまう。それでも無理に進もうとすれば、落雷と竜巻により、船は見るも無残に沈没する。

 岬を去ると雲は晴れ、空の青と海の青のその中に、澄んだ鐘の音だけが聞こえると言う。

 その半島は、かつては港町だった。南国らしい景観の海街に訪れるのは船乗りや海賊だけではない。貴族の別荘地でもあった。

 その港も街も、今はもうない。

 緑に覆われた廃墟には、猫や海鳥の姿があり、穏やかな海を臨む、時を忘れたような光景が広がっていた。

 風化した民家を抜け、竜胆の咲き乱れる岸辺の先の水平線。崖の上には小さな修道院がある。

 夜明けの時。鐘楼の鐘が照り返しで真珠のように白く輝く。鐘の音が、波に攫われるように遠く彼方へ消えていく。

 鐘楼の人影は一人。

 彼の頬は朝の光で薔薇の色に染まっている。金の髪が潮風に遊び、白いシャツが帆のように膨らむ。

 その口元が三日月のような弧を描く。外気に晒された素肌の喉が上下に動く。

「初めて会った時に」

 双眸が遠くを見るように細くなる。

「残された花嫁はどうなるのか、って聞いたよな」

 うん、と彼は自分で頷く。

「残されたものは、毎日神に祈るんだ。あの人と、どうかまた会えますように、って」

 首を振る。毛先の輪郭がきらきらと輝く。

「どう思う?」

 ひどい話だ、と肩を竦める仕草がある。そして、ははっと彼は笑い声をあげ。

「そう。ひどい」

 と独り言ちる。

「でもまあ、それでもいい」

 日が上がる。空と海が青く染まり、水平線の境界が次第に曖昧になる。

「聞こえるか?鐘の音が澄んでいる」

 聞こえる、と同じ唇が動く。

「今夜はきっと満月だ」

 空を行く海猫。それを見送る瞳の一方は碧。

 もう一方は、オレンジ色。

 古ぼけた鐘楼の煉瓦は、大きな翼の影を映す。

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