ラ・カンパネラⅤ
- μ
- 6月19日
- 読了時間: 6分
Ⅴ 果ての岬
波というのは風に似ている。そして風は、遠い記憶をいつも思い出させるのだ。
スレインは夜空を見上げた。空を分断するかのように真っ直ぐ伸びた黒いマストの先端に、北極星が輝いている。
「……わっ」
「おっと」
思いがけず床が揺れ、バランスを崩し転びそうになる。伊奈帆の手が背中と肩を支えた。
「船は初めて?」
「ええ」
生身で海を流されたことはあるし、ボートに乗ったことはある。けれど、こんな大きな帆船の床を踏むのは初めてだ。
「何です?変な顔して」
「別に」
伊奈帆は目を丸くした後、わざとらしい無表情でそっぽを向いた。彼の手が肩から離れ、甲板を歩いて行く。船縁に肘を乗せた伊奈帆の隣に、少し離れてスレインは並び立つ。
見下ろす海面はずっと下で、海水は黒々としたタールのようだ。遠くの海に視線を向けると、水平線に反転する月がとても近い。不思議な光景に目を奪われる。
「星が好きだった」
伊奈帆が、ぽつりと呟いた。
「波間の月影も、水平線に昇る朝日も。雨が濡らす甲板も、風の痛さも潮の匂いも。光る海月や、星を数えようとしたこともあった。そういう綺麗なものは、何度見ても、飽きることは無かったよ」
彼の隻眼の先には、波に照り返すさまざまな光が見える。星明かりや、飛沫にさざめく海蛍。港の街灯、広場の篝火。道に沿った鈴なりのランプ。白く、青く、黄色く赤く。光の揺らぎは美しい。
「でも、いつからか、何も感じなくなった」
年月の所為か。呪いの所為か。孤独の所為か。それとも、その全てか。
伊奈帆は自身の胸に手を当てた。偽りの肌のその下には白骨と化した肋骨と、今はもうない心臓の空洞だけがあることをスレインは知っている。
「毎日、同じ朝を迎える。骨だけになった体に、まだ自我があると思い知らされる瞬間は、なんともいえず嫌な気持ちだ」
伊奈帆は固く瞼を閉じた。結んだ唇が、迷うように小さく震える。
「そんな時。ある岸辺で。少女に出会った」
どくん、と大きく心臓が鳴る。伊奈帆を見ると、彼は静かな瞳でじっとこちらを見つめていた。波音が頭蓋に反響し、視界がぐらつき脚が震える。強張った手で首飾りを握りしめる。
「七年後、必ず私を迎えに来て、って彼女は笑った」
さようなら、と僕に言った彼女の顔も、笑っていた。けれど。
「頬は涙に濡れていた」
そう。泣きながら笑った。
「七年後に再び訪れたその街で、彼女は溺れて死んだと聞いた」
彼女の生家に行ったんだ、と伊奈帆は続ける。
「洗っても取れない海水と砂に塗れて灰色の、花嫁衣裳と一緒にあった、家族の肖像」
お屋敷の回廊が脳裏に浮かぶ。そこに並ぶ絵の中で、そう。一枚だけ。
「その隅に、黒服の少年がいた。あれは君だろう?」
スレインは頷く。まだ、父が生きていた頃に描かれた肖像画だ。彼女も僕も、幼かった。
「セラムと僕には名乗ったけれど、本当の名前は違うんだね」
幼い頃の愛称だ。そう呼んで、とねだられたことが思い出される。一度も呼ぶことは無かったけれど。
「……だから」
修道院の部屋の絵を見た伊奈帆の、複雑な笑みを思い出す。
「だから僕に、男の服を着て見せてと言ったんですね」
「うん」
今僕にこんな話をするのはきっと、彼が今になって、初めて彼女を愛したからだ。
「……どうして」
喉が嗄れて、声が掠れる。
「どうして、彼女を攫ってくれなかったんです?」
幼い彼女は恋をしたのだ。心を失った男に。男はそして、百年も過ぎて愛を知った。
無茶だよ、と伊奈帆が呟いた。そうだ。これはただの恨み言。
街の灯がやけに大きく見える。あれは祭りの火だろうか。
「……せめて、もう少し早く。貴方が来てくれていれば」
そして、彼女を攫ってくれたら。せめて僕を殺してくれたら。彼女はあんな風に、海に身を投げることは無かったのに。
「……僕も、同じことを思ったよ。もっと早く。人である時の君に出会っていればって」
伊奈帆が足を踏み替えて、縁に背中を凭れさせた。顔はマストの先に向いている。
「この岬に来たのはね。鐘が聞こえたからだよ」
修道院の鐘の音。百年の時。毎日の決まった時間に鳴らしている。花冠と同じ、弔いの鐘の音。海に消えた彼女の魂が安らかたることを願って、海の彼方へ届くようにと。
「嵐で横殴りの雨が鐘楼を揺らして。僕の耳にはセイレーンの呼び声に思えた」
実は港で一悶着あってさ。君のことはその時聞いた。とても人とは思えないって。それで、会ってみたくなったんだ、と伊奈帆は語る。
「そして僕は扉を開けた。嵐の聖堂で祈る姿に、翼が無いのが不思議だった。まるで——」
——翼を捥がれた天使に見えたよ。
「綺麗だな、と思ったよ。君に会って、僕は本当に久しぶりに思い出した。綺麗なものを見て、それを綺麗と思える自分をさ」
伊奈帆は胸を押さえる。さっきよりも強く。
「この、骨だけになった空っぽの体に」
その手が見えない何かを握った。
「まだ、心がある気がした」
伊奈帆は天へと顔を向ける。瞳には、破れた帆の北十字が映る。スレインの目に、彼の指先が以前描いたノーティカルスターが重なる。
「スレイン。このまま僕の船に乗っていかない?」
伊奈帆がはっきりとした声で言った。
「僕は……」
スレインは思う。
海と空の間に浮かび、そして見る。巨大な月、星屑の雨。鳥の連なる夕暮れを。世界を染める群青の朝焼けを。
百年、千年、それ以上の百億千憶の日々を。
二人きり、墓標のような幽霊船で。
——それも、いいかもしれない。
唇を開こうとした瞬間、背筋にぞわりと寒気が奔った。
「……なんだ?」
なにかおかしい。
「誰かいる」
これは……。
「火の臭いだ」
緊張を伴う伊奈帆の声。火の臭いがより強くなり、続いて数多の怒号が船を包み込む。
「いたぞ!殺せ!」
甲板を踏み鳴らす無数の足音。松明の火が船上へとなだれ込む。
「船を焼け!魔物を殺せ!魔女を捕えよ!災厄を排除しろ!」
剣を天へ突き上げ叫ぶのは、騎士風の衣服を纏った金髪の若者。その隣に、あの黒髪の青年がいる。
「火を放て!」
甲板に脂が撒かれ、その上に松明の火が落ちた。
一瞬。
その一瞬で、火の海が視界の全てを焼いていく。
「くっ……!あ、……ッ!」
「伊奈帆!」
足元から燃え上がった炎が、伊奈帆の身体を飲み込んでいく。その勢いがあまりに激しい。どうして彼だけこんな。
「伊奈帆……!」
手を伸ばす。炎がまるで生きているようにそれを遮る。修道服の裾が燃え始め、腱の切れた羽根が現れ火が燃え移る。焼けた皮膚が爛れ痛む。ああ、せめてこの羽根が動けば。僕が飛べたら。
「幽霊船を焼き尽くせ!」
時の流れで僕らは死ねない。自らを破壊することも。しかしそれは、自分では、死ぬことが出来ないだけなのだ。
「スケルトンを焼き殺せ!」
呪いを受けた魔性の者は、人の手でしか殺せない。
吸血鬼は銀の弾丸。
スケルトンは船もろともの業火によって。
ゴーストシップが真っ赤になって燃えていく。黒いマストが火柱となり天を焼く。
「よし、退避せよ!」
号令で、仕事を終えた人間たちが船を次々下りていく。
古い木と、そして骨の焼ける臭い。
「伊奈帆!」
燃えている。全て。
——燃える船が脳裏に浮かぶ。見た事なんてないはずなのに、古い木と骨の焼ける臭いが感じられた。
思い出す。星の下で聞いた過去を。その時感じた焼ける臭いを。
ああ、あれは。あれは、これから起こる記憶だった。
もう、火の中の人影は炭のように黒い。ああ、壊れてしまう。消えてしまう。本当に死んでしまう。
光を放つ水平線や、白い鳥のゆく黎明。朝日を受け輝く漆黒のマスト。波の音に交じる笑い声。
二人で見るはずだった、海の墓場の幻影が浮かんで消える。
「伊奈帆……ッ!」
炎の中の手を握る。白骨の指がぽろぽろとすなのように砕けていく。
「……スレイン」
——君の中にいさせて。
コツン、と何かが床を打つ。それは彼の魔石の左眼。
「いな、……ほ……っ!」
灼熱色の骸骨が砕け、影の漆黒となり消える。歯の一本すら残さずに。
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