ラ・カンパネラ_Epilogue
- μ

- 6月19日
- 読了時間: 3分
満月の夜。
雲隠れする月の光はひどく淡い。夜風が紫色の花弁を揺らす中庭で、スレインは椅子に座っていた。布張りの椅子は座面が固く、猫足のニスはすっかり禿げた。もたれかかる肘置きのアーチには、無数についた細かな傷がきらきらと光っている。
彼の前には、身長よりも少し大きい姿見がある。百年前。スレインは一枚の、大きな鏡をここに置いた。
彼は鏡に映る影を見る。人ならざる身はそのままの姿を映しはしないけれど、自分と左右対称に、寸分違わず動く影がある。目も鼻も口も無い、虚空のような人影が。
鏡の中に広がる庭の姿は美しい。闇色のその影に、スレインは微笑みかける。青い光が花に落ち、夜空が雲のヴェールを脱ぎ始める。現れたのは一欠もない丸い月。淡い光が鏡の中に差し込んだ。
鏡面がぼうっと光り出す。月の光に影が溶ける。その輪郭が曖昧になり、鏡のこちらと違う動きをし始める。その様を、スレインは椅子に座ったままに眺める。
まず、背中。すっと伸びた背筋が、椅子からすっくと立ち上がる。重厚な衣服のシルエット。斜めに被ったトリコーン。草を踏む確かな足取り。月影が色彩を暴く。炎のような緋色の瞳が現れる。
「やあ。調子はどう?」
伊奈帆の朴訥とした声。いい夜だね、と彼は両手を空へと掲げる。スレインの頬に笑みが浮かぶ。ああ僕は、こんなに自然に笑えるんだ、と思いながら。
「悪くない」
満月の夜。鏡の中に伊奈帆の姿が現れる。それに気づいたのは、石の牢屋で水面に映る彼を見た時。
あれからずっと、月の満ちる夜を待ち焦がれて生きている。
伊奈帆はふふっと肩をすくめて笑った後に、しげしげとスレインの姿を見つめた。
「その服……」
心臓が大きく跳ねる。鏡の中の彼に、こんな姿を見せるのは初めてだ。
「見つけたから着てみた。……んだが」
黒シルクのスリーピースに天鵞絨の外套。ずっと昔の肖像画にも似た服と、ばっさり切り落とした髪。鏡に姿が映らないから、どう見えているか自信がない。落ち着かなくてカフスをいじる。
もし見つかったら、着て見せてくれないか、という。遠い昔の彼の一言。それを覚えているということ。笑うだろうか。それとも、もう忘れてしまっただろうか。
「……どうだろう?」
沈黙の後、伊奈帆は指で頬を掻く。
「きまってる。すごく」
「そうかな」
「うん。似合うよ」
そういうこと言えるんだ、と思った自分にスレインは微笑む。花を髪に飾った時に、彼は同じことを言った。あれもまた、月の大きな夜だった。
伊奈帆は鏡の向こう側でくるりと背を向ける。
「伊奈帆?」
「ちょっと待ってて」
そう言って、枠の外へ行ってしまった。しばらくして戻ってきた彼の手には、白い花が一輪摘み取られていた。
「はい、これ」
いつのまにか自身の手にあるのは、夜露のきらめく白い花。あの日と同じユーチャリスの香りに鼻の奥がツンとする。
伊奈帆は帽子を胸に当て、隻眼が真っ直ぐこちらに向けられる。初めて会った時と全く同じ所作は意図したものだろう。しかしあの時とは違い、痺れるような密度の眼光はあたたかい。彼は踵を引いて会釈をし、その左手が翻る。
指先がすぐそこに。
——僕の花嫁になってくれない?
雷鳴轟く嵐の夜の、彼の言葉が風に聞こえる。
「お手をどうぞ。〝ヴァンパイア〟」
鏡合わせの顔が照くさそうに微笑んだ。白い花弁が鳥のように風に飛びゆく。
スレインは立ち上がり、鏡の指に指を伸ばす。触れたのは硝子。北の星を宿す隻眼が細まる。
今なら。百年前のあの言葉にこう答えよう。
「しょうがないな」
翻るマントは夜よりも黒い。二つの月がリンドウの庭に燐火を灯し、北の十字が見つめ合うカーネリアンの瞳の奥に映り込む。鏡の中に風が舞う。鐘の音の中、鏡合わせの手が重なる。



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