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ラ・カンパネラⅣ

  • 執筆者の写真: μ
    μ
  • 6月19日
  • 読了時間: 10分

Ⅳ 北十字

 

 

 正午にスレインが祈りを捧げていると、礼拝堂の戸が開いた。不穏な気配を察して、慎重に膝を伸ばし、ゆっくりと立ち上がる。戸の開き方と靴音が伊奈帆と違う。振り向くと、先日、峠で出会った黒髪の青年だった。

「やあ」

「こんにちは」

 背後に、屈強そうな数人の男たちを引き連れている。こうしてみると、青年は海街の労働者とは服装も立ち方も明らかに異なる。上流階級の人間で、権力者。さほど日に焼けていない肌は若々しく健康そうだ。

 峠の遭遇以降、街で何があったのだろうか。昔の吸血鬼騒ぎの当事者から世代交代の後、交流を持ちそれなりに上手くやってきたつもりだ。ここ数十年は押し入っての暴行も強もなかった。

「お祈りですか?それとも、何かご入用ですか」

 スレインは扉口へ近づく。リーダー格の男の前で足を止め、胸の前で首飾りを握り込んで指を組む。

「聞きたいことがある」

 青年は祈りの形に固く組んだ手をほどき、あろうことか左手の甲に口付けた。スレインは咄嗟に振り解く。

「御前です。おやめください」

「御前でなければいいのか?」

 きっと睨むが、青年はどこ吹く風だ。おお、怖いと軽口をたたき、彼は周囲を見回した。

「海賊の少年は?」

 スレインは首を振った。飄々として躱される。やり辛い相手だ。

「さあ。そのへんにいます」

 実際、彼が日中どこにいて、何をしているかはよく知らない。日が沈むころふらっと現れ、明け方までを共に過ごす。

 青年はふむ、と頷き重心を右へ移動する。

「では、君に聞こう。港に停泊している船のことだ」

 はっとする。彼らがここに来た目的は伊奈帆。

「あれは、普通の船ではないだろう?海賊ならまだしも、彼らによると呪いを受けた幽霊船だそうじゃないか」

 青年が港町の住人たちを肩越しに一瞥する。スレインは唇を引き結ぶ。考えれば当たり前のことだ。伊奈帆の来港が、彼らにとってどれほどセンセーショナルな出来事だったか。

「夜になるとボロボロで、朝になれば元に戻っている」

 人ならざる者の本性は夜に姿を現す。伊奈帆も、彼のゴーストシップも例外ではない。

「厄介事に巻き込まれるのは御免被る、というのが我々の立場だ」

 我々というか、彼らのね。青年の言葉に、スレインは頷いた。

「伝えておきましょう」

「まだある」

 男の翠眼が見据える。

「海賊の少年は、あれは。人間か?」

「お帰り下さい」

 庇うか、と青年は口元を皮肉気に歪ませる。扉に集まる待ち人たち。重なる影が石床に蠢く。迫る影に後退る。

「では、シスター。貴方は?」

「……なんのことです?」

「貴方は、人間か?」

 背が壁に当たり、男の右手が顔の横の壁を押す。ウィンブルの裾が引かれ、髪が露わに肩へと垂れる。

「私、は……」

 顎を持ち上げ、頬を撫でる熱い手は、生きた血が通った人の手だ。唇の縁を親指がなぞる。

ごくり、と唾を飲み込んだ。

「神の御前だ。答えてもらおう」

 放射状に背後の靴先が近づく。ペンダントを握る手が震える。ああ、わかっているのだ。何もかも。いや、彼らなりの理解をしたに過ぎない。港の幽霊船と岬の修道院。そこには魔物が。人の世の摂理を離れ、魔に堕ちた人間がいる。災厄をもたらす故に排除しなければ、というその、彼らの妄想じみた想像が、寸分違わず当たっているだけ。

 

 夜が暴く僕らの本性は、呪いを受けたスケルトンと吸血鬼。

 

 刹那、突風が吹き抜ける。

「わっ、なんだ!」

「おまえは……!」

 どよめく男たちが左右に分かれ、その間から伊奈帆が現れた。

「そんなに心配しなくても、あと二日だよ」

 伊奈帆はすっと腕を伸ばし、壁についた男の手を退けた。静かな声だが、電気が奔ったように背筋がひりつく。

「あと二日?」

「そういう条件だから。影も残さずいなくなるよ」

 張り詰めた空気が満ち、時が止まるようだった。スレインは伊奈帆の後頭部をじっと見る。

「だから、それまではそっとしておいてほしい」

 しばらくの間、無言で二人は睨み合う。青年が先に視線を外し一歩下がった。

「海の民は迷信深い。それを、伝えておこうと思っただけだ」

 私は、正直そんなの眉唾だとは思うが。しかし彼らは違う、と青年は背後に親指を向ける。

「それが用向きだ。本当は、個人的な別の用事もあったのだが」

 青年は伊奈帆とスレインにゆっくりと視線を動かし、肩を竦め、踵を返した。

「今日のところは、横恋慕はやめておこう」

 青年に続き、男たちもいなくなる。そのうちの一人が振り向き、思いつめた瞳で教会の鐘を一度見上げた。

 

 

「——見て。満月だ」

 伊奈帆が振り向きそう言った。彼の右手の人差し指が示す月はまんまるく赤い。スレインは肩を竦める。

「狼男なら、正体を現す」

「それはスケルトンも同じだ」

 月夜の中庭。夜露は花びらの色に染まり、色とりどりの宝石のように輝いている。

「月より、星の光が好きだ」

 伊奈帆は今、剥き出しの肋を晒していた。普段は皮膚を取り繕っているけれど、月の光、特に満月の力は本来の姿を常世へ晒す。骨の白さは、血や肉よりも美しいとスレインは思う。生き物よりも、モノに近い。血肉は既に失われ、自分の八重歯が彼を傷つけることはできないという事実に安心する。

「ヴァンパイアの正体は?」

「見たいですか?」

 修道服の襟を抜き、長衣の後ろのボタンを外す。剥き出しになったスレインの背中が小刻みに数度震えた。現れたのは巨大な蝙蝠の羽根。伊奈帆が口笛を鳴らした。

「すごいね」

「君と同じ。僕も、月より星が好きだ」

 ヴァンパイアになった時、勝手に生えていたものだ。出現させるのは、何十年ぶりかのこと。飛んだことも、飛ぼうとしたことすらない。それをすると、自分がもう人ではないと認めてしまうような気がした。けれど今、孤独なスケルトン男を目の前にしていると、それでもいいかという気になった。

「それ、本当に飛べるの?」

「いいえ。筋が切れていて。今はもう重いだけです」

 伊奈帆は口を開いたが、言葉を発することなく閉じた。背中を見つめる複雑そうな表情は、最初の夜とは全然違う。なぜ飛べないのか。背中の傷はどうしたのか。そういうことを、彼は聞かない。

 僕が人間みたいに接してくれる。

「貴方も、元は人間だったんでしょう?伊奈帆」

「うん」

 七竈の下。触れた肌も、髪も、手も。境界に空虚さがあった。抱き合っても直に触れるのは骨の硬さだけ。その奥に鼓動を刻む心臓はなく、一人の鼓動が胸骨の空洞に反響した。

「どうして、そんな体に?」

 骸骨の手が梢を手折る。乾いた骨の感触は、人の温度も柔さもないが、しかし決して不快ではなかった。

「カミサマに嫌われたんだ」

 小さな枝を弄びつつ、伊奈帆は空へと視線を上げた。

「ノーティカルスターって知ってる?」

「何ですか、それは?」

「海図の真北を示す記号だよ。こういうの」

 人差し指の尖端が、緑の光で五芒星を宙に描く。

「海賊は、星に連れて行ってもらうんだ」

 どこにでも行けるような気がした、と呟く伊奈帆の右眼に実体はないはずなのに、オレンジ色の光彩に星が光る様だった。

「僕らにとって、高緯度の海域は人間の世界を離れること」

 航路を遮るものがないと、海は怪物のようになる。マストのロープは凍り付き、乗組員は死ぬほどの苦しみを味わうんだ、と。

「凍傷の手足を数え切れないほど切ったよ。それでも、何人も死んだ」

 スレインは幼い頃に住んでいた、極北の国を思い出そうとする。雪と森と素足の痛みはもう朧だ。

「封鎖された運河に入り込んだ。〝船乗りの悪夢〟を、迷信だと言い聞かせてね」

「船乗りの悪夢?」

 神様がいるなんて、信じることができないくらいの極限だった。そう語る伊奈帆の横顔は月の光で髑髏が緑色に透けている。

「聖域に踏み込んでしまった。海の神の怒りに触れ、稲妻が船を貫いた」

 燃える船が脳裏に浮かぶ。見た事なんてないはずなのに、古い木と骨の焼ける臭いが感じられた。

 伊奈帆が身体をこちらに向ける。コートの裾が小さく揺れて、足元の花々が狐火を灯す。

「僕だけが生き残った」

 君と同じだね、と伊奈帆は微笑む。緑の光に半分透けたその顔を見てスレインは、彼は昨日の自分の話をどんな心地で聞いていたのだろうと思った。

「船はさ。勝手に動くんだ。僕だけを乗せて。——海面に照り返す街の灯。祭りの篝火。葬列のトーチ。決して手の届かない光を臨む」

「それでも、船に戻るんですか?」

「海賊だからね」

 即答だった。伊奈帆は右目の瞼を閉じる。

「たとえ一人でも、やっぱり海が好きなんだ」

 スレインは伊奈帆の閉じた瞼の裏を想った。彼もまた、長い時をその目と魂に刻みつけてきたのだと。

人ではないのは僕だけではない。罰としての生は呪い。人とは違う時の流れを、孤独の中で生きていく。その業を共有できる男が少なくとも世界に一人はいる。

「スレイン、これからどうするの?」

 伊奈帆が聞く。冷静で淡々とした声音だった。

「何のことです?」

「人間を敵に回した」

 人を突き放した言い方にどきりとする。伊奈帆は足を踏みかえ正面に立った。

「海の民は迷信深い、って言ってたでしょ?そうなんだ。海を前に、人間はちっぽけで、あまりに無力だ。だから、見た事もない神にもすがるんだ」

 伊奈帆の手が月光を透かす。影の形は白樺の枯れ枝のよう。

「海の神に呪いを受けた幽霊船のスケルトン。海の糧を彼らにとって僕はこの上ない災厄だよ」

 ごめん、と彼は頭を下げる。

「そういうこと、後になって気がついた。僕は何を考えていたんだろう。……自分のことだけだった。自分の呪いのことだけで、巻き込まれる側のことを考えてなかった」

 初めて会った嵐の夜。花嫁になってくれ、と宣った。無責任で奔放な海賊幽霊。今の彼の表情も声も、その時に比べればずっと人間らしい。

「仕方ありませんよ」

 こっちが本来の彼なのだ。理屈っぽくて純粋な、仲間も家族も失ったひとりぼっちの海の幽霊。

 スレインは月夜に佇む花々を見る。七竈もリンドウも。今は棘の赤薔薇も。どの花も苗や種をくれた人がいて、そこに眠る人がいる。

「ああしておけばよかった。ああしなければよかった。僕だって、そんなことの繰り返しです。次は上手くやろうと思っても、いつも間違えてしまう」

 あの時、どうして僕は、彼女の手を取らなかったのだろう。あの時、どうして僕は、彼を人でいさせたのだろう。どうして僕は、全てを受け入れてしまうんだろう。どうして、僕は――。

「僕は、もっと早くに死んでしまわなかったんだろう」

 まだ、人であった時に。

 伊奈帆は複雑そうな表情で少しの間スレインのことを見つめた。彼は背を向け、俯き加減で中庭を歩く。やがて一輪の花を摘み戻ってきた。

「はい」

 差し出されたのは六枚の花弁を開いた白い花。ユーチャリス。

「何の真似です?」

 伊奈帆ははにかむような表情で口元を綻ばせる。

「僕が人だった頃。お祭りがあったんだ」

 どこかの港の祭りだろうか。

「ダンスに誘う相手に花を贈る習わしがあってね」

 祭りの夜の灯りや弦楽器。髪に香る花の香り。想像が幻燈のようにきらめく。

「その時はまだ子どもだったから、ちょっと羨ましかった」

 幼い頃の、故郷の記憶かもしれない。どんな町で、どんな子どもで、どんな暮らしをしていたのだろう。家族はいたのだろうか。好きな人は?そういうことを考えると、背中の羽根が動けばいいのにと思った。

 伊奈帆が片足を後ろへと引き、少し屈んで右手を差し出す。ぱちりと右目が瞬いた。笑っている。

「スレイン、僕と踊ってくれる?」

 スレインは花と伊奈帆の顔とを交互に見て、ウィンブルを脱ぎ去った。金の髪が風にふくらむ。左側の耳に白い花を飾る。清らかな花が夜に香った。

「どうですか?」

 伊奈帆を見ると、肉眼ではない瞳の色が星屑を宿したようにきらめいた。

「似合うよ。綺麗」

 明るい笑顔は真昼の少年のようだ。スレインもつられて笑う。

「そういうこと、言えるんですね」

「覚えてる?僕の方が長く生きてる」

 顔を見合わせ同時に吹き出す。もしかしてこの花の名前も意味も知らないんじゃないかと思ったが、全て知ってのことかもしれない。

「それ、四歳だけでしょう?」

「まあね」

 純白のユーチャリスは、花嫁を飾る花。

 骸骨の手に青褪めた爪の鋭い手が重なり、ターンの度に蝙蝠の羽根が風を起こす。明るい月夜に星が光る。露を宿したリンドウの花が、海蛍のようにさざめいた。


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