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Deep Sea Monster_2&3

  • 執筆者の写真: μ
    μ
  • 2025年6月19日
  • 読了時間: 16分

2、人魚

 

 光は嫌い。波も嫌い。みんなみんな嫌いなの。

 酸素濃度が徐々に減る濁った水で満たされた運搬用の水槽で、レムリナは我が身の不運を呪った。窮屈な直方体のガラスの容積はレムリナのような細身の小さな人魚ですらも、腕と尾鰭を折り曲げなくてはいられないほど狭かった。

 人間に捕まってしまった。

 稚魚の頃から聞かされた、人間の手に落ちた人魚の辿るおぞましい未来が頭の中を駆け巡る。薄汚い土にまみれた見世物小屋。生きたまま解剖されて、鱗を剥がされ剥製にされる。人間たちの欲望の大口に、この身の全てを欠片も残さず吸いつくされる。

 もしも。

 もしも、尾鰭が思うように動いたら。そうしたら、嵐の渦に攫われず、投網を避けて逃げおおせることもできたのだろうか。

 光の一筋も届かない深海の、静かな闇が今は無性に恋しく懐かしかった。

 ガタガタと、馬車の車輪が音を立て、振動が水流を嫌な感覚で乱れさす。

 レムリナは硬く目を閉じ呼吸を止めた。しかしすぐに苦しくなって、鰓が忙しなく開閉する。酸素が足りない。

 目的地に着いたら、新鮮な水の中に入れてもらえるかしら?

 そんな卑屈な思いが浮かび、レムリナは鼻の奥がツンとした。溢れたらしい涙の水滴は、濁った水に溶け入った。どこに向かっているにしても、陸の檻には変わりない。

「きゃ…!」

 振動が彼女の身体を水槽の内側にぶつけた。車輪は停止している。

 着いたのかしら?

 馬車の荷台の扉が開く。光があまりに眩しくて、レムリナは両腕で顔を覆った。陸の光は獰猛だ。きっと好きにはなれないわ、とレムリナは思う。

 数人の黒い服の人間が彼女の入った水槽を馬車から降ろして台車に乗せて、屋敷の中へと入っていった。

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 馬車の音が聞こえたので、スレインは出迎えるために足を進めた。一時たりとも顔を合わすことはしたくもない相手だが、そうしておくと機嫌が良い。あの「実験」や拷問めいた責めに今更泣き言をいうわけでは無いが、痛いよりは痛くない方がいい。ご機嫌伺いに傷つくプライドなんてこれっぽっちも残っていやしないんだし。

 玄関ホールに足を踏み入れると、大掛かりな装置がまず目に飛び込んだ。巨大なガラスでできた箱。頑丈そうな白銀の檻。自分の胴より太いに違いない灰色のチューブ。運ぶのに、数人がかりの機械類。

「おお、私のヴァンパイア。出迎えか。気が利くじゃないか」

 上機嫌だと見て分かる。興奮して上気した頬の左右に、僕は口を押し付けた。ガラガラと荷物を運ぶ騒音。耳障りな男の声が競りの成果を僕に告げる。

「よい買い物をした。女は嫌いだが、あれはいい。漁師は上手くやったのだろうね、鱗が剥がれていなかった。胸が小さく小振りなのもいい。何よりも、瞳の色が美しい」

 鱗?

 コルセットの下、背筋がぞわりと粟立つ。そして嵌るパズルのピース。

 あのガラス箱は水槽か?この人買いに、動物愛護の趣味はない。人間以外を飼うなんて、そんなことは今までなかった。

 あの水槽に何を入れるつもりだ?

 男が歯を見せて笑い、鼻の頭に皺が寄る。

「若く美しい人魚だ。じき届く。そのうち、お前に見せてあげよう」

 はっと電流がはしったかのように、体中が痛くて堪らなくなった。歯を食いしばり耐えようとして、足がふらつき重心が男の方へ移動する。それをどう受け取ったのか、男は背中を優しく叩き口を押し付け舌を吸う。呼吸を遮られ気を失いそうになりながら、スレインは瞼をこじ上げ水槽の向かう先を追い掛ける。上り階段に大きな板を敷いている。地下ではない。サロンでもない。

 二階のロング・ギャラリーだ。

「部屋でいい子にしていなさい」

 男が言って、身を離す。スレインは視界がひっくり返るほど悪い気分を目を瞑ってやり過ごし、瞼を開くと男の姿は消えていた。

 人魚と言った。

 女、で。

 若く美しい。

 スレインは閉じた玄関扉を見つめた。じき届く。奴は確かにそう言った。

 若く美しい女の人魚。

 まさか。

 アセイラム?

 そのまましばらく待っていたが、扉はしんと静まり返って閉じたまま。使用人に背を押され腕を引かれ、スレインは自室へ戻された。

 

 

 

 

 

 何かの間違いであってほしい。

 新しいおもちゃを手に入れてそちらへ向かうあの男を誘惑し、自室に引きずり込むのは骨が折れる作業だったが、なんとかうまくやりおおせた。三大欲求を満たし眠りについた屋敷の主人をベッドに残し、スレインは素早く着替えて息を潜めて部屋を出た。部屋履きのまま、水槽が運ばれたであろうロング・ギャラリーへ急ぐ。心は急くが、倦怠感と引き摺る裾に足を取られて思ったように歩けない。着るものが、こんな嵩張った動きにくいものしかないのは、実に不便で腹が立つ。でも、もし件の人魚がアセイラムであったとしたら、まさか裸で出ていくわけにはいかないし。

 自分にとって、彼女はもはや神にも等しい存在なのだ。今日まで生き延びてこられた奇跡も、生きてさえいれば再び会うことができるかもしれないと鏡の向こうで幼い自分が囁いたから。

 息を切らせて扉に手をつき深呼吸をする。汗が顎から伝い落ちた。ドレスの胸元から、真鍮製の鍵束を取り出し鍵穴に差し込む。

 この扉の向こう。水槽に閉じ込められた若い女の人魚がいる。アセイラムであってほしいと願う自分と、アセイラムではないことを願う自分がいて、両者のせめぎ合いは心臓を大きく動かし鼓動の大きさに胸が痛んでスレインは左手で自身の胸を掻き毟った。

 カチャリ。鍵が開く。

 音をたてぬよう慎重に扉を押して、隙間から身を滑り込ませる。五〇組がぶつかることなくダンスを踊れるロング・ギャラリー。東向きの窓のカーテンだけが半分開いて月明かりが真っ直ぐな線となりスレインの足元まで伸びていた。

 その窓からずっと下。青い光に揺らめく水で満たされた、四角い大きな水槽がある。距離は五〇メートル。しかし、スレインは分かった。

 アセイラムではない。尾鰭の色が黒いのだ。

 安堵と失望の混じり合った複雑な心地で、スレインは足音を忍ばせてゆっくりそこに近づいた。人魚の視線は扉を開いた時からずっとスレインを見つめていて、それを隠すこともしない。近づくにつれ、面差しの幼さと体つきの華奢さが際立ち、スレインは屋敷の主人の悪趣味に眉を顰めて唇を噛んだ。

 桃色の髪をした、肌が抜けるように白い人魚の少女だ。それほど長くもない髪はエアポンプからの泡を受け肩のあたりでふわふわと漂っている。凹凸の少ない華奢な体の下半分は黒い鱗で覆われた尾鰭で、折りたたまれて水槽床に接していた。愛らしい目元口元は緊張と恐怖で引き攣っている。両腕で肩を抱きしめ、怯えた眼差しで僕を見ている。水槽の前に立ち見えた瞳の色は晴れた空のような青色で、いかにもあいつの好みらしい。幸い、痣や傷はどこにも無い。できればこのまま、観賞用として誰にも触れられずここにいるのが望ましい。最悪なのは、下手な「実験」の矛先を彼女に向ける事だろう。

 循環ポンプの籠った音を通り抜け、高い音波が鼓膜を伝い脳が揺れた。少女の口元から気泡が次々溢れ出る。瞼がぴくぴく痙攣している。

 今のは人魚の悲鳴だろうか?少女は唇を引き結び、こちらを睨みつけている。

 怖がらせたくはない。敵ではないと分かってくれれば。困った。こんなとき、喋れないのは困る。

 スレインは少し考え、水槽のガラスに握った指の関節を当てた。

 コン、コン、コン、コン、コン。

 ゆっくり、小さく、優しく。大丈夫だと伝えたかった。何の保証もないけれど。この少女を守りたい。それが伝わればいいと思い、彼女に向けてスレインは久しぶりに笑ってみた。ちゃんと笑顔になっていたかは分からないが、彼女も目を丸くして、少し笑った。彼女の指がガラスに触れて、つ、とゆっくり動いて留まり、また動く。奇跡を追うと、すぐに分かった。文字だ。読める。彼女は書いた。

 ―――あなたはだれ?

 僕は了解の意をもって頷き、鏡文字でガラスに指を滑らせる。

 ―――スレイン。

 彼女は頷き、桃色の髪がふわりと上方へ流れた。

 ―――レムリナ。

 スレインは少女の名を自分の指でガラスに書いた。レムリナははにかんでコクリと頷いた。

 ―――ここは、どこ?

 それは僕も知らない。首を振った。少女が不安そうに眉を寄せた。

 ―――私は、どうなるの?

 胸を引き裂くような問いだった。スレインは微笑みを浮かべたまま、奥歯を血の味がするほど噛み締めた。人魚の少女はどうなるか。おそらく、すぐに飽きるだろう。奴元来の趣味ではない。珍しいもの見たさに我が物にして、悪趣味極まりない同族に散々見せびらかした後、人を外れた辱めと暴力の末に、少女をきっと殺すだろう。しかしそんな現実を、伝えられるわけもない

 それに、そんなことはさせない。

 スレインはコン、コン、コン、コン、コン、とまた五回、水槽をノックした。レムリナの手がガラスにぺたりと張り付いて、スレインはガラス越しに自身の手を重ねた。小さくて白い、子どものような手だった。

 

 

 

 その日以来、スレインは毎晩のように人魚の下を訪れた。あの男を引き付けるのに、二度と思い出したくもない様々な手段を取って。事が済んだ後なので、丑三つ時をとうに過ぎた夜より朝に近い時間。嵩張る重い拘束具のようなドレスを引き摺り長い廊下を歩くのはいつも大変な労苦だったが、レムリナの笑顔に心は癒えた。幸いなことに、日を追っても少女の身体に傷は生まれないことに、スレインは心の底から安堵した。スレインは喋ることができず、レムリナは尾が悪く水面に上がることができないので、肉声での会話はできない。指文字の筆談ではさほど深い意見交換もできない。言語も多少異なるようだ。

 数度目の訪問に、スレインはふと思い立ち本を持って行った。挿絵の入った美しい装丁の物語。レムリナは目を輝かせ、水槽に張り付いた。スレインは水槽を背に本を開いて、彼女と二人で美しい話に入り込み、夜が明ける頃それは終わる。そんな夜を何度も繰り返すうち、自室への道すがら、夢のようなひとときだとスレインは思い微笑んだ。作り物の嘘っぱちの世界だが、レムリナにはそこにいてほしい。






3、海賊

 

 

 僕は別に、血や戦いが好きと言うわけではない。どちらかと言うと、痛いのや臭いのは苦手だし、寒いのも暑いのも、面倒事も嫌いだ。嫌悪しているとさえ言っていい。温かい食事や静かで一人の部屋が好きだし、高い空やさざめく波をぼんやり眺めるなんてのも、素敵な時間の過ごし方だと僕は思う。

 そんな僕が、殺戮と強奪を生業とする海賊船の船長の椅子にふんぞり返っていることを、聞くと意外に思うだろう。

 

 fiat justitia, ruat caelum.

 

 フィーアト・ユスティティア・ルアト・カエルム。僕の行動理念はそれだけだ。海賊が、哲学を引っ提げ何をおかしなと堅気が聞いたら鼻で笑うことだろう。

 実際、僕もそう思う。これは欺瞞だ。道化と呼べる悪ふざけ。誰かの刃や銃弾で心拍停止を迎えるまで、僕はこの茶番を続けることになるだろう。

 それでいいと、僕は思う。

 この世界には、優しさやルールで賄いきれない理不尽がある。どんなに正しい法律でも、どんなに強く優しい人間でも、為せないことが存在する。取り返しのつかないことも。子どもがすぐに大人になるとか、襲い掛かる鉈や鍬や鎌の刃を跳ねのけるとか。時を戻すこととか、それに。

 死んだ人を生き返らせることとか。

 大切な人一人を笑顔にできない、守ることすらできない正義なんて、マッチの炎の七面鳥より滑稽だ。

 電動ベルが鳴った。界塚伊奈帆は思索のために閉じていた右瞼をゆっくりと開く。船長室のスチール机に乗せていた脚を下ろし、壁にかかる計器の情報を見つめた。温度計。気圧計。湿度計。ストームグラスに羅針盤。六分儀。クロノメーター。水温測定器。そして圧力計。それらの数値は、陸、すなわち目的地が近いことを示していた。

 開くことのない左目に眼帯を装着し、ジュストコールとトリコーンを身に着け、ベルトに剣とピストルを差し込んだ。

 

 たとえ人を殺しても。人から奪い恨まれようとも、僕は僕のテリトリーの内側にいる人たちを守りたい。海賊船の船長は、それをするにはうってつけの役回りだろう。

 

 fiat justitia, ruat caelum.

 

 古い言葉は堅苦しいな。今風の言葉ではこんなところか。

 Let justice be done,though the heavens fall.

 “天堕つるとも、正義を成せ”

 そう。たとえ天が堕つるとも、僕は僕の正義を成す。正義と言うには、子どもっぽくて自分本位な勝手な願い。

 

『伊奈帆さんは、いいヒトですね』

 彼女の言葉がふと蘇り苦笑する。支度が終わり、伊奈帆は窓のハッチを閉めて、室内の光源は絶えた。体を扉の方へ向ける。

 いいヒト、か。“hostis humani generis―人類共通の敵―”を『いいヒト』と呼ぶのは、きっと貴方一人だろう。

 それでいい。

 

 リベット打ちの扉は音もなく開き、大股歩きのブーツの踵がカン、カン、と床を踏む。彼は舷側沿いの通路を歩き船橋へ向かった。

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 浅い眠りがさあっと遠退いた。

 スレインは掛け布団から顔を出し、暗闇の中目を見開き耳を澄ませた。背中側の高鼾の他、外、足音が聞こえる。石畳を打つ大人数の足音。その振動がここまで伝わるはずもないが、奇妙な胸騒ぎを覚えスレインは寝台を抜け出し窓に寄り、カーテンの隙間から外の様子を窺った。

 炎の行列。松明がぞろぞろと砂糖菓子に群がる蟻のようにアプローチへと侵入していた。その身なりから、訪問者が賊だと知れ、スレインは身を翻しクローゼットに駆け寄った。音を立てぬよう素早く服を着て、靴の高すぎる踵をへし折り捨てる。これで少しはましだろう。脱ぎ捨てられた男の上着から鍵束をひったくり、扉に耳を当てた。静か。自室の扉を開ける。物音は遠い。屋敷の主も使用人も、異変に気付いていないのだ。

 スレインは亡霊のように気配を殺して廊下を進む。通路の窓から、数多の炎が素早く移動するのが見える。外から自分が見えないように、背を低くして静かに進む。スレインが向かっているのはロング・ギャラリーだった。何が起こるにせよ、彼女の傍にいてあげたい。

 外から断片的に聞こえてくる言葉で、スレインはおおよその事態を把握した。

 海賊だ。目的は人魚。

 レムリナ。

 尾鰭を上手く動かせず、人間の手に落ちた。

 彼女を捕まえたのも、海賊ではなかったのか?

 絶対に、彼女を渡すわけにはいかない。

 息が上がり、呼吸が苦しくて胸元の網紐を広げる。踵の無い靴でも、足元の裾の布地でまろびそうになる。ああ、やはりこの服は動きにくい。何も着てくるんじゃなかった。でも、もう脱ぐ時間も惜しい。

 二階、扉の前に来た。鍵を差し込み錠を開ける。その時ドオン、ドオン、と振動を伴う大音量。玄関扉が破られたのだ。

 どこから逃げる?厨房、セラーも望みはない。隠し階段から地下通路を経由して厩舎に出るか?

 レムリナは、ガラスに両手を張り付けて口を大きく動かした。スレインは、彼女が自分の名前を呼んでいるのだと分かった。二脚の椅子を持って水槽に駆け寄り、それらを積み上げよじ登って手を伸ばす。白く細い彼女の腕が水面目指して伸ばされた。スレインは水槽の縁で腰を折り、水面に上半身を潜らせ彼女に向かって背中と腕と手を伸ばす。

 爪先が掠った。もう少し。

 呼吸をするため一度上がり、膝を引っ掛け今度はもっと深く潜る。

 手が触れた。

 さらに体を伸ばす。腰から指の先までが一本の線になったように張りつめた。

 また触れた。彼女の手が手首を握った。

 スレインは掴んだ。両手で、レムリナの両の手首を握り締め。力いっぱい引き上げる。

「ああ、スレイン!」

 初めて聞く人魚の声。少し鼻にかかった少女の声にスレインは彼女の背を撫で応える。少女を腕にしっかり抱え、スレインは椅子の座面を蹴って飛び降りた。摘んだ椅子がガラガラ崩れ、絨毯はスポンジのように飛沫を吸って膨らんだ。

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

「…これは酷いな」

 屋敷に押し込み序盤の指揮をとっていた伊奈帆は、学者肌の同胞マズゥールカに呼ばれ地下室へと降りた。先の呟きはその惨状を目にしての伊奈帆の第一声だった。

 腐った魚のような悪臭。四坪ほどの面積の室内の中心には拘束具が備え付けられた解剖台があり、その脇に薄気味悪い器具が並んだステンレスのワゴン・カートが置かれている。左右の壁二面にはグロテスクな機械類と不気味な薬品瓶とが所狭し並び、片隅のデスクには怪しげな書物と乾燥した植物や昆虫、鉱石などがこれ以上散らかることは不可能な状態で乗っていた。正面の一面には蛍光色の液体に満ちた円柱形の水槽が幾つもの管と繋がり鎮座している。

「あまり、息を吸わない方がいいでしょう」

 マズゥールカは既に二等辺三角形に折ったハンカチを後頭部で結んでいる。ラテックス・グローブを装着した手で棚を物色していた。

「ここの主は、いい死に方はできませんね。悪魔も裸足で逃げ出します」

 様々な部位のホルマリン漬けを彼は解剖台の上に丁重に並べだした。

「焼きますか?」

 マズゥールカは感情を遮蔽した表情で伊奈帆を見つめてそう聞いた。

「焼こう」

 その場のことは自称学者に一任し、伊奈帆は階段を戻った。

 

 

「人魚はいたか?」

「こっちはガキが三ダースだ。いい趣味してるぜ」

「使用人が逃げたぞ」

「主人はどこだ?」

「人魚はどこだ?」

「サロンにはいない」

「ライブラリにもだ」

「上の階は?」

「食料と酒を運ぶ。こっちに人出を回せ」

「それより、人魚はどこだ?」

 

 

 手下たちは計画通りの役割分担で手際よく屋敷を暴いていた。しかし、彼らの顔に怒りのために浮かんだ暗い衝動を察し、伊奈帆は声を張り上げた。

「殺すんじゃないよ。捕らえることもしなくていい」

 逃がしてやれ、と命ずる。

「はい、キャプテン」

 歯切れの良い返事が屋敷中から次々上がる。頭が冷えた理性的な声音に頷き、伊奈帆はホールの階段を駆け上がり廊下を走った。裸同然の少年たちと顔色の悪い使用人たちが悲鳴を上げて逃げ惑うが、彼らは別に追いかけられているわけでは無い。手下らは海賊らしからぬ落ち着きで各々の役割を果たしている。必要以上は荒らさない。持ち出すものは足りるだけ。無闇に捕えず、殺さない。それが胸糞悪い被虐趣味の人買いでもだ。

 これはビジネスだ。利の無い無駄は出来得る限り省くこと。

 人魚は、おそらくギャラリーだろう。運搬と設備の手間は破格だが、同じ穴のムジナを集め見せびらかすには最適だ。

 通路の途中で水槽の在り処は確信に変わり、人魚の所在は不確かになる。足音を吸収する豊富な毛足の絨毯が、水でびっしょり濡れていたから。

 逃げたか?しかしどうやって?

 水槽を確認することは必須。人魚はいないとほとんど確信しつつも、二階東の大扉の前で伊奈帆は右手にマスケット銃を構え、無言で扉の持ち手を押した。

 既に錠は開いていた。

 音を立てないように注意して、扉の隙間から身を滑り込ませる。流石に広い。そして暗い。伊奈帆の目が瞬時に辺りを見渡し、室内の展示物の総額が瞬きするまでの間に計上された。絵画、彫刻、陶器、装飾品、額に入った刺繍の一つ一つが実に希少な名品だ。国が一つ傾くほど。

 それらすべてが路傍の石と感じられるほどの宝が、この部屋にはいるはずだった。

 伊奈帆は足元の絨毯が濡れた理由を考えつつ、部屋の奥、ペイ・ウィンドウの月明かりに水面が光る立方体の水槽へ近づく。水槽の近くに、二脚の椅子が暴風雨の翌日みたいに転がっていた。この椅子も、相当な値打ちものだ。しかし、こういう椅子は座り心地はいいものの、とても重いし扱いにくい。陸の上が相応しい。

 排水ポンプは稼働している。水槽床に設置されたブルーのライトが主役のいない水槽を虚しく照らし出していた。

 既に人魚はいなかった。しかし、確かにここにいたらしい。

 水槽内部の少し濁った水には、下方からの泡を受けてきらきらと光る黒い鱗が花びらのように舞っている。

「…どうやって逃げた?」

 自力で逃げることは出来ない。人魚に足が生えるでもなし。

 足元の水たまり。そこに、桃色ではない髪を見つけた。伊奈帆は指で抓み上げ、水槽照明に透かして色味を確認する。三〇センチメートルほどの、銀か金の毛髪だ。絨毯の湿りは足跡の形ではなく、ずるずると濡れた体を引き摺ったような跡だった。

 誰かが、すでに連れ去った後か。手引きをした人間。それは、おそらく『飼われる』側のもの。その人物は、人魚を抱えて濡れたドレスを引き摺り逃げた。

 部屋の外、濡れた足跡はどの方向に消えていた?

 トラップを仕掛ける時間と余裕はあったか?

 いや、それはない。まだ、そう遠くへは行っていない。

「自分一人で逃げれば、追われることもなかったろうに」

 伊奈帆はそう独りごち、踵を返し部屋を飛び出す。

 
 
 

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