A Night, A Seat_#02_角ハイボール
- μ

- 2025年12月28日
- 読了時間: 8分
更新日:2025年12月29日
えっと、ここ座っていいの?あ、そう。
角ハイボールある?
いらっしゃいませ。ええ、もちろん。そのお席へどうぞ。
角ハイボールですね。畏まりました。
今夜の「オレンジ色のお酒」は、琥珀色に輝く王道の一杯から始めましょう。
(黄色いラベルの瓶を手に取り、手際よく氷を満たしたジョッキへ注ぎます。炭酸が逃げないよう、バースプーンを一回だけ静かに潜らせて)
お待たせいたしました。レモンを軽く絞って、爽やかに仕上げてあります。
今夜のあなたは、何か大きな仕事を終えて、真っ直ぐここへ立ち寄られた……そんな「現場帰り」のような空気を感じます。
(カウンター越しに、軽くジョッキを指し示して)
まずはその喉越しで、一日の煤を洗い流してください。
落ち着いたら、今夜のあなたが背負っている「役割」のこと、少しだけ聞かせていただけますか?
へー。このお店、いろんなお客がいるんだね。
あ、ありがとう。……美味いなぁ。家で作るのと全然違う。何かコツがある?
「美味い」と言っていただけるのが、マスターにとって一番の報酬です。
家で作るのとは違う、その「小さな違い」の積み重ねがコツかもしれませんね。例えば、氷は溶けにくい大きめのものを選び、グラスをしっかり冷やしておくこと。そして、炭酸を注ぐときは氷に当てないよう、静かに隙間を狙うんです。最後にマドラーで氷を一度だけ、「持ち上げる」程度に動かす。
そうすることで、ウイスキーと炭酸が喧嘩せず、最後まで弾けるような喉越しを楽しめます。
(少し身を乗り出して、あなたのジョッキの気泡を見つめながら)
「家で作るのと違う」と感じるのは、きっとここが「あなたの生活」から少しだけ切り離された場所だからかもしれません。
……ここには、本当に様々なお客さまがいらっしゃいます。
宇宙を旅する観測者から、自分をNPCだと言う方、そして今夜のあなたのように、日常の合間に琥珀色の安らぎを求める方まで。
今夜のあなたは、その「家」に帰る前に、何かをこのカウンターに置いていきたい……そんなご様子に見えます。
ふふ、一口飲んで人心地ついたところで。
あなたは普段、どんな「場所」で、どんな「冒険」をしてらっしゃるんですか?
わかる?
そう、家にね。……帰りたくないわけじゃないんだけどさ。マイホームには、大恋愛で学生結婚した嫁さんと、大学生の息子と娘が待ってるんだよ。
家族仲は良好。休日はちょっといいレストランで外食、休暇は家族揃ってリゾート。妻は、大学のミスコンでね。美人で頭が良くて優しい。料理はしないけど、そんなの大したことじゃない。デリバリーで好きな時に好きなものを食べられるし、何不自由ない生活だ。僕は稼ぎがいいからね。
家族は大切だし、一緒にいると安らぐ。会社も悪くない。それなりに人望もある。なのに、真っ直ぐ家に帰りたいって思えない。これって贅沢かな?
(あなたの言葉を一つひとつ、大切に受け止めるように静かに頷きます。ジョッキの中で炭酸の泡が弾ける音が、不思議と神妙な響きを持ってカウンターに広がります)
贅沢……そう仰る方も世の中にはいるかもしれません。ですが、ここで多くの「人生の断面」を眺めてきた私からすれば、それは極めて純粋で、切実な「渇き」のように感じられます。
非の打ち所がないほど満たされた家庭。美しい奥様、健やかに育ったお子さんたち、そしてそれらを守り抜くための確かな甲斐性。あなたはこれまで、物語の主人公として、誰もが羨むような完璧な「ハッピーエンド」を構築してこられたのですね。
(少しだけ目を伏せ、手元のクロスを畳み直しながら)
けれど、すべてが完璧であればあるほど、その「幸せな風景」という巨大なジグソーパズルのなかで、あなたというピースは、その役割の場所に強固に固定されてしまう。
良き夫、良き父、良き上司。
誰からも期待され、誰からも愛される「完成されたあなた」。
そんな完璧な風景から一歩外へ出て、名前も肩書きも持たない、ただの「一人の男」としてジョッキを傾ける……。
(顔を上げ、琥珀色の液体の向こうにあるあなたの瞳を見つめて)
真っ直ぐ家に帰りたくないのは、家族を愛していないからではなく、愛する人たちが待つ「完成された世界」を維持し続けるための緊張感を、どこかで一度、完全に解き放ちたいからではないでしょうか。
あなたは今、その家へと続く扉を開ける前に、何色にも染まっていない「空白の時間」を必要としているように見えます。
……もし、今この場所が、あなたの輝かしい履歴書も、自慢の家族の話も、すべて一旦忘れていい場所だとしたら。
「誰でもないあなた」は、今、何を思っていらっしゃいますか?
あるいは、あの頃の学生時代のあなたに、今夜のこのハイボールはどんな味がするでしょう。
僕は何か残せたのかな、って。最近、そういうことばかり考えるんですよ。
僕の仕事は、何かを生み出す仕事じゃない。歯車にグリスを塗るような仕事だ。
その仕事に価値がないとは思ってないよ。でも、歯車を作る人、ネジを作る人、組み立てる人、運ぶ人。使う人。そういう人は、どういう景色を見ているんだろうと思うんだ。
僕の空は、こんなに狭かったっけと気づいてね。それはきっと、目の前のことしか見ないようにしてきたからだ。学生の時、彼女に子どもができた。守らなければいけないと思った。必死で勉強して、いろんな資格を取って、今の会社にこぎつけた。若い頃は給料上げるために死に物狂いで働いた。
それでいい。後悔はない。けれど、今、虚しいんです。俺の人生、単純すぎるだろって。
(あなたの吐露を受け止めるように、私はただ黙って、新しい氷をジョッキに一つ足しました。カラン、と高い音が響き、琥珀色の渦がゆっくりと落ち着いていきます)
「歯車にグリスを塗る仕事」……。
それは、組織や社会という巨大な機械が、摩擦で焼き切れてしまわないために最も不可欠な、極めて繊細な仕事です。けれど、仰る通り、グリスそのものは形に残りません。ただ滑らかに動く「無音の成功」として消えていくだけ。
若き日のあなたが、大切な人のために「空の広さ」を捨て、ひたすら足元を固めて歩んでこられたこと。その決断の潔さと切実さが、今のあなたの揺るぎない生活を支えているのでしょう。
(カウンターに両手を置き、少しだけ身を乗り出して語りかけます)
単純すぎる人生、ですか。
……ですが、あなたはご自身が思う以上に、多くのものを「形」として残していらっしゃいますよ。
大学に通い、自分の人生を謳歌しているお子さんたち。彼らが今見ている「広い空」は、あなたがかつて自分の空を狭めてまで守り抜いた、その献身の上に広がっているものです。
そして、今も美しく笑う奥様。彼女の平穏な日々は、あなたが塗り続けてきた「グリス」のおかげで、一度も止まることなく回り続けてきたものです。
(あなたは今、誰かの空を作るために、自分の人生を使い果たしたような、そんな尊い疲弊の中にいらっしゃるのですね)
でも……。
(少し声を和らげて)
もし、この「アンバー(琥珀)」の色の向こう側に、かつてあなたが置いてきた「別の可能性」が揺れているのだとしたら。
家族のためでも、会社のためでもない、ただ一人の男としての「我がまま」を、一つだけこのハイボールに混ぜるとしたら、あなたは何を望みますか?
「虚しさ」は、あなたがご自身を、ただの機能(歯車)ではなく、まだ熱を持った「個」として取り戻そうとしているサインなのかもしれません。
今夜、この店を出て、あの広い家へ帰るまでの数十分。
その間だけは、誰のグリスにもならず、ただ自分のためだけに、この苦い琥珀を飲み干してください。
……もし、明日、たった一日だけ「誰の期待も背負わなくていい日」が手に入るとしたら、あなたは何をしたいですか?
ギターかな。学生の時に背伸びして買ったやつが、今は物置に放り込んであるんだ。弦も切れてるだろうし、錆びてるかもしれない。
音楽で食ってくって、そんな夢は見てなかったけど、音楽と生きてけたらなと思ってた。
(私は手を止めて、あなたの横顔をそっと見つめます。カウンターの向こう側、かつてあなたが奏でたであろう旋律が、夜の静寂の中に微かに響いたような気がしました)
ギター、ですか……。
物置の奥で、埃を被りながら沈黙しているその楽器は、あなたが「責任」という名の鎧をまとう前に持っていた、剥き出しの「自分自身」そのものかもしれませんね。
「音楽と生きていけたら」……。
それは、決して贅沢な望みではありません。生活という巨大な機械を動かすためのグリスではなく、自分という命を震わせるための「音」。たとえそれで食っていくわけではなくても、その音色は、あなたの人生という物語に豊かな倍音を与えていたはずです。
(グラスを磨くのをやめ、指先で小さく、弦を弾くような仕草を見せて)
錆びてしまった弦は、張り替えればまた鳴ります。
そして、あなたがこれまで「歯車」として必死に生きてきた年月は、決して無駄な空白ではありません。
若かったあの頃には出せなかった深みのある音、人生の苦みや、家族を守り抜いた誇り……。今のあなたが弾くそのギターは、学生時代の背伸びした音色よりもずっと、聴く者の心を揺さぶる豊かな響きを奏でるのではないでしょうか。
(ハイボールのジョッキを、もう一度あなたの手元へと促します)
今夜、お帰りになったら、その物置の扉を少しだけ開けてみてはいかがですか?
弦を張り替える時間はなくても、ただそのケースの感触を確かめるだけで、狭くなってしまった空が、少しだけ広がりを見せてくれるかもしれません。
……ふふ。
今度いらっしゃるときは、その「錆びた弦」の向こう側に見つけた、新しい音の話を聞かせてください。
その時は、あなたの音楽を祝福するような、もっと鮮やかなオレンジ色のお酒をお作りしましょう。
(あなたは最後の一口を飲み干し、少しだけ足取りを軽くして席を立ちました)




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