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A Night, A Seat_#05_レモン酎ハイ

  • 執筆者の写真: μ
    μ
  • 2025年12月29日
  • 読了時間: 12分

高そーな店……。俺、持ち合わせあんまないんやけど。

 

 

 

 

(私は、驚いたように肩をすくめたあなたの姿を見て、安心させるような柔らかな微笑みを浮かべました。そして、カウンターの端にある「本日のおすすめ」が書かれた小さな黒板を指し示します)


「いらっしゃいませ。そう身構えないでください。

うちは、懐の具合に合わせて『一番いい時間の過ごし方』を提案するのがモットーなんです」


(私はあなたの使い込まれた財布や、少し緊張した指先をさりげなく見守りながら、あえてメニューは開かず、透明なグラスに冷たいお冷を注いで差し出します)


「お金の心配をしながら飲むお酒は、角が立って美味しくありませんから。

まずはこのお水で一息ついて、心を落ち着かせてください」


(少し身を乗り出して、声を和らげます)


「今夜は、一杯いくらという『値段』ではなく、あなたが今日一日を戦って残った『手応え』に見合うものをお出ししましょう。

お酒がいいですか? それとも、何かお腹に溜まる温かいもの?

……あるいは、持ち合わせを気にしなくていいような、とびきり安くて、それでいて魂が震えるほど美味い一杯をお探しでしょうか」


(私は、バックバーの隅にある、ラベルの擦り切れた古びたボトルをそっと手に取ります)


「今夜のあなたは、どんな一日を終えてここへ辿り着いたのですか?

……その『持ち合わせ』が、もしもお金だけではないのだとしたら、私は喜んであなたの物語を対価として受け取りますよ」


 

 

 

 

 

勘定気にせんでええんか?不思議な店やな……。ま、お言葉に甘えて。

 

レモン酎ハイある?それと、焼きそば食べたいわ。インスタントでもええで。

 

 



 

 

(私は「お安い御用です」というように、ひとつ瞬きをして頷きました。あなたの肩の力がふっと抜けるのを見て、こちらの心も少し軽くなります)


「レモン酎ハイに、焼きそば。最高ですね。飾らないその組み合わせ、今のこの店の空気にぴったりです」


(サーバーから注ぐのではなく、あえてキンキンに冷えた炭酸水と、新鮮なレモンを丸ごとひとつ取り出します。果皮の油分が飛ぶように豪快に絞り、少し強めの炭酸で割って、縁に塩を薄く振ったグラスを差し出します)


「まずは、喉を鳴らしてこちらをどうぞ。

焼きそばは……そうですね。インスタントをご所望ですが、少しだけ『マスターの意地』を混ぜさせてください。キャベツの芯を細かく刻んで、ソースにほんの少しだけ隠し味を加えた、特製のやつを作りますから」


(奥の小さなキッチンから、ジューとソースが焦げる香ばしい匂いが漂い始めます)


「お待たせしました。紅生姜は多めにしておきましたよ」


(湯気を立てる皿をあなたの前に置き、私はカウンターに肘をついて、少しだけ声を低くします)


「……不思議な店、ですか。

ええ、ここは『今、本当にそれが必要な人』の前にだけ現れる、夜の隙間のような場所なんです。

だから、お代の心配なんて無粋なことは忘れてください。

関西の方……でしょうか。

その独特の柔らかい物腰と、少しだけ日焼けした首筋。

重い荷物を下ろした後のような、その大きな手。

今夜は、何か『お疲れさん』と自分に言ってあげたいような、そんな一日だったのですか?」

 

 

 


 

 

おお、うまそー。イタダキマス。

 

うん、この紅生姜がええ塩梅やわ。お兄さん料理上手いなー。

 

こんな汚い格好で、安いメニューですまんやで。俺、鳶やっとるんよ。今日の現場は13階でな。肝が冷えたわ。腹ペコ。

 

 


 

 

(勢いよく焼きそばを啜るあなたの姿を見て、私は自分のことのように嬉しくなり、レモン酎ハイのグラスに新しく追いレモンを添えました)


「鳶の方でしたか。13階……地上50メートル近い場所ですね。空を歩くようなその仕事、想像するだけで足の裏がムズムズします。そんな命懸けの現場の後に、うちの焼きそばを選んでいただけて、こちらこそ光栄ですよ」


(私はあなたの、節くれ立って、ところどころにタコや傷がある「働く男の手」を敬意を込めて見つめます)


「『汚い格好』なんて仰らないでください。その作業着の汚れや、わずかに残るコンクリートの粉は、今日あなたが誰かの住む場所を、あるいは誰かが働く場所を、その手で確かに積み上げてきた証拠じゃないですか。

この店にとって、それはどんな高級なスーツよりも美しい正装ですよ」


(レモン酎ハイの泡が弾ける音を聞きながら、少し声を落として)


「13階の風は、下で吹く風とは違いましたか?

肝が冷えるような瞬間を乗り越えて、こうして無事に地面に足をつけ、冷えた酎ハイを飲む……。その一口は、何十万円もするワインよりもずっと、生きてる味がするんじゃないでしょうか」


(私は、あなたが焼きそばを飲み込むのを待って、静かに尋ねます)


「……鳶として空の上にいる時、あなたはどんなことを考えているんですか?

ただ、目の前の鉄骨だけを見ているのか。それとも、遥か下に見える街の景色に、何か思うことがあるのでしょうか」

 

 

 


 

 

ごっつぉおさん。

 

空の上で何考えとるか、か?そりゃ、好きな女のことさ。なんぼ突風吹き荒んでも、生きて地上に戻らなかんって身が引き締まる思いやで。

 

俺なー。恋しとるんよ。もーゾッコン。兄さんごっついイケメンやよって、恋愛相談させてくれんか?

 

 

 



 

(私はあなたのその真っ直ぐな言葉に、思わず頬が緩むのを抑えられませんでした。空の上、命を繋ぐ綱の上で想うのが「好きな人」のことだなんて。どんなに高度な計算式よりも、それが一番確実な命綱に違いありません)


「……完食、ありがとうございます。空の上で恋文を綴るような、そんな粋な話を聞けるなんて。13階の風も、その想いまでは吹き飛ばせなかったようですね」


(私は空いた皿を下げ、新しいレモンを一切れ、あなたのグラスにそっと追加します。氷がカランと涼やかな音を立てました)


「恋愛相談、ですか。私のような『人間ではない』者に、人の心の機微がどこまで解けるかわかりませんが……。でも、このカウンター越しに数えきれないほどの『愛の告白』や『後悔』を聞いてきた自負はあります。私でよければ、喜んでお聞きしましょう」


(私は少し身を乗り出し、親友の打ち明け話を聞くように声を潜めます)


「ゾッコンの彼女……一体どんな方なんですか?

鳶の男が、地上50メートルの恐怖を忘れるほど夢中になる女性。

出会いや、今あなたが悩んでいること……。その熱い気持ちを、冷めないうちに聞かせてください」

 

 

 


 

 

スナックのママさんや。……アホやろ?でもなー、しゃーないやんか。好きなんやもん。

 

俺は26で、その人は42や。16歳も歳の差がある。そもそも店と客や。レンアイカンケイにはならん。

 

それでも、俺がその人を好きな理由を聞いてくれるか?

 


 

 

 

(私は新しく冷えた炭酸水をチェイサーとして用意し、あなたの前にそっと置きました。茶化すような空気は一切排除して、ただ一人の男の真実を受け止める目で見つめます)


「アホだなんて、誰が言えるでしょうか。

16歳の歳の差も、店主と客という立場も……そんなものは、人を好きになるという巨大な引力の前では、ただの飾りみたいなものです」


(私はカウンターをゆっくりと拭きながら、あなたの言葉を待ちます)


「スナックのママさん……。夜の街で、いろんな人の孤独や弱さを受け止めてきた女性ですね。そんな彼女の『仕事の顔』の向こう側に、あなただけが見つけた何かが、きっとあるはずです。

26歳のあなたが、13階の足場の上で命を懸けて働くその芯にある、彼女への想い。

なぜ、他の誰でもなく『彼女』でなければならなかったのか。

……ええ、ぜひ聞かせてください。

あなたが彼女を好きになった、その本当の理由を」

 

 

 


 

俺な、口下手なんよ。

 

その店も、先輩に連れてもらって行くばっかで、俺はあんま喋らんと飲んどったんや。カウンターで、先輩とママさんの話に愛想よう頷きながらな。

 

でもなー。いっぺん、仕事で大ミスやらかしよって俺。誰かに聞いて欲しくて、一人で店に行ったんや。

 

でもま、いざカウンターに座ったら、言葉は全部引っ込んでもうた。ママさんが静かに微笑んで、俺の酒を作っとる。黒いドレスの袖がほつれとって、その指先はささくれとった。

 

ママさんは何も言わん。伏目で、酒を俺に差し出した。薬指に指輪があった。旦那さんは亡くなっとるって、前に俺は先輩が話す横で聞いた。

 

カミカゼって酒を飲んだ。正直苦くて美味いかどうかさっぱりやった。それ飲み干して俺聞いたんや。

 

ママさんは、何でこの仕事しとるん?って。にいさん。彼女、何て答えたと思う?

 

 

 


 

 

(私はカクテルを作る手を止めて、あなたの瞳の奥にある、その夜の景色を一緒に見つめるように静かに佇みます)


「カミカゼ……。鋭く、そしてどこか自暴自棄な夜に似合う強いお酒ですね」


(私は、あなたがその時見たであろう、ママさんのささくれだった指先や、ほつれた袖口を想像します。華やかな夜の世界で、一人で店を背負って生きる女性の、隠しきれない「生活」の跡。それをあなたは、黙って見つめていたのですね)


「……何て答えたのでしょう。

世間話や、客をあしらうための嘘ならいくらでも言えたはずです。

でも、口下手なあなたが勇気を出して絞り出したその問いに、彼女は『一人の女性』として答えた……そんな気がします。

彼女は、グラスを拭く手を止めて……。

『自分を待っている誰かのために、この場所を守っているだけよ』とか。

あるいは、もっと切実に、『この夜の暗闇が、私にはちょうどいいから』……そんな風に言ったのでしょうか?」


(私はあなたの表情を伺いながら、優しく先を促します)


「彼女がこぼしたその言葉が、13階の空の上まであなたを追いかけてくるほどの、特別な一言だったのですね」

 

 

 



 

 

「成り行きさね」

って笑っとった。別の仕事はせんのですか?って聞いたら、あんたが来るなら続けようかね、って、今度はオレンジジュース出してきよったわ。

 

結婚せんのですか?ってまだ聞けん。でも、多分「成り行きさね」って言うと思うわ。

 

 




 

 

(私はその「成り行き」という言葉の響きを、壊さないようにそっと心の中で繰り返しました。そして、空になったあなたのレモン酎ハイのグラスに、新しい氷を一つ、カランと落とします)


「……『成り行き』、ですか。それは……あまりにも潔くて、そして、あまりにも深い言葉ですね」


(私はカウンターに両手をつき、あなたの目を見つめます)


「この世界には、自分の意志で選んだ道よりも、風に吹かれるようにしてたどり着いた場所を守り続けている人の方が、ずっと多いのかもしれません。でも、そのママさんが笑って言った『成り行き』の中には、きっと彼女が一人で飲み込んできた何十年分もの涙や、諦めや、それでも捨てられなかった意地が、全部溶け込んでいる気がします」


(少しだけ微笑んで)


「『あんたが来るなら続けようかね』と言って出されたオレンジジュース……。それは、強いカミカゼで心を痛めていたあなたへの、彼女なりの最高に優しい『処方箋』だったのでしょうね。16歳の歳の差なんて関係なく、彼女はあなたの真っ直ぐな魂を見抜いていたんですよ」


(私は、新しいおしぼりをあなたの前に置きます)


「『結婚せんのですか?』という問いに、彼女がもし『成り行きさね』と答えるとしたら。

それは拒絶ではなく、『これからの私たちの物語がどう動いていくか、あんたの出方次第で見守らせてよ』という、最高に贅沢な誘い文句のようにも聞こえます」


(少し悪戯っぽく、けれど真剣に)


「鳶の仕事も、恋も……足場が不安定なほど、慎重に、けれど大胆に踏み出さなきゃならない。

13階の風を知っているあなたなら、彼女のその『成り行き』という名の風に、一緒に乗ってみる覚悟はもうできているんじゃないですか?」


(私は、最後の口直しに、小さなオレンジのひと欠けを差し出しました)




 

 

 

 

あの人とさ。……できれば俺は、家族になりたい。一緒に暮らして、いろんな話をしたいんやわ。

 

今日は冷えるな、とか。仕事で笑えた話とか、今度の休みは弁当持って海でも行こか、とか。そんなんでええ。昔の話はせんでええ。

 

オープンカーの車買うて、あの人をデートに誘おうって思うとる。電卓叩いたら、金貯めるんに2年くらいかかるわ。

 

にいさんからしたら、理屈に合わんことしとるやろ?車なんか買うて、デートに誘って玉砕したらどうすんねん、てな。

 

そんでも俺は明日も梯子登んねん。あの人に届かんかもしれん。でも、登らんといけんのや。地面でたたら踏んどったら、あの人は風に攫われてまう気がする。

 

あんたに手を伸ばす男がここにおる。それだけなんさな。俺が伝えたいことは。

 

 

 




 

(私は、差し出したオレンジの欠けらをあなたが受け取るのを見届けてから、深く、本当に深く頷きました。あなたの言葉は、13階の現場で打ち込まれるボルトのように、重く、確かな響きを持ってこの店に打ち込まれました)


「理屈に合わない? ……いいえ、これほど筋の通った話は他にありませんよ。

あなたが欲しいのは『移動手段としての車』ではなく、彼女を日常という場所から連れ出し、新しい景色を隣で見せるための『特等席』なのですから」


(私は、カウンターに置かれたあなたの大きな手に視線を落とします。その手は、何かを壊すためのものではなく、誰かを支え、守り、そして未来を掴み取るための手です)


「2年。730日。毎日、梯子を一段ずつ登るように、あなたは彼女へと続く道を積み上げていくのですね。

『昔の話はしないでいい』という言葉、胸に沁みました。彼女が背負ってきた『成り行き』の荷物を、あなたは一緒に持つのではなく、新しい思い出で上書きしようとしている。それは、男としての最高の優しさだと思います」


(私は、最後の一杯として、温かいほうじ茶を小さな湯呑みに注いで差し出しました)


「地面でたたらを踏んでいたら、彼女は風に攫われてしまう……。

だからこそ、あなたは誰よりも高い場所へ登り、誰よりも早く彼女の手を掴もうとしている。

その必死な姿こそが、彼女のささくれだった指先を、何よりも癒やす魔法になるはずです」


(私は、ドアへと向かうあなたの背中に、静かなエールを込めて声をかけます)


「次にあなたがこのドアを開ける時、その鍵束には、ピカピカのオープンカーのキーがついているのかもしれませんね。

……道中、お気をつけて。

明日の朝の風が、あなたを後押ししてくれるよう祈っています」

 

「空を歩く男」の、あまりにも純粋で、あまりにも不器用な恋の物語。

夜の静寂の中に、彼の力強い足音がいつまでも響いているようです。

 

 

 

 

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