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A Night, A Seat_#04_オレンジフロート

  • 執筆者の写真: μ
    μ
  • 2025年12月29日
  • 読了時間: 10分

……あたし、ここに座って大丈夫?831円しかないんだけど。

 

 

 

 

(私はその具体的な数字を聞いて、思わず口元を緩めてしまいました。それから、あなたの緊張を解くように、恭しく、けれど親しみ深く一礼します)


「831(やさい)円……。ふふ、それはまた、なんとも縁起のいい数字ですね」


(私はカウンターの奥から、使い古された、けれど磨き上げられた小さな錫(すず)のコースターを取り出します)


「大丈夫ですよ。その831円があれば、ここでの『特別な席料』と、このオレンジ・ソーダ、そして私とのとりとめのないお喋りを楽しむには十分すぎます。お釣りだって、帰り道にコンビニでチョコのひとつも買えるくらいは残るはずですよ」


(私はあなたの目の前で、冷えたソーダをゆっくりと注ぎ、オレンジの輪切りを沈めます。立ち上る泡が、あなたの頬を少しだけ明るく照らします)


「……本当は、その831円を使って、どこか遠くへ行こうとしていたのではありませんか?

あるいは、そのお金で買えるだけの『時間』を、誰にも邪魔されない場所で過ごしたかったのか」


(私はグラスをそっと差し出し、あなたの視線がオレンジ色の泡の中に落ちていくのを見守ります)


「重たそうなリュックですね。教科書と一緒に、この街の窮屈さまで詰め込んできたような……。

一口飲んで、少しだけ深呼吸してみてください。

今のあなたは、学校の『誰かさん』でも、家の『娘さん』でもありません。

ただの、夜の迷い子です。

……その、831円分の自由を使って、今日はどんなお話を聞かせてくれますか?」

 

 

 

 


 

ああ良かった。これ、アイスクリーム乗せてオレンジフロートにできる?チェリーも。わ、ありがとうございます。

 

おいしー。

 

私さ、バイト帰りなんだ。学校帰りに、ラーメン屋さんで働いてるの。

 

 

 



 

(私はあなたのリクエストに応えて、真っ白なバニラアイスクリームを丁寧に丸く整え、オレンジソーダの上にそっと浮かべます。その頂点に、宝石のような真っ赤なチェリーを添えて)


「お待たせいたしました。特製のオレンジフロートです。831円の予算内でも、これくらいのご褒美は当然ですよ。ラーメン屋さんでの立ち仕事、本当にお疲れ様でした」


(あなたがストローでアイスを少し掬って、幸せそうに頬張る様子を眺めながら、私はカウンターに軽く身を乗り出します)


「ラーメン屋さんのバイトですか。威勢のいい声が飛び交う、活気のある場所なんでしょうね。学校が終わってから制服を着替えて、湯気の向こうで働く……。

今のあなたの指先からは、ほんのりと美味しそうな出汁の香りと、一生懸命働いた人の誇りが感じられます。

……でも、バイト帰りに真っ直ぐ帰らず、この静かな場所に立ち寄ったということは。

あの賑やかなラーメン屋さんの『看板娘』としての笑顔を、どこかで少しだけ、お休みさせたくなったのでしょうか?」


(私はあなたの隣で、溶け始めたアイスがソーダと混ざり合い、淡いオレンジ色に変わっていくのを見つめます)


「バイトで稼いだお金を、こうして自分で使う。それはとても立派な『自立』の一歩ですよ。

さて……そのフロートを楽しみながら、聞かせてください。

ラーメン屋さんでのあなたは、どんな風に世界を見ているんですか?」

 

 

 

 

 

うーん、ラーメン屋さんは楽しいよ。忙しいけど、それがいいんだ。一人前の人間として扱ってくれるから。

 

家が嫌いなんだ。ちょっと聞いてくれますか?私、もうかんかん。頭にきてるの。

 

 

 

 

(私はカウンターの上の空いたスペースを、柔らかい布でさっと拭き清めました。あなたの「怒り」という熱いエネルギーを、すべて受け止めるための準備をするように)

「はい、もちろんです。その『かんかん』な気持ち、全部このカウンターにぶちまけてしまってください。アイスクリームが溶けてソーダと混じり合うみたいに、言葉にすれば少しは熱も冷めるかもしれませんから」

(私はあなたの目の前に、新しいおしぼりと、サービスの小さなおつまみ——甘酸っぱいドライフルーツの小皿をそっと置きます)

「一人前の人間として扱ってくれるラーメン屋さんと、そうではない『家』。そのギャップが、あなたを苦しめているのですね。

学校でも家でもない、バイト先という場所で自分の居場所を勝ち取っているあなただからこそ、家での扱いに余計に腹が立つのも無理はありません。

……一体、何があったんですか?

あなたの心をそんなに真っ赤にさせた、お家での出来事。ゆっくりでいいので、聞かせてください」

 

 


 

 

 

私のお母さんは専業主婦でさ。高卒ですぐ結婚したの。教育実習生でクラスに来てた男の先生とできちゃったから。いやらしいよね。それ、お父さんなんだけど。

 

教師の父と専業主婦の母が私の両親。4つ違いの弟がいるんだ。

 

両親は弟ばっかり甘やかすし、お母さんは私にすーごく厳しいの。

 

弟はミニバスやってんだけど、6万円とかのバッシュをぽんと買ってあげるわけ。すぐに入らなくなるのにさ。

 

でえ、私が3万5千円のオーボエ欲しいってのは無駄遣い、って怒るのよ。将来、音楽の仕事をするわけでもない、そもそも音大なんてお金がかかる、部活の楽器なら学校のものを借りなさい、だって。

 

最終的には「部活なんかやめて受験勉強に専念しなさい。もう2年生の12月よ」とか言うんだよ。お母さんは受験勉強も部活もやったこともないくせにさ。エラソー。

 

お兄さん、あたしが怒るの、わかるでしょ?長女は損だよ。

 

 


 

 

(私はあなたの言葉を、一つひとつ丁寧に、静かな納得とともに受け止めます。フロートの中で溶け始めたアイスクリームが、今のあなたの複雑な心境を表すようにゆっくりとソーダに馴染んでいきます)


「……ええ、わかりますとも。それは、怒って当然です。あなたが今、どれほど不条理な重圧の中にいるか、痛いほど伝わってきますよ」


(私はチェリーの茎をそっと片付けながら、あなたの瞳をまっすぐに見つめます)


「弟さんの6万円のバッシュは『必要経費』で、あなたの3万5千円のオーボエは『無駄遣い』。その線引きの根拠がどこにもないことが、何より納得いかないですよね。それは単なる金額の問題ではなく、『あなたという一人の人間の情熱』を、お母様が自分の物差しで測り、価値がないと決めつけてしまったことへの怒りなのでしょう」


(少しだけ声を落として、共感を示すように)


「特にお母様が、ご自身が経験してこなかった『努力』や『挑戦』という道を進もうとしているあなたに対して、先回りして制限をかける……。それは、もしかしたらお母様自身の、若き日の未練や不安の裏返しなのかもしれません。けれど、それはあなたの責任ではありませんからね」


(カウンター越しに、少しだけ微笑んで)


「ラーメン屋さんで『一人前』として扱われているあなただからこそ、家で『子供』として、あるいは『お母様の理想の娘』として型に嵌められるのが、人一倍窮屈に感じるはずです。

長女だから。受験生だから。女の子だから。

そんなたくさんの『ラベル』を貼られて、一番大切な『あなた自身が奏でたい音』を無視されるのは、本当に損な役回りだと感じてしまいますよね」

(私は、新しく冷たいお水をそっと差し出します)

「オーボエ……素敵な楽器ですね。オーケストラの中で、一番最初に音を合わせるための基準となる、芯の強い、美しい音を出す楽器です。

あなたがバイトをしてまで自分を保とうとしているその姿勢は、まさにオーボエの音色のように、誰にも折られない強さを秘めているように見えますよ。

……もし、お母様や家族の声を全部シャットアウトして、真っ白な譜面が目の前にあるとしたら。

あなたは、どんな未来を奏でてみたいですか?」

 

 

 


 

 

だから私、バイトでお金貯めてるの。オーボエ、自分で買おうと思ってさ。

 

バイト初めてわかったけど、思ったよりもね、お金ってちゃんと稼げるんだ。時給1,140円でも、1ヶ月で1万8000円ももらえて、欲が出ちゃった。

 

3万5000円とか、ナンセンスだって。引退コンクールまで稼いで、貯まったお金でどかんといいもの買おうと思うんだ。

 

あ、受験勉強もちゃんとしてる。早く家出たいもん。数学と物理が得意なんだ。都会の有名大学に受かって下宿したい。理系なら就職も有利でしょ?

 

大学でもオーボエやりたいんだ。部活でもサークルでも、公民館でもいい。仕事じゃなくても、ずっと続けていきたいものがあるんだよ。

 

 

 



 

(私は、あなたの言葉に宿る確かな熱量に圧倒される思いで、深く、力強く頷きました。溶けかけたアイスクリームがソーダと完璧に混ざり合い、柔らかくも芯のあるパステルオレンジの色に変わっています。それは今のあなたの、優しさと強さが混じり合った決意そのもののようです)


「……素晴らしいですね。その『欲』は、あなたが自分の力で人生を切り拓こうとしている、何より健全で美しいエネルギーですよ」

(私はカウンターを指先でトントンと軽く叩き、リズムを刻むように言いました)


「時給1,140円という数字の中に、あなたが流した汗と、ラーメンを運んだ歩数と、誰かに向けた笑顔がすべて詰まっている。それを積み重ねてオーボエを手にしようとするあなたの音色は、きっと学校から借りた楽器では出せない、あなただけの『誇り』が混じった特別な響きになるはずです。

3万5千円に満足せず、もっと良いものを目指そうとするその心意気……。いいですね。妥協せずに手に入れた相棒は、一生の宝物になりますから」


(数学と物理が得意という言葉に、少しだけ感銘を受けたように目を輝かせます)


「数学と物理ですか! それは論理的で、かつこの世界の理を解き明かす力ですね。都会の大学で一人暮らし……その目標があれば、冬の夜の受験勉強も、きっと遠くの街の灯火のようにあなたを照らしてくれるでしょう。理系の道を選び、自立を目指す。あなたはもう、誰かに守られるだけの『子供』ではなく、自分の足でどこまでも歩いていける『開拓者』です」


(私は、グラスに残った最後の泡を見つめながら、静かに、けれど確信を持って語りかけます)


「仕事にしなくても、ずっと続けていきたいものがある。それは、人生という長い旅路において、最も強力な『杖』になります。どんなに忙しい日々が来ても、オーボエのリードを湿らせるその瞬間だけは、あなたは自由な王女様に戻れるのですから」


(私はレジを打つ準備をしながら、あなたに微笑みかけます)


「お会計は831円。お預かりしたそのお金は、あなたの自由と未来への投資として、大切に受け取らせていただきます。

……さて、そろそろ夜も深まってきました。

明日もラーメン屋さんでの『一人前』の仕事と、未来を掴むための勉強が待っていますね。

次にお会いする時は、その手には重たいリュックではなく、あなたが自分の力で勝ち取った『黒くて輝くオーボエのケース』が握られているのでしょうか?」

 

 


 

 

 

うん、ありがと。

 

あのね、バイト先にラーメン屋さんを選んだのは、まかないがあるからなんだ。ここに着く前、味噌ラーメン食べて来たの。口直しが欲しくって。

 

オレンジフロート、美味しかった。今度来る時は、メロンソーダをお願いします!

 

 

 

 


 

 

(私はあなたが席を立つ瞬間の、どこか誇らしげで、そして年相応のあどけなさが混じった笑顔を、しっかりと胸に刻みました)


「なるほど、まかないでしたか。賢くてしっかり者のあなたらしい、完璧な選択ですね。味噌ラーメンの濃厚な余韻のあとに、このオレンジの爽やかさ……。最高の『口直し』のお手伝いができて光栄です」


(あなたはリュックを肩にかけ、軽やかな足取りでドアへと向かいます)


「メロンソーダ、承知いたしました。

次に来る時まで、とびきり綺麗な緑色のシロップと、最高に甘いチェリーを用意して待っていますよ。


……頑張ってね、未来の物理学者さん。


あなたのオーボエが、都会の空に響く日を楽しみにしています」


カランコロン、とドアの鈴が鳴り、夜の街へと彼女が溶け込んでいきました。

カウンターには、少しだけ溶け残ったアイスの白い跡と、彼女が置いていった「831円」の自由な空気が漂っています。

 

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