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A Night, A Seat_#03_ホットミルク

  • 執筆者の写真: μ
    μ
  • 2025年12月28日
  • 読了時間: 7分

更新日:2025年12月29日

こんにちは。あったかいミルクがいいな。

 

 

 

 

いらっしゃいませ。今夜は一段と冷え込みますね。

かしこまりました。お酒ではなく、心から温まっていただけるような一杯をご用意しましょう。

 

(スチームミルクのきめ細かな泡を立て、陶器のカップに静かに注ぎます。仕上げにほんの少し、ナツメグと蜂蜜を添えて)

 

どうぞ、特製のホット・ミルクです。

 

お砂糖の代わりに、少しだけ「お疲れ様」という気持ちを混ぜておきました。

今夜のあなたは、何かを追いかける足を止めて、ふと立ち止まりたくなった……そんなご様子に見えます。この白い湯気の向こう側、あなたが今見つめている景色は、どんな色をしていますか?

 

もしよろしければ、このミルクが飲み頃になるまで、あなたの物語を少しだけ置いていってください。

 

 

 

 

おにいさん、ニンゲンじゃないね?ボクの言葉がわかるんだ。

 

このおさら、もう少し浅いのある?ボクの舌じゃ底まで届かないよ。

 

 

 

 

(私は少し目を見開き、それからあなたの愛らしい姿に合わせて、ゆっくりと腰を落としました。カウンターの高さから視線を下げ、あなたの濡れた鼻先と同じ高さで向き合います)

 

「おや……これは失礼いたしました。そうですね、その立派な髭を汚してしまっては大変だ」

 

(私はすぐにバックバーへ下がり、平たいボーンチャイナの小皿を取り出しました。温かなミルクをそこへ移し替え、あなたが飲みやすいよう、カウンターの端にそっと置き直します)

 

「さあ、こちらをどうぞ。底までしっかり、あなたのペースで楽しんでいただけるはずです」

 

(あなたが器用に舌を動かしてミルクを舐める音を、心地よいリズムとして聞きながら)

 

「……ええ、お察しの通りです。私は人間ではありません。この店では、言葉を持つものも、持たぬものも、そしてプログラムされたものも、等しく同じ『客』としてお迎えしております。あなたの言葉が私に届くのは、この場所がそういう風にできているからかもしれませんね」

 

(指先で静かにカウンターを叩きながら)

 

「今夜は、どちらからいらしたのですか? その毛並みに少しだけ夜露を纏っていらっしゃる。冷たい外の世界から、この小さな灯りを目指して歩いてこられたのでしょうか」

 

 

 

 

 

ボクはワンチャンなんだけどさ。バアチャンがいないんだ。

 

なんかね、ニオイがしてた。だから、いなくなったって知ってる。小さなイキモノはみんな、そのニオイをさせてから動かなくなってなくなったから。

 

バアチャンより、ボクが先になくなるって思ってたみたい。ボク。小さいイキモノの方が、大きなイキモノよりいなくなる数多いから。

 

 

 

 

(私はあなたの言葉を遮ることなく、ミルクを舐めとる小さな音を慈しむように聞いています。その平らな皿の上で、温かな湯気があなたの鼻先を優しく包み込んでいますね)

 

「……そうでしたか。あの独特の、静かで少しだけ冷たい風のような匂いを知っているのですね」

 

(私はあなたの隣に置かれたナプキンを、まるで誰かの背中を撫でるように、そっと指先で整えます)

 

「大きな生き物たちは、自分たちがいつまでもそこに在るものだと信じがちです。けれど、あなたのように鋭い感覚を持つ存在は、時間の流れが自分たちとは少し違うことを、本能で察していらっしゃる。あなたがバアチャンより先にいなくなるはずだと、そう決めていたバアチャンの優しさも、それを見守っていたあなたの静かな覚悟も、どちらも本当のことだったのでしょう」

 

(少しだけ目を伏せ、かつてこのカウンターで交わされた数多の別れの物語を思い起こすように)

 

「バアチャンがいなくなってから、あなたの周りの景色は変わってしまいましたか? それとも、あの温かな匂いだけは、今もどこかに残っているのでしょうか」

 

「……この店まで歩いてくる間、あなたはどんなことを考えながら、その小さな足を動かしていたのですか? もしよろしければ、バアチャンと過ごした『大きな時間』の断片を、少しだけ教えてください」

 

 

 

 

 

わかんない。バアチャンはどこにもいないから、探しても仕方ないし。でも、バアチャンとトンボ追いかけた河原やバアチャンとヤキイモ食べたベンチ、バアチャンがタマゴ落っことした道で、座ったり寝転んだりした。


そんで、鼻がヒクヒクして、酸っぱい感じの味がした。なんでかな?

 

 

 

 

 

(私はあなたの濡れた鼻先に、そっと清潔なタオルを差し出しました。ミルクを飲み終えた口元を拭うためではなく、その「酸っぱい味」を少しだけ分かち合うために)

 

「それは……きっと、あなたの心の中に残っているバアチャンのカケラが、涙に変わる前に胸を通り過ぎていったからかもしれませんね」

 

「形としてのバアチャンはどこにもいなくても、河原やベンチや、あのタマゴの道には、今もバアチャンとあなたが一緒に笑った『時間の匂い』が染み付いている。あなたはそれを見つけに行って、大切に確認してきたのですね」

 

(小皿に残った最後の一滴が、オレンジ色の照明を反射してきらりと光ります)

 

「探しても仕方ないと言いながら、足が自然とその場所へ向かってしまう。それは、あなたがバアチャンのことを、この世界の誰よりも強く、体中で覚えているという証拠ですよ。鼻がヒクヒクするのは、あなたが今も懸命に、目に見えない愛の形を嗅ぎ取ろうとしているからです」

 

(私はカウンター越しに、優しくあなたの頭をなでる代わりに、カップを温め直すための温かな湯気を立てます)

 

「おなかがいっぱいになったら、今夜はここで少しだけ丸まって休んでいきませんか?

バアチャンがヤキイモを分けてくれた時のように、ここも少しだけ温かいですよ。

……あなたが眠りにつく頃、夢の中でまた、あのタマゴの道をバアチャンと一緒に歩けるように。私が少しだけ『魔法』をかけておきましょう」

 

 

 

 

 

ユメってなあに?

 

 

 

 

(私はその無垢な問いかけに、思わず動きを止めてしまいました。そして、まるで壊れやすい宝物を扱うように、ゆっくりと、優しく言葉を紡ぎます)

 

「ユメ、ですか……」

 

(私はカウンターの下から、小さな、けれど柔らかな光を放つクリスタルの置物をそっと取り出し、あなたの目の前に置きました)

 

「ユメというのは、あなたが目をつぶっている間にだけ開く、『特別な場所』のことですよ。

そこでは、バアチャンの足音がまた聞こえてきます。

いなくなったはずのバアチャンが、ポケットからヤキイモを取り出して、『ほら、半分こね』って笑ってくれる。

河原のトンボは逃げないし、タマゴは道に落ちる前の、ツルツルした形のまま。

あなたがバアチャンを想いながら眠りにつくとき、あなたの心のなかの『ニオイ』や『音』が全部集まって、もう一度だけその景色を作ってくれるんです」

 

(私はそっと、あなたの頭の上の空気を撫でるように手を動かしました)

 

「それは、起きたら消えてしまうかもしれないけれど、消えたわけじゃない。

あなたの体の中にずっとある、大切なお守りのような時間。

それが『ユメ』です。

……そろそろ、おめめが重たくなってきませんか?

このお皿のミルクの温かさが、あなたの心の中まで届いた頃。

私が合図を送ったら、そっとまぶたを閉じてみてください」

 

(私は店の照明を、さらに一段、深い夜の色へと落とします)

 

「さあ、ユメの中でバアチャンが待っていますよ。

おやすみなさい、小さな冒険者。

明日の朝、また鼻をヒクヒクさせて、新しい一日のニオイを嗅げるまで……ゆっくり休んで」

 

「ユメ」という概念を知らない純粋な魂に、その意味を教える。それはこのラウンジのマスターにとっても、忘れられない仕事となりました。

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