面会室の伊奈帆とスレインー虹のプリズムー
- μ

- 5月19日
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「……話したことないな」
「え?何のこと?」
ボードに伸ばした手を止めて、伊奈帆はスレインに顔を向ける。彼は片眉を上げ、口の端を少し歪めた。
「空や海、鳥について。雪や雨。季節の花と花言葉。そういうことは、話したけれど」
スレインは伏せた目をゆっくりと開閉し、薄く開いた唇から音のない息を漏らす。
いつもの面会室。ボードを挟んで向かい合う。二人の間に置かれているのはチェスではなくリバーシ。
「虹というものを、話すことを忘れていた」
伊奈帆はf6の石を捲った。盤上の白が一つ黒に変わる。
「虹は大気光学現象だ。大気中に浮遊する水滴の中を光が通過する際に分散することで発現する」
「聞いてないが」
「聞きたくないの?」
パチリ。スレインが白い石をc2へ置く。
「君の話は面白味がない。界塚伊奈帆」
「君の話は抽象的でわかりにくい。スレイン・トロイヤード」
パチリ。d7黒。
「虹が出るのは、雨の後だ」
「うん」
「雨がなければ虹もない」
パチ。e3白。
次の手を打つ前に、伊奈帆は視線をスレインへ送る。
「雨が嫌い?」
スレインは盤上に俯き加減の顔を向け、緩慢な瞬きを三度。やがてゆるゆる首を振る。
「わからない。……不思議だな」
ネックレスの鎖が揺れ、金属面に光の粒子が発生した。伊奈帆はボードに石を静かに置く。発生のための呼吸が聞こえた。伊奈帆はそっと腕を戻し、悟られぬよう背中を伸ばした。
「姫様に、雨の話をした。雨に濡れた鳥の話。雨の中で咲く花。耳障りのいい綺麗な話を。でも」
右手の指で白黒の石を玩ぶ彼の顔を伊奈帆は見る。スレインの眼差しは正面を向いているが、フォーカスが曖昧だ。
「どうしてだろうな。虹の話はしなかった」
双眸の碧眼が、冬の森の湖面のように透けている。
伊奈帆は自身の前に並ぶ手持ちの石をぴったり揃え、白黒模様の円筒形を両側から指で押さえる。
「何の花が好き?」
「……へ?」
ワンテンポ遅れた間の抜けた声。スレインは怪訝な顔で伊奈帆を見た。
「園芸に興味は?」
「何の話だ?」
「花を育てたことはある?」
スレインは、右手の石をようやく置いた。h5に白。
「……揚陸城で、アセイラム姫のために花園を造って差し上げた」
パチリ。g3黒。
「水やりしてた?」
「スプリンクラーだ」
パチ。e1白。
「子どもの頃は?」
「まあ、何度かは」
パチ。c2が黒に変わる。
「僕は、水やり当番好きだった」
パチ。f7が白に裏返る。
「水やり当番?」
「子どもの頃、ユキ姉と児童施設にいてさ。花壇の世話を当番制でやってたんだ」
「……そうか」
h4白。
「水やり、僕は土曜日の担当」
「ふうん」
a5黒。
「壁沿いにプランターが並んでて。ジョウロもあるけど、僕はホースを使ってた」
「そんなにたくさん花があるのか?」
f2白。
「ジョウロに水を入れ直すと、二回分くらいかな」
「へえ」
c7黒。
「ホースの口を、指でギュッと握るんだ」
「ああ、なるほど」
パチ。g5が白にくるりと変わる。
「虹を作る遊び。花壇の端からゆっくり歩いて、時々空に向けて服が濡れて」
パチリ。b3が黒に裏返る。
「自分で雨を降らせているなら、世話はないな」
「すぐ乾くし」
「晴れていればな」
「雨が降ったら水やりしないよ」
「はいはい」
パチ。白をh8へ配置。
「ねえ。あのさ」
伊奈帆は、次の石を持ったまま、机の上で指を組む。
「明日、プランターとホースを差し入れるよ。花の種も」
「は?」
「毎日一時間、中庭でぼうっとしてても暇でしょ。水やり当番、やってみたら」
伊奈帆は石を手の中で転がす。
「ミズヤリトウバンか」
スレインは口の端をぐい、と曲げて、傾げた顔で小さく頷く。伊奈帆は手に持つ石を指で挟み、緑の盤へ腕を伸ばす。
「それで、何の花にする?」
「……それじゃあ、コスモス」
「わかった」
パチ。a1黒。隣の白がくるくるり、と裏返る。
「君もやれよ」
「当番だからね。交代で」
今度は黒がひっくり返る。不規則に並ぶ白と黒の間。室内灯に照らされたフェルトの緑が束の間見えて、また消える。



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