面会室の伊奈帆とスレインー「初恋」「恋の芽生え」ー
- μ
- 5月19日
- 読了時間: 3分
「花なんか、持ってこられてもな」
面会室のテーブル中央。チェスボードを脇に押しのけ鎮座するバケツを眺め、スレインは肩を竦めた。脱力気味に椅子へ腰掛け、右手をくるりと翻す。
「僕たち、どういう関係なんだ?」
対面に座る界塚伊奈帆が、入室後初めて口を開く。彼の顔は、バケツと花に遮られてよく見えない。スレインは身体の向きを少し変えた。
「剪定でもらったんだ。家に飾るには多すぎるし」
花盛りにはよくある話だ、とスレインは軽く頷く。花の香りと茎を切った青い匂いが密室に充満していく。頬杖の頬にあたる指先はじめついた感じだ。
「お姉さんや、韻子さんに差し上げたらどうだ?」
伊奈帆は瞬間ぐ、と口を結びすぐに開く。
「姉貴は僕より貰ってる。韻子んとこには、昨日持って行ったよ。店に飾るって」
「そうか」
バケツに目を遣る。そこしか視線のやり場がない。どん、とじゃん、と存在感を放つ、溢れんばかりの大量の切り花。無数の花びら一つ一つは、天井灯を能天気に照り返している。
「花瓶くらい、なんとかならなかったのか?」
「まさかないとは思わなかった」
バケツの種類も、なんだかなあ。せめてブリキのバケツなら、若干の見栄え、戦地における敗者への他向け、というストーリーが立ち上がるだろう。プラスチックの青バケツはあまりに庶民的かつ事務的だ。気が利かないことこの上ない。こういうところなんだよなぁ。
「君に聞きたいこともあったし」
「……へ?僕に?」
つらつらと伊奈帆の"こういうところ"について考えていたので、彼に発声にワンテンポ遅れての応酬となった。また皮肉があるか?とスレインは身構えるが、伊奈帆は意に介さず、ぱちりと瞬きをして言った。
「この花、なんていうの?」
………………。
花の名前を聞いているのか?
「ふっ……、ははっ」
「あのさ、何かおかしい?」
思わず吹き出すスレインに、伊奈帆の声が素早くかかる。若干拗ねたような声音に聞こえるのは、なんだろう。年下だって知ってるからか。
スレインは笑い涙の滲んだ眦を親指で擦った。油断すると笑いがぶり返しそうで、とりあえず呼吸を整える。面白いな、こいつ。
「いや。なんでも知ってるかと。君にもまだ、知らないことがあるんだな。界塚伊奈帆」
「花には疎いんだ。色と形と季節くらいは認識できるけど、名前はね」
「へえ。君が知っている花の名前は?」
伊奈帆は自身の顎に指先を当て、斜め上に視線を送った。彼の頬を、近景の花がピントをずらして遮っている。スレインは椅子の位置をまた少しずらした。
「タンホボ、ヒマワリ、桜、薔薇、百合……。パンジー。……そのくらいかな」
「へえ。なるほど」
スレインは頷く。二度。三度。伊奈帆は怪訝な顔で、右手でバケツの側面を押した。
「それで、これは?スレイン・トロイヤード」
スレインは天井を三秒ほど見上げ、テーブルの上で両手を重ねた。
「リラ」
「リラ?」
うん、と小さく頷く。伊奈帆の方の椅子の脚がガタガタ鳴った。バケツを避けて、机の端で顔を合わせる。
「英名はライラック。学名はSyringa vulgaris」
「ライラックなら、どこかで聞いたことがあるよ」
沈黙。スレインの持ち上がった口の端がピクピク震える。伊奈帆は身を乗り出した。
「で?」
「ぷっ……、あははっ。花言葉か?『友情』だ」
伊奈帆は大きく身を引いた。天を仰ぐ、という形容がぴったりの所作で背骨が反る。
「うわ……」
「その反応が返ってなによりだ」
くすくすと笑い続けるスレインを見て、伊奈帆はバケツを両手で持ち上げ再度中央に設置する。
「他意はない。ただのお裾分けだから」
引き笑いしつつ、スレインはバケツの一茎をスッと引き出す。瑞々しくからっと明るいライラックの一房。
「あったら困る。この色だからギョッとした」
「色?紫色のライラックって、何か違うの」
「僕は君のなんだ?花言葉専用の検索辞書じゃないぞ」
後は自分で調べるんだな、とスレインは手のひらを左右に振り、花弁の色を改めて見てまた笑う。伊奈帆も一房、バケツの中から引き抜いた。
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