面会室の伊奈帆とスレインードーナツ・ホールー
- μ
- 6月3日
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「何?」
界塚伊奈帆は、スティックシュガーを中心でぱきりと折った手元もそのままに聞いた。
「いや、……それ、飲めるのか?」
面会室のテーブル対面。スレイン・トロイヤードは湯気の浮かぶマグカップを持ち上げたまま、"だるまさんがころんだ"の真っ最中のような顔で呟く。
伊奈帆は、右手と左手の、形状記憶状態のシュガーの抜殻を脇に置く。
「どういうこと?」
「cup sugar」と印字された薄水色のストライプが、テーブル端に六つ並んだ光景にスレインの視線が固定され数秒経過。
「……甘すぎないのか?そんなに入れて」
砂糖の量のことらしい。
「別に、普通だよ」
「そんなコーヒー。胸焼けしないか?」
「苦いし」
「ドーナッツもあるんだぞ?」
「?? それ、何か関係ある?」
「甘いものに甘いものって……」
「だって、苦いし」
テーブル中央に、二人を横断する形で置かれた直方体の紙箱。全国展開のドーナツショップのポップなロゴが、側面に印字されている。
「で、どれにする?」
伊奈帆が箱を2センチほど押し出した。開いた箱の中には、種類の違うドーナツが六個。黒っぽいチョコレート系が二つ。ずっしり系が二つ。パンのような膨らんだものと、不思議な形のものがそれぞれ一つずつ。
「君から選べ」
「いや、差し入れだし」
選びかねてスレインが言うと、伊奈帆がズバッと即答した。差し入れか。確かに。
スレインは箱の中を覗き込み、端から端へ視線を三往復させた。
「……じゃあ、これ」
「僕はこれ」
スレインはシュガーのかかったタイヤ型の軽いもの、伊奈帆は八つの小さな球体が接続された形状のドーナッツを、それぞれ自分の手元のペーパーナプキンへ置く。
「コーヒーなんか、久しぶりだ」
湯気の香る陶器の端を口から離し、何年ぶりかな、とスレインは呟く。
「月では?」
伊奈帆はドーナッツの八つの球体を指で分離しつつ聞く。スレインはマグカップをテーブルに置き、自分の分のドーナッツに齧り付く。空気の層が多く、食感は軽い。カカオの苦味とシュガーのバランスは絶妙で、美味しいもんだな、と心の中で呟いた。
「嗜好品は来客用だ」
口の中が空になったタイミングで答える。
「じゃあ、前に飲んだのいつ?」
伊奈帆は、ちぎったボール状のドーナッツを一つ口に放り込む。変な食べ方だな、と思いつつ、スレインは天井を見上げた。
「12歳くらいか?まだ地球にいた時」
蛍光パネルが目に痛いが、その縁の黒ずみをぼんやり眺める。色んな天井と、その色と埃っぽい電灯なんかがスナップみたいに頭に浮かぶ。
「お砂糖入れてた?」
「どうだったかな……」
伊奈帆の声が、遠い場所、トンネルの向こうからみたいに感じられた。スレインは瞼を閉じる。蜘蛛の巣のように血管が見え、その向こうに朝のキッチンがぼんやり見えた。
「父さんは、砂糖もミルクも入れずに飲んでた。僕も真似していたかもしれない」
「そう」
瞼を開くと、伊奈帆が最後の一つを口に入れたところだった。リスみたいだな、とスレインは口の端を左右非対称に歪める。マグカップの取っ手に触れた。温かい。
「このカップは? いつも紙コップだろう?」
「来客用だよ」
「いいのか?」
「コーヒーだってそうだよ。備品のコーヒーメーカー」
軍の備品にも色々あるが伊奈帆がそれを言う時は、スレインに対する何らかの配慮を示していることが多い。
「向こうにも差し入れたから。ドーナッツ」
黙っていると、伊奈帆が次のドーナッツをつまみ上げつつぽつりと言った。スレインも、箱の中に手を伸ばす。イースト系の、白く膨らんだものを選んだ。
「たくさん持って来たんだな」
「ドーナッツって、そういうもんじゃない?」
伊奈帆は、定番商品のチョコがけドーナッツを半分にして、チョコの方に齧り付いた。咀嚼して、砂糖だらけのコーヒーを飲み彼は言う。
「友だちの家に遊びに行く時は、なんか持ってくもんじゃない?」
「そうなのか?」
「知らないけど」
「ふうん」
「何? 甘すぎた? それ」
「いや、美味しい。なるほどな」
スレインは、イーストの豊かな苦味を飲み込んでから肩をすくめた。
「君はここに遊びに来てたのか。界塚伊奈帆」
「そうだけど?」
マグカップの中は空だ。伊奈帆がすっと魔法瓶のボトルをこちらは向けて手で押した。スレインは水筒の注ぎ口を開いて傾け、伊奈帆に言う。
「砂糖取ってくれ」
「はい。入れるの?」
「一つだけ」
シュガーの端をぴり、と千切る。縦にして、ざーっと一気にマグへと入れた。
「苦いな、と僕も思った」
「でしょ」
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