面会室の伊奈帆とスレインーアルビノー
- μ

- 5月19日
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「アジサイの色は、土壌中のアルミニウムイオンの吸収量に影響されるんだ」
コン、と白のポーンが黒のマスに着地した。
「pH 5.5までなら青に、pH 6.0以上なら赤やピンク」
ペーハー、という発音とともに黒のポーンをその斜向かいへ。界塚伊奈帆は科学的知識の披露を淡々と続ける。
「紫色はその中間色。前は青色ばかりだったけど、最近増えてるね」
ポーン、ポーン、ポーン、ナイト、ルーク、クイーン……。白の駒の並びを目でぼんやりと追いかけて、スレインは口を開く。
「前って?」
「子どもの頃」
「ふうん」
面会室は雨の湿気った匂いがする。天井灯のパネルの右端がチカチカ明滅。交換時期がきているのか、外は落雷の嵐か。
伊奈帆が、自身の肩の濡れたタオルを手で掴む。短辺同士をまず重ね、折った部分をさらに重ねる。慣れた手つきで四つ折りにしたそれを、彼は机の端にポンと置いた。
「感想は?アジサイの花を始めたのは君でしょ」
「pHの話なんか聞いてない。君が勝手に喋っただけだ」
「でも、聞いてたよね」
想定通りの話の流れに、スレインは小さく鼻から息を吐く。もっと大仰なため息をついてやっても良かったがやめた。雨の匂いのせいだろう。
「哀れな花だな」
ぽつりと、そんな言葉が口から落ちた。上目遣いでちらりと目を遣る。伊奈帆は静かな視線でこちらを見ていた。
瞼を閉じる。薔薇、百合、桜、紅葉、藤、ハイビスカス……。かつて揚陸城に、地球から取り寄せた多くの種子を蒔き、苗を植えた。完全にコントロールされた空気と水でよく根付き、その庭園はユートピアめいて美しかった。
あそこに、紫陽花はなかった。僕はなぜ、楽園の花に選ばなかったか。
「種が落ち、生まれた場所に染まってしまうしまう」
そう。こいつが今話した、土の話を前から僕は知っていた。小さい頃の旅の途中で、父に聞いたことがある。どうして同じ花なのに、それぞれ色が違うのか、と。
「たとえ青になりたくても、土を選ぶことはできない。赤になろうと紫になろうと。そこで咲くだけだ」
父は、酸性土壌は青になる、と答えた。だから、赤やピンクは貴重だとも。
伊奈帆が、黒のポーンを一つ進めた。e4。指を引っ込め、彼はいつもの声でこう聞いた。
「白い紫陽花、知ってる?」
スレインはポーンを摘んだまま、脳裏に電子事典のパネルを広げた。青空を背景にした白の紫陽花が鮮やかに浮かぶ。
「アナベルか?」
「よく知ってるね」
「まあ、そのくらいは」
ーー学名:Hydrangea arborescens 'Annabelle'
父の留守で一人の時に、写真を何度もタップした。表示される、その花の名が無性に見たくて。
「紫陽花は、土のpH値で色が変わる。けれど、アナベルは違う。理屈を知ってる?」
顔を向けると、伊奈帆は顎を引いて片目をぱちりと瞬いた。スレインは片肘をつき、チェスメンを挟んだままの指で右手のひらを翻す。
「界塚伊奈帆。話したいんなら、もったいぶらずに素直に話せ」
「聞きたいんなら、知らない、って言ったら?スレイン・トロイヤード」
このやろう、と言いかける口をぐいと曲げる。スレインは肩を竦め、両手のひらを天井に向けた。無機質な白い光を白のポーンが照り返す。
「知らないから、素直に話してもらえますか?」
「オーケイ。アナベルは、アルビノだよ」
「アルビノ?」
「白いカラス、知らない?」
「ああ」
「メラニンの生合成に関わる遺伝情報の欠損により、先天的にメラニンが欠乏する遺伝子疾患の個体。動物学での話。これ」
伊奈帆の話を聞き流しつつ、白いカラスの神話が浮かび、アルビノだったのか、とスレイン は一人合点する。
「紫陽花の色を決めるのは、アントシアニンという色素だけれど」
「アントシアニン?」
「植物に含まれる水溶性のフラボノイドの一種。ぶどうとか、紫キャベツとか」
「へえ」
スレインは、ポーンを白のマスに置く。d5。
「白い紫陽花には、そもそもアントシアニンが含まれていないんだ」
アルビノ、という言葉で白化個体のカラス、ペンギン、マウス、コウモリが浮かび、スレインは躊躇いがちに口を開く。
「花の寿命は?」
アナベルを紫陽花と認識せずに、僕はきっと、多分、ずっと好きだった。それが白子症の短命種なのだとしたら、名前を求めてあのパネルを押した小さい頃のあの指は。
残酷だったかもしれない。そう思ったのだ。
「丈夫だよ」
伊奈帆は、けろりとした顔と声ですぐ答えた。
「暑さ寒さに強くて、剪定も容易。日当たりのいい場所を好む。育てやすいし、開花時間は他の紫陽花よりずっと長い」
コン、と黒のビショップがb4へ。スレインは腕を伸ばす。
「動物とは、随分違うな。白い個体は短命だ」
「色素がないから、紫外線には弱いかな。群れの中で目立つしね」
白のナイトをc3に。黒のナイトがf6へ。
「それで、何?」
「何が?」
「花言葉だよ。君は、そういうの詳しいでしょ?」
スレインは頬杖をつき、口の端を左右非対称にひん曲げた。
「知りたいんなら、言い方があるだろ?」
伊奈帆は肩を素早く上下した。肩を竦める所作が事務的すぎて思わず吹き出しそうになる。
「知らないからさ。教えてくれますか?僕に」
「Certainly、」
スレインはテーブルに置いた両肘を手のひらで包む。寒くはないが、肘のでっぱりのかさつきを擦る。
「寛容。寂しさ」
瞼を開いたまま、昔眺めたパネルを読む。
ーーイリノイ州田園地帯ーー発見された町の名前からーー1つ目の由来ーー
「清らかな心」
ーー古代ローマ時代ーー愛すべき女性を意味する言葉ーー"アマベル"からーー
焦点を正面へ。ぼやけた視界がクリアになる。スレインは小さく笑って小首を傾げた。
「感想は?界塚伊奈帆」
伊奈帆は数ミリ単位で口角を上げる。
「ぴったりだ」
「そうだな」



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