他愛ない話
- μ

- 5月19日
- 読了時間: 7分
A loveless story
薔薇の棘
薔薇にはどうして棘があるのですか?
その問いかけに僕は確か、身を守る為です、と答えた。美しい花が、身を守るためのささやかな武器であると。それを聞いた少女が、複雑そうに微笑んだのを思い出す。彼女はぽつりと呟いた。
それは、本当に役に立つのでしょうか、と。
僕は見透かされたことに気づき、目を伏せ彼女に微笑みかける。少女は視線を光に送った。稼働中を示して淡く発光するアイソレーションタンクへ。
御伽話の、ガラスケースの薔薇を思う。
棘など、何の役にも立ちはしない。そんな棘をお構い無しに、虫たちは薔薇を食い荒らす。摘み取りガラスで囲っても、一片一片花弁を落とし、やがて花は枯れていく。
意味はあるのか。棘に。ガラスに。
そんな話を、随分後になって僕は断片的に語った。
「薔薇の棘は、芽が伸び出した瞬間からついているんだ」
聞き終えての、界塚伊奈帆の第一声がそれだった。
面会室のチェスの合間の、他愛のない会話。花の話はどうしてだったか。確か、こいつが何か言ったはず。そう。サクラゼンセンとかいう聞きなれない言葉が始まりだった。
薔薇の話になったのは、火星に花はあるのかと彼が聞いたからだ。水と大気に乏しく、気温の変動が激しい火星では、植物が富と権力の証だから謁見の間に飾っている。しかし、花まで育てる余裕は無いのだ、と。そして僕は揚陸城に作った庭園を思い出した。
そこで、薔薇にはどうして棘があるのだろうか、と。僕は聞いてみた。そうしたら、界塚伊奈帆は逡巡の後、先の言葉を返したのだ。
盤面は休戦状態で、彼は棘の話を続ける。
「お花屋さんとか、危ないから棘を取ってしまうらしいけれど」
棘を抜かれ、店頭に並ぶ薔薇の花を想像する。
「棘を取ってしまうと、茎が折れやすくなるんだ」
根も葉も棘も失って、それでも買われなかった薔薇を思う。奪われ、捨てられ、枯れるだけ。
そういうことを、僕はしてきたんだ。
蛍光灯がチカチカする。瞼の裏の静脈が蜘蛛の巣みたいに赤くなる。
目を開くと、待っていたように界塚伊奈帆が口を開く。
「そういうデザインなんだよ。自身を支えるためのものなんだ」
同じ問いでも、こんなに違う答えがあるのか。
しばらく、何も言えなかった。呼吸まで意識される静けさが煩い。熱の引いたチェスボードに視線を落とす。今日はもう、これ以上進める気にはなれない。
手元に転がるポーンとルークを机に並べる。石の硬質な手触り。現実感が徐々に戻り、初期位置にある白のクイーンが目に留まる。戦略を考えてしまうのが嫌になって、両手の指を固く組む。
「……お前、薔薇の棘をどう思う?」
「僕?」
面食らったような、ほんの僅かに高い声。表情はあまり変わらない。思考を確認するように隻眼が斜め上を向いた。
うん、と彼は小さく頷く。
「綺麗だと思うけど」
「綺麗?」
意味がわからず問い返す。棘が、綺麗だって?
「マイナス40度では、薔薇の花弁は握ると粉々になるんだ。けれども、茎は残っている」
界塚はハンドジェスチャーを交えて話しはじめる。
「枯れる時もそうでしょ? 花弁が全て散った後も、茎はそのまま伸びている」
枯れるまで、薔薇の花を見たことはない。僕の顔で分かったのか、界塚は話す速度を調整した。少しゆっくり。間を取って。
「最後に残る姿が、茎であり棘なんだ。棘があるから折れたり曲がったりせずに、そのままの形で枯れていく」
想像してみる。花瓶や、植木。垣根の群生、深い森の茂みの薔薇を。瑞々しい花の盛りを過ぎてなお、鋭い棘と硬い茎を晒すのを。
「綺麗じゃない? それ」
そういう考え方もあるのか。
「花や香りは?」
納得はしたものの、腑に落ちないので聞いてみる。界塚はうーん、と小さく唸り自身の鼻先を指差した。
「僕、鼻がいいから。匂いは、ちょっと濃すぎるかな」
それに、と彼は肩を竦める。
「花は綺麗だけど、買ったりするのは照れくさいよ」
今度はこちらが驚く番だ。花を買うのが恥ずかしい? そんな感覚は知らなかった。
「そういうものかな」
何が可笑しいのか、界塚はくすりと声を漏らした。君にはわからないかもだけど、と独り言ちる。
「花を贈るなんて、ハードル高い。桜は、見に行けばいいでしょ? 気楽だよ」
と言って彼は、サクラゼンセンの話を再開させる。
君のデザイン
旋盤が好きだ。
第二次惑星間戦前の高校では、兵科教練の一環として、機械加工の実習があった。僕の通った芦原高校でも当然それはあって、僕はその授業が割と好きだった。操縦訓練が一番好みだったけれど、オイルの匂いと切削加工音の中、無言で作業している時は、整備士も悪くない、と思ったものだ。その時はまだ、再び戦争が起こり、学生が徴集され、その当事者となることを実感してはいなかったけれど。実感はしていなくても、可能性を知らなかったわけではない。予期はしていた。だから、僕は戦えた。生き残ることができたのは、幸運だったのだろう。
そう。旋盤が好きだった。
高回転するワーク。その表層が、バイトによって徐々に削られていく。その過程を見るのが好きだ。ほんの一瞬の力加減で、取り返しがつかなくなるその作業が。そうしてできた切削物の曲線にやすりをかけ、そして触れる。
ああ、綺麗だな、と思う。僕が美しいと感じるものの価値の重心は多分そこだ。
削がれ、削がれ。摩擦して、残ったラインの張り詰めた美しさ。究極だと感じる。人間のデザインとして。
だから驚く。感嘆する。全てを手放し、そして奪われる。自分をどんどん切り離し、擦り減らす。現在そして未来すら。そういう生き方をする人間がいることに。
病的で静止的な姿の中で、瞳の色がひどく際立つ。その目の見てきたものの中で、一つだけを手放すことなく閉じ込めている。
幸せに生きてほしい。自分がいない世界で、と。
そんな願いが持てるだろうか。僕は。
碧の双眸に映り込む僕の姿は一体どんな形だろうか。
「……何、見てる?」
声にふっと我に返る。ここは、高校の実習室ではない。僕は作業服ではなく、現在の階級が袖にあしらわれた軍服を着ている。
目の前に旋盤はない。二人で座るには大きすぎるテーブルと、その中央にはピースの欠けたチェスボード。そして向かいに、切削物という形容が相応しい青年がいる。痩せぎすの身体に、削げた頬は隈が濃い。眉間の皺。睨むような上目遣い。その彼の、居心地の悪そうな表情にはっとする。何見てる、と言われて初めて、ぼうっと彼の細部を眺めていたことに気が付いた。
ギザギザになった短い爪。
ささくれのできた指の先。
影の濃い細い手首。
硬そうに出っ張る肘。
鎖骨周りの骨格と、無数の引き攣れの残る皮膚。
強く握れば折れるに違いない首筋。
目立つ頬骨。
青褪めた頬の隈。
削ぎ落とされて残ったもの。傷痕を含むその形。生きる、ということを排除されたと見える身体。
「君のデザイン」
スレインが右の眉を上げた。怪訝な顔で伊奈帆を眺めて、やがて小さく息を吐く。
「また、訳のわからないことを」
お互いに、会話の材料と組み立て方が違うのだ。それを踏まえても、先ほどの返答はあまりに言葉が足りなさすぎたと思い至る。
「説明しようか?」
「やめておく」
間髪入れずのノー。スレインはコン、と指先でテーブルを叩いた。
「お前の話は長いから」
お互い様だ、と言いそうになるがやめておく。それが自身の悪癖だという自覚はあるのだ。
「そう? じゃあ手短にするから、どのくらいなら聞いてくれる?」
スレインは片目を細め、口を歪ませ斜め上に視線を送った。髪の隙間に額の青い静脈が見える。
「一言」
「一言?」
ククッ、と彼の喉が鳴る。喉仏が上下して、右手のひらが顔の横で翻る。蛍光灯が作る影が肌の色を白くする。
首がこくんと横に傾き、口の横に窪みが生じ、影が落ちる。
「ワンフレーズ。それ以上は駄目だ」
ふっ、と笑った顔が消え入りそうに見えたので、伊奈帆は浮かんだ言葉を忘れてしまった。



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