面会室の伊奈帆とスレインー幸福な王子ー
- μ

- 5月19日
- 読了時間: 3分
「瞳のサファイアをくり抜いて、貧しい男と子どもに与える」
黒のポーンが二つ前進。伊奈帆は指先を顎にしばし逡巡。
「なんだっけ。題名」
「オスカー・ワイルド。幸福な王子」
鳥の童話の話を振ったら、スレインが前置きもなく先の言葉を提示した。その強い言葉に多少面食らいつつ、伊奈帆は白のポーンを黒ナイトの斜向かいへ進めた。
「幸福の定義について話したい?」
「いや。そうじゃない」
コン。黒のポーン。
「ツバメがいるだろう?」
「いるね」
「嘴で王子の体を損壊し、抉り出した虹彩と剥ぎ取った皮膚を人々に届けた夏の鳥」
コツン。白のルーク。
「今日はどうしたの?荒んでるね」
「こういう話し方は気に入らないか?」
「そうでもないけど」
「へえ。変わってる」
黒のビショップが、白のルークの斜向かいへ。白のルークが一つ後退。
「南の国に行くことをやめ、雪の日に死んだ」
僕はいつも考える、と彼は呟く。
「ツバメはその死を、いつ決断したんだろうかと」
黒のビショップに、次に伊奈帆に視線を向けて、スレインは口を開く。
「君は、どう思う?界塚伊奈帆」
伊奈帆は顎に手を当て、視線を盤上へ固定する。孤立した黒のビショップ。どれだけ遠くに進むことができるとしても、黒のマスしか進めない。
「決断とか、していないんじゃないかな」
白のナイトを白のマスへ。
「夢中になって、気がついたら冬だった。ツバメはそもそも、死ぬつもりなんかなかった」
スレインはゆっくりと二度瞬きをした。伸びた前髪から双眸が覗く。
「それは、なぜ?」
コツン。黒のナイトが白のナイトの正面に。
「これは、僕の想像だけど」
王子の目をくり抜いたツバメ。童話とはいえ、頼まれたからとどうしてそれができるのか。
伊奈帆は机の上で指を組む。自分の親指の爪を見ながら言葉を探す。ツバメの行為。その動機。
うん。多分こう。
「幸せそうな王子を見ていたかった。誰かのために涙を流すのは嫌だった。笑ってほしい。それだけじゃない?」
詳しく読んだことはないが、王子自身がツバメに言ったのかもしれない。見えるから、悲しむ。見えなければ、悲しまないと。だから取った。いや、取るよう懇願した。悲しい世界を映す瞳を。
それだけなのではないか。肩に止まったツバメは見ていられなかっただけなのだ。澄んだ青い瞳から人知れず涙を流す、孤独な王子の横顔を。
少しの間、何も言わない時間が流れた。ノイズのような電子音と、とても遠い足音。この距離で、呼吸どころか瞬きの音まで聞こえそうな静寂だ。
「……寒さを忘れた夏の鳥か」
スレインは、複雑そうな表情でボードに手を伸ばす。
「付き合いがいいな」
黒のナイトが白のナイトを飛び越える。
「そうだね」
白のナイトは、黒のビショップの隣へ。
「僕は、こう思うんだ」
例えるならばエメラルドの碧眼が見つめる先は黒のビショップと。
「ツバメを引き留めたいがために、王子はその目を失ったのかもしれない、と」
ああ、反転する。彼との会話がスリリングなのはこういうところだ。
「そういう見方もあるかもね」
痛快とも言える心地で、伊奈帆の口の端が僅かに上がる。
「ああ」
白のポーンが黒のナイトを討ち取り。
黒のポーンが白のナイトを討ち取った。
「続ける?」
「いや。終わりでいい」
雑然とした盤上の一角に美しい童話のラストを残し、終局を迎えた。
界塚伊奈帆、と呼ぶ声に目を送る。
「僕はさっき、君の話がいいなと思った」
スレインが笑った。伊奈帆があまり見たことのない、はにかむような顔で言う。
「今に夢中だっただけかもしれない。お互いに」
生まれて初めて見る雪を、ツバメは王子に語ったろうか。
ぽつりと呟かれた言葉が独白めいて鼓膜に届く。反応に困り、伊奈帆はチェスピースをかき集め、正確無比に並べる作業に没頭した。



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