面会室の伊奈帆とスレインー冬の思い出ー
- μ

- 5月19日
- 読了時間: 4分
「父と、鳥を見に行ったことがある」
駒を動かすために出した手を止め、伊奈帆はスレインに聞き返す。
「いつ?」
「子どもの頃。八歳くらいだったかな」
スレインの視線は盤上に向けられているけれど、そこを見てはいない感じだ。
伊奈帆の脳裏に、幼い頃の記憶が浮かぶ。姉と二人、冬の海へ鳥を見に。あの時鳥は見られなかった。その代わり、穴ぼこだらけの石を見つけ、そして拾った。どこかで落としてしまったけれど。
そうか。海を見に行ったんだ、この人も。
伊奈帆も盤上に視線を落とす。まだ今日は、チェスメンは誰も欠けてはいない。
「冬のロシア。借りた車で、半日走って」
「寒そうだ」
「君には無理かもな」
スレインがくくっと笑い、伊奈帆は肩を竦める。収監着の袖から伸びた肉の薄い腕。肘が鋭角に曲がり手の甲に顎が乗る。
「お弁当とコーヒーを持って」
「お弁当って、お父さんが作ったの?」
「いや、僕。僕も上手じゃないけど、ずっとまし。父は料理というか……、暮らしに淡白だったから」
「そう。どんなお弁当?」
「適当に、バケットにチーズやハムを挟んだだけ。コーヒーは父が用意してたな」
二人きりで鳥を見に行く。そういう家族が、あの頃どのくらいいたのだろうか、とふと思う。
スレインの瞼がゆっくりと開閉され、目元が細く柔くなる。
「双眼鏡をくれたんだ。誕生日に」
マフラー。手袋。毛糸の帽子、手提げかばんにエプロン。自分がこれまでに貰ってきた誕生日プレゼントを思い返し、伊奈帆の口元が綻ぶ。
「いいね。そういう贈り物」
「うん。嬉しかった」
くすぐったそうにスレインは歯を見せた。
「それで、せっかくだからと鳥を見にいくことにした。父親ぶりたかったんだろう」
その口ぶりが、いつもの彼と少し違う。
「見られた?」
珍しく拗ねたような物言いになった理由がよく分かり、伊奈帆の声が優しくなった。スレインは素直に頷く。
「ああ。沢山いた。灰色の海と空に、カッターナイフで切り抜かれたような白い鳥」
ストライプのビニールシートの上で見た冬の曇天が伊奈帆の瞼の裏にある。
「双眼鏡で見ると、羽の先が黒くて、嘴と脚は黄色かった」
そこに、あの時見たかった鳥が描き足された気がした。
こんなことがあるのか、すごい。そう思いつつ伊奈帆は聞く。
「感動した?」
スレインは眉尻を下げ、困った表情になった。
「どうかな……。父が、鳥の名前や生態を隣で教えてくれてたけど」
あまり覚えていない、とスレインは苦笑する。そして、顎を引いた上目遣いで呟きをぽつりぽつりとこちらに送る。
「界塚伊奈帆。君の話し方は、よく似てる」
「そうなの?」
「現実主義の理屈屋で、話し方に面白味がない」
海猫は猫じゃなくて鳥、とか。そんなの知ってるって話だ。両手を顔の横で上向きに広げた。いつもなら、ちょっとした口喧嘩に発展するジェスチャーだが、それより好奇心が勝った。
伊奈帆は両手の指を組む。ほんの少し身を乗り出して口を開く。
「それなら、君は海猫をどう説明する?」
「僕?」
スレインはぱちりとはっきり瞬きをして、数秒逡巡した。その瞳の揺れる焦点と温度をじっと見てしまう。
やがて彼は、居住まいを正し深く息を吸い込んだ。完璧な弧を描き唇が開く。
「花言葉があるように、鳥言葉というのがあるのを知っていますか?」
発声がいつもと違う。低く、柔く、甘いくらいの優しい声。
「海猫は、冬に南へ旅をします。ロシアから日本など、海を越えることもある」
目が語る。手が描く。冬の海。風の音だけが聞こえるような灰色の空の何十の羽ばたき。陽の光が薄い空に、白だけが鮮やか。
彼の視線が彼の描く空へと向いた。
「遠く離れた人々が、季節を越えて同じ鳥を見ることになる」
そして微笑む。一度目を閉じ、顔を真っ直ぐ伊奈帆に向けて彼は語る。
「海猫の鳥言葉は共存共栄。人々の架け橋となるために、彼らは飛ぶのかもしれません」
あの時に落とした石。あれを見たら、彼はどんな話をしてくれるだろう。そう伊奈帆は思った。



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