面会室の伊奈帆とスレインーレンアイソウダンー
- μ
- 5月19日
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コツン。黒のナイトが白のルークを討ち取った。
「今日は上の空だな」
スレインは聞いた。いつもの面会室。いつもの対戦。何の含みもない単なる頭脳ゲームとしてのチェス。
「何かあったのか」
「……え?」
普段なら互角の勝負が楽しめるのに、今日の界塚伊奈帆はてんで手応えがない。表情こそ普段通りだが、反応もワンテンポ遅い。
「……あったというか、これからあるんだ」
「これから?」
伊奈帆は肘をつき、口元で指を組む。深刻そうな表情に見える。彼は少しの間の後、口を開いた。
「スレイン。君さ。プロポーズって、どうやった?」
スレインは目を瞬く。
「結婚するのか?」
「まだ先だけど」
「韻子さん?」
「うん」
しん、と沈黙。伊奈帆は自身の組んだ指を見て言う。
「結婚するなら、指輪がいるかな」
スタンダードな贈り物だ。悪くはないが、とスレインは顎に手を当てる。
「アクセサリーは好みがあるかもしれないから、一緒に買いに行ったらどうだ?」
「それって、成功した後のことだよね?プロポーズに手ぶらはまずいでしょ?」
ふと心配になり、スレインはテーブルに肘をつき身を乗り出してこう聞いた。
「なあ、界塚伊奈帆。ちなみに、どこで、いつ、どうやって言うか決めてるのか?」
「あみふみ食堂で……」
やっぱり。さらに前傾姿勢を取って聞く。
「……まさかと思うが、仕事帰りに食事に寄って、テーブル席でそのまま言ったりしないよな?」
「だめかな」
「……そういう男だった。君は」
ふうううう、と、こんなに大きなため息ついたこともないと思いつつスレインは顔の横で右手を翻す。
「いいか?女性にとって、プロポーズっていうのは憧れなんだ。君がどれだけ無神経の朴念仁で女心がカケラもわからないとしても、それ相応の時と場所を用意しないと男じゃない」
「君、失礼だって言われるだろう。スレイン・トロイヤード」
「君にだけだ。界塚伊奈帆」
伊奈帆はチェス盤を机の端に寄せた。今日はここまでだな、とスレインも獲得したチェスピースを傍に退ける。
「君は何を贈ったの?参考までに」
「僕?」
スレインの脳裏に月面での日々が過ぎる。結婚の約束をした時に窓から見た地球は、雲の形までが鮮明だ。
「決闘の勝利と、揚陸城と財産と……」
「……あまり参考にならないな」
「まあ。当時は伯爵だったから」
決闘に勝利したら結婚してくれますか、と跪いた時。彼女は複雑そうに目を逸らした。僕の迷いを知ったのだろう。迷いを断ち切り迎えた日々は幸せだったと思う。
「あ。あと、鳥」
「鳥?」
不思議そうに問う伊奈帆に向けて、スレインは頷く。
「月にはいない、生きた鳥をお見せしたかったんだが」
「ああ。なるほど」
そこでスレインは苦笑した。いい思いつきだと思ったのだが、と前置きして言う。
「切ない気持ちにさせてしまった。それに、その後バタバタして、結局あげられなかったな」
無言の時間が流れる。若干気まずい空気中、伊奈帆が呟いた。
「鳥か……」
「鳥はともかく」
スレインは気持ちを切り替えるように声を強め、ハンドジェスチャーを交えレクチャーを始める。
「一生に一度のことなんだ。ドレスアップして、夜景や星空が見えるロマンチックな場所で。ああ、贈り物はやっぱり指輪でいい。サイズと好みを聞いたら、お互い心の準備がができるだろう?幼馴染なら、サプライズよりそういう地道な準備が楽しいんじゃないか」
ぱちぱちと隻眼がまばたきを繰り返す。情報整理の時間差の後、うん、と伊奈帆は頷いた。
「アドバイスは参考になった。そうする」
そろそろ行くよ、と立ち上がりかけた伊奈帆が動きを止めた。テーブルに手をついたまま、彼は言う。
「今度、練習させてくれない?」
「何の?」
「プロポーズ」
は?とスレインが聞き返す。
「僕が?どうして?」
「変なところがあったら、直してほしい」
スレインは苦笑する。こういうところは案外素直だ、と思って。
「……確かに、直すところしかなさそうだな」
「いや、そこまでじゃないと思うけど」
はいはい、とスレインは手を振る。伊奈帆はどことなく納得いかない表情で扉の前に歩き出す。
「わかったわかった。ちゃんと考えてこいよ」
「うん」
ピー、とドアロックの電子音が鳴り響き、スレインもまた立ち上がる。
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