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面会室の伊奈帆とスレインーTwo menー

  • 執筆者の写真: μ
    μ
  • 5月19日
  • 読了時間: 3分

「いや、違う」

 面会室の椅子に座りながらの返答。着席する界塚伊奈帆を半目で見つつ、スレインは左右非対称に口を曲げた。

「……」

「……」

「ずぶ濡れだ。雨じゃない。何があっ」

「だったら、どうしてそんなに濡れている?」

 言葉尻を待たずに発声。伊奈帆は気にした風もなく、びっしょり濡れた前髪を指で摘んだ。雫が落ちるほどではないが、束になった髪の幾筋かは重そうに肌に張り付いている。

「暑いからね」

「まさか自分で?」

「違う。ほら、地面から吹き出す噴水だよ」

「ああ。広場とかによくある」

「うっかり巻き込まれた」

 スレインは、見える部分の彼の衣服がムラなく濡れている理由がわかり鼻息を漏らす。

「界塚伊奈帆」

「何?」

「どこから来たんだ?今日」

 伊奈帆は隻眼をぱちりと瞬く。両手の小指側が机に着地。

「アルドノア一号炉前の式典公園」

 無言。一秒。二秒。三秒。雨とは違う水の匂いと、太陽ではない電極反応としての天井灯の白い光。その中に静かな呼吸が沈澱していく。

「スレイン・トロイヤード」

 伊奈帆が名を呼ぶ。スレインは、瞳の焦点を彼の左眼へと結ぶ。澄んだ虹彩の赤が語る。

「何があったかくらい、聞けるだろう?」

「……。今日、何があったんだ?」

 伊奈帆は自身の両手の指を組む。短い爪が縦に二つの列になる。

「一号炉完成一周年の記念式典があった」

「……それで?」

「抵抗する火星軌道騎士も和解が進んで、アフリカに七基目のアルドノア炉の建設が進んでいる」

「……で?」

「そのこともあって、アセイラム女王が来訪し、講演した」

「………………そうか」

「民間警備の一員として、僕はその公園に配置されていたんだけど」

 噴水について知らなくて、ずぶ濡れになった。伊奈帆の淡々とした声をセキュリティシステムのノイズ混じりに聞き終え、スレインはテーブルの中央に視線を落とす。前回の戦局の後が残るチェスボード。机には討ち取られたチェスメンたちが粛々と列をなしている。盤上の最終局面に生き残ったチェスピースを一つ一つぼんやり眺め、スレインは少ししてから口を開いた。

「そのまま来たのか?着替えもせずに?」

「ヘリの発着時間に間がなくて」

「ヘリコプターも水浸しだな」

「そこまでじゃないけど、ま、床はね」

 しん、と無音。スレインは静かに唇を開く。

「界塚伊奈帆」

「何?」

「何があったか、僕に言いに来たんだろう?君は」

 伊奈帆がぐ、と口を結んだ。スレインは片眉を上げる。些細な表情筋の変化だが、彼にしてはここまでわかりやすい表情も珍しい。

 セラムさん、と息を継ぎ。彼は言った。

「赤ちゃんできたって。しばらく地球で過ごすらしい」

 ふうん。……うん。しばしの後に、スレインは机の上に整然と並んだピースの一つを手に取った。白のビショップ。手の中でころころ転がす。

「地球の、どのへんだ?」

「そこまでは知らない」

 伊奈帆はボードの両端に指を添えた。

「でも、多分海の近くかな」

 机の天板と完全に並行になるよう縦横の角度を精密に調整する。

「リゾートじゃない?椰子の木とか、海鳥とか。そんなところ。」

 完璧に整ったボードの位置に目をやり、スレインは弄んでいた白い駒を元に戻す。

「君の番だよ」

「知ってる」

 スレインは黒の駒へと手を伸ばす。途中で手を止め顔を向ける。

「ところでお前、着替えないのか?」

「着替えはないし、寒くないからまあいいよ」

「ふうん。風邪をひくなよ」

 黒のポーンが二つ進む。e3。

「次は君だ」

「知ってるよ」

 白のポーンはd7へ。

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