ラ・カンパネラⅢ
- μ
- 6月19日
- 読了時間: 9分
Ⅲ 花摘む人
沖の方に、海鳥の白い影が見える。
快晴の昼下がり。伊奈帆は、鐘楼の開口部に両肘をつき、海の向こうを眺めていた。
気がつくと、海の見える場所にいる。誰もいない海の上は、たった一人では牢獄めいて陸が恋しくて堪らない。でもいざ大地を踏み、二日も土や草花の香りを吸い込むと、今度は船の揺らぎや潮風の濃さ、波間に見える銀の鰭が懐かしくなる。そんな暮らしに隷属するのが海賊だ。
囀る鳥の声も、海とは違う。視線を中庭に向けると、花の間を行く濃紺のローブ姿が見えた。スレインだ。彼は紫の花が群生しているところで歩みを止め、裾を払って座り込む。眩しいくらいに白い手が、修道服の袖を揺らして花を手折る。
花を摘む彼の姿が、昨日も一昨日もここから見えた。邪魔しちゃいけないような気がして、その間、伊奈帆は高い場所で海を眺める。岬の修道院は、切り立った崖の上にあるものだから、視線を上げると水平線が迫る様に高い。
伊奈帆は無意識に左眼を押さえていた。スケルトンに眼球はない。眼帯の下にあるのは、まだ生きている時に埋め込んだカーネリアンの義眼だ。
この眼が僕から死を奪い、長い長い時が過ぎた。そうしていつしか、僕は人の心を失った。
背後にある、今は静かな鐘を見る。緑青が吹く、素朴な意匠のカリヨンベル。
この鐘の音に導かれ、僕は来たんだ。この場所へ。水平線の彼方から。
そうして伊奈帆は想起する。ずっと前。死の海域、恐ろしい岸壁での、幽霊船の誕生を。
灰色の海。黒ずんだ岩壁。波のうねりは神話の幻獣リヴァイアサンが暴れ狂っているかのよう。吹き荒ぶ風と氷のような雨と寒さ。航路を遮るものが何もない中、一隻の帆船は海そのものに翻弄される。
船員の限界はとうに超えている。生き残ったのは、出航時の五分の一の人数だ。マストが軋み、ロープが凍る。
死出の旅に等しい航海。その最中、封鎖された運河を見つけた。せめてしばらくの間雨風を凌げれば、と僕らはそこへ近づいた。刹那。
轟く雷鳴。
燃える波。
灼熱の海。
氷と水と、木とそして肉が焼ける臭い。
全身が酷く熱く、また、酷く冷たかった。甲板にへばり付き、骨まで燃える炎の中で、ああ、僕は死ぬんだな、と他人事のように思った。
『愚かな』
あの時、どうして声が聞こえたのか。後になって思えば、おそらく左眼のせいだ。義眼の魔石は役目を果たしたということだろう。他の人間は、雷に打たれて影も残さず消えてしまった。僕だけが、天罰に従わなかった。
それがきっと許せなかったのだ。〝カミサマ〟は。
『お前は、もう年を取ることも、死ぬこともできない。亡霊として永久に海を彷徨うがいい。欲を持っても満たされぬ。いずれ心を失うだろう』
気がつくと、炎の色が変わっていた。緑色で、熱くも冷たくもない。これは魔力を宿す火だ。目が見え、そして声が耳に聞こえる。見えた自分の右手に皮膚も肉もなく、手首の骨の関節が見えた。
『哀れな人間よ』
炎が骨に粘性を持って張り付いて、肉と皮膚へ変化する。おぞましい光景を凝視する僕に、そいつは言った。
『贄はお前の花嫁だ』
七年に一度、七日間だけ上陸し、花嫁となるものを見つければ、呪いは解ける。
『愛するものを残し、海に身を投げよ』
残された花嫁の絶望こそが、天命に逆らった報いだ、と。
夕刻。伊奈帆は中庭を訪れた。考え事をしているうちに、スレインの姿が見えなくなっていたからだ。一通りいそうな場所を見て回り、結局彼が最初にいた場所に戻ってきた。
七竈の木陰に、仰向けになっている彼を見つけた。伊奈帆は足音を抑えてそっと近づく。近くにしゃがむ。目を閉じた顔に表情はなく、白い頬は陶器のように生気がない。
「スレイン?」
声を掛けるが、反応はない。どうやら眠っているようだ。
シスターヴェールの端からこぼれた髪が一房、額に張り付いていた。伊奈帆は指で髪を寄せる。指の背で撫でる額はやはり冷たい。掬うように頬に指を滑らせる。
花を育て花を摘む、聖者になりたいヴァンパイア。スレインが花嫁になる見込みはゼロ。今日が上陸三日目だから、一緒に過ごせるのはあと四日。呪いは続行。その後七年間は、また一人で海の上。それは全て、最初の夜にわかっていたことだ。
——でも。
「……ふふ」
忍び笑いが聞こえて、伊奈帆は慌てて手を引っ込める。薄目を開けたスレインと目が合った。
「なんだ、起きてたの」
低い声が出てしまったが、スレインは意に介さず体を横たえたまま頷いた。
「ええ。うとうとすることはあるけれど、本当に眠ることはないんです」
そしてまたくすりと笑う。伊奈帆はきまり悪くて視線を外す。そして、彼の手元に紫色の花冠があることに気付く。リンドウの花を編み上げた花輪は、美しいがもの悲しい。
「それは?」
夜半過ぎに彼がそれを海へ流しているのを知っている。その理由を、まだ聞いたことはなかった。
スレインは瞼を閉じた。口元は穏やかな笑みを形作っているが、眉の形は寂し気だ。
「弔いの花」
その言葉に、無い心臓がどきりと軋む。伊奈帆の脳裏に素足と白いドレスがチカチカ瞬く。
「それは、誰の?」
スレインの、遠くを見るような目に空が映る。
「僕、前は人だったんです」
伊奈帆は空を映した瞳を覗き込む。
「ここからずっと遠くの寒い国で生まれて、お父さんと二人で旅をしていた」
その場所は、深い森のある雪国だろうか、と想像する。
「十四歳の時、父が死んだ」
「そうなんだ」
伊奈帆自身は、父親の記憶はない。物心つく前に父も母も死んで、六歳違いの姉が唯一の肉親だった。その姉も、もういない。
「その街には、貴族のお屋敷があったんです。僕の父は客人でした。父の死後、僕は使用人として、そのお屋敷でお世話になっていました」
スレインの左頬に笑窪が浮かぶ。あどけない微笑みだ。
「お嬢様がいらっしゃった。心優しい方で、分け隔てなく僕に接してくれて……。見つかるとお叱りを受けるから、庭の片隅や廊下の突き当りで、僕たちはこっそり遊んだ」
「その人のこと、好きだったの?」
スレインは瞼を閉じる。忘れられない記憶の続きがそこにある。
晴れているのに、星の無い夜の海だった。
「お願いです」
彼女の指が首の後ろで金具を留める。婚礼が決まった時に、彼女に送った父の形見の首飾り。触れた唇は涙の味に濡れていた。
「私を、貴方のものにして」
純白のドレスが風をはらむ。崖の上。ヴェールか潮風にはためき、編み込んだ髪の襟足に後れ毛がこぼれ、彼女の指に雫が落ちる。
頬に触れた指を握る。冷たく、そして震えていた。
「……いけません」
「どうして……」
歪む唇。溢れる涙。そんな顔が、見たいわけじゃない。でも。
「僕は、……僕は。姫様に相応しい人間ではありません」
僕には、誇れるものが何も無い。心はいつしか折れてしまって、今の僕は誰も、何も信じることができない。姫様のことも。愛する人を、信じられない。信じてもらう価値もない。ああ、僕の魂はこんなにも汚れてしまった。彼女の手を取ることは出来ない。僕はこの手で、愛する人を汚したくはない。
彼女は戦慄き、大きな瞳を見開いた。やがて微笑み、ルージュで色付く唇が開く。
「さようなら……。スレイン」
振り向き駆け出した。宙を舞う白いドレス。
「……っ!アセイラム……!」
伸ばした手に、ヴェールしかつかめなかった。彼女を追って海へと落ちた。
「僕だけが助かった」
どのくらいの間、海を漂っていたのか。嵐の中、流れ着いた浜辺。アセイラムはどうしたろうか。周囲を探し、海にも入った。首に下がるペンダントが肌に冷たく、氷の刃を抱く心地だった。道を行き、街を彷徨い、また戻り。どれだけ探しても見つからなかった。
そうして行き着いた崖の上の修道院。ステンドグラスのマリアの微笑みが、最後のアセイラムと重なった。
どうして僕は、彼女を攫ってしまわなかったのか。彼女の幸せを思うなら、もっと他に方法があったはずだ。後悔に苛まれ、眠ることも食べることもできなかった。
「そのうち、身体がおかしいことに気付いた」
死なないのだ。どれほど自分を痛めつけても、死ぬことが出来ない。鏡に映らず、影が消え、食べ物は砂の味がした。
「知っていますか?片思いの末、結婚できずに死んだ者は吸血鬼になるそうですよ」
次第に、意識を失うことが増えた。気がつくと、血塗れで倒れている。それは自分の血ではなかった。
伊奈帆は何も言わずに、目で話の続きを促した。スレインは躊躇いがちに言葉を続ける。
「あれは、いつだったかな……。街の人が来た。男の人が何人か」
「それって……」
スレインはスカプラリオを捲り、トゥニカの襟元を広げた。覗くのは肌に残る無数の傷跡。伊奈帆の眉間に皺が寄り、唇が固く引き結ばれる。
「正気を失い、街へと降りて人間を喰い殺していたと知った」
理解した。ヴァンパイアの特性を。殺さぬためには、ヒトの生気が必要ということ。
「僕は、何も食べずに飢えて死にたい。でも、この身体はそれを許してくれないんだ。自分で首を切り離せたらいいのだけれど」
修道院でひっそりと暮らすようになって、人が時々訪れた。街の者。旅人。盗賊。身寄りのない子ども。漂着した隻腕の騎士。その全てを受け入れた。
「……皆、いなくなってしまった」
看取ったものは、この中庭に埋葬してある。花の種と一緒に。
スレインは胸の上の首飾りを握り締める。
「あの後。彼女がどこかで生き延びていたとしても、もう死んでしまったに違いない。僕だけが今もこうして、生き恥を晒して生きている」
伊奈帆、とスレインは顔を向けた。湖面のような静かな瞳に伊奈帆はたじろぐ。
「さっき、僕に触りましたね。なぜ?」
「なぜって……」
伊奈帆は睨むような視線を返す。スレインはくすりと笑った。伊奈帆の手を取り、その手を胸へ押しあてる。
「なに……、あ」
手のひらを伝う鼓動がある。驚きを持って、伊奈帆はスレインを見つめた。
「そう。心臓があって、こうして動いている」
自嘲するような笑い方でスレインが言う。伊奈帆は自身の手を見て、薄い胸と浮き出る肋と、その奥にある心臓を思う。
「人とそんなに変わらないんだね」
スレインは、ははっ、と胸を震わせた。夕日が作る木漏れ日が、肌の上に斑を作る。悪戯っぽい笑顔で見上げるスレインの表情は柔らかくて、伊奈帆には初めて彼が生きているように見えた。
「あなたこそ。そうしていると、人間みたいに見えますよ」
「見た目だけはね」
伊奈帆は彼の上に身をかがめる。影の中から見上げる、極海の氷にも似た色の瞳に問いかける。
「僕が、君を殺してあげようか?」
スレインは何も言わずに微笑んだ。その唇にキスをする。乾いて割れた薄皮は血の味がした。
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