ラ・カンパネラⅡ
- μ

- 6月19日
- 読了時間: 10分
Ⅱ 燐火の庭
久しぶりに使う食堂はがらんとしていて、一人の時より広く感じる。
蝋燭を灯した長机。短辺には背もたれのついた椅子があり、長辺には簡素な造りの木製ベンチが設置されている。その片隅、斜向かいに座った二人の前に四枚の皿と二つのゴブレットが並ぶ。
「召し上がれ」
長椅子の端に座る伊奈帆が右手を翻す。祈りの言葉を小さく言って、スレインはフォークを持ち上げた。白い皿に盛り付けられたディナーへ先端を突き刺す。
事の起こりは、今日の朝まで遡る。
秋晴れの青空の下、スレインは、小ぶりの荷車にガラスの瓶と紙の包みを積み込んで、峠を下りるつもりだった。修道院の中庭で育てている植物を、ジャムやポプリ、薬草などにして村人に提供し、物々交換をするためだ。スレイン自身は教会に籠りきりでも衣食住に不自由はしないが、人間づきあいというのは、こういう所が肝心だ。冗談にせよ変な噂が広がっているようだし、時々は顔を見せておかないと、いらぬ事態を引き起こしてしまう。
「おはよう、スレイン」
さあいくぞ、と言う時に伊奈帆がひょっこり顔を出した。ヴァンパイアなのに朝が強いんだ、とかニンニクや十字架の呪いが聞くのかとか。そして荷物やなんやのことを、根掘り葉掘り尋ね始める。あまりにしつこくて、最後の方の会話はあまり覚えていない。ついて行く、行かないの言い合いになり。
「仕事の邪魔にならないようにするから」
押し問答の末、スレインは折れた。
峠を越えたあたりにポツンとある掘っ立て小屋で、荷車を寄せ村の配達員が待っていた。二人組の若者で、一人は初めて見る顔だった。彼らはこちらの姿を認めて走り寄ったものの、見慣れぬ同行者に気づきその途中で足を止めた。
「シスター、そちらの方は?」
品物の交換を終える頃合に、たまりかねた様子で若者の一人が聞いた。新顔のほうだ。癖毛の黒髪で背が高い。見たことのない顔だ。
「黒いマストの船が停泊しているでしょう?」
「ああ。あの派手な海賊船」
青年は軽い調子で頷く。
「どうも」
伊奈帆が間にすっと身体を滑り込ませた。スレインからは、青年を見上げる彼の帽子の後ろ側を見る格好になる。
「船長さん?ずいぶん若いね」
「見た目はね」
「へえ。何歳?」
「百二十一」
「はははっ」
黒髪の青年は発声がジェントルで、物言いに余裕がある。身に着けているものは簡素だが、よく見ると上質な生地を使っていた。仕草や立ち方などから、おそらく港町にバカンスに来た金持ちだろうとスレインは予想する。
「どうして、海賊が教会に?」
「えっと、それは……」
「婚活中」
スレインが適当な言い訳を考える前に、伊奈帆が即答した。
「ちょっ……!何言ってるんですか伊奈帆!」
「へえ!」
青年が朗らかに笑う。スレインは伊奈帆の腕を引くが、彼は微動だにしない。
「神の伴侶たる尼僧の心を盗むつもりだ。なかなかに罪深い」
「海賊だからね」
それもそうだ、と青年はもう一人の村人の隣へ歩み寄る。
「そういうことなら邪魔しちゃ悪い。今日のところは退散しよう」
軽く手を振り、一人が荷車を引いてもう一人は手ぶらで岬の峠を下りていった。
「君のせいですよ」
上り坂の途中でスレインがぼやく。
「何が?」
後ろから聞こえた声はいつもと変わらない。それがまた腹立たしい。
「とぼけないでください。睨んでいたでしょう。折角の食事を逃してしまった」
活きのいいのが二人もいたのに、と付け足すと、ふーん、と伊奈帆の間延びした相槌が聞こえた。
「ああいうのがタイプ?」
「怒りますよ」
教会への帰路。荷車の前後で二人は会話を続ける。
「食事を抜いても死ねませんが、正気を失いたくはない。もう、腹ペコなんですから」
荷車を押す力が強まった。持ち手を握る手が緩む。
「スレイン、何を食べるの?」
「貴方にほんの少しでも生肉が残っていれば、今頃貪り喰ってますよ」
「一〇五年前に言ってほしかったな」
こいつと話すと疲れるな、と溜息を吐く。
「花やワイン、人間の食事でも気休めにはなりますけど……」
血が足りなくて眩暈がした。スレインは首を振る。
「新鮮な体液じゃないと、燃費が悪くてしょうがないです」
流石に怒るかな、と思いつつ横目を送が、伊奈帆は中空に視線を投げたまま何やら考え込んでいる。やがて、彼は口を開いた。
「僕、なんか作ろうか?」
「へ?」
意味が分からずスレインは間の抜けた声で問い返す。
「料理するよ。気休めだけど」
意外過ぎる提案に、ぎょっとして振り向く。積み荷の向こう側の帽子の先しか見えない。
「料理ができるんですか?」
「割と得意」
釣り竿ある?という声とともにトリコーンの天辺が軽やかに揺れた。
そして夜。目の前には、伊奈帆の支度した魚料理と、サラダとスープ。そしてパン。ゴブレットには赤ワイン。セッティングはシンプルながら整然として美しい。
「どう?」
白身魚の香草焼き。口の中でほろりと崩れ、ハーブの香りが鼻から抜ける。嚥下すると体の中が熱くなり、きゅう、と内臓が小さく震えた。
「美味しいです」
人間だった時でも、こんなに豪華な食事にありついた覚えはない。ヴァンパイアの肉体は人間のように栄養が取れるわけではないので、もったいないと思ってしまうが。
「そう。良かった」
対面の伊奈帆は満足そうに呟いたので、まあいいか、と食事を続ける。伊奈帆はその様子を眺めつつ、グラスを口に運んだ。唇に触れるだけで、中身はほとんど減っていない。スケルトンに内臓はなく、飲食物は身体を通り抜けてしまうのだ。
食器の音だけがする食堂で、蝋燭が壁に落とす影は一人分。おかしな現象だ、とスレインはほくそ笑む。血肉を糧とするヴァンパイアは影を失い、臓腑を持たないスケルトンには影を落とす実体がある。この教会には鏡も泉もありはしないが、もしもあれば、そこには何が映るのだろうか。
「聞いていい?」
皿が全て平らかになり、伊奈帆が聞いた。彼の盃では、赤い水面に炎の照り返しが揺れている。
「何です?」
スレインは自身のワインを飲み干した。色も味も得る活力も、これが一番血に似ている。伊奈帆は机に両肘をつき、覗き込むような姿勢で口を開いた。
「絵があった。君の」
「……ああ」
そういえば、と思い至る。嵐の来訪後、寝床として伊奈帆にあてがった屋根裏部屋。スレインは寝室を持たないし、他の部屋は経年劣化が激しい上に広すぎる。そのため、来客用の個室として使えるようにしてある場所だ。
「あれ、誰が描いたの?」
「以前、ここにいた人です」
あの部屋の、前の主を思い出す。瞼の裏に、輪郭のぼやけた笑顔が浮かんだ。
「流れ着いた負傷兵で。左腕を失っていた」
伊奈帆は、視線を真っ直ぐこちらに向けて、口を結んで聞いている。スレインは天井の辺りを見上げた。炎の光が届かない部屋の隅をぼんやりと見る。天井を見ることがなくなっていたな、と気付いた。彼がいなくなってから——。
「兵隊でしたが、絵が上手な人でした」
晴れた日に、外でよく絵を描いていた。その風景に、きっと僕もいたのだろう。何枚くらいあったっけ。彼が死んで、そのほとんどを燃やしてしまった。スレインは自身の手をじっと見る。静脈の透ける死人のような生白い肌。
ヴァンパイアが人間と共に生きるなんて、できるわけないのに。
「あの服は、今もあるの?」
伊奈帆の言葉に我に返る。そして思い出す。そうだ。僕はあの頃、まだ——。
胸に提げたペンダントを握る。伊奈帆はまじめな表情で静かにこちらの言葉を待っている。
スレインはゆるゆると左右に首を振った。
「どうだったかな。随分前の話だから」
そっか、と伊奈帆は息を吐く。
「もし見つかったら、着て見せてくれない?」
「どうして?」
不思議に思ってスレインは聞く。伊奈帆は膝の上で指を組み、複雑そうな表情になり微笑んだ。
「ちょっとね」
「ジキタリス、イソトマ、グロリオサ……」
夜明け前の群青色。花々は蛍を内側に宿しているかのように夜露を輝かせている。燐火に染まる花園で伊奈帆が花の名前を諳んじる。
「トリカブト」
「詳しいですね」
屈んで花を摘みながら、スレインは皮肉を込めてそう言った。
「船医の経験があるんだ。コックも」
カルドロンはどこにある?と大真面目な顔で軽口をたたくスケルトンを睨みつける。この男は、死んだ時に情緒を骨の間から落っことしてきたんだろう。
「大釜で煮込んだりしません。薬屋に卸していますし、あの辺は僕の非常食です」
指さす場所にはクチナシの白い花。
「スレイン、花を食べるの?」
スレインは白い花を毟り取り、そのまま千切らず口に運ぶ。咀嚼すると花の芳香と葉の青臭さが広がった。伊奈帆はぽかんと小さく口を開ける。
「それ、美味しい?」
「あまり美味しくないですが、食べられなくはありません。食べ尽くしてしまうかも」
「それ、どういう意味?」
スレインは胡乱気な目で顎を上げた。
「殺しは御免です」
峠の一件を根に持っているらしい、と伊奈帆はようやく気付いた。本来の〝食事〟の邪魔をしたことは、昨夜のディナーで帳消しにならなかったらしい、とも。
しかし、少し驚いた。伊奈帆は芝居がかった動きで両手の平を天に向ける。
「成程。僕はそんなに嫉妬深いと思われているわけだ」
「違うんですか?」
伊奈帆は胸に手を当ててみる。肉も肌も仮初だ。心臓だって今はもうない。脳も神経も。それなのに、意識だけが鮮明だ。眼がないのに見える。耳が無いのに聞こえる。口が無いのに声が出る。不気味で奇妙なスケルトン。
その中で、心だけがすり減った。
波間の光も、潮騒も。月の唄も。一人の年月は退屈以外の感情を攫って行った。今、この肋骨の内側に脈打つ心臓はないけれど、速い鼓動を錯覚する。言葉にするなら、蜷局を巻いた炎のような執着と、稲妻のように明確な殺意。
これが嫉妬か。なるほど。
「まあ、そんなに違わない」
伊奈帆の頬に笑みが浮かぶ。人に戻った心地だ。
「風が気持ちいい」
言って彼は尼僧服のヴェールを取る。肩に流れる長髪は淡いブロンド。ふわふわと波打つ髪は濡れているように光っている。リンドウの群生のただ中で、群青のトゥニカの裾が風に揺れる。青褪めた肌に薄い隈が浮かぶ頬を、月の光を集めたような金の髪を取り巻いて——。
遠くに細める瞳はまるで、極北の氷の断面に見た碧色。
海の匂いが風にあり、クチナシの香りが空気を洗う。崩れかけた煉瓦壁に伝う葛の葉が朝露を宿し、その先に見上げる鐘楼の、音を忘れた静謐さ。言葉を失い、伊奈帆はその場に立ち尽くす。
影を持たず、幻のように絵のように、風景に溶け入るヴァンパイア。なんと美しい夜明けだろうか、と。
「……なに?」
見ていることに気付いたらしく、スレインが短く聞いた。どう答えたものか、と考えるけれど、上手い言葉が出てこない。頭も口もよく回る方だ。こんなことは珍しい。
綺麗だ、って言えればいいけど。なんだかそれも違う気がして。
「……髪、長かったんだ」
間を置いての伊奈帆の言葉に、スレインはくすりと笑った。
「このくらいしか、変化が無いから」
彼もまた、時に置き去りにされていると知る。伊奈帆は周囲を見渡した。修道院の中庭の吹き抜けはよく手入れされた草木に溢れ、季節の花々が色とりどりに咲き乱れている。
「君は、ずっとここに一人でいるの?」
これらの花を彼が一人で育てたとすれば、それはとても寂しく思えた。
「人がいたこともありますが……」
スレインはすぐそばにあるアーモンドの木の枝に腕を伸ばした。袖が肘まで捲れて下がり、二の腕の内側が覗く。
「みんな、いなくなるか、僕より先に死にました」
その指先が枝の紅葉を千切り取る。
「だから貴方も、好きにしたらいいですよ」
痛々しい笑顔だ、と伊奈帆は思った。最初は興味本位であったけれど、こうして話すと彼の背後に途方もない寂しさが見えてしまって、とても放っておけない。七日間の後に、一人でここに佇む彼を海の上から想像するのは堪らない。
伊奈帆は右手を差し出した。
「スレイン。僕の船に乗らない?」
彼は静かに首を振る。
「僕はここにいます」
黄色い朝日がリンドウの燐火を消していく。



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