ラ・カンパネラⅠ
- μ
- 6月19日
- 読了時間: 8分
ラ・カンパネラ
Ⅰ 嵐の夜
——こんな嵐の夜だった。
高波。稲妻。銀の弾丸めいた無数の雨粒を浴び、打ち上げられた浜辺。あちこち骨が折れ、皮がむけ、髪が千切れ、ぼろのような体がそれでも動いて大地と屋根を求めて彷徨い、辿り着いた廃墟がこの教会だった。
雷光を透過したステンドグラスが毒々しい光を落とす床。そこから見上げる聖女の衣は目が醒めるようなブルー。初めて見た時、なんて綺麗なんだろうと思った。だから僕は、嵐の夜には聖堂に跪く。神様からすれば茶番にすぎないだろうけれど、こんな身でも祈りを捧げたい時はあるのだ。
雷鳴が轟く。僕は瞼をそっと開いた。異様な気配を背に感じた。
ギイ、と蝶番が鳴る。吹き込む風と雨の匂い。そして聞こえる靴の音。
「嵐の夜更けに、教会に来られるとは」
振り向かず、僕は先に言葉を投げる。来訪者が立ち止まった。足音から、一人。身軽な男。想像よりも聞きわけが良く、行儀はそんなに悪くない。
「どのようなお困りごとですか?」
檀上で立ち上がり、制御した動きで振り向く。まず爪先。次に胸を、最後に顔をそちらに向ける。瞬きの後、ゆっくりと目を開いて見せる。
「ずぶ濡れの海賊さん」
そして微笑みかけてやる。そこにいたのは、トリコーンを斜めに被った古めかしく懐かしい海賊服の若い男。聖堂の中ほどに立つ彼は体中を雨か海水に濡らし、床には水たまりが出来ていた。
「夜分遅くに、祈りの邪魔をしてごめん」
柔らかく、理知的な発声。帽子を取って見えた顔は存外に幼く、少年のようだった。黒髪の丸顔。あどけないともいえる面差しに、左眼の眼帯と無表情の違和感。
「単刀直入にお願いするよ」
彼は帽子を胸に当て、隻眼が射貫くように真っ直ぐこちらに向けられる。痺れるような密度の眼光。
一際大きな雷鳴が響く。僕の影が、そいつに向かって長く黒く大きく伸びる。
待て、と呼吸を止めて聞く。そいつの左手が翻る。
「僕の花嫁になってくれない?」
これには僕も、返す言葉がすぐには見つからなかった。沈黙が続く。プロポーズを試みた男は、真剣な表情で辛抱強く僕の返事を待っている。海賊の割に真面目だ。
「……シスター相手に、笑えない冗談です」
ようやくそう返すと、男は大仰に肩を竦めた。
「冗談は苦手なんだ」
「神の御前ですよ」
「罰当たりって?」
「ええ。無法者です」
男はにやりと口角を上げる。ひどく老成した表情だった。
「君も、冗談は上手くないね」
「冗談?」
いい加減腹が立ってきて、低い声で睨みつける。海賊男はどこ吹く風でこう言った。
「どうしてシスターのふりをしているの?」
気づいたら、拳を握っていた。いけない。ペースに乗せられては。
「ふりだって?」
「ヒトじゃないよね?」
言葉を失う。表情を取り繕うこともできずそいつを見つめる。彼は表情もなく僕を見返す。
「わかるんだ。ぼくも〝そう〟だから」
男は右手を掲げた。若い男の日焼けした手が、たちまち酷い腐臭を放ち骨になる。
「ゴースト?」
「スケルトン。呪いでね」
彼は骨だけになった右手の指を開閉し、裏表する。
「君は、どういうもの?血の匂いが濃いね。ヴァンパイア?」
「ご明察。その通りです」
溜息をつく。ここまできたら、隠しても仕方がない。
「それで、さっきの話だけど」
海賊が居住まいを正す。手はいつの間にか元通りになっていた。
「どう?僕と結婚してくれる?」
そういえば、そういう話だった。
「正気ですか?」
「いたって正気」
「名前も知らない相手を?」
男の右目がぱちりと瞬く。
「そうだった。君の名前は?僕は伊奈帆。界塚伊奈帆」
調子が狂う。勘違いをしているようなので名前を教えてやることにする。
「スレインです。スレイン・トロイヤード」
「え?」
間抜け声が可笑しくてくすりと笑う。
「悪いけど、僕は人ではないし、女性でもない。結婚するのは無理ですよ」
界塚伊奈帆は僕の全身を頭の天辺から爪先まで視線をじっくり三往復させ、やがて小さく呟いた。
「……美人だね」
「どうも」
この建物には牧師服もあるのだが、何かと便利なのでそういう格好をしている。しかしこうも見事に引っ掛かる男は久しぶりで、素直な反応に笑みが浮かぶ。
「そっかあ、うーん」
なので、考え込んでしまったそいつについ聞いてしまった。
「一体、どうして結婚なんか?」
カイヅカイナホ。聞きなれない名前は、海の向こうの言葉だろう。どういう因果で、こんな辺鄙な岬の教会へ、たった一人で花嫁探しにやってきたのか。
「呪いでね」
「呪い?それ、さっきも言ってましたね」
「海の神様の呪い。僕は、幽霊船の船長なんだ。船員は他に誰もいないけど」
夜伽話に聞いたことがある。黒いマストにオレンジ色の帆を掛けたゴーストシップ。実在しているとは驚きだ。
「七年に一度、陸に上がることができるんだ。その時、愛する女性と結ばれれば、呪いは解ける」
「呪いが解けると、どうなるんです?」
「端的に言えば、死ぬってこと」
涼しい顔でさらりと言ってのける。呪いが解けると死ぬってことは。
「……それ、残された花嫁はどうなるんですか?」
「未亡人だね」
「ひどい」
「まあ、そうだね。ひどいと思う」
初対面で、結婚してくれ。僕が死ぬために、だって?
「そんな役目を、この僕に?いい加減にしないと怒りますよ」
伊奈帆は心外だ、とでも言いたげに両手を胸の前で左右に振った。
「もう怒ってるじゃん。言っとくけど、誰にでもプロポーズしてるわけじゃないから。結婚して、なんて生まれて初めて言ったんだ。僕もショックだよ」
「いや、おかしいでしょう!どうして、初めて会った僕に?」
「街で聞いてさ。年齢不詳で幸薄そうなシスターが、廃教会に何年も一人で暮らしてるって」
しかも、絶世の美女。傾国妃か姫君か、はたまた人魚か精霊かって。海の男はロマンチストだよね、と彼は続ける。冗談にしても、そんなことを言われているとは驚きだ。
「どんな訳ありだろうと思って来てみたら、想像以上に手強そうだし。しかもヴァンパイア?綺麗……というか、タイプだしさ。これは当たって砕けろって」
「砕けちゃ駄目でしょう」
「実際そうなったし、事実には即している」
なんだろう。この飄々とした感じ。割と悲惨な境遇なのに、ノリが軽いんだよな。スケルトンの無表情男のくせに。
「……貴方と話すと疲れます」
「僕は楽しいよ」
「良かったですね」
「ねえ、スレイン」
「いきなり呼び捨て……」
「僕は伊奈帆でいいから。呼んでみて。ほら」
「…………伊奈帆」
「いいね。新鮮」
「何が?」
「名前呼ばれるのなんて何年振りだろう、って思って」
その一言がやけに響いて顔を見る。伊奈帆はくすぐったそうな笑顔を浮かべていた。無表情が板についているが、明るい性根の男らしい。
「それで、スレイン。恋人はいるの?」
「いないけど。見ての通り、一応聖職者してるし」
「僕が名乗りを上げてもいいかな」
「え?何に?」
「君の恋人」
「はあ?正気ですか?」
「いたって正気」
さっきも言ったね、これ、と呑気な一言。余計な一言ともいう。
「話聞いてました?」
「もち。どう?」
「……ないと思うけど、いや、絶対ないけど、万が一。万が一にも君とその、……恋に落ちたとしても、僕には呪いは解けませんよ?」
そんなこと、と伊奈帆は軽く首を振る。
「呪いなんて、正直、今更どうでもいいんだ」
「どうでもいい?」
「特段、死にたいわけじゃない。一人で退屈してるだけ」
伊奈帆は遠い目をしてステンドクラスの聖母を見上げた。
「しばらく、ここにいてもいい?」
「しばらくって?」
「上陸を許された七日間。これを過ぎたらまた7年もひとりぼっちで海の上だ。恋人とまではいかなくても、話し相手になってくれない?」
「まあ、それくらいなら」
おかしな話になってきたが、正体はばれてしまったし、人外同士ということだから気兼ねはない。
「でも、客は取りますよ?」
「それは、どういうお客さん?」
ストレートだな、と苦笑する。策士か天然か。どうやって答えたもんかな。
「……消化吸収?」
さあっと伊奈帆の顔色が変わった。スケルトンにも、顔色ってあるんだな。言外の意味は正確に伝わったらしい。
「そいつをぶっ飛ばしたらだめ?」
「相手によります。食事も兼ねてるし、僕も退屈してるんですよ」
「それ、僕じゃだめかな?」
「うーん……」
伊奈帆の頭の先から爪先までを検める。背筋の伸びた俊敏そうな体躯で、あどけなさの残る東洋系の顔立ち。海賊なんてやってる割には、理知的で深い瞳をしている。見た目は決して悪くない。
しかし彼の本性は肉も臓腑も腐り落ちたスケルトン。好ましい青年の姿は、仮初に過ぎないのだ。
「できれば腐ってないのがいいし……、それにそういう対象としては、君は子どもっぽくて、ちょっと」
「かちん」
擬音を声で表現するとは驚いた。伊奈帆は顎をぐっと引いてこちらを見据える。
「故郷では成人の年なんだけど」
「伊奈帆っていくつなんです?」
「百二十一歳」
「いや、見た目の話」
「十六歳」
やはり。そんなところだろうと思った。
「年下ですしね」
「いや、早まらないで」
ストップ、のジェスチャー。表情は変わらないのにリアクションがオーバーだ。
「スレインはいくつ?」
「十七歳です」
「そうじゃなくて、実年齢」
「えーと……。百十七歳?」
伊奈帆がにやりと口角を上げた。ふふん、と彼は鼻を鳴らす。
「そっちの方が年下じゃないか」
「一〇〇を越えたら、四歳くらい誤差の範囲じゃないですか?」
「それじゃあ、見た目の一歳は?」
「……そんなに変わらない?」
「そういうこと」
伊奈帆がふふっと満足そうに笑みを漏らし、案内してよ、と僕の手を引いた。紛い物の手のひらは、人とは思えぬ冷たさだ。
「鐘楼が見たい。鐘は、君が鳴らすの?」
石造りの側廊を歩く。クリアストーリからの稲光が、瞬間的にくっきりとした一人分の影絵を作る。紛い物はお互い様か。
「ええ。まあ」
「へえ」
それは見たいな、と伊奈帆が笑う。会話の瞬発力では向こうが何枚も上手だ。やりこめられた感じがする。正直腹も経つけれど、許してやる気になるのはきっと。
「今夜は、鳴らす手間が省けました」
「ははっ」
もはや一体化して、自分を飲み込もうとする深く濃い孤独の影が、彼にも見えるからだ。
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