of the worldー残響ー
- μ

- 5月19日
- 読了時間: 12分
肩甲骨の間、カチリ、とセーフティーが解除された。
「いい度胸をしている。それともただの馬鹿なのか?」
背後に聞く声は、何度も何度も聞いた声。脈拍が早くなり、口元に知らず笑みが浮かぶ。
銃口を突きつけられたまま、伊奈帆は両手を顔の高さに開いて上げた。
「両方、そこそこ当たってる」
でも、と持たせる間の内に、袖に仕込んだ小型銃を手に体の向きを前後に素早く翻す。
「実際のところは、もっと単純なのさ」
撃たない。向こうも自分も、互いの銃の硝煙を嗅ぎ鉄の温度に鼻先をヒクつかせつつ動かない。
碧。凶暴な凍れる炎の彼の瞳が、照準を一心に貫く。
「冥土の土産に聞いてやる」
引き結んだ口元が、シニカルに歪み静止した。
これなんだ。これが彼の本来の姿。ラグナロクに牙を剥き、爪を立て、鬣を月の風に靡かせ吠えるフェンリルそのものだ。
伊奈帆はそっと左目を閉じ、肉眼のみで彼を見た。
「君に会いに来たんだよ。スレイン」
銃声が二つ。虚空に溶け入り搔き消える。
[オーディンとフェンリル]
「どうして笑うの?」
場違いな微笑みの理由を伊奈帆は尋ねる。かつてよく見た、口の端を歪に曲げたシニカルな笑顔ではない。とても自然な、まるで花や小鳥を見た時のような優しい笑顔。
「さあ……、どうしてかな」
スレインは俯き小さく首を振る。薄青の囚人服は見慣れているはずなのに、違和感がある。空気と照度のせいかと考え、やがて違うと思い至る。広い襟首に除くペンダントの鎖がない。いつ、どこでなくなったのだろう。こうなる前に、誰かに預けたのかもしれない。それが自分でないことに、複雑な心地を覚える。
「お前、何しにここへ来た?」
スレインが聞く。伊奈帆は銃を持った腕を伸ばした。
「君を殺しに」
途端、スレインは喉を反らせ、天井に向け甲高い声で笑った。気が触れたような笑い声。狂ったか、とも思えたが笑いが収まりこちらを見る目は正気しかなく、伊奈帆は背中に氷が滑り落ちたような感覚に陥る。
「一応聞いておかないとな。安心したよ」
スレインは小首を傾げ、両手を広げた。ここがどこかの屋上で、柵がなければ後ろ向きに落下しそうな微笑みだ。
「待っていた」
その表情は間違いでは無い。決して。身投げも銃殺も同じだ。間違いなく死ぬ。この引き金を引くだけで。
「言い残すことは?」
伊奈帆は自分が言った言葉が意外だった。聞く前に撃つ。たとえ相手がスレインでも、自分はそうするはずだった。こんなことは初めてだ。
「感傷的だな」
スレインは呆れ混じりの表情で肩を竦める。一度ゆっくり瞬きをして、その双眸が伊奈帆を見つめた。美しい碧。まるで彗星の残り尾のような瞬きだ。
「そうだな……。すまない、と」
やがて彼はぽつりと言い、複雑そうな顔で笑った。伊奈帆はセーフティを外す。バチン、とやけに大きく音が響く。
「誰に伝えたらいい?」
照準を正確に合わせ、最後の言葉を口にする。スレインは瞼を閉じた。ああ、星の瞳が見えなくなる。
「未来のお前さ。伊奈帆」
もう二度と。
「今、わかったよ」
倒れた亡骸を見下ろし、広がる血溜まりの中で伊奈帆は呟く。
「次は、僕の番なんだね」
サテライトに点在する機械管理の無人の監獄。空気の転換装置がけたたましく動作する。背後の扉は二度と開かないと知る。幾重のガラスの向こうの虚空の彼方に彗星の光が見え、気づくと鉄の匂いは消えていた。
[永劫回帰]
「7%」
スレインは相槌の代わりにちら、と伊奈帆に目を向ける。目が合うと、伊奈帆は顎を引いて問う。
「何かわかる?」
ふい、と視線を横に外した。ノーのサインは正確に伝わったらしく、彼はそのまま言葉を続ける。
「コミュニケーション理解における言語情報の割合。それが7%」
「ふうん」
「感想は?」
声を漏らすと、伊奈帆は間髪入れずにそう聞いた。面倒くさい気配を察するが、スレインは素直に口を開く。
「別に。そんなもんだろう」
面倒事でも気が紛れる。こういう会話は好きではないが、別にこの男が不快なわけではないのだ。
「言葉は無力だ」
「だから、君は喋らない?」
スレインが言うと、伊奈帆が即座に言葉を返す。皮肉か、と口をついて出そうになるが、彼の表情は静かで真摯に見えたので、少し考え首を振る。
「そこまで考えてのことじゃない」
伊奈帆は静かに聞いている。スレインは、一度ミラーに目をやった。
「思考の全て。想いの全てを言葉にできるわけじゃない」
伊奈帆の背後のワンウェイミラーの向こう側に、何人いるかと思いながら言葉を選ぶ。聞かれて困る話じゃないが、決して聞いてほしくはない。この男とのこういう会話は。
「無視。曲解。誤解。そして新たな諍いを生む。それなら、僕はもう種は蒔かない」
鏡の向こうの人々には、僕のこの言葉が本音でないと思ってほしい。僕は嘘つきで卑劣な裏切り者で、こういう手段で哀れを誘うと思われていればいいと、言ってから後づけに思う。
そうでないと、僕がここにいる意味はない。
「……でもさ」
静寂の後、伊奈帆がぽつりと言葉を発す。
「僕ら、それしかないんじゃない?」
スレインは、ぎり、と歯軋りをする。ああ、困った。そう。面倒で困るのだ。この男とのやり取りは。こいつはいつも本音しか言わない。だから僕も、ついぽろぽろと本音が出るのだ。嘘で誤魔化したり、いい加減な言葉であしらったりできない。そういう力が、こいつの声には何故かある。
「伝わることと、伝えることは違うよ」
これも、聞こえているのだ。鏡の向こうの軍人たちに。こいつの立場など知ったことではないけれど、なんだか落ち着かない。
「最後は言葉しかない。わかって欲しいと、思うなら」
奥歯を噛み締める。固く目を瞑る。瞼の裏には、モニター越しに最後に見た泣き顔がある。
彼女は言葉を尽くしたのだ。僕はそれを、耳では聞いていたけれど、頭ではもう割り切っていた。だから。
「わかったところで、何か変わるか?」
時が戻せるものならば、あの時何かできたろうか。いや。きっと、変われない。それほど乖離していた。僕は。言葉なんか信じられない。誰のことも信じない。奇跡なんて起こらない。僕には何もなくて、夢も未来も持ち得なくて、たった一つの欲望に囚われていた。
あの人が笑って生きれる世界を作る。それだけ。そのために、彼女の心からの言葉を僕は黙殺した。
「そういう言葉を、僕は裏切ってきた。何度も。数えきれないくらい」
ああ、まただ。こんなこと、言うつもりなんてないのに。誰に聞いてほしくもない。わかってほしいと思っちゃいけない。
「傷つけた。そういうつもりで僕は言葉を殺してきた」
そう思うのに。
しん、と全てが止まったような気になった。身体を動かすことを忘れ、僕は俯き呼吸をただただ繰り返す。指の爪が手のひらに食い込み、痛みを感じて瞬きをする。
身じろぎする音が聞こえた。顔を上げる。伊奈帆は机の上に両手の指を組んで置き、隻眼をこちらに向けた。真っ直ぐに。
「いいんだ。それでも」
伊奈帆の声がやけに響く。耳に。いや、胸に。
「届いたのなら、無駄じゃない」
僕は思わず胸を掻き、ペンダントを歪むほどに強く握った。
[7%]
この仕事も八年になる。
同時期に配属された者は皆いない。僻地での極秘任務を平和な世界で続けていくのは難しい。
私が、なぜ続けられたか。それは怠惰と偶然。それと、ほんの少しの好奇心だ。
「おはよう。食事だ」
そう言って、私は食事のトレイをハッチから差し出す。
「……おはようございます」
足音が近づき止まり、声がした。壁の向こうにいる。
「眠れているか?」
「はい」
はにかむような柔らかな返答。なんという声をするのだろう、と少し笑う。本当にこの人が?とこれまで何度も思ったことを飽きもせずに考える。
「そうか」
トレイを受け取るためにハッチに差し出される手を見る。骸骨みたいな、と言ったら大袈裟だが、病的に痩せた白い手だ。
本当にこの人が、あの戦争を起こしたのだろうか。たった一人で?そんな風にはとても見えない。野心家にも、打算家にも。大人しく控えめで、繊細そうな青年だ。誰かの身代わりではないか?利用されたんじゃないのか?と妄想が膨らみ、つい、その手を掴みそうになる。こんなところで掴んでも、彼の身体がハッチを通り抜けることなんかできないのに。
「残さず食べなさい」
「……」
返答は困った感じの苦笑い。
今、彼はどんな顔をしているのだろう。声と同じく、困った感じで笑っているのか。それとも、マネキンみたいな無表情か。
ハッチが閉じる。容赦なく。私はしばらく耳を澄ませてそこにいた。足音が遠のき、音は何もしなくなる。シュレディンガーの猫よろしく、彼が食事をしているのかどうかは次にハッチを開くまで不確定だ。私は踵を返し、地上への通路を戻っていく。エレベーター。階段。渡り通路。通路は古く、この季節には煉瓦壁の隙間に植物が芽吹く。外の匂いが強く匂う。窓の外は土砂降りだ。
私はしばし足を止め、早朝の雨空を見上げた。
三年前。その時はまだ、こんな小さな扉じゃなかった。独房の扉を開き、看守がデスクに食事を置いた。回収もそう。私はまだ配属したばかりで、扉の外で古参の看守の一連の業務を見守っていた。扉の上部に、格子の窓がついていた。
小さな格子窓から見える光景は、薄暗い室内。簡素で古びたパイプベッド。その反対側の壁面には洗面台とトイレ、文机が等間隔に並んでいる。デスクにはトレイに乗った食事。その前に、看守の手により座らされる囚人。痩せていて、ふらふらとした足取りと脱力した身体。病気だろうか、と思った。
椅子に座ると横顔が見えた。表情は虚ろで、節目の瞳はどこも見ていなかった。
想像とは、随分違った。
そう思っていると、彼の目が格子のこちらの私に向いた。私は、射すくめられたように硬直し、奥歯を強く噛み締めた。
それは一瞬。時間にしてほんの一、二秒のことだったに違いない。だが、私にとっては数時間も経ったくらいの密度だった。扉から出てきた看守が、驚いた顔で「どうした?」と聞いても、しばらく言葉が出なかった。
私だって軍人だ。幾つもの戦地で見た。親を失った子ども。子どもを失った親。帰る場所を失った老人。家族に捨てられたひとりぼっちの犬も。皆、深い悲しみと不幸を瞳に宿していた。戦争とは、こういうものだと私は知った。
でも。
あんな目を、初めて見た。絶望の瞳によく似ている。暗くて深くて、どこか虚ろで。
なのに、決して不幸を語っていないのだ。どこまでも澄んでいて、まるで凪の湖面のように綺麗だった。
あの瞳の宿す温度は、次第に変わっていった。極北の獣のように。目まぐるしい炎色反応のように。凍てつく彗星の尾のように。それはとても、そう。とても綺麗だった。一目で心奪われるほど。
だからこそ、格子は閉ざされ扉は開かず。あの湖面の碧を、今では誰も見ることはできない。
「お疲れ様です」
「ああ、お疲れ様です」
事務所に戻り、同僚と挨拶を交わす。デスクワークは嫌いじゃないが、どうも心が落ち着かない。特に、雨が匂う日は。
何故だか、いつも雨の日だった。あの人が来るのはーー。
「おい、聞いたか」
「は?嘘だろ?」
「どうして……」
「モニタを!速く!」
喧騒に我に帰る。見回すと、皆立ち上がっていた。尋常じゃない。私も慌てて立ち上がる。照明が突如消えた。左壁面に投写された映像はひどく乱れている。海賊放送?
「……え?」
縁台。そこに立つ人物が誰か分かって、私は口を手で覆った。
『宣戦を布告します』
その声。その目。記憶にあるのとほとんど同じ。しかし今、初めて知った。二人は、とてもよく似ていたと。表層ではなくその根本で、ほとんど同じものなのだったと。
[ラグナロク]
空は、青くなどないのだ。
一体、いつぶりになるのだろう。
スレインは、鉄条網の向こうに焦点を合わせた。赤茶けた色にひび割れた地平がどこまでも続き草木も花も動物もいない。そう、鳥も。点在するのは、軍用車そして戦闘機の朽ちたらしい塊だけ。溶けたタイヤ。割れて砕けたフロントガラス。開いたままの車体のドア。カタフラクトのもげた手脚と切断面に浮かぶ錆。分離した翼は墓標のように地を割った。
「あまり近づくと、危ないよ」
界塚伊奈帆の声がした。はっとして、スレインは我にかえる。右手の指の先端が、有刺鉄線の錆びた棘まであと数センチのところにある。指を引っ込め、そして彼は空を仰いだ。
空は、青くなどない。
かつて、大切な人に語った地球の空の青い色。大地の息吹と海の音。季節に移ろう花々と、空を行く生き物たち。
そういったものは、今はもう、ここにはない。
砂塵を巻き上げ、強く風が吹いている。風だけが、まだここにある。
「マスクを」
いつの間にか隣に並んだ伊奈帆が、右手のボックス・レスピレイターを差し出した。スレインは一瞥しの伊奈帆の顔を見る。左目以外、覆うもののない彼の素顔がそこにある。
少しの間、二人の瞳が交錯した。やがてスレインが視線を外し、空を仰いで独白のようにこう呟く。
「ああ、月が綺麗だ」
紫、黄色、ピンク、茶色、灰色緑茜色。ヒステリーの画家がそれらの色を絵筆をねじくり乱雑に塗りたくったような空がそこにある。その中にあって静謐に青白く抜ける月の形は、記憶にあるのと少し違う。
月は砕け、星は見えず。ただ、風が吹くばかり。
「今なら、死んでもいいと思う」
伊奈帆がぽつりと呟いた。風の音が響きの全てを攫っていった。
[Only the wind]
起き抜けに見える天井の模様がいつもと違うことに気づく。スレインは板の木目をぼんやりと目でなぞりつつ、ここは一体どこで、どうして自分は生きているのか考える。
試しに右手を上げてみた。そして表と裏を見る。手首に包帯が巻かれているが痛みはない。喉が酷く渇いていること以外には、どこも悪くはないようだ。
木製の雨戸の隙間から、細い光が線となって床を這う。空気の匂いは土と古い草の香りが混ざっている。
壁の向こうの離れたところでざあざあ、ざあ、と水の音がした。
そしてがらがら扉が開く。
「起きてたの。おはよう」
桶を抱えた界塚伊奈帆が光の中から現れた。
「調子はどう?」
スレインは可笑しくなって少し笑った。どうやら山中の廃屋らしきこんな場所で、面会室と全く同じ台詞を言うとはこいつらしい。途中で咳き込み、伊奈帆が慌てて近くに寄って小さなプラスチックのコップを取り上げ水を汲む。手渡されてゴクゴク飲むとまた咽せた。背中をさする手に何の抵抗も抱かないのが不思議だった。
「悪くないな」
笑顔を作ると頰がピクピク引き攣った。伊奈帆は冷静な表情で小さく頷き、背中に置いてた手を離す。
「そう」
どうしてこんなところにいるのかと、その一言はまだ聞けない。
[ドーナツホール]
驟雨が景色をけぶらせる。なぎ倒れた葉のない樹木。赤茶けた土。割れた幹線道路の傾き。そこに立つ男の髪も顔も手足も服もなにもかも。雨が世界の底に落ちる。雨の底に僕らは二人、たった二人で沈んでいる。
「…お前まで、雨に濡れることはない」
スレインは言う。数メートル先相手の反応は緩慢だ。雨音がひどく、正確に向こうに聞こえたかは分からない。
「お前は、濡れなくていいんだ」
腹に力を入れ、声を張り上げた。聞こえたらしく、直立の背が伸び首を左右に振るのが見えた。
「…一人にしてくれ」
自分の耳にも聞こえないほど、囁きに似た独白。
「傘が無いんだ。…だから」
雨を凌ぐことすらできない。この世界には、直径100センチメートルの居場所すら僕にはもうありはしない。
「スレイン」
名を呼ばれ、顔を上げて目を凝らす。大股で歩み寄る彼の右眼の緋色は、近づくほどに鮮やかに映る。
左の手首が握られた。軍人の硬い掌に。
「一緒に濡れよう」
界塚伊奈帆はそう言った。かかる息は温く柔い。
[Umbrella]



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