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of the worldー今ー

  • 執筆者の写真: μ
    μ
  • 5月19日
  • 読了時間: 31分

伊奈帆が摘み上げたのは砂のような小さな欠片。机の上のシャーレに落ちてゆく様が、晴れた海の波間の照り返しのように蛍光灯にきらきら光った。

「へえ。青いんだね」

「そうみたいだな」

 極秘施設面会室にて。スレインはテーブルに頬杖をつき、唇を尖らせる。

「それで、これはどういう現象なんだ?説明はあるのか?」

「うーん」

 数週間前に遡る。スレインの独房のベッドに青い欠片が散乱しているのを清掃員が見つけた。

 これは一体なんだろう?

 透明で、粉というより、細かすぎる鉱石欠片という表現がしっくりくる。それは数日おきに発見された。スレイン本人も、朝起きたら何故か生じていたということしかわからない。その後、緩慢に調査と生体検査が行われ、その結果を伝達するため伊奈帆は今、ここにいる。脳内のカルテをパラパラ捲り、伊奈帆はふう、と息を吐く。

「原因不明。こじつけるならアルドノア因子かな」

 涙が宝石に変化する。涙石病-ティアジュエルーという俗称が、数例観測されたそう。その色は多様であり、空気に触れたら細かく崩れる共通項がある。

 伊奈帆は、シャーレの青をまた摘む。さり、という感触。指先が薄青に染まる。

「フッ素カルシウム。所謂フローライトだね。加熱すると発光する。青色は希少」

「へえ」

 スレインは頷き、やがて首を傾げて言った。

「お前は?」

「僕?」

 問い返すと、彼は呆れたように黒目をぐるりと巡らせた。

「何すっとぼけてる?アルドノア因子が原因なんだろう?」

 確かにそうだ。

「お前、ちょっと泣いて見せろ」

「うわぁ、脅し文句?」

「茶化すな。お前の涙に興味がある。正確には、その色に」

 言われてみると、好奇心は若干生じた。しかし。

「そう簡単に泣けないよ」

 泣くことは危険だ。弱みを見せることになるし、理性を感情が上回る。戦略上不利であり、生きる上で自分には必要ない。そう結論づけてからは、伊奈帆にとって遠ざけている生理現象の一つである。

「お前、泣くことあるか?」

 スレインが目を丸くして問う。目の端が濡れたように光った。今朝、彼は宝石を生成したらしいと気づく。欠片が発見されるのは朝。彼は夢に涙するのだ。

 その夢が、辛いものでなければよいと伊奈帆は思う。そのくらいには、彼のことを信用している。

 泣いた顔を知っている。流した涙のその理由も。砕けた涙の欠片を見る。もしも涙に色があるなら、ブルーフローライトは相応しいと感じた。

 僕の涙に色があるなら、何色なんだろうか。そもそも、泣くことなんてないけれど。

「記憶にないかな」

「ふうん」

 スレインがつまらなそうに相槌を打ち、天井を見上げた。数秒間、何も言わない時間が流れる。その間、伊奈帆は蛍石の欠片を見つめた。

「泣かせてやろうか?」

 唐突にスレインが言った。声は淡々と抑揚がなく、最初は何を言っているのか分からなかった。

 泣かせる?僕を?

 伊奈帆はテーブルの上で手を組んだ。面白い展開になった、と思いつつ。

「ちなみに、どうやって?」

「色々あるけど……」

 うーん、と唸り、腕を組んで目を閉じる。青褪めた頬に落ちるまつ毛の影を数えていると、瞳がぱちりと開いた。その双眸は透明度の高いエメラルドグリーン。加熱したフローライトのように危険そうな温度をして光っている。

「泣かせてやってもいい」

 その気があるなら、と彼は机の下で脛を蹴った。


[Jewel]





「暑い」

 面会室の向こう側の扉が開き、開口一番、界塚伊奈帆がそう言った。スレインは意外に思い眉を上げる。

 まず、調子はどうだ?や何か言うことは?などの疑問符付きの小言が彼の常であるので、このような独り言にも似たぼやきは珍しい、ということ。

 次に、涼しい顔の無表情がデフォルトモードの彼が、額に玉の汗を浮かべ顔まで赤くしているということ。

 汗の匂いと、日向の匂い。仄暗く冷ややかな極秘施設の地下一画には不釣り合いな生命の匂いを嗅ぎ、スレインは伊奈帆に問う。

「夏か」

 ギイ、と彼らしからぬ大雑把な動きで椅子を引き、伊奈帆は一度動きを止めた。テーブルの向かいスレインへと顔を向け、一度大きな瞬きをする。

 そして、彼の口元が少し緩んだ。嬉しそうな表情に見える。おそらく、スレインが自主的に口を開いたことに対する評価だろう。珍しいことだ、と隻眼の赤が微笑んだ。

「うん。夏だよ」

 伊奈帆が座り、頭の高さを揃えて見ると、彼の額に癖毛の髪が張り付いて、シャツは色が変わっていた。

 ネクタイを緩める手の動きを、見るとはなしに目が追った。

「向日葵がね、咲いていた」

 来る道で、と伊奈帆の声。

 スレインが思い出すのは、幼い頃に父と見た、地平線まで埋め尽くす極彩色の緑と黄。

 太陽を見つめ天だけを目指す黄色の花の丈は、僕より随分大きくて。それがずっと、見渡す限りに続いていて。少し怖いと思ったけれど。

 向日葵畑の思い出に、研究者の大きく荒れた手に引かれ、歩いた細い道がある。

「向日葵畑って、ここに通って初めて見たよ。綺麗なもんだね」

 伊奈帆の言葉に顔を上げる。軍神と評される彼は、スレインが初めて見るような、人間らしい、いや、少年らしい顔をしている。伊奈帆の両手は、机の上で重ねて軽く握られていた。

 ふと、その手を握る幻影が過る。抽象画のような、コバルトブルーとビリジアン。連なる大輪のカドミウムイエロー。立ち込める油のような濃い匂い。光の先へと向かう、逆光の背中。左腕は後ろ手に伸ばされ、握る。この手を。この…。

 鉄の匂いの赤い手を。

「向日葵、見たい?」

 少しして。伊奈帆は真顔でそう聞いた。スレインは再び彼の手のつくりを見る。

 顔に似合わず、無骨で大きな手の形。

「そうだな」

 彼の手を見て父の手のかさつきとを思い出すのは、きっと夏の匂いのせいだ。


[夏の匂い]





「お前もそんな顔するんだな」

「そんな顔って?」

 うーん、とスレインは腕を組み、数秒間斜め上の天井付近に視線を固定して言った。

「間の抜けた顔」

「初めて言われた」

 地球連合軍極秘施設面会室。向かいに座る青年に、伊奈帆は肩を竦めてみせた。確かに、表層的には多少ぼうっとしていたかもしれない。

 その原因について思考を巡らせた。自己完結の末、伊奈帆は椅子の背に靠れ口を開く。

「ねえ、スレイン 。僕が何しに来てるか知ってる?」

 スレインはふっとシニカルに笑い、顔の横で右手をくるりと翻す。

「喧嘩を売りに来てるんだろう?前に自分で言っていたじゃないか」

 喧嘩しに来てるんだ、という言葉を彼は忘れていないらしい。伊奈帆は口角が上がるのを自覚した。

「そう。君はいつも律儀に買ってくれるよね」

「押し売りに何を言っても無駄だからな」

 今日の彼は饒舌だ。あくまでも普段と比較して、のことだけれど。目が合うし、レスポンスが的確だけれど尖ってはいない。それにーー。

 先ほどの、思いがけない瞬間が網膜によぎる。

 伊奈帆はテーブルの上の両手の指を互い違いに組み合わせる。そして視線を正面に向けた。

「僕さ。君を怒らせたいとこあって」

 真っ直ぐ見返される双眸は、どんな色にも喩え難い寒色だ。高すぎる温度の炎や、永久凍土の氷の断面、光を放つ鉱石。そのどれよりも、熱く冷たく移ろいゆく碧。

「へえ?」

 今は凪いだ海の色。鳥の幻影が瞼の裏を横切った。

「怒った顔が一番いいな、って思ってたんだ」

「ハハッ。とんでもないことを言うんだな」

 掠れた笑い声がした。瞼の裏の、鳥が吸い込まれる空に風が吹き抜けたような錯覚。

 ああ、やっぱり。そっちがいいな。

 泣いた顔を見た。取り澄ました顔や、心を閉ざした人形めいた白皙も。病的に青ざめた暗い瞳だって。死人のように生きる彼を見るより、せめて怒った顔が見られれば。伊奈帆にだけは怒りを彼は明らかにする。その瞳は、夜更けの獣の瞳のように危険そうに光るのだ。だから喧嘩をふっかけるし、嫌がられることだってする。その結果嫌われても、憎まれても構わない。そう思っていたのだが。

 でも、と伊奈帆は言葉を続ける。

「笑った方がずっといいな、と思って」

 碧の湖面に細波が立つ。この微細な変化が綺麗だな、と素直に思った。

「お前……」

「何?」

 目を丸くして、ぽかん、と口を開けたまま視点を伊奈帆に固定している。先ほど彼は伊奈帆のことを間の抜けた顔、と評したが、まさに今の彼がそうだった。そのことを指摘しようかと思ったが、その前にスレインが視線を外した。彼は左右に軽く首を振る。

 無言。沈黙は僕らの場合珍しいことではないが、少し変な感じだ。

 言いたくないならそれでいい。伊奈帆は自分の話を続けることにする。

「その上で、困ったことがあるんだ」

 スレインは俯き加減で視線だけを送ってくる。目が離せないのはなぜだろう。

「僕は君を怒らせるのは得意だけれど」

「まったくだ」

「君を笑わせるのは、僕はどうも苦手らしい」

 沈黙。返事を待たずに伊奈帆は言い切る。

「どうしたものかな、と思って」

 しばらく、何も言わない時間が流れる。冷静な自分が四十二秒をカウント。スレインがふうう、とこれ見よがしなため息を吐き、そして言う。

「売られた喧嘩の釣り銭代わりに、一つ忠告してやろう」

 スレインは右頬に頬杖をつき、左頬に笑窪を浮かべた。両目が三日月みたいな弧を描く。

「自覚がないうちに引き返せ。深みに嵌る前にな」

 瞳の色に彗星を連想。猛スピードで通り過ぎる氷の天体。尾の幻影が言葉尻を攫っていく。

「自覚?」

 ガタ、と椅子の脚が鳴る。脚を組んだつま先が、天板を下からコン、と叩いた。

「後はお前の問題ってこと。僕は、……まあ、悪い気はしない」

「何の話をしてるわけ?」

 スレインはくくっと喉で笑い、顔を上に向けて瞼を閉じた。

「なんてことない。ツバメの話さ」


[無意識]




「嫌だ」

「そこをなんとか」

 スレインはぶんぶんと左右に首を振る。腕組みをし、ふんぞりかえって伊奈帆を見据えた。

「お前、何か勘違いしてないか?」

 伊奈帆はテーブルの上で両手の指を組み、隻眼を正面向けて大きく瞬く。

「いたって客観的かつ冷静。おかしなところは説明してよ」

 スレインはふん、と鼻を鳴らし、手首を回転させ右手の人差し指の先を自身と伊奈帆に往復させた。

「いいか?まず、僕とお前は付き合っていない」

 その言葉に、伊奈帆がえ、と声をあげる。

「え?嘘でしょ」

「どうして嘘だと思うんだ……」

「だって、いいって言ったよね?付き合って、って言ったら」

「付き合うって、あの流れならお前の話に、って思うじゃないか」

「スレイン。話の内容覚えてる?」

「忘れたな」

 はあ、と伊奈帆は聞こえよがしにため息を吐く。

「僕、好きだから付き合って、って言ったよね」

「それ、チェスの話じゃなかったのか?」

 スレインが目を丸くする。伊奈帆はさらに言葉を続けた。

「いつの間にか好きになってて、って」

「セロリの事だと……」

「……気持ちが知りたい、教えてって。君は、僕も好きって言ったよね?」

「卵料理の種類かと……、好きな食べ物の話だと思って」

「……噛み合ってないね」

「……噛み合ってないな」

 しーん。面会室が重い空気で満たされる。沈黙の後、最初に口を開いたのは伊奈帆。彼は額に指を当てて言う。

「信じられない。僕、何度もハッキリ言ったよね?」

 スレインは眉尻を下げて腕を組み直す。そしておずおず口を開いた。

「……確かに僕も悪かったが、お前の話し方も悪いぞ」

「どの辺が?」

「そんな大事なこと、話題の合間にシュッと入れてくるんじゃない。えっと、ナントカ効果、サ、サブラリロル効果?」

「サブリミナル効果」

「そう、そのサブラレロル効果。あんな話し方じゃ」

 伊奈帆がまじまじとスレインを見つめた。

「ライデンフロスト現象」

「は?なんて?らいでぬ……?」

「言ってみて。ライデンフロスト現象」

「ライデルフロロルゲンショク?」

「……わざとやってないよね?」

「何が?」

「ツァイガルニック効果」

「ツァビアルニン硬貨?」

「ハロー効果」

「ハローコーラ?」

「ぶふっ……」

 伊奈帆がぷっと吹き出し、口を手で覆った。肩がぷるぷる震えている。

「おい、なんだ?今の……」

「くくっ……ふっ、わ、わかった。理由」

「へ?何の?」

 笑いが収まると、伊奈帆はすっと背筋を伸ばした。

「スレイン」

「え、何だ?」

 伊奈帆の真剣な様子にぎょっとしつつ、スレインは問い返す。

「君かわいいね、って君の言語でなんて言うの?」

「えっと、デュ・ア・ソット」

「そう」


[ふざけ半分]





「綺麗だな、って思った」

 梅雨の長雨で湿気るかび臭い極秘施設独房で突然言われたその台詞。場所も、台詞も、言った相手も僕には非現実的で、黙って高い位置にある格子窓を仰いだ。スチールベッドの座り心地はゴツゴツしていてひどく悪い。壁は湿気って服に張り付く。雨は、この場所を普段よりも寒々しく、孤独にする。見上げた空の色は灰色で、雨の雫は窓が小さくよく見えない。ただ、雨音だけは煩いくらいに耳を打つ。

 ポツポツ、ザアザア、ゴウゴウと、風が雨を壁を打つ。

 何秒か、何分か。雨音だけの沈黙を破ったのはパイプ椅子に姿勢良く座る軍人の方。

「変な意味じゃないんだ」

 バツが悪そうに、身体的特徴を指摘するのは失礼だったかな、と付け加える様はとても意外で、スレインはようやくクスリと笑って口を開く。

「界塚伊奈帆」

「何?」

 名前を呼ばれての即答。そして真面目そうな表情で、真っ直ぐこちらを見据えてくる。隻眼橙で。

「下手だな、お前」

 そう長くはないが、もはや短くもない付き合いの内、ようやく見えた彼の内面の柔いところ。忘れて久しい会話の楽しみが感じられ、スレインは両目を細め伊奈帆を眺める。

「何が?」

 多少。ほとんど分からないくらい。彼の声色に苛立ちまたは不機嫌のようなものが現れる。スレインは満足気に小首を傾げ、右手の平を翻し、揃えた五指を伊奈帆に向けた。

「海のよう、空のよう。それとも宝石のようだと、普通はそう続けるんだ」

 目が綺麗、と褒めたなら。

 反論か、沈黙か。どういう反応が返ってくるかと思ったが、伊奈帆は右目を丸くしてそうかと頷き、顎に手を当て数秒床をじっと見た。そして彼は顔を上げ、スレインに向き直りこう言った。

「小さい頃にプラネタリウムで見た時の、彗星のしっぽの色に似てる」

 目を合わせたまま呆気に取られ、そののちスレインはぷっと吹き出しケラケラ笑った。こんなに可笑しなやつだとは、と眦に涙まで浮かべ彼は笑った。


[君の瞳]





「降参」

 黒のポーンの着地と同時に、テーブル向こうから歯切れの良い四音が飛んできた。チェックメイトまでまだ数十手ある。スレインは目線を上げて相手の顔をじっと見て、左眉を上げた。

「随分と諦めが良いな」

 界塚伊奈帆は視線の動きで応答し、机の上に両手の指を組んで置く。

「これはゲームだからね」

 感情の抑制された冷静な声音は低く響き、面会室の壁、床、そして天井が、ぐわんと揺れる心地がした。

「結果が全てじゃない。勝ち方も、そして負け方も、選ぶことが出来る」


 戦争じゃないから。


 しん、と全てが静止した。スレインは最後に置いたチェスメンと、その一兵卒が辿る筈だった運命について考える。界塚伊奈帆が白旗を挙げ、彼は盤上に残された。しばしの後に、大きく息を吐き出した。

「界塚。お前の話は回りくどい」

 タン、と指で軽く机の面を叩く。微弱な振動は向こうに届いたか分からない。伊奈帆はパチリと片目を瞬きそして伏せた。スレインは彼の軍服の、タイの上の喉仏を凝視する。

 それが動く。こくりと上下にゆっくりと。音を発し、言葉を紡ぎ僕に伝えるそのために。

 口の開閉がスローモーションのように目に焼き付く。そして声が少し遅れて脳に届く。

「僕は君と、戦争したいわけじゃない」

 話をしたいだけなんだ、と。


[喧嘩友達]





「別に、好きってわけじゃない」

 スレインが俯きそう言うのを見て、伊奈帆は右目を瞬いた。

「そうなの?」

 意外な返答だったからだ。スレインは伊奈帆の顔を上目遣いに一瞥し、また視線を膝で組んだ手元に向けた。

「どうして僕が、花を好きだと思ったんだ?」

 面会室のテーブルに花。飾り気のない茶色のクラフト紙に包まれた大輪の向日葵が六輪。花弁の水滴が蛍光灯を照り返している。

 花をもらったのだ。職員の中に、そういうのが好きな人がいる。彼は植物や野菜を育てており、取れすぎたから、と野菜やなんかを折に触れて大量に持ち込む。地域社会のお裾分けの類型だ。そういうわけで、出勤後のサイバネティクス研究所のデスクの島の真ん中には、向日葵が咲き乱れていた。伊奈帆は半分押し付けられた体で受け取った。しかし、姉と暮らす家に飾るのも照れくさい。花なんて、買ったことは一度もないのだ。そして、ふっと思いついた。今日は極秘施設の面会日だし、スレインにあげよう、と。喜んでくれるのではないかと思ったのだが。

「てっきり君は、花とか好きだと思ってた」

「その理由を聞いているんだ」

 スレインがぐるりと首を大きく回した。胸の前で腕を組み、重心を後ろに傾けている。態度自体は横柄かつ不機嫌そうだが、声と表情はそうでもない。伊奈帆は口を開く。

「セラムさんが……」

「セラム?姫様のことか?」

「うん。初対面で、僕にはそう名乗った」

 スレインが、顎を引いてこちらを見据える。彼の瞳をうけ、伊奈帆の脳裏に青い空が鮮やかに広がった。

「セラムさんと、鳥を見たことがある」

「……鳥を?」

 スレインの目が細まる。睨むような瞳の焦点は遠く。逸らさずに、その碧の色を見返した。

「海猫。甲板で」

「……海、か」

「海と空が青い理由を、僕は話したよ」

「なんだって?」

 高い声に頷き返す。違う相手に同じ言葉を繰り返す。

「空が青いのはレイリー散乱。雲が白いのはミー散乱」

 あの時の表情をよく覚えている。赤くなった頬を膨らませ、口を尖らせた少女。

「光を歪めるほどの沢山の空気と水」

 僕が声をかけるまで、一人で空を見上げていた。どのくらいの時間、一心に空を見ていたのだろう。

「そう教えたのは君だろう?」

「馬鹿にしているのか?」

「いや。それは君でしょ」

 彼女の心を奪った青空。青い海。その理由が今ならわかる。

「嘘は、いつかわかってしまうものだよ。それがたとえ、どんなに綺麗な嘘でもね」

 綺麗だったのだ。彼の言葉が。彼の声が。そこに込められた彼の思いが。

「騙されていてほしい。そういう気持ちが無かった?」

 彼女は地球に恋をしていた。美しい言葉だけで、彼女のために語られた青い惑星の物語に。

「ははっ」

 スレインは喉をそらせて笑った。白い首の喉仏が上下する。

「それを聞いてどうする?」

 痛々しい声と表情。瞳の色が澄んでいるのが救いだった。

「どうもしない。ただ」

 伊奈帆は静かに首を振り、焦点をゆっくり彼の瞳に結んでいく。

 彼にとって帰る場所足りえなかった生まれ故郷を夢のように美しく語る。いや、語ってしまうのだ。自分ではない人の笑顔のために。全てを奪われ、失った上で、なにもかも与えてしまうのが、彼の生き方なのだと知った。

「そこに、君の優しさがある気がしたんだ」

 スレインが机の上の向日葵を見た。大輪の切り花の色はクロームイエロー。やがて枯れる運命を孕んでなお絵のように鮮やかだ。

 スレインはゆるゆると首を振る。

「買い被りすぎだ。僕はそんな人間じゃない」

「そうかな」

 二人とも口を閉ざし、静けさが堆積する。面会室の内側だけ、世界から切り離されたような時間が経過する。呼吸を忘れるくらいの密度。不思議とそれが心地よいのは、場違いに明るい向日葵の色のせいかもしれない。

 スレインが息を吸う音がした。彼は発声のため口を開く。

「夏か。そんなの、ずっと忘れていた」

 その言葉に、伊奈帆は視線を花に向けた。

 地球の夏。彼にとって、それは何度目のことだろう。

「すごく暑いよ」

 スレインが右の眉を上げた。

「お前でも?」

「僕も普通の人間なんだよ」

「ははっ、よく言う」

 今度は明るく笑ってくれて、なんだか少しホッとした。スレインは机の上に視線を送る。柔らかな眼差しだと伊奈帆は思った。

「……何か」

 やがてスレインはぽつりと言い、胸の前で図形の辺を辿るように手を動かす。

「何か、あるか?バケツかなんか。変なことには使わない」

 ちら、と彼は伊奈帆の背後を見た。ワンウェイミラーの向こう側で、刑務官らが顔を見合わせるのが目に浮かんだ。

「後で部屋に届けるように伝えるよ」


[Flower vase]





 白のキングを三指が盤へそっと倒す。音もなく静かに。

「降参」

 続いて聞こえた声は、言葉というより一続きの四音の発声。スレインは盤面を眺め、チェスメンたちの戦果を辿る。ピースは双方生き残っており、まだミドルゲームに達したばかり。界塚伊奈帆とはこれまで数度打ったけれど、こんなに早い幕切れは初めてだった。

 スッと伊奈帆が立ち上がり、スレインはややぎょっとする。何をするかと見上げていると、彼は右手を差し出した。

「なんだ?」

 伊奈帆はわざとらしく目を瞬き、そしてつと口を開く。

「握手」

 そういえば、そういうルールがあった。

「ん」

 躊躇っていると、伊奈帆が顎を上げて催促する。揃った指は、握る形にカーブしている。軍人らしく短すぎるほど切り揃えられた爪の形を意味もなく凝視する。

「あ、く、しゅ」

 ずい、と迫るその右手。スレインは観念して、ため息をつきのろのろと腕を上げた。宙で掴まれ、大きく二度上下に動かし手が離れる。

「……なぁ」

 スレインは手を引っ込めて膝の上に置いてから、どうしたものかと声を掛けた。伊奈帆は席に腰を下ろし、いつもの無表情を装いつつほんの一瞬、悪戯っぽい目を上目遣いにこちらに送った。

「ここ、涼しくて好きだな。外はものすごく暑いんだ」

 スレインは膝の上で握った右手の上に左手を重ねた。伊奈帆の表情は変わらないが、口元はどことなく緩んでいるように見える。

「それじゃ。今日は帰るよ」

 伊奈帆がガタ、と音を立てて立ち上がる。背もたれに掛けた上着を肘に抱えた。

「ご飯ちゃんと食べて、夏バテしないようにね」

「ああ」

「あと、水分ちゃんと取って。涼しい場所でも油断しないことだよ」

「うるさいな。わかってる」

 いつもの小言にうんざりした声を返す。伊奈帆はため息未満の息を吐いて背中を向けて歩き出す。

「スレイン」

 扉の前で立ち止まり、彼は顔を向けずに言った。

「外の世界は、痛いくらいに眩しいよ」

 扉が閉まり、ガシャン、と音を立てて錠が下りる。足音が遠ざかり、音がやがて消えた。膝で重ねた手を解き、手のひらを上に向けて指を開く。歪な形のガラス片は、夏の海の色をしていた。


[Seagrass]





「こういう所を歩くとさ」

 伊奈帆の声を随分久しぶりに聞いた気がして、スレインは歩みを止めて振り返る。

「こういう所?」

 逆光に右目を細める男の顔の右も左も光に向いた黄色い花でいっぱいだ。夏の盛りの向日葵畑は満開で、風のない中、僕らの背丈より高く直立している姿がどことなく異様だ。

 そういえば、とスレインは思う。二人で歩く時に、伊奈帆が後ろにいるようになったのはいつからだろうか。最初は彼の背を見ていた。背丈の割に大きな背だと感じたことを覚えている。次に、隣。僕の左を定位置にして、彼が話す言葉は限りがなかった。

「……なんていうのかな」

 そして今。振り向いた先の彼の声はかつて聞いたことがないほど頼りなく、迷子の子どもを連想する。

 伊奈帆が、首をゆっくり横へと向けた。スレインからは、閉じた左の瞼が見える。額に伝う汗の雫も、光を照り返す髪の乾きも。

 迷いながら開かれた、彼の唇の動きも。

「こういう、お墓みたいな場所を歩くと」

 お墓、という表現がストンと胸の底に嵌る。無数に咲き誇る、墓標めいた向日葵の花。その中を、太陽に向かって歩く僕ら。殺した人間の顔などほとんど覚えていない。名前も知らない戦死者たちの顔が向日葵に重なる。彼らは一様に、死に損ない二人に向かって、長い茎を格子のように並べている。一瞬の間にそれだけのことが映像を伴い脳裏をよぎった。

 伊奈帆が俯く。視線の先には僕の影の肩先がある。

「怖いんだ。君がいなくなる気がして」

 僕の黒い影を、伊奈帆は見ながら歩いていたのか。だから彼は、僕の後ろを歩くようになったのだ。


[向日葵の影]





「好きだ、と言ったら?」

勝敗の決したチェスボードを挟み聞こえた勝者の第一声に、スレインは眉を顰めて相手を睨む。

「その仮定に、意味はあるのか?」

手のひらを天井に向け問い返す。伊奈帆は肩を竦め、前のめりになり両手の指を組み合わせた。

「少しはね」

例えば、と伊奈帆は視線を斜め下方向に送る。つられて見遣ったその先は、床と壁の継ぎ目の直角だった。黒ずんで、触ると埃が指紋の間に入り込んで取れなくなるに違いない。しばしの間を置き、伊奈帆は伏せた目を上げた。

「朝起きると、君のことを考える。夜は眠れたのだろうか。風邪を引いていないだろうか。朝食は残さず食べているだろうか。きちんと息をしているだろうか。ちゃんと、生きているのだろうか」

抑制された静かな声。諳んじたト書きの一文のような滑らかさだ。こいつが言葉を失うところを見たことがない。面白くない事実だ。滔々と流れる声に、面会室の空気の淀みが引いていく。

「ふとした隙間、君のことが思い浮かぶ。今頃、どうしているのだろうか。貸した本は読んでくれたか。チェスの棋譜をなぞっているか。夜の代わりに眠っているか。息をして、世界に存在しているだろうか」

マジックミラーの向こうなど、一度も見たことないけれど。書記官がペンを走らせる音がここまで聞こえてくるようだ。扉の向こうの他人の事を考えている自分に気づく。一人の命を繋ぐため、多くの人がここにいる。

いや、ここではない場所にも。

「眠る前、君のことを考える。独房で一人、何を考えているのだろうか。眠るまで、夜はどれほど深まるだろうか。明日また、君は生きられるのだろうか」

明日という日を、諦めたのはいつだったろう。無くしてしまった明日とその先未来のことを、どうしてこいつは諦め悪く口にするのか。

その理由を、多分前から知っていた。


「お前、馬鹿って言われないか?」


伊奈帆が口を閉ざしたので、スレインはずっと思っていたことを呆れ調子に聞いてみる。

「不思議なことに、たまに言われる」

無表情の割に、不服そうな声だった。一見、何を考えているのか分からないように見えるものの、彼の感情表現は単純明快で実に分かりやすいのだ。スレインは自身の口角が自然と上がるのが分かる。

「だろうな。不思議でも何でもない」

最初の話に戻すけど、と伊奈帆が真っ直ぐスレインを見た。

「君が好きだと言ったら、どう思う?」

ああ、負けた。惨敗だ。

「馬鹿な奴だと思うよ」

スレインはホールドアップで首を振る。伊奈帆は小さく笑った。

「そうだよね」

でも、とスレインは肩を竦めた。呆れ調子に首を振る。片側の頰に、小さな笑窪が浮かんでいた。

「僕は、馬鹿は嫌いじゃない」

ばちり、と大きく伊奈帆の左目が瞬いた。

「それ、好きってこと?」

「そこまでは言ってない」

調子に乗るな、と冗談半分の睨みが返る。


[お互い様]





「調子はどう?」

 面会室のテーブル越しに発した僕の言葉に、スレインは口角を歪ませククッと笑った。

「何かおかしい?」

 その挑発を買ったのは、それまで伏せられていた彼の目が、真っ直ぐこちらに向いたからだ。スレインは視線を僕に固定したまま、丸まっていた背中を伸ばし顎を上げる。

「よく聞くな、と思っただけさ」

 色彩こそ淡いその碧の双眸は、ぎらついた光を宿していた。瞼の縁は赤く腫れ、耳朶に瘡蓋ができている。見える部分の皮膚の青痣は既に黄へと変色していた。

 尋問という体で正当化された、軍関係者による暴力の痕。初めてのことだ。ここまで生々しい傷の残る彼に会うのは。僻地の極秘施設という閉ざされた環境。無抵抗で従順な囚人の正体は社会的に抹殺された戦争犯罪者。大義を振り翳す相手としてあまりに都合が良すぎたのだ。

「見ての通りだ。どう見える?」

 翻す右手の三指の先にはガーゼを覆い込む白いテープがグルグル巻き付いており、鎖骨と手首には輪郭のはっきりとした指の形が残っている。

「痛そうに見える。すごく」

 スレインはふっと息を吐き、肩を竦めた。優しげな表情を浮かべているのがどういう理由かわからない。

「もう、そんなに痛くない。それに慣れてる」

 彼は自身の手首の痣を反対側の手で消しゴムみたいに擦る。鬱血がそれで消えることはない。

「今日の君は優しいね。どうして?」

「別に。お前のせいじゃないし」

 スレインは苦笑する。ああ、僕は彼に心配されているのだな、と伊奈帆は気づく。

 どうしてだろう?こんな時に他人のことばかり。しかも、かつての宿敵を気にかけて平気なふりをするなんて。

 ーーもういいだろ、頼む。

 彼の言葉が蘇る。あの時ノーを突きつけた。そのことに後悔はない。しかし。

こんなことが続くのなら。飼い殺しの先にあるのが結局死ぬことなのであれば。

「もういい、って思ってる?」

 彼の自由は、そこにしかないかもしれない。そう思って伊奈帆は聞いた。こくりと頷いた後、しかしスレインは首を振る。

「でも、仕方がないだろう?」

 スレインがふっと視線を遠くへ投げた。伊奈帆は振り向きその先を見る。面会室の薄汚れた天井があるだけだった。

「生きていくしかないんだ。こうやって」

 無事で良かった、と他人事のように彼は笑った。


[Gehenna]





 エマージェンシーコールのけたたましい轟きの中、そいつはふらりとやってきた。

「やあ、スレイン。急な話で悪いけど」

 逆光の中、姿勢の良い立ち姿がシルエットとして現れた。聞き慣れた声。けろりとしている。あまりにらしくて、スレインは喉の奥で生じた笑いを噛み殺す。

目が慣れて、そいつの顔がよく見えた。少し汚れてはいるが、飄々と冷静に、散歩のついでにやってきた、とでも言いたげなそらっとぼけた顔をしている。こいつが只今極秘施設に緊急事態を引き起こした犯人に違いないのに。

「お前の話はいつも急だ。界塚伊奈帆」

 地下の独房の扉は力技でこじ開けられ、破損した部分から青白い放電がパチパチと跳ね、通路のライトはチカチカ点滅。サイレン。靴音。叫び声と爆発音。

「晴れてるからさ」

 伊奈帆が室内に向け、右腕を振った。ゴトゴトリ、と転がったのは軍用ブーツの右と左。

「星でも、一緒に見に行かない?」

 伸ばされる彼の左の手。手のひらは赤黒く汚れている。

「その提案は、悪くはないが」

 スレインはベッドから床へ立ち上がり、伊奈帆の顔を正面から見つめる。


 かつて何度も、僕はお前の顔を見た。

 ノヴァスタリスク。

 月。

 海辺。

 面会机の向かい側。

 濡れた髪。駒を持つ指の形。面差しに不似合いな眼帯と、こちらを見据える隻眼の褐色。

 お前の目が、口よりもよく喋る。

 調子はどうだ。食事をしろ。眠れているか。読みたい本は。好きな話は。思い出は。

 よく動く口以上に、お前の瞳はお喋りなんだ。そんなことまで、今は分かる。

 もう、決して短くはない付き合いだ。


「どこまで行くんだ?」

「どこまででも」

 君が望むなら」

 間髪入れずの返答に、スレインは靴を拾い上げた。


[深夜特急]





 息を吸うと、澄んだ冷気に肺の中が洗われるような感じがした。地面を踏むたび、霜がシャリシャリ音を立てる。大気の色は仄かに青く沈み、見上げた梢に影絵のような鳥がいる。

「朝だね」

 隣でぽつりと声がした。ほんの数時間ぶりの声だけれど、随分久しぶりに思える。

「ああ」

 自分の声も、なんだか他人の声のように聞こえる。不思議な感じ。その理由は、思いがけなく訪れた今の状況にあるのだろう。

 伊奈帆が少し屈んで僕の顔を覗き込む。

「おはよう、スレイン」

 一瞬立ち止まる。次に踏み出した時の足は軽い。不思議だな、とまた思う。

「うん、おはよう。フフッ」

「ご機嫌だね」

「そういうわけじゃない。寝てもないのに、挨拶するのがおかしくて」

「そうかな」

 伊奈帆は顔を前に向ける。灰がかった青色の大気。白く透けるような朝の光で霜がキラキラ光っている。その地面をまた踏んだ。シャリ、シャリ、という音が心地よく足裏を伝う。

 伊奈帆がふうっと自分の両手に息を吹きかける。白い息が現れ消えた。

「寒いね」

「そうだな」

「もう少しだよ」

「うん」

 草の地面に道のようなものが現れる。先の方に蔦の巻き付く鉄条網が霞んで見える。


[夜明け]





 顆粒コーヒーの人工的な香り。熱い湯気で強張った頬の皮膚が弛む。

 廃墟となった軍用施設の一室。崩れかけた古い造りの煉瓦壁の角。僕らは斜めの位置で携帯用のバーナーを囲んで座っている。

「気分はどう?」

 伊奈帆が聞く。その聞き方が面会時のものとなんら変わらないものだったので、スレインはくすりと笑った。

「悪くない」

「そう」

 伊奈帆の鼻の頭が赤い。セーターの背中を丸め、アルミのシェラカップを袖を伸ばした両手で包んでいる。スレインは炎を見ながら言った。

「どうして、僕を逃がす?」

「前から決めていたことだから」

 スレインは纏った軍服の襟元を握りしめる。道すがら、彼が差し出したものだ。素直に受け取り袖を通したのは、北欧生まれの僕よりずっと、この男が寒さに弱いのを知っているからだ。

「自分を道連れにしてまで?」

「うん」

 前から決めていたというのに、着替えの準備もない。僕はともかく界塚伊奈帆も気のみ気のまま、ほとんど身一つで逃走したのだ、

 コーヒーを啜る。少しだけ苦味のある湯のような味。朝日が差し込む石の床。ガスバーナーの火の匂い。すぐそこにいる、炎を見つめる男の横顔。その頬に、隈がうっすらできていた。

「どうしてそこまでする?理由がわからない」

 伊奈帆は視線を動かすことなく、静かにその口を開く。

「君はあの時、部下を逃して死のうとしたよね」

 彼の言う"あの時"が、遠い昔のように感じる。例えばもう何十年も。または、違う世界のことのように。

「そんないいもんじゃない。落とし前をつけようとしただけだ」

 スレインは左右に首を振り、今の思考を振り払う。あれは確かに現実だった。多くの人が、最たるものは命として様々なものを失ったのだ。僕の決断によって。

 伊奈帆は小さく頷いた。

「うん。スレイン ・ザーツバルム・トロイヤードは、戦争を終わらせるために基地ごと自爆しようとした。その時点での戦争責任の全てを被って」

 彼はバーナーの調節ネジを少し捻る。青く直線的だった炎が、チロチロとした赤い色に変化する。

「君の死で対立は終わり、地球と火星は和平への道を歩み出した。アセイラム女王の願うままに」

 それは非難の言葉に聞こえ、血液が逆流するような感覚に陥った。スレインは深く息を吸って吐く。雲のように白い息を数度吐き出し、スレインは聞く。

「お前、何が言いたい?」

 伊奈帆は真っ直ぐな視線をこちらに向けた。

「どうして、そんな生き方をするんだ?僕には、君が負わされた業は不当に思える」

 言い返す間を与えずに伊奈帆は続ける。

「君の望む世界には、君の居場所がないんだよ」

 その隻眼には怒りのようなものがあり、スレインは面食らった。先ほどからのやり取りを反芻し、スレインは思い至る。

 彼は、あの場所が僕の居場所でないと考えた。だから連れ出したのだろうと。

「そんなの、ずっと前からだ」

 しばらく考えたが、気の利いたことは思いつかなかった。スレインの返答に伊奈帆は顔を上げる。朝の光が彼の頬に窓枠の影を落とす。

「鳥を見た。セラムさんと」

「知ってる」

 大きく心臓が跳ねたが、スレインは反射的にそう言った。伊奈帆はそう、と一瞥する。

「彼女、目をきらきらさせて。無邪気に笑ってこう言ったんだ」

 スレインの言った通り、って。

「美しい海。美しい空。美しい地球」

 その光景を想像する。揚陸城のテラスから見下ろす地球に目を輝かせていた少女。拙い質問に答える度、彼女は感嘆の声を上げ、青い惑星への憧れを募らせていた。

 スレインは、すっかり冷めたコーヒーに視線を落とす。映り込んだ自分の顔は、液面の揺れで歪んでいる。

 伊奈帆が息を吸うのがわかった。少しの間。そして発声。

「彼女に語った地球は。それは、嘘だった?」

 光を歪めるほどの、大量の空気と水。青い色を生み出す地球の豊かさ。多様な生き物の存在。生態系の神秘。そこに住む人々の在り方について。

「僕の中で、嘘になっただけだ」

 ああ、なんて幼い。そして儚い夢だろう。彼女は知らない。冬の大気の冷たさも、夜に溶ける死の足音も。個人の終焉の多くは地球そのものによってもたらされることを。

「姫様に地球の話をする度に切実に願ったことがある。僕が火星で生まれていたら、と」

 地球は、外側から見たら確かに美しいかもしれない。でも、全ての地球人類が豊かさを享受しているわけではない。ヘブンスフォールで被災した街。幼い頃、復興されず廃墟と化した場所をいくつも通り過ぎた。僕は父がいたけれど、親のいない子どももいたし、子を失った親もいた。

「僕はもうずっと、地球を憎んでいた」

 ヴァースの人々の多くはそれを知らない。知ろうともしない。だから、地球人を憎む。僕も地球を憎んだ。僕に賛同してくれた騎士たちは、そういうところを見抜いていたのかもしれない。

 けれど。

「今は少し違うかもしれない」

 エマージェンシーコールの中で彼の手を取ることに迷いは無かった。とんでもないお節介だと感じたが、迷惑だとは感じなかったからだ。彼が、大気の底。地球の大地。光の下へ僕を引っ張り出したことに。

「冬の朝。冷え切った身体でコーヒーを飲むのは悪くない」

 地球を故郷だと感じたことはない。けれど、もう憎いとは思わなかった。

「許せたみたいだ」

 差し込む朝日は柔らかく白い。伊奈帆がケトルを持ち上げて、僕のカップに湯を足した。


[冬の朝]





「例えばね」

面会室のテーブルに、界塚伊奈帆は両手の指を組んで置き口を開いた。チェス盤は、既に本日の役目を終えている。黒のキングを欠いた戦局が盤上に配置されたまま。スレインは伊奈帆の勿体ぶった言い方と、彼の両手の親指がトントンとリズムを刻む様子を見て、話が長くなりそうだ、と椅子に背を預ける。

「例えば、朝には君の好きな卵料理を予想して、君が起きる頃に出来立てを並べておくし」

ダシマキタマゴ。スクランブルエッグ。メダマヤキ、オムレツ、タマゴサンド。彼の口から聞いた卵料理のレパートリーが味とともに脳裏に蘇る。

「ピクニックに行くのなら、バスケット一杯に、君の好きな具のサンドイッチを詰めていくよ」

いつか、中庭でタッパーから自分で手に取ったジャムサンドの匂いと色。

「夕食には、君の要望を完璧に満たすご馳走を用意するし」

差し入れと称して、わざわざ温め直した肉料理を広げ出した時は驚いた。呆気にとられて、味はあまり覚えていない。でも、二人で全部平らげたのは覚えてる。

「綺麗なグラスを買って、一緒にお酒を飲むのもいい」

それは、したことがない。

「春にはお花見をして」

オハナミ、とは何の花を見るのだろう。

「夏には、海に行こう」

最後の海は夜。昼の海の色はどんな青だろう。

「秋には、本屋に行ってからカフェに入ってさ」

哲学書にも、詳しくなった。でも僕は、物語や詩集の方が好きだったんだ。

「冬にはこたつを出して、窓の雪を見ながら蜜柑を食べる」

ミカン、で思わず眉根が寄る。小振りのオレンジのことだ。伊奈帆が右目をぱちりと瞬き、昔の事だよ、と苦そうに笑った。

沈黙が降りた。話は終わったらしい。スレインは、埒があかないので仕方がないから聞いてみた。

「…つまり、お前は何が言いたいんだ?」

伊奈帆は盤上に残る持ち手のビショップを、同じく残ったe4ナイトの隣に置いた。

「一緒に暮らそう」

この一言を言うまでに随分時間がかかったと、伊奈帆は年相応の笑顔を見せた。細めた目の端に小皺が寄った。


[14年]

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