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of the worldーどこかー

  • 執筆者の写真: μ
    μ
  • 5月19日
  • 読了時間: 32分

 青い空。その青は、日を追うごとに一層深く澄み渡るよう。

 この空。レイリー散乱の地球の空を見上げて僕らは、いつの日か。そう。いつの日か。

 僕らはいつか、この肺から血を吹き出して死ぬのだろう。

「おはよう」

 声に振り向く。歩み寄る伊奈帆が見えた。スレインは半身を向けて彼を待つ。

「おはよう。早いな」

「君こそ」

 隣に並び、伊奈帆は空を見上げた。その横顔をなんとはなしにスレインは眺める。いつもとそう変わらなく見えるのが、不思議と心を落ち着かせた。

「何?」

 伊奈帆が聞いた。まず目。次に顔を向け。スレインは何を言おうか少し考え、ふっと思いついた言葉を口にする。

「なんだか、雨が懐かしい」

「ああ」

 伊奈帆は頷く。そして再び空を仰ぐ。

「もうずっと、降ってないよね。214日」

「数えてるのか?」

 驚いてスレインが問い返すと、伊奈帆はあっさり頷いた。

「紙のノートに記録してる。日付。天候。気温。湿度。アトミカ。体温と体調。一応ね」

「知らなかった」

「そうだね、言ってないかな。隠してた訳じゃないけど。君は深刻に捉えすぎるきらいがあるから」

 空が近い。いや、遠い。雲はなく、月もない。眩しいくらいの青天は。

「神にでも、なるつもりか?」

 今にも喋りだすような口の形の緑の花や脈打つような赤い葉に、地を這い歩くサイケデリックなピンクの根。奇形の草木に覆われた、荒廃した大地に無情なその青は。残酷なまでに神聖な、世界の終わりだろうと思う。

 伊奈帆はうーん、と考えたのちくすりと笑った。

「いや、そんな大それたものじゃない。考古資料?」

「考古資料?」

「何千年……。何万年か先のさ。地球に訪れた科学者に向けた考古資料」

 伊奈帆はスレインを見て、次にまた空を見た。

「地球の終わり方。その原因と、週末の記録」

 ざわめく草木は地球の色とは思えぬ造形。風の音は変わらないな、とふと気づく。

「そして、最後の人類の名前」

 その一言は、風の音でほとんど聞こえなかったけれど、意味を理解しスレインは伊奈帆の腕を引いた。

「え、なに?」

「マイナス0.8度ってとこか」

 重なる額の温度差と気づき、伊奈帆はパチリと瞬きをする。

「お前、今朝の体温は?」

「36.6度だけど」

「じゃあ、35.8度。少し低いな」

 接した額が離れ、スレインは鼻をふんと鳴らした。

「最後の人類が僕かお前か、まだわからないだろう」

「それもそうだね」

「お前が先なら、花くらい手向けてやる」

「花なんて……」

 伊奈帆は周囲の地面を見渡して、肩を竦めて小さく笑った。

「僕も、そうするよ」

 そして彼は足を踏み換え歩きだす。バリアを張った小さなドームを指差して。

「朝ごはんにしない?準備できてる」

「ああ」


[箱庭]





 またか、とため息が出る。ダイニングテーブルの対面に座る伊奈帆が気づいてこっちを向いた。僕の手を見て、視線がかち合う。

「また?」

「わかってるなら聞くな」

 この間料理の時にうっかり作った指の切り傷にピンク色の蕾が三つ覗いている。血管は薄く、皮膚は湿った感じで緑がかった色をしている。息を止めても苦しく無い。

 どういうわけだか、時々身体が森になる。数十分で元に戻るが、理由も理屈もよくわからない。

「今日だけで三回目。8:23、12:05、14:47」

 伊奈帆がタブレットを操作しつつ言うのが聞こえた。

「記録してるのか」

「うん。何かあったらいけないし」

「なんだろうな、これ……」

 突然変異、ウイルス、アルドノア因子の暴走。出鱈目で無責任な仮説を話し合うのも飽きたが、つい呟いてしまう。

 伊奈帆はじっと僕の指の蕾を見つめ、僕の緑の手の甲に彼の手をぴとりと置いた。そして呟く。

「アンテイア」

「アンテイア?なんだそれ」

「花冠の女神」

 …………は?女神?

「ステネボイアと呼ばれることもある。植物の成長を司る神様だけど、割と散々な目にあって」

「へえ……」

「最後は海に落ちる」

「皮肉かそれは……。落としたのは誰なんだか」

「ベレロポーン」

「ベ……誰だ?」

「不倫相手」

 スレインは目を見開いて大きくぐるりと黒目を回した。呆れた、というサイン。

「……時々、お前の話についていけない時がある」

 伊奈帆は肩を竦める。

「それ、学生の頃に言われたな。唐突すぎて、何のことだかわからないって」

「知っているのに直さないのは悪癖だな」

「君は許してくれるから」

 いつの間にか、手のひら同士が接して指を軽く握られていた。左手の指、蕾の部分の近くを伊奈帆の親指がなぞる。

「どんな感じ?」

「どんな、って?」

「この状態。どういう感じなのかなって」

「どんな感じと言われても……」

 伊奈帆の背後。リビングの窓は半分開いた状態だ。外は雨。雨の匂いを大きく吸う。心地よく、不思議と気持ちが落ち着く気がした。

「雨が少し好きになる、かな」

「そうなんだ」

「お前は、どう」

「僕?」

「どう思う?僕のこと」

 伊奈帆は僕の手を見て、顔を見て、繋いだ手をぎゅっと握って、大きく息を吸い込んだ。

「なんか、スンとした匂いがする。空気清浄機みたいな」

 たとえが空気清浄機って……。

 スレインはふん、と鼻を鳴らし、いー、と口を横に広げた。

「もっとましなこと言えないのか?」

「ましなこと……」

 伊奈帆はうーんと唸り、雨の光に透かすように僕の手を持ち上げた。

「この蕾、指輪みたい」

 不思議な色に照り返す薬指の爪の先に彼はそっと唇を寄せ、咄嗟に思いつかないよ、と照れ臭そうに口を曲げる。スレインはぽかんとした後、声を上げて笑ってしまった。


[The breath of flowers]





 雨音。瞼を開き、数度開閉。そして伊奈帆は苦笑する。寝ぼけているらしい。苦いものは嫌いだけれど、こんな時に砂糖を入れないコーヒーがあればいいなと思う。それか、すごく濃い緑茶。今では思い出すだけのものとなってしまったけれど。

 寝室には窓が一つ。覆いはあるが、もうずっと開けっぱなしだ。照明を落とし忘れたかな、と照度を不思議に思いつつ、伊奈帆は瞬きを緩慢に繰り返す。

 それにしても、雨とは随分懐かしい。ふと窓を眺め、見えた光景に伊奈帆はがばりと身を起こす。

「スレイン?ね、起きて」

 その音が錯覚ではないことを確認し、すぐそこにある肩を揺する。くぐもった吐息が聞こえ、大きな欠伸で頭が動いた。

「なんだ?もっとソフトに起こせないか……?」

 ごろん、と仰向けになって目を擦る。髪が枕の上で上下左右に広がるのは寝起きのライオンみたいに見える。

「次からはそうする。それより、こっち」

 伊奈帆は床に下りてスレインの手を引いた。裸足のまま、窓へと駆け寄る。円型の三重窓の外を見て、スレインも声を上げた。

「雨だ……!」

 雨音は錯覚では無い。ガラスの向こうに見えるのは、斜線の雨と海と空。

「雨だ。本物だ」

「うん」

「空の色、青くないな」

「地球とは、大気のつくりが違うんだろうね」

「レイリー散乱?」

「メカニズムを解明すれば、僕らの名前がつくのかも」

「ははっ」

 スレインはくしゃりと笑って、再び空に顔を向ける。彼の顔は、オーロラのような色に惑星の光を照り返している。

「空気と水があるんだ」

 ガラスに両の手のひらを当ててそれかに見入るスレインの横顔を伊奈帆は見つめた。


[雨の惑星]





「あ、また上がってる?」

「ああ。ほら」

 縁側に座ったまま、スレインは右膝をピンと伸ばした。膝下までロールアップしたジーンズ。ふくらはぎのあたりから雫がポタポタ落ちていた。地面は水に沈んでいる。

 昨日はせいぜい靴底が浸るくらいだった。朝にって、水面の高さは地面から約40センチメートル。上がっているのは水位。

 伊奈帆は靴下を脱ぎ、スレインの隣に腰を下ろた。素足を水がひんやりと包む。眺める庭は、日本風の素朴な庭。朝顔や日々草が水に浸りかけ、水面が色付いて見えるのは幻想的な感じだ。水滴の光る花弁が揺れる、透明感のある水の中は涼しげだ。魚が泳いでいても不思議じゃない。

 思いもかけず、世界は静かに沈んでいく。

「時間の問題かな」

「何がだ?」

「虹が出るの」

 スレインは空を見た。

「でも、雨なんか降ってないぞ」

 そして、手のひらを肩の高さで天に向ける。

「そうなんだよね」

 空は晴れ渡っている。夏だというのに、積乱雲は見当たらない。シンプルな青。真っ青だ。雨などここ一ヶ月降っていない。それなのに、水が世界を侵略していく。

「……ああ。創世記?」

「そ」

 笑ってくれた。ジョークは成功したらしい。こんなやりとりも何回目だろう。彼を連れ出し逃げ出してから。確か、今日で二週間と三日。面会室に通い詰めたあの日々に比べると、とても短い期間だけれど、それはもう、ずっと前のことのように感じられる。

「明日には引越しだね」

 高台のこの住居には、四日前についたばかりだった。

「もう何度目だ?」

「四回目」

「まだそんなもんか」

 スレインは脚をぶらぶら揺らす。彼も同じ感覚らしく伊奈帆は庭の花を見た。朝顔なんてもうずっと、見ることさえ忘れてたな。

「どこへ行く?ここまできたら、歩いていくのは現実的じゃあないだろう」

「ボートがある。それで行こう」

 伊奈帆は朝顔の紫色のグラデーションを眺めたまま、スレインに答える。

「そんなのあったか?」

「こっち。来て」

 伊奈帆が先に立ち、縁側を行く。

 彼の指の先は軒下。木製のボートが逆さ向きに梁に渡されていた。

「揚げ船だよ」

「へえ。どうやって、あれ、下ろすんだ」

「下ろす必要はないよ」

 スレインが眉を顰めた。伊奈帆は人差し指を天に向ける。

「僕らが上がっていけばいい」

「なるほどな」

 スレインは即座に納得し、沈む庭へ視線を送った。そう。それは明日か、明後日。もしかしたら今夜のこと。

「どこへ行きたい?」

 伊奈帆は初めて聞いた。

「僕には、行きたい場所なんかないさ」

 案の定、スレインは首を振って苦笑いする。そうだろうなと思ったけれど、ようやくこれを聞く気になった。戻る場所は無くなった。それをようやく実感したのだ。

「お前は?」

 スレインが、腰に手を当て問い返す。伊奈帆は、少し考える。やるべきことは、多分ない。世界のために、誰かのためにできることも。なら。

「南の島とか。ビーチでバカンスは無理かもだけど」

「ははっ」

 言ったら、スレインは大きな口を開けて笑った。こんな笑顔は初めてなので、伊奈帆はまじまじと見つめてしまった。

 スレインが笑いすぎで滲んだ目尻の涙を拭う。伊奈帆は何か言いたくなった。ありもしないことでいいから、何か僕が言えること。

 あ、そうだ。

「どう?イルカがいるかも」

「いいな。行こう」

 晴れ渡る空。広がる海。少年のような君の笑顔。こんなに綺麗なんだ。


[方舟]





 潮風が強く吹き上げ、スレインは慌てて帽子を右手で押さえた。夏の海面の照り返しがひどく目を焼き、顰め面で虚空を睨んだその瞬間。

 パシャ。

 一度だけの、前触れのないシャッター音。

 肩越しに振り向くと案の定、カメラを構えたままの姿勢で伊奈帆が数歩の距離にいた。

「おい、伊奈帆。…いつも言ってるだろう」

「盗み撮りはやめろって?こんなに近くに来てるのに、気付かない方がどうかしてるよ」

 減らず口をつらつら述べる伊奈帆が手にしているのは、カメラといってもサビの浮いた年代物の、重量感のあるレンジファインダーカメラ。

「それに、そのカメラ…」

「撮った画像が見られない、って?」

 スレインは口を尖らせ伊奈帆を睨む。さっきから、言葉を先取りされて面白くない。

 そんな睨みもどこ吹く風で、伊奈帆はカメラを上下左右のあらゆる角度に向きを変え、トン、と底を指で叩いた。

「フィルムカメラの原理は知ってる。設備があれば、現像できるよ」

 真昼の直射日光を受ける伊奈帆の、影一つない大真面目な顔。スレインは怒っているのも馬鹿らしくなり、肩を竦めて海を見た。

「いつになるんだ、それ」

 青天の青海。青一色の地球の風景に、風が波立て白い波間の光を描く。

「それが問題なんだ」

 こんな些細な出来事への、伊奈帆の真剣な物言いが可笑しくて、スレインは笑った。そしてまた、間髪入れずの軽やかな機械音。


[36-shots]





 彼の背中がこんなに胸を抉るとは、今この時まで知らなかった。

「どうかした?」

 夕暮れの海。波打ち際を先に歩く伊奈帆が振り向きそう言った。スレインは、砂浜に残る、先を行く彼の足跡の窪みをじっと見る。そしてその隣につま先を揃え自分の足を踏み込んだ。ほぼ同じ大きさの、スニーカーの足跡二つ。底の柄が違っていることになぜか不思議と安心する。

「お前の背中を見てたんだ」

「どういう意味?」

 直立不動で淡々と聞く伊奈帆が真面目くさって可笑しくて、スレインはクスリと笑い歩みを進める。

「そのまま、言葉の通りだよ」

 スレインは顔を海原の夕空へ向ける。夕焼けのオレンジ色を、鳥の群れが隊列を組み飛んでゆく。どこまで飛んでいくのだろう。そこには何があるのだろう。スレインの視線を追いかけたらしい伊奈帆は、珍しく何も言わずに待っていた。

「僕の背中を見たことあるか?」

 言ってから、変な聞き方をしたものだとスレインは苦笑した。しかし言い直すのもバツが悪く、そのまま伊奈帆の言葉を待つ。伊奈帆はスレインの顔を静かに見つめ、そしてはっきり頷いた。

「ここから、ずっと」

 そして人差し指を空に向けた。先を辿ると見えるのは、薄く浮かぶ半分の月。

「君の背中を追いかけていたんだ」


[君の背中]





「スレイン」

 名前を呼ばれ振り向くと、薄明の砂原に鬼火が一つ揺らめいていた。近づくにつれそれがランタンの火だと知り、ほの灯りを照り返す伊奈帆の表情が浮かび上がる。意志が強そうに閉ざした口元、冷静で落ち着いた眼差し。物言いたげに口が開くその刹那。

「海の向こうを見てたんだ」

 スレインは先んじてそう言った。太陽を隠した水平線に顔を向けると、伊奈帆が隣に立つのが分かった。

「僕は、この時間の海が好きだ」

 夜より優しい暮れの空。波は静か。群青色より淡い海原。風の匂いが冷たく鼻を通り抜ける。月が空に薄らと半円を描き、雲は底に夕の名残を残しゆく。

 こちらの都合や心情なんてお構いなしに、世界はこんなにも美しく日を終え、夜の帷を下ろすのだ。

「肩、冷えるよ」

 肩にふわりと布がかかった。見ると薄手のカーディガンで、それは伊奈帆の私物だ。人肌の温もりがある。スレインは立ち上がった。

「帰ろう」

 この寒がりが、海の寒さに根を上げないうちに。

「うん」

 伊奈帆が右手を差し出した。自然な動きにつられて、スレインはその手を左の手で握る。指先が冷たい、蛸の硬い手のひらだ。

「君の手、あったかいね」

 伊奈帆の言葉が少年らしくあまりに普通の調子で耳に届き、スレインは小さく笑って肩をすくめた。

「そうかな」

 砂浜に残る足跡は、同じ歩幅が近くに寄ったり離れたりを繰り返し、やがて風に消えていく。


[ランタン]





 通学路を帰宅途中、スレインは不意に腕を背後に引かれた。

「わっ…!」

 横断歩道の縞々模様のその上を、ぎょっとするほど近い位置に引越し会社のトラックと土砂を積んだダンプカーが通り過ぎる。

「信号、赤だよ。見えなかった?」

「あ、オレンジ色…」

 まだ掴まれたままの腕の先、左側斜め後ろを振り向く。クラスメイトの界塚伊奈帆が表情こそは常の通りにこちらをじっと見つめていた。呼吸に合わせて彼の肩が上下しているのを見てとり、スレインは素直に頭を下げる。

「助けてもらってありがとうございます。その、考え事をしていて」

「考え事?」

 伊奈帆は眉を顰めて口の端をひん曲げた。そんな彼の表情は、転校以来初めて見る。伊奈帆の右手の力が強まり、腕が鈍く痛みスレインはぐっと息を飲み込んだ。

 伊奈帆が大きく息を吸い、吐き、そして言う。

「止まってしたら。そういうの」

 車道の走行音が足裏から鋭く響く。お互い言葉を失って、やがて信号が切り替わる。

「ほら、青だよ」

 音響装置付信号機の、呑気なメロディが遠く聞こえる夕焼け前の横断歩道。伊奈帆にがっちり腕を組まれ、スレインは引きずられるやうに彼の後をぐずぐず歩く。

「あの、オレンジ色。一人で歩けます」

「問答無用。君に死なれちゃ困るから」

 大袈裟な、と空を仰ぐと飛行機雲の平行線。


[並行世界の君と僕]





ーーーGin a body meet a body

   Comin thro' the grain

   Gin a body kiss a body

   The thing's a body's ainーーー


「それ、何て歌?」

「知らない」

 麦の畑にざわりざわりと風そよぐ。夕焼け前の淡い空色に、水を含ませ過ぎた白い絵の具のような雲がちぎれて浮かんで流れている。

 伊奈帆は踏んだ穂束の感触を足裏に、スレインの横顔に顔を向けた。それに気づいた彼は困ったように少し笑った。

 風が吹いている。麦穂の金の漣の中、二人だけがここにいる。

「名前は知らない。小さい頃、どこかで聞いたことがあるだけで」

「僕、小学校で聞いたことあるよ」

 歌詞は違うけど、と伊奈帆は付け足し、眩しく感じ片目を細めた。午後の陽が射す彼の髪は、この場にひどく似つかわしい。金よりもっと淡い灰金、地下の人工照明においては病的に見えたその色は、風をはらみ獅子の鬣めいて見え、太陽光に眩しいくらいに輝いて見える。

「お前の知ってる、この歌の名前は?」

 伊奈帆は記憶を辿り、空を仰いで今の色を確かめた。

「故郷の空、だったかな」

 彩度の低い鈍色の青。歌の名は、寒々しく風に消える。

「全然違うな」

 スレインが喉で笑うのが聞こえる。

「そうだね」

 風の音は、もう聞こえない。

 ぎゅ、ぎゅ、と歩数の数だけ地面が鳴った。

「でも、君が歌うの、似合ってる」

 そう言い彼の手首を握る。ピクリと一度震えただけで、振り解かれる事はなかった。風が吹く。麦の揺れは波のように彼方の向こうへ伝播する。空は鈍いが高く遠い。ドクドクドクと手首が彼の鼓動のリズムを伝達する。

「ああ、捕まった」

 スレインは言い、肩をすくめて悔しそうに微笑んだ。


[Rye field]





「今日は雨か?それとも花瓶が降ってきたのか?」

 味気ない面会室の机を挟み、スレインは椅子を引いた界塚伊奈帆に戯けた調子で聞いてみた。

「どちらも外れ」

 静止しパチリと瞬いて、彼は朴訥とした声音で言う。そして自分の椅子に掛け、テーブル上に指を組む。

「来る途中、水を引っ掛けられたんだよね」

 作り話か?と聞いてやる。首を振った髪の先から雫が飛ぶ。

「暑いくらいの晴天だから、職員の一人がホースで水を撒いていたんだ」

 水の匂いは無機的で、確かに雨ではないのだろう。伊奈帆が右手で肩を払うと、水滴が不思議に光って大気に溶けた。

 そして沈黙。ジジジ、と電灯の光が音を立てたように思える静かな密室だ。

「なあ、界塚」

「何?」

 スレインは、伊奈帆の背後の壁の向こうを透かすように目を凝らす。

「水をやったのは、それは、何の花に?」

 伊奈帆は答えず、目を伏せ机をタタンと弾く。


[終末世界]





「僕、朝が好きだな」

 お前が真昼の海を見そう言ったのは、海辺の街に滞在した時だったと思う。青いチェックのテーブルクロスと、黄色い庇の影が明るいカフェ・テラス。指の先の三角形の影が潮風にはためき、足元を通り過ぎた丸々太った縞猫の長い尻尾を覚えている。

「星もいいけど、朝がいい」

 理由を上手く説明することはできないけれど、とお前は氷の溶けて薄くなったカフェオレのグラスを手に取り続けた。僕はなんとなく憂鬱な心地になり、テーブルの隅でぐしゃぐしゃになったストローの蛇腹の袋を手元に引き寄せ雫を垂らした。

「僕は、朝はあまり好きじゃない」

 水を吸い、ぐねぐね蠢く紙の切れ端を見て思う。生きているように見えても、実際命があるのかなんて外から分かりはしないのだ。

「知ってるよ」

 お前も自分のストロー袋を取ってぐしゃぐしゃ握り、そこに雫をポトポト落とす。

「いいんじゃない」

 二つの袋は戯れ合うようにうねり動き、やがて動きを止めてテーブルクロスにへばりつく。

「僕と君、好きと嫌いで、半分ずつでさ。そんなもんだよ」

 ストローで指し、この遊び、小さい頃は好きだった、と界塚伊奈帆は笑っていた。


 あれから何度目の夏だろう。僕が今住むこの街には、海は無いし猫もいない。オープンカフェも潮風も、夏の日差しとはためく地面の濃い影も。

 窓から見える街の色は暗色だ。夜明けの前に目が覚めて、窓を開けて外を見る。そんな癖がいつから身についたのだったか。

 やがて空の色が、人為的なまでに劇的に変化を始める。みるみるうちに朝が街を僕を取り込んで、闇に隠れて見えなくなっていたものを次々暴き眼下に晒す。

 それは恐ろしい光景だ。しかし、世の理の絶対的の美しさで、僕はいつも立ち竦み、瞬き一つできなくなる。


 お前はいないのに。

 お前がいないのに。

 朝はこんなに美しい。


 お前のいない世界の姿を、美しく思う僕がいて、お前はきっと、それを笑って見ているんだろう。全てが思い通りになった、と。



[朝を迎えに]





 クリニャンクール蚤の市を冷やかすのが、僕の日曜日午後の楽しみだ。年代物の、がらくた同然の品々の多くは拭いきれぬ手垢や欠けや罅割れがあり、僕の生まれる以前からこの場に存在したに違いない。チープな指輪に模造品のネックレス。流行遅れの茶器やグラス、カラトリー、所々塗り潰された古びた書物に黄ばんだ雑誌のバックナンバー。籠に盛られたガレット・デ・ロワの陶器のおもちゃ。そういう、良く言えば味わい深い、うらぶれた品々が二千を越えるスタンドにぎっしりと並んでいる。歩き、立ち止まり、それらの一品一品がここに至る道程に想いを馳せるのは、時間旅行をしているようで面白い。ただ今朝の、色様々なスタンド屋根の布の張り、クロスの並びや品物の質感が冴えぬ冬の曇り空は、少しばかり不本意ではある。

 僕は陶器や硝子をよく手に取る。絵画なんかも割と好きだ。写真は、色の褪せたポートレイトや煤けた白黒写真にぐっとくる。なので、その一枚が目に止まり、足を止めてよくよく凝視したのも僕にとっては至極自然な事だった。

 藍色のクロス、ポストカードや作者不明の小さな絵画、知らぬ映画のパンフレットが角を揃えて並ぶ中、スタンドの折り畳まれたフォトフレームが一つある。色の褪せたカラー写真はひとりの青年。表情に惹かれて僕はそれを手に取った。

 海をバックに、靡く髪を掻き上げてこちらを向いた一枚だ。服装からして、夏か春の終わりだろう。一〇代後半から二十代前半くらいの、顔立ちの整った北欧系の男性だ。プラチナブロンドにグリーン・アイ。吊り目は懐かぬ猫のようだ。カメラに向けて眩しそうに目を細め、前歯の先が見える苦笑い。背後の空に、鳥の影が三つ黒く落ちている。

「それ、気に入りましたか?」

 言葉とともに、店主がひょっこり顔を出す。意外にも、ローティーンの快活そうな女の子だ。ストレートの黒髪をポニーテールにしており、榛色の大きな瞳がウインクをする。

「えっと、うん。かっこいいね、この人」

 少女はにっこり微笑んだ。口の形がアルファベットのV字で、こまっしゃくれて可愛らしい。

「買っていく?€5だけど」

 僕は彼女の顔と写真の青年の顔を交互に見比べしばし考えた。そして、写真を元の空いた場所にスタンドを立てて戻すことにした。

「やめとくよ」

 どんな物にも、相応しい人がいる。特に、歴史を傷や褪せることで刻んだ品々について。この名も知らぬ美しい青年は、写真の中で今も息づき待っている気がした。

「そう?」

 少女が肩を竦めた。彼女は見慣れたであろう写真を見つめ、通りの方に顔を向け、そして僕に視線を向けた。

「どうしてスタンドを立てたの?」

 僕は再び写真を見た。通りに向けて、見上げる形に立てたのは。

「なんか、誰かを待ってる気がして」

 笑顔にしては寂しそうで、涙は流れていないのに、まるで泣き笑いのようにも見える。

「ロマンチックね」

 少女は往来を眺めた。


[いつかどこか]





「…伊奈帆、…これ」

二月七日、待ち合わせ場所の喫茶店。午後二時二十五分という、指定時刻の五分前。奥まった窓際席にスレインを見つけ右手を挙げて近づく伊奈帆に、立ち上がった彼は薔薇の花束を差し出しそう言った。

「えっ」

思いもよらぬ事だったので、伊奈帆は目を丸くして間抜けな声を出してしまった。スレインは肩を竦め苦笑する。

「誕生日おめでとう。受け取ってくれるか?」

 役者のように気障な仕草が様になる。うっかり見惚れ、一呼吸し伊奈帆はそれを受け取った。

「もちろん。…ありがとう、びっくりして」

 数え好きの伊奈帆は、受け取るやいなや薔薇の本数と意味を悟り頰を掻く。大輪の、見事な赤薔薇十二本。これは確か、ダズン・ローズという特別な意味を持つブーケ。スレインを見ると、照れたにやけ顔で小首を傾げこちらを見ている。書き入れ時のカフェの来客、店員たちの視線の集中砲火を感じる。

 何かを期待されている。何かって、多分、僕の返答なんだろうけど。

「参ったな、シャイだから」

 伊奈帆は呟き痒くもない頰をもう一度掻く。ギャラリーはともかく、スレインに対しては誠意を見せるべきだと感じ、ダズン・ローズに込められた意味を思い出す。十二本のバラは、贈る相手への“感謝、誠実、幸福、信頼、希望、愛情、情熱、真実、尊敬、栄光、努力、永遠” という誓い。受け取ったら、その中の一つを選び誓うのだ。

 伊奈帆はクスリと小さく笑った。朴念仁の自分が、いつの間にかこんな事まで知って忘れず覚えている。胸の中がこそばゆいような、ブランコの浮遊感のような、不思議な感覚がする。聞こえる音は戸外の風音、ファンの電動音、控えめな音量のジャズ・ナンバー。他の座席の客たちも、ウエイターもマスターも、そしてスレインも、固唾を飲んで待っている。棘に気をつけ、伊奈帆は最も瑞々しく若い一輪を束からそっと抜き出した。顔に近づけ、一度深呼吸をする。いい香りだ。何度も覚えのある香りだが、今が一番綺麗だと思う。

 伊奈帆は茎をぽきりと折った。背筋を伸ばし、口を開く。

「幸福。…幸せを」

 薔薇を持つ手で向かって右側の金糸を梳き、見開く猫目に笑いかけて慎重に、棘が傷を作らぬように耳の上に花を飾る。

「一緒にいようね、ずっと」

 戻す手が、引き戻されて重なった。

「…うん」

 控えめだが暖かい拍手が店内に広がった。


[2/7]





 窓枠に背を預け、彼の身体の左側が影絵となって空の色を切り取っていた。ドアの近くで足裏を縫い留められたように突っ立って、夜明けの窓に佇む彼を僕は見た。目まぐるしく色を変える朝焼けの群青が横顔に落とす影の形はひどく危うく見えたのだ。

「こんな時間に、どうした?」

 目も顔も外に向けたまま、スレインは言った。日の出の光が部屋の闇を暴き始め、大家の埃が光線に躍る。

「君こそ。早起きだね」

 当たり障りのない言葉が、こんなに場違いに聞こえるなんて誰が思う?伊奈帆は床に浮き上がるスレインの影を大回りし、彼の反対側の窓枠に歩み寄る。ガラスは冷たく冴えていて、突き抜ける朝日は呼気で白く曇った。

「地球では、朝と夜が互い違いにやってくる」

 スレインが、暁光に顔を染められた無表情で口を小さく動かした。北欧人種の白い肌が、オーバーサイズの綿シャツの襟から無防備に覗く。静脈の透ける首から鎖骨にかけての造形が、よく出来た塑像のように見え、伊奈帆は目を顰めた。

「小さい頃は、当たり前だと思っていた。でも、そうじゃない」

 スレインはチラリと伊奈帆を一瞥した。感情を遮断した瞳には、およそ温度というものがない。何度も見てきた彼の目は、暗闇そして薄汚い電灯の下に獣のように鋭く見えたものだった。

「僕は、朝が来るのが恐ろしい」

 朝の光を映す碧の虹彩は、微細に揺れて色を変える。痛々しくて見ていられずに、伊奈帆は窓の外に目を向ける。

「だから、朝を迎えに来たってわけ?」

 伊奈帆の言葉にスレインが短い息を吐き出した。クローム・イエローの絵の具のような光が眼下に見える世界の形を油絵のように浮き彫りにする。

 少し違う、とスレインはシニカルに微笑み頭の重さをガラスに半分押しやった。

「待ち伏せだ。僕は、朝を殺してやりたい」

 おっかない、と肩を竦めて伊奈帆が言う。スレインは喉で笑って目を閉じた。


[刺さる朝]





鼻の頭に落ちるのが、白いひとひらだと気づく。

「雪になったな」

前を歩くスレインが、肩越しに見返り微笑んだ。弾んだ彼の声を聞き、伊奈帆は肩を軽く上下させて空を見た。雪片は軽く、羽毛のようにひらひら舞って落下する。

「積もるといいね」

歩道の足跡は、濡れた靴裏の形をしているだろう。重なる雪が凹みになる瞬間の、キュッという小気味好い音を想像する。スレインは歩く速度を緩め待ち、伊奈帆の隣に並んで聞いた。

「お前、寒いの嫌いじゃないのか?」

心底不思議そうな彼の声と丸い目と。出会った時より大人びた鋭角な頰の曲線を眺める。単純な親しみを浮かべる瞳の、かつての強い眼差しとの対比についてぽつりと浮かんだ感傷を、鍵のついた引き出しにそっとしまうように伊奈帆はゆっくり瞬きをした。

思えば不思議な関係だ。敵だった。狡猾だが果敢で捨て身の、火星の孤独な地球人。偽りの処刑という檻の中、暗く光る彼の瞳は手負いの獣のようだった。

ーーーどうして、殺してくれない、と。

語る目をして口を閉ざしていた場所は、雪の降る日の寒空よりもずっとずっと寒かった。

あの時に、手を掴んだのは何故だ。

トリガーを引かなかったのは何故だ。

何度も会いに来るのは何故だ。

問う目の碧は凍てつく炎のようだった。

「寒いのは嫌いだけど、雪は好きなんだ」

雪の降る日の空気の味。

雪が覆う世界の形。

雪の空。灰色の雲は蓋のようだ。

シャリ、と溶け損ねた雪の欠片を踏み潰す。

「雪の落ちる速度の中は、時間がゆっくり流れるみたいに思えるんだ」

スノードームの中に、まるで二人閉じ込められたみたいだと。伊奈帆の言葉にスレインは少し間を置き首を振った。

「お前、少し変わったな」

呆れたような声は優しい。

「どういうところが?」

スノードーム、という単語は彼の母国に近い発音で伊奈帆の耳に澄んで届く。

「情緒があって悪くない」

スレインは跳ねるような足取りで、しゃり、しゃり、しゃり、と雪を踏む。柄にもなく褒めたことを、素直に照れているようだ。

「もしもスノードームなら、雪が止んだら世界はひっくり返るだろうな」

詩的な彼の言葉にしばし、伊奈帆は考え込み聞いた。

「ひっくり返すのは誰?」

シャリ、と雪がまた壊れる。

スレインは振り向き、好戦的な瞳で笑った。

「僕か、お前か、どちらかさ」

平行線の足跡は、歩幅を合わせて続いていく。


[スノードーム]





「おはよう」

伊奈帆がキッチンから声をかけるとスレインは寝室とリビングの境界で足を止め、肩と顔を大きく跳ねさせこちらを向いた。

「ああ、おはよう」

日曜日の午前九時。天候は晴れ。秋風がカーテンの裾を揺らし、室内は明るい日差しで影も穏やか。それなのに、スレイン はまるで幽霊でも見たようなおかしな顔をして、ぼんやり立ち尽くしている。

「どうしたの?変な夢でも見た?」

伊奈帆はコーヒーメーカーに豆と水ををセットしながらそう聞いた。

「……夢?……ああ」

そうかもしれない、と呆然と呟き、スレインは狭い歩幅でダイニングテーブルへ歩み寄り、座って机に肘をつき頭を抱えた。伊奈帆は食器棚からマグカップを二つ手にして盆に置き、コーヒーが出来上がるのを冷蔵庫に凭れて黙って待った。スレインは考え込むように視線をテーブルの木目の一点に定めて塑像のように微動だにせず座っている。室内には沸騰と気まぐれに飛び込む囀りだけが音を添えた。

静かな朝だ。まるで時が止まったかのような、そんな秋の朝。

「……伊奈帆」

スレインが顔を上げて伊奈帆を見た。この世の終わりのような顔をしている。

「何?」

伊奈帆は、スレインの揺れる瞳の翡翠の色をじっと見た。その目の中、瞳孔が緊張を伴い収縮し、乾いて割れた唇が開く。

「僕は、どうしてここにいるのだったろうか?」

ゴポゴポ、と断末魔のような激しい音を立て、コーヒーが出来上がった。


[ドーナツホール-2]





旅の途中。古めかしいホテルの一室をリザーブし三日になる。伊奈帆は散歩がてら、適当な軽食を買いに出て、帰る道にいた。風は乾燥していて、匂いはない。視界は古煉瓦の高い外壁に切り取られ、見上げた先にある細長い青空は短冊のように見えた。

観光目的ではない旅路は、期間も行き先も決めていない。遠くや未来を見なくて考えなくても良い「今」は、気楽で新鮮に感じられた。

ホテルに到着し、自室である十九号室の扉のドアノブを回す。

「ただいま、スレイン」

家ではないが、そう言った。

「ああ、おかえり」

返事は窓から。窓枠に腰掛け、立てた膝に肘をつき、気怠そうな表情で微笑んだ。片方開いた窓から風が入り、黄ばんだレースのカーテンと褪せた色の金の髪を揺らした。

「早かったな」

気の無い声でも、スレインがそんな気の利いたことを言うのは珍しい。

「そうかな」

現在時刻は十三時五〇分。出て戻ってくるまで二時間弱。早いのか遅いのかは、捉え方次第だろう。

伊奈帆は室内のテーブルにファストフードの紙袋を置いた。

「何が見えるの?」

この宿で起きて過ごす時間の大半を、スレインは窓に腰掛け外を見ることに費やしている。その理由が気になった。

スレインは窓の外に視線を向けたまま首を振った。

「何も」

気のせいかと思うほど小さな呟きが聞こえた。

「何も?」

伊奈帆が聞き返すと、スレインは片方の膝を両手で抱えた。

「それならどうして、窓の外を見ているの?」

そんな、悲しそうな顔で。

スレインは伊奈帆を一瞥し、そして額を膝に乗せ、体を折り曲げ俯いた。

「似てるんだ」

何に、とは聞けなかった。


[北の街]





インターホンに伸ばした人差し指の先の皮膚が割れていた。

そのせいではないが、スレインは出した指を冬の冷気で冷え切ったボタンに押しつけることもできず、かといって戻すこともできず、視線を玄関の表札に動かし次にもう一度右手の指の皹を見た。


この家で過ごした日々は、そこ以外で過ごした時間に比べると短すぎた。ある日、急に窒息しそうな息苦しさで足が動いてこの扉を内側から開いたんだ。朝焼けはどんよりと灰色で、生温い風が腕にまとわりついた。地面は蹴るたびくぐもった音を足裏に返した。

夏の曇った朝だった。

薄手のシャツを着て、少し色があせたジーンズを履いて、まだ数度しか足を入れていない靴を履いて。両手にも、ポケットにも何もない。それだけで僕は唐突に家を飛び出した。父の形見のペンダントすら置いてきた。この命以外は何も持っていなかった。


もう長い間。僕を閉じ込めるどの扉であっても、その向こうは、そこにある世界とは、僕にとっては僕の存在が抜け落ちた現実だと漠然と思っていた。世界中の人に憎まれて、彼らの怨嗟に吸う空気は真黒に澱んで、僕の居場所なんてどこにもないと思っていた。扉の向こうには決して。僕のしたことを思うとそれは当然のことだけれど、諦めたふりをして、そのくせ僕はそこに行きたかった。与えられた部屋は安全でこの上なく穏やかで、僕がついぞ得ることのなかった家庭というのは、このように暖かい場所なのだろうかと考えた。不満はなかった。しかし、僕は怖くなった。理由は今となってもはっきりしない。とにかく逃げるように扉をこじ開け飛び出した。

多分、僕はずっと消えたかった。でもあいつがいると、僕はちっとも消えられない。あいつは僕に食べろと言い、寝ろといい、口喧しく世話ばかり焼いて、本当に鬱陶しい。生きることが多少上手にできるだけで、あいつは変化の少ない表情でこっちを見て笑うんだ。それがたまらない。だって、こんな僕が生きているだけで、ただ生きるというだけで、ひとりの人が笑うんだ。彼から逃げたというよりは、安らぎを感じ始めた自分から逃げたかったのかもしれない。

いざ出ると、世界に想像していたどろどろと恐ろしい怨念の渦は、妄想にすぎなかった。実際には人が居ただけだった。大人も子どもも、家族もひとりも、生きている人たちが街を、道を行き交い、物を売り、田畑を耕し、世界の一部として呼吸をしていた。僕に対して彼らの多くは無関心で、たまに向けられる悪意と善意はあくまでも人間らしかった。

そうか。世界というのはまやかしか。人は一人でしかないのか。僕が誰でも、生きていても死んでいても、ほとんどの人にとっては取るに足らないことなのだ。

そう知ると、どこへでも行けるような気がした。僕は歩いた。バスや船に乗り、見知らぬ人の隣に座った。鉄道の車窓から空を見て、飛行機の小窓から海を見た。人が住んでいて、どこかで誰かが笑い、同じ時に誰かが泣き、誰かは走り、誰かは眠る。それが命ということか、と。

あてのない旅の途中、時々は死にかけたが、同じくらい笑える日があった。僕は、まだ僕が笑えたんだということにまず驚き、そして泣いた。泣いたことにも驚いた。まだ心なんていうものがあって、壊れたと思っていたのにまだ涙を流す事ができたんだと、胸を掻いた。心臓の上には何もなくて、置いてきたペンダントとそれを見つけただろう男の顔を思い出した。煩い小言や長いウンチクが恋しくなった。心配をかけたいわけではなかった。土地を愛する人々から旅の共にと押し付けられる絵葉書を膝に乗せ、どこかの駅で貰ったボールペンをノックし、僕は何度も手紙を出そうとしたのだけれど、宛先が書けなくてその手紙は出せないまま鞄の底に溜まっていった。僕の手には、いつのまにか鞄があって、帽子があって、傘があった。くれた人の顔は、もう一度会ってもわからないだろう。でも、みんな微笑んでいたことだけは覚えている。


あいつに会うため、記憶を辿りやってきた。しかし、扉の前で僕は途方に暮れている。あいつは僕のことなんか、果たして覚えているのだろうかと。

界塚伊奈帆。

ほんの三ヶ月だ。この家でともに暮らした厄介者のことなんて、彼は忘れているのではないだろうか。現に、世界はそうだった。僕が世界と思い込んでいた人々は、第二次惑星間戦争首謀者の大罪人に無関心だった。名前すら、今では知らない人も多かった。世界にとって僕は一人の人間に過ぎず、彼にとっても一度道が交錯しただけの他人だということに気付いてしまった。


もしかしたら、もうここにはいないかもしれない。


表札にはあの頃と変わらず、何も書かれていない。まだここに、彼がいるのかわからなかった。この国では、夏がもう十一度過ぎた。一緒にいたのは三ヶ月。いなくなって四十六ヶ月。あまりに長い。今は冬。気温はさほどでもないはずだ。しかし、冷え冷えとして凍えそうに指に感じる空気は冷たい。

息を吐く。白く染まった。息を吸う。肺まで凍るように思う。


もし、ここにいなかったら。

もし、忘れられていたら。

もし、邪魔だったら。

いや、それよりも。

もし、彼が死んでしまっていたら。今はもう、 世界のどこにもいなかったら。


引っ込めようとした人差し指の関節の皮膚が、ひびのように赤く割れ丸く曲がり、目が古ぼけたスニーカーの爪先の破れを認めた時。


「おかえり」


声がした。見ると、数歩のところに目を丸くした男が立っている。マフラーに手袋、ダウンジャケットと着込んだ下、街灯を受けて軍服の釦が鈍く光っていた。左手には、丸々と膨らんだナイロン製の買い物袋があった。葱が持ち手から飛び出していて、味噌汁の香りが思い出された。

ダイニングテーブルに並んだ白いご飯と箸、湯呑み。緑の色の茶の香り。最後に置かれる卵料理と、毎日繰り返された軽口。

界塚伊奈帆は生きて、そこにいる。

「スレイン」

僕を呼ぶ声は、あの頃と変わらない。顔はずっと精悍になった。ドアの前に二人並んで、伊奈帆の右の目尻に小皺が寄った。

「長い家出だったね」

近くで見ると、顔の皮膚に消えて白くなった小さな傷がいくつもあった。笑顔は前よりずっと柔らかい。喉がつっかえて、唾をごくりと飲み込んだ。鼻の奥が痛い。急に声が出にくくなった。

覚えてた。僕を。

「伊奈帆…」

名を呼ぶと、伊奈帆はスレインの肩を軽く叩いた。

「どこに行ってたの?ずっと待ってたんだから」

待ってたのか。何も言わずにいなくなった僕を。送れなかった手紙には、いつだって同じ言葉が並んでいて、日付だけが刻まれて、鞄の底、最初に書いた絵葉書はもう布地で擦れて読めなくなった。

「…伊奈帆」

「うん」

「…僕は、 君に言いたいことがあって」

「うん」

「……なあ、伊奈帆。…僕は」

裏返った声でみっともないとは思ったが、伊奈帆は手袋を外して背をさすってくれた。

「うん」

手紙を、出そうとしたんだ。これだけは、お前に届けなければと思っていた。一枚目を書いてからずっと。

擦れて滲んだインク。宛先も、差出人もなく重なった、擦り切れた絵葉書のたった一文。

「僕は生きてるよ」

僕は生きている。そのことを、僕は君に伝えるために来たんだ。

伊奈帆は眉を下げた。そんな笑い方をするのを見るのは初めてだ。

「見れば分かるよ」

でも、と彼は続けた。

「良かった、生きていて。お腹空いてない?カレーと肉じゃがと、どっちがいい?」

何年経ってもこういうところは変わらない、とスレインは笑った。伊奈帆はくすぐったそうに肩をすくめて、ポケットから鍵を取り出した。

「君は自分で出ていったから、また会えるなら、きっとここだと思ってた」

この扉に、外側から入るのは二回目。

鍵が回り、扉が開く。暗い廊下がパッと明るく照らされる。

「おかえり、スレイン」

伊奈帆が言った。彼の立ったドアの内側は、今まで見てきたどんな場所より明るく見える。

右足を上げた。足って、こんなに軽かったか。視界はこんなに広かったか。心臓はこんなに大きく鳴っていたか。

呼吸は、こんなに楽だったのか。

「ただいま」

玄関を跨ぐと出汁と味噌の香りがした。


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