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▽of the worldー光ー△

  • 執筆者の写真: μ
    μ
  • 5月19日
  • 読了時間: 31分

更新日:6月15日

パパパパ、パン!

「ハッピーバースデー、スレイン」

合計五つのクラッカーから時間差で飛び出す紙テープと紙吹雪の洪水を受け、スレインは喜ぶとか驚くとかより先に瞬きをして目のチカチカを緩和する羽目になった。火薬の臭いが充満するリビング・ルーム、テーブルには常より豪華な夕食メニュー、シャンパン、グラス、新品同様のカトラリーがずらりと並ぶ。その中心には、スタンダードなイチゴのバースデーケーキがどでんと存在を主張している。

「ああ、えっと、…ありがとう」

答える間にも、伊奈帆は既に右手の指の間に器用に握った五つの円錐形をすっとテーブルに置き、次のクラッカーを指の間に装着している。そのまま構えに移るので、スレインは慌てて両手で遮る。

「それはもういい、見ての通り紙吹雪でずぶ濡れだ」

伊奈帆は右足を踏み出し、クラッカーの紐をしっかと握りしめたまま、大きなわざとらしい瞬きをした。

「お祝いの気持ちだよ。口下手だから、せめてこれで盛大に」

ウキウキと弾んだ声である。こいつはこういうイベント事が好きだったな、とスレインは思い出した。

「お前、楽しんでるだろ」

ジト目で睨むと、伊奈帆は素直に頷いた。

「まあね。そりゃそうだよ」

そうして、冬の日差しのような明るいはにかみ笑いで言う。

「生きてる君をお祝いできるの、嬉しいよ」

もう五年。面会室で、独房で、中庭で、応接室で。まだ極秘施設にいた頃から今に至るまで、告げた覚えのない誕生日を祝い続けた伊奈帆の本音が、今ようやく聞けた気がした。

生きてもいいんだ、と今更のように胸に落ちる。やっと、未来という言葉の意味が分かりかけたような気がした。

伊奈帆は連写用に装着していたクラッカーを机に並べ置き、胸ポケットに手を入れて、ライターを取り出した。ケーキに並んだ蝋燭に、一つ一つ火が灯る。長いのが二つと短いのが二つ。二十二という意味の炎。

「はい、主役は炎を吹き消して」

伊奈帆は規律良く並んだクラッカーの右端一つを右手に握った。数は妥協したらしい。

「ほら、ふう、って」

「わかったよ」

スレインは、ケーキの近くに顔を寄せる。手作り特有の、菓子の優しい甘い匂いを吸い込んだ。

バースデーケーキの蝋燭は、願いを天へと運ぶのだという逸話を思い出す。それを父に聞いたのは、寒い町での雪の誕生日だったように思う。

叶わぬ願いしか持ち得なかった自分だが、願いを今も持っていることに驚いた。

「伊奈帆」

顔を巡らせ名を呼ぶと、瞬きの返事。隻眼の褐色に微笑みかける。

「来年も、お前のそれが聞けますように」

彼の右手のクラッカーを目で示す。伊奈帆は頷き晴れやかに笑った。

「来年は、十六連写をお見舞いするよ」

ふうっ、と呼気が炎を煙に変える。そして聞こえるクラッカーの破裂音が、願いを天へ運ぶ推進力。


[1/11]





 雨上がり。夕暮れ時のスクランブル交差点で伊奈帆が信号待ちをしていると、バサバサバサッと鳥の羽音が近くで聞こえた。音につられて上を見る。撓んだ電線に烏が四羽。飛び去った影が三つ、オレンジ色の空の向こうに飛んでいく。

 地上に電線なんてあるんだな、と思う。

 線を辿って電信柱を眺めると、植物の蔦と葉が下方からコンクリートの表面を侵食していた。横断歩道の白線は所々ひび割れのように途切れている。歪な形の水溜りが、あちらこちらに出来ていた。

 伊奈帆からすれば古めかしい自動車が一台だけ通りすぎる。黒い排気ガスの臭いが独特だ。

 歩行者信号が青に変わり、呑気な音が流れ出す。通行人は伊奈帆を含め五人だった。無言の会釈で行き交い伊奈帆はそして空を見る。電線の向こう烏の向こう、赤とオレンジ、ピンク、紫のグラデーションの空。

 そこに浮かぶ月は丸い。

 無いものがあるというのは、なんとも不思議な光景だ。

「伊奈帆!」

 少し遠く、前方50メートル程から声がした。顔の横で手を振って、伊奈帆の場所に駆け寄ってくる。右手には傘を持っていた。ひょろっと細い華奢な体躯の肌も髪も、夕陽の色でオレンジ色に染まっている。

 こんなに大きな声を出せたのか、と揶揄い混じりの言葉が浮かぶ。

 しかし、言うのはやめとこう。

 交差点の真ん中で、二人の距離はゼロになる。

「スレイン。どうしたの?」

 とりあえず聞く。スレインは右手を持ち上げ、大振りの蝙蝠傘を伊奈帆に見せた。

「雨が降ってたから、傘を持ってきてんだけど」

 大仰に、薄い肩を竦めて見せた。

「すっかり止んだ」

 スレインの目が空を見る。伊奈帆は、彼の瞳に映る空の色の変化を見た。

 空を映していた瞳に、自分の姿が映り込む。

「雨は止んだが、せっかくだから迎えにきた」

 スレインがくしゃりと笑い、伊奈帆もつられてくすりと笑った。

「ありがと」

 肩を並べて歩き出す。アスファルトの水溜りが、二人分の爪先に蹴られピシャンと跳ねた。


[虹]





「こうやって、広げた状態で手のひらの上に乗せる」

 日曜夕刻のリビングルーム。ソファ前のローテーブルに対面し床に座り、伊奈帆はスレインに左手のひらを差し出し示す。

「こうか?」

 スレインも、テーブル宙空へと左手のひらを差し出した。伊奈帆はうん、と頷いて、テーブル上のステンレス製ボウルに右手の指を浸す。水面に、円形二重の蛍光灯の白色光が映り込む。

「それで、円周上に半周、水をつける」

 伊奈帆の左の手のひら上に弧を描く。彼の右手の辿った後は濡れて光を反射する。

「こう?」

 スレインは肘を開いた不恰好な姿勢で同じ事をする。伊奈帆はまた、うん、と深く頷いた。そして、先ほどよりも大きなサイズのボウルの内側に立てかけた匙を手に持ち、粘性のある中身をひと匙掬い取る。

「タネをスプーンで掬って、中心に乗せる。少ないかな?と思うくらいで丁度いい」

 テーブル女でスプーンを手渡し。スレインはまた肘の上がった力の入った格好で、ひと匙タネを掬い取る。

「このくらいか?」

 こんもり乗った肉ダネは、若干多めに見えた。しかし、伊奈帆は頷いた。家庭料理に数グラムは誤差。味付け以外に、さほどの厳密さは必要ない。

 網戸から、初夏の風が吹き込んだ。日除けのレースカーテンが揺れ、赤い西日が、窓の近くに窓枠の形、群青の影を落としている。

 ホットプレートの、温度管理のランプの点滅が止んだ。伊奈帆はダイヤルを約十二度の角度で捻り、目盛りを保温の状態に合わせる。

 そして、手の中の生地をささっと包んで摘み上げる。

「半分に畳んで、開かないよう襞を作って接着する」

 スレインは身を乗り出した中腰で、伊奈帆の手元を覗き込む。首を傾け眉を寄せ、首元の、伸びた襟足が夕風に靡き鎖骨の上でチラチラ揺れる。

「……伊奈帆。それ、どうやるんだ?」

 伊奈帆はもう一度、生地を手に置き湿らせて、タネを置いて襞を折る。

「こう」

 おお、と嘆息が漏れる。スレインは目をキラキラさせて、テーブル半分乗り出した姿勢で伊奈帆を見つめた。

「上手いな、お前」

 その笑顔。あんまり衒いなく、またあどけない笑みであったので、伊奈帆はぱちぱち片方の目を瞬いた。

「町内会のお祭りや、学園祭でも大量に作ったからね」

 視線を逸らし、早口でそれだけ言った。

「チョウナイカイ?ガクエンサイ?」

 俯き手際よく二つほどのタネを包む間に、スレインの疑問符だらけのカタコト発音が聞こえた。伊奈帆が顔を上げると、先刻とは反対方向に首を傾げてキョトンとしている。

 思わずぷっ、と吹き出した。

「要するに、年季が違うってこと」

「ネンキ……?」

 こてん、とまた反対方向に首が曲がる。これ以上は、解説しすぎるいつもの癖が出てしまう。そう思い、伊奈帆はニラの緑と油がついた鈍く光るスプーンを、ぐい、とスレインに押しつけた。

「じゃあ、包むのは任せるから。僕は焼きに入るね」

 ホットプレートの蓋を開ける。指でパパっと水を落とすと、ジュジュッと小気味良い蒸発音が弾け飛ぶ。

「分かった」

 スレインは、大仰な手つきで生地を手に乗せ慎重に水を端に塗る。伊奈帆はプレートにサラダ油を引き、木の葉形に包んだ生地を列を揃えて菜箸で整然と並べ始める。

「焼き上がったら、適当に食べてね。焼き立てが美味しいから」

 とりあえず十個。片栗粉がとごる軽量カップを菜箸で攪拌し、目分量でプレートへ注ぐ。

 じゅわわっ、という音と大量の湯気が生じ、湯気の先をスレインの目が追い首が上に傾いた。

 口を開いて、隙だらけ。なんていうか、間抜けな顔。

 伊奈帆の口元に笑みが浮かぶ。それに自分で気がついて、伊奈帆はプレートに蓋をした。

 窓枠の四角には、青からピンク、そして赤のグラデーション。風に乗り、遠くの場所の、犬と猫と子どもの声が聞こえて来る。


[餃子パーティー]





 嫌になるくらいの、絵に描いたような晴天だ。

 スレインは気怠い手つきでリビングのカーテンを纏めフックに引っ掛け、眩しすぎる朝日を背に浴びキッチンへ向かう。途中、足先に引っ掛けていたスリッパが投げ、二歩引き返し爪先をごそごそと奥に入れた。

 キッチン壁の小窓を半分ほど開く。朝の匂いが吹き込んで、それがあまりに清涼で、なんだかあまり面白くない。

 冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、シンクのコップで一息に飲む。頭が少しクリアになる。後ろ手に、スウェット越しの背を掻いてスレインはもう一度冷蔵庫を開けた。

 さて、何を作ろうか。

 食材を確認する。卵はまだ三個ある。小分けのベーコンが1パック、封を切ったソーセージの袋、半分に切ったリンゴ、野菜室にはレタスとクレソン、ミニトマトが八粒。

 冷凍庫には、六つ切りの角食パンとバケットもある。

 ジャムは、何があったかな。

 スレインが下段の野菜室を閉じ上の扉に手を掛けた時、寝室の方向から電子音が流れ出す。慌てて寝室へと向かう。その間にも、徐々にボリュームアップするベルの音。

 耳障りなはずのそれに、心が軽く弾んでいる。

 自身の心境に気づき、誰も見ていないのにスレインは不機嫌な顔を作って負け惜しみを頭の中でぼそぼそと吐く。

 別に、寂しいってわけじゃない。あいつがいると何かと小言で口喧しいし鬱陶しいし、朝は早いし説明は長い。

 スマートフォンの画面には、ゴシック体の"Inaho"の文字。表示された呼び出し時間は45、46、47、48…。

 一度大きく息を吸い、51秒で通話ボタンをスレインは押す。

「はい」

『おはよう。寝てた?』

「起きてた。電話をベッドに置き忘れて…」

『そういうとこあるよね』

 通話口の向こうで、くぐもった笑い声がした。機嫌が良さそうだ。伊奈帆がこれほど分かりやすく気分を表明するのは珍しいな、と思う。

 スピーカーを耳に押し付ける。向こうの音が骨伝導で脳に伝わる。

『ねぇ、もう朝ごはん食べた?』

 呑気なやつ、と呆れ半分で彼の声を聞き、スレインはベッドに座り部屋を眺める。寝室の姿見に映る自分の口元が笑っているのが横目で見えた。

「まだ。これから作ろうと」

『じゃあ食べないで待ってて』

 カンカンカン、と声の後ろで聞き覚えのある音がする。アパートの、スチール製の外階段を登る音。おや、と思いスレインは窓の青天を見上げ口を開く。三つの小さな影が部屋の壁を飛ぶ。窓枠の青を鳥が横切り行ってしまった。

「お前、今どこにいるんだ?」

『鳥が三羽。ヒヨドリだ』

「伊奈帆…」

 腰を上げるとピンポーン、とインターホンが能天気に鳴った。


[鳥と風]





 日曜日、午前七時二十三分のキッチンで、沸騰した湯がなみなみ入った電気ケトルを注ぐ寸前の姿勢で止めて、伊奈帆は調理台のまな板を二度見した。

「スレイン、ちょっと待って。え?そのまま?切らないの?」

 まな板の前、ランチボックスの蓋をパチンパチンと開けたスレインが、キョトンとした顔で伊奈帆に向いて首を傾げる。

「切る?何で?」

「何でも何も…」


 大きすぎやしないだろうか。それ。


 と伊奈帆が思うのは、まな板の上にどでんと、じゃーんと、ばばんっと、食パン1斤8枚切り1パックをまるっと全部使用した、そびえ立つ巨大なサンドイッチ。合計八枚のパンの間に溢れんばかりにはみ出しているハムにレタスにトマトにツナ、チーズとキュウリ、マヨネーズ。この特大サンドイッチの最もミステリーな点は、全てのパンの間という間に具が挟まっているため、上の二枚だけ、などの切り離しは不可能であり、八枚で一カウントとなる点である。迂闊だった。スレインの料理の腕は今となってはすっかり危なげなくなっていたので、伊奈帆は完全に油断していた、とこめかみを押さえた。


 大きすぎるというか、どうやって食べるつもりなんだろう。


 伊奈帆はスレインの背後、キッチンの窓に焦点を絞る。少し開いた窓からは、カラッとした、清々しい風がそよそよと吹き込み、見える空は雲ひとつない青。実に良い天気だ。日本列島は梅雨入りし、連日雨続きだった。今朝は久々の晴れ日和。朝日がとても眩しく感じた。そして二人はなんとなくの思いつきで、お弁当でも作って、歩きに出ようと決めたのだ。ピクニック、というやつである。


「直角三角形とか、長方形とか、切り方色々あるじゃない。僕が作ったやつ、前に食べたことあるでしょ」

 ちょっと目を離した隙にそびえ立ったサンドイッチ・タワーをチラ見しつつ、伊奈帆はジェスチャーで形を示す。スレインはポン、と拳で手のひらを叩く合点のポーズでうんうんと深く頷いた。

「ああ。そういえば。変わったことをするなあって思ってたんだ」

 何か意味があるのか?と今更聞かれ、伊奈帆は説明モードに気分のギアを切り替える。

「そもそもサンドイッチは、トランプをしながら食べられるようにと…」

「待て。そんなところから説明しなくていい」

 スレインが右手を張ってストップ、の意を示したので、伊奈帆はコホンと咳を払った。

「食べやすいように、小さく切り分けるんだよ」

「それを言うために、サンドイッチ伯爵のくだりは必要ないんじゃ…」

 伊奈帆は一旦、手に持ったままのケトルを戻した。コポコポと再沸騰の音が湯気とともに注ぎ口から聞こえ出す。

「あのさ、スレイン」

「なんだ」

 伊奈帆はスレインを見て、超巨大サンドイッチを見て、もう一度スレインを見る。

「切らないで、これ、どうやって食べる気?」

 スレインは伊奈帆からパンの山、そして伊奈帆へ視線を移動し両手を出した。

「上からこう、一枚ずつ剥がしてくるんで」

 ハンドジェスチャーから察するに、ロール・サンドイッチにして食べるつもりらしかった。

「成程ね」

 ピピッ、と電子音が100℃を告げる。伊奈帆は湯気の立つケトルを持ち上げ、ティーパック入りの水筒へと注ぎ入れた。

「君って、儚げで繊細で美人で細くてちょっと目を離すと死んじゃうような感じに見えて、実は結構大胆で大雑把で図太いよね」

 スレインがサランラップをぴりりと伸ばし、サンドイッチに覆い被せる。

「それ、褒めてないだろ」

 キュ、と水筒蓋のパッキンが小気味良い音を立てる。淹れた紅茶の香りはアッサム。

「見た目を褒めてる」

 下の棚の風呂敷を取ろうと屈んだら、背中に軽い蹴りが飛んできた。


[Sandwich monster]





 パラパラパラ、と音がして、部屋の照度が一気に増した。スレインは毛布を引き上げ顔を覆い、陽の光を遮断した。

「……眩しい。開けるな」

「そうは言っても。もう一〇時だよ」

 そろそろ起きて、相手をしてよと伊奈帆が言う。布越しに彼の手が肩のあたりを引っ掴み、ずるずるずる、と羽化した蝶の蛹のように毛布を引きずり取り去った。

「……まだ眠い」

 スレインは捲れ上がった寝巻きのシャツを下に引っ張り、頭の後ろをがりがり掻いた。ブラインドの上がりきった窓が眩しすぎると目を細め、額縁みたいな窓枠を彩る青の色を眺めぼんやりとした頭でつと考える。

「君、朝の寝起きにムラがあるよね」

 極端に。伊奈帆がここ数日のスレインの起床データを淡々としかししつこく述べ、シーツを広げベッドを綺麗に整え出した。スレインは彼の背中を見てから窓の方へと顔を向ける。

 青空なんて、ここ数年は毎日見ているはずなのに。今朝は不思議と懐かしい。

 胸に手を当てそっと握ると、硬い金属の感触。人肌に温まって生ぬるい。チェーンの線を戯れに辿る。窓の右から白い影が横切った。鳥だ。二羽。遅れて一羽。カーブを描く進路の羽ばたきの忙しさを目で追って、スレインは両目をぱちぱちと大きな動きで瞬いた。

 なんともまあ、目が絡むような晴天だ。

 ばふ、ばふ、と枕を膨らませる音がした。見るとベッド・メイキングは皺一つなく完璧に終了している。伊奈帆が振り向きスレインの右の手を引いた。

「ほらほら、こっち。歩いて。君の分のご飯があるよ。冷めてるけど」

 その流れがあまりに自然だったので、素直に彼の後に続く。こんな行動、伊奈帆としたことないんだが。特殊な条件下での、緊急事態以外では。

「僕の分って、お前は?」

「もう食べたよ」

 室内廊下の壁も床も日差しで白く明るい。すぐそこの、リビングまでの数十歩の間。

 手を引かれ歩くなんて、まるで小さな子どもみたいだ。スレインはくすぐったい気持ちで握られた手首のあたりを俯き見ながら足を交互に前へと進めた。

「いい天気だね」

 伊奈帆が肩越しに振り向き言う。いつも表情の薄い伊奈帆の口元と目元。柔らかな笑みが浮かんでいるのが見えた。うん、とスレインも笑った。


[Days]




「あっ…!」

 と気づいた時には遅かった。反射的に伸ばした手をすり抜けて、洗剤塗れの皿が一枚自由落下し破片となった。またやってしまった、とスレインは口を引き結んで左隣の横顔を伺う。洗い桶のカップを濯ぎ、水切り籠に流れるような動きで置いて、伊奈帆は小さく息を吐く。溜息ほど大きくないが、呆れた感じが如実に、ありありと、これでもかというほどに伝わってくる。

「怪我してない?危ないからすぐ片付けて。……そんな顔で見ないでくれる?」

 こちらが何か、悪いことをした気分になってくる、と伊奈帆はつけたし、視線を冷蔵庫脇のほうき・ちりとりセットに送った。スレインは蛇口の水で手の泡を落とし、床の破片を踏まないように慎重に移動した。

「わざとじゃないんだ」

 口を尖らせ言い訳しつつスレインは、大きな破片をつまんでちりとりへと入れる。十七センチメートル直径のデザート・プレート。最後に残ったペアの食器だったのだが。

「前より減った」

 手際良く食器洗いを続ける伊奈帆が言った。スレインは口を曲がる。ペアで揃えた茶碗も皿も湯呑みもマグカップも、貰い物のどんぶりも、買い直した茶碗もマグも、揃いのものは一つもない。

「知ってる。嫌味か?」

 伊奈帆が首をぐるりと回し、床にしゃがんで心がへばりついたままのスレインを見た。

「そうじゃなくて。割る頻度」

 一番最初の時なんか、一度で三枚割っていた。そうだったかな、とスレインは箒の柄尻に手と顎を乗せ考える。

「揃ってなくても、いいんじゃない?」

 キュ、と小気味良い音で水が止まった。伊奈帆は布巾で手を拭いた。

「……お前がそれでいいのなら」

 スレインがぽそり呟き、伊奈帆は布巾を持ったままスレインの正面にしゃがみ込んだ。

「ちぐはぐでもいいよ」

 生活ってそんなもんだよ、と言う伊奈帆の大人びた顔は、案外悪くない。スレインは伊奈帆の手から布巾を受け取る。


[Rice bowl]





ドラム型の洗濯機が上下左右に振動し、遠心力が衣類を翻弄する様を横から見るのが好きらしい。

「暇なやつ」

ランドリールームの出入りの壁に肘をつき、スレインは呆れ声を投げかけた。

「暇じゃないよ。何か用?」

ささやかな地響きを立てる床に座り、ゴウンゴウンと音を立てる生活家電の傍らに、カバーを裏返した文庫本を左手に持った伊奈帆が返事をよこす。ほんとに腹の立つやつだ、と何万回目かの再認識をし、スレインは小窓を眺め顎をしゃくった。

「お茶を淹れたら、お前も飲むか?」

現在時刻は午前十時。小腹も空いたし、お茶にしようと自室を出たのだ。

「それを聞くために来たの?」

わざわざ?と声に出るあたり、ジャパニーズ・朴念仁は伊達ではない。戦闘のプロフェッショナルで顔もそこそこ、家事全般が得意の生ける英雄が同年代の女性にイマイチ受けないのは、多分こういう所以だろう。

「そう。わざわざ。ここは最終地点だ。外のコンビニまで行ったんだぞ。読書なら、リビング・ルームでしてくれないか」

棘だらけの皮肉を言い切り、スレインはふうと大きく息を吐く。どんな顔をしているかと伊奈帆を見ると、大きな目をまん丸くして、ぽかんと口を開けていた。

ゴウン、ゴウン、とドラムが生活の音を吐き出し続ける。

「そうなんだ。ありがとう」

そしてにへら、と緩んだ顔で微笑んで、カバーを栞がわりに文庫を閉じて立ち上がる。

「お茶にしようか。貰い物の羊羹があるよ」

入れ違いに出て行こうとする伊奈帆の横顔に、壁に凭れてスレインは聞く。

「調子が狂う。こっちは怒ってるってのに、何がそんなに可笑しいんだ?」

伊奈帆は右の横目でスレインを一瞥し、左の手で後頭部をぽりぽり掻いて視線を外した。

「外まで探してくれたんだ、って思って」

自分が小さい子どもみたいで、なんか可笑しくてさ。

そんな言葉は思いもよらぬことだったので、スレインは続く言葉を失った。静止したほんの数秒、曇りガラスの小窓の日差しがやけに眩しい。

「…馬鹿なやつ」

口を尖らせそう言うと、伊奈帆が肘で脇腹付近を突いてきた。やり返そうと追いかけて、リビングに向けドタバタと若者らしい足音が下の階まで響き渡った。


[Life]





翼とは、存外重く煩わしい。古来より翼が欲しいと願い望んだ歌うたいは、きっと翼に骨があり、肉と皮が骨を覆い、羽根の一枚一枚に至るまでに抜ける痛みがあるなどと考えたことも無いのだろう。

「気分はどう?歩ける?というか、まず、立てる?」

伊奈帆の声に、スレインはベッドから横向きに座り降ろした足を踏みしめる。重心を前へと傾け膝を伸ばす。直立する前にバランスを崩し、ばふんとマットレスに尻餅ついて倒れ込む。

「オーケー、分かった。了解。ご飯ここに持ってくるから」

一人頷き淡々と述べ、伊奈帆はくるりと踵を返し、ドアの向こうに消えていく。こんな時、彼の低く落ち着いた声音と素っ気ない仏頂面は案外悪くないと思う。大騒ぎ、大慌て、大声、ありとあらゆる感嘆詞につけ目まぐるしく変わる表情筋。もし彼に、そんなものが通常装備されているなら、地獄の底ほど気が滅入ったに違いない。スレインは、傾いだ身体をベッドの上に垂直に、背後に手を添え慎重に座り直す。

目覚めると、肩甲骨の辺りから左右に開く巨大な翼が生えていた。背中がつったような寝苦しさがあり、微睡むうちに痛みがだんだん酷くなり、寝返りを打とうと身じろぎをして、何かがブチリと千切れる音がした。朝焼けを待つ光の青い室内で、皺の寄ったシーツに白い羽毛と針で落としたような血痕が点々と。夢でも見ているのだろうかと、二の腕を抓ったら普通に痛くて目が覚めた。


「え?夢?」


日が昇り、窓の朝日が黄色く差し込む頃。起き抜けの伊奈帆はパチパチと目を瞬き言った。そして彼は頰を抓り、あ、起きてる、と呟いた。


「なに、本物?」


そして翼の右側に触れ、あ、骨がある、と言いながら慎重な手つきで翼の開閉運動をする。一頻り終えると、伊奈帆は大真面目な顔でこう言った。


「もしかして、天使だった?」

水臭いな、なんで言ってくれないの、と。


その時の、真剣な表情と三文芝居のような台詞と後の余計な一言がなんともちぐはぐで、朝の小ざっぱりとした寝室の光とはあまりに不釣り合いで、スレインは吹き出し腹を抱えて笑ってしまった。


[天使かな?]





たとえば夏の雪のように。たとえば秋の桜のように。昼の星座や夜の陽だまり、死んだ人が息をし鼓動を刻むように。窓に凭れて夕焼けを見る横顔が、奇跡のように見えたのだ。

「なんだ、いたのか」

北フランスの一時の住処、安アパートの六階で、窓辺に佇む同行人が涼しい顔で顎をしゃくった。伊奈帆は大仰に肩を竦めて彼に見せ、扉からの数歩の距離を歩み寄る。足取りを軽く意識して。

「気づいてたろ?」

スレイン、と気安く呼びかけ両手に持ったマグカップ、左の方を差し出した。持ち手に指を通して受け取り、スレインは喉の奥をころころ笑う。機嫌が良さそうだが、表情は気怠げな顰め面。

「声をかければいいのに」

ふう、とマグの湯気をひと吹き、ふた吹き。伊奈帆は視線を窓外に向ける。歪な屋根、狭い路地、仕舞い忘れた洗濯物や水を枯らした植木鉢。都会と離れたうらぶれた街並みは日没前の、世界の終わりのような赤色光の薪材の黒を思わせる。

「翼がないのが不思議だな、って」

呟いた後、しまったと思う。こんな恥ずかしい言葉、声に出すつもりではなかった。

「は?翼?」

予想通り、スレインは怪訝な顔で聞き返す。伊奈帆はマグのコーヒーを、時間稼ぎに一口飲んだ。

「さっき、声をかけ損ねたでしょ?」

「うん」

「なんて言うか…。…人間に、ちょっと見えなくて」

スレインが猫目を丸く見開いた。そして空いた左掌を出しストップ、のジェスチャー。

「なんか、分かった」

まだコーヒーを一口たりとも飲んでいないのに、苦々しい表情を浮かべている。伊奈帆の口角は自然と上がり、続きを話すことにする。

「天使かな、って。君を見てた」

スレインの頰が夕陽の照り返しより赤くなる。ぷい、と窓の外を見て、眩しそうに両目を顰める。

「恥ずかしいヤツ」

そしてコーヒーを口に運んだ。顔と視線が伊奈帆に戻り、マグが離れた口元は笑窪が浮かぶくらい弧を描く。

「甘すぎ、これ」

眉は下がり、三日月型の糸目に口は歯を見せて。

「はは。やっぱり、人間だった」

二人分の、小さく密やかな笑い声。これがいつか、空を突き抜く笑い声になればいい。

「当たり前だ、この甘党」

「僕のはもっと甘いけど」

味見する?と差し出すと、スレインは渋々受け取り、飲み噎せた。笑い声と、目尻に涙を滲ませて。


[天使なんかじゃない]





午前十時のバスルームに、ノックの音が反響した。浴槽で胸まで湯に浸かったまま、スレインは肩越しに扉を見上げる。軽い音で扉は開き、伊奈帆がひょっこり顔を出す。

「何だ?」

白いタイルと水滴が日光を照り返し、バスルームは神々しいほどの明るさだ。伊奈帆が開いた扉から、湯気が流れてその照度は一層増したようにも思える。ネルシャツとジーンズというラフな私服姿で、伊奈帆は素足を部屋の境界に乗せた。

「入っていい?」

そう言い肩に上げた彼の右手には結露のビール缶が二つ。

「別に、好きにしたらいい」

読みかけの本に栞も挟まず浴槽の縁に置き、スレインは腕を伸ばして缶の一つを受け取った。プシュプシュ、と時間差でプルタブを開く音。キン、と小気味好い音がして、二つの缶の口がぶつかる。一口飲むと伊奈帆は一度背を見せて、左手に小皿を持って浴槽の中央の縁に腰を下ろした。ジーンズの尻、濡れた部分がまだらに藍の色になる。

「出来立てが美味しいから」

背と首を伸ばし皿の上を見てみると、黄金色の衣をまとった海老と烏賊の天ぷらが、合計四つ乗っていた。

「どう?食べるでしょ」

言いしなに伊奈帆が缶を傾ける。ゴクリと健康的な音、喉仏が豪快に上下するのをぼんやり見上げ、スレインもまた缶の中身を三口程度消費する。そして海老の赤い尻尾をつまみ上げる。

「こんな朝食初めてだ」

上から垂らすようにして、がぶりと半分噛み切った。海老の熱い身が油と一緒にジュワッと口に広がって、噛んで飲み込みビールを飲み込む。腹がカッと熱くなり、心地よい酩酊の気配がある。

「僕も初めて。いいもんだね」

伊奈帆は烏賊を親指、人差し指、中指の三指で掴み、一口で頬張った。

「朝っぱらから、風呂でビールと天ぷらか」

あっという間に空になった缶を頭の横で振り、スレインは肘をついて浴槽に腰掛ける伊奈帆の横顔を見上げる。伊奈帆が気づき、缶を自分のものと取り替えた。そちらはまだ、半分以上がぬるくもならず残っている。

スレインは浴槽の眩しすぎる小窓を見上げ、伊奈帆の缶をくびりと煽った。

「気に入った?」

伊奈帆が海老の尻尾をつまんで聞いた。弾んだ声と下手なウインク。スレインは小さく吹き出した。背中を少し沈ませて、浴槽の向こう側で両足首を交差させる。

「悪くない」

手招きをして伊奈帆が屈み、耳を引っ張り引き寄せる。痛いよ、と愉快そうな彼の言葉は酔っ払いの口に塞がれ途中で消えた。


[バスルームの酒宴]





午前一〇時のカフェテラス。本を広げたテーブル席に、ぬっと黒い影が落ちる。

「ねえ、一人?」

スレインは、照度が下がり読みにくい文字の羅列に目線を落としたまま言う。

「さあ」

円形のテーブル席、空いた座席は三つ分。

「ここに座ってもいい?」

そいつが向かいを指して聞く。

「さあ」

スレインは顔を上げない。

「さっきから、さあ、ばかり。どっちなのさ?」

普段抑揚の乏しい声音に、苛立ちが微かに混じっているのが分かった。スレインはいい気味だ、と意味を取らない言葉の行列を目で追う振りでほくそ笑む。絶対に、目だけは合わせてやるものか、と決めている。

「ここは公共の場で、お前がどこに座るかは、僕の意思には無関係だ」

落ちる影の形から、肩を落としたのが知れる。

「座るよ」

そうして向かいの席に座る。チラチラと、視界の端にシャツの色や手の形なぞが目障りだ。

無言で、ページが三つペラリパラリと送られた。

「…その本、面白い?」

堪り兼ねて聞いたらしい。こいつにしては、我慢をした方なのだろう。

「さあ」

でもまだ、全然駄目だ。こっちがどれだけ怒っているか、態度で示してやらないと。

「こっちを向いて、話さない?」

哀願調の言葉とは裏腹の憮然とした声は、子どもっぽくて少し笑える。

スレインは今、こいつがどんな顔をしているのかと思ったが、それは後にとっておこうと読んでもいない紙を捲る。

「本より面白いことならな」

こんなの、全然つまらない。

退屈極まりない数秒間、スレインはアルファベットのaとdの形の差異を取り止めなしに眺めていると。

「台所が爆発してさ」

脈絡のないそんな言葉を、不覚にもノーガードで聞いてしまった。

「……は?」

スレインは顔を上げて、まじまじと真正面から嫌味なくらい無表情の伊奈帆の顔を見つめてしまった。誰が今、台所の話なんかしてる?しかも爆発って。意味が全く分からない。

スレインは話の続きが気になって、栞も挟まず本を畳んだ。伊奈帆は大真面目な顔で頷き、ハンドジェスチャーを交え口を開く。

「正確には、電子レンジ。金属製のボウルでゆで卵を作ろうとして」

伊奈帆の両手が、胸の前でグーに合わさり擬音とともに左右にパーで広がった。

「木っ端微塵、ってああいう事態を言うんだなぁって」

伊奈帆は両手を大きく広げた姿勢で、椅子の背にふんぞり返りニヤリと笑う。

「どう?本より面白い?」

スレインは、頰杖をつき伊奈帆を見上げた。

「それ、いつの話だ?」

伊奈帆もテーブルに肘をつき、前のめりにして声を潜める。

「小学生。爆発させたのは姉貴」

テーブル中央、息がかかるくらいの距離で睨み合う。お互い強情張りだから、こういう時に根負けするまで実に数分時間がかかる。

「あのな、伊奈帆」

今日のところは、スレインが折れてやることにした。ふっと息を吐き出して、小首を傾げて聞いてやる。

「素直に言えばどうなんだ?」

伊奈帆はぱちぱち瞬きをして、居住まいを正して頭を軽く下げた。

「この間は、ごめん。僕の方が悪かった」

冬の日差しが柔く差し、古い扉の蝶番が来客を告げ、オーダーの軽やかな声が風に乗る。車輪の音が石畳の小石を跳ねて猫がどこかでにゃあと鳴く。

こんないい日に、いつまでも臍を曲げてもつまらないか。

「僕もごめん」

肩を竦めてそう言うと、伊奈帆も鏡のように同じ仕草をやってみせ、立って歩き、最初の位置にまた戻る。

「ねえ、一人?」

伊奈帆が、今度は照れた笑いでまた聞いた。スレインは椅子を引いて立ち上がる。

「お前を待ってた」

本を小脇に、二人は並んで出口に向かい、ドアベルを背に聞き歩き出す。


[仲直りの儀式]





傘を忘れた。

いや、その表現は正確ではない。そもそも傘を持ち歩く習慣がないのだ。軍人は傘を差さない。だから、理屈の上では傘を忘れたのではなく、傘を持ってこなかった、ということになる。

「しかし、土砂降りとはね」

つらつら頭の中で屁理屈を捏ねても雨が止むわけでもないし、傘が出現するわけでもない。伊奈帆はどうしたものかと雨空を見上げ思案する。

私服だ。さらに休日。このバケツをひっくり返したような雨の中、スーパーの食材を抱えて帰るのは勘弁してほしい。

「参ったな」

ポツリと呟き溜息をつくと、クスリと息を殺した笑いが聞こえた。声の主が誰か分かって、伊奈帆はゆっくり振り向いた。

「そんなことだろうと思った」

「スレイン」

組んだ腕に二本の蝙蝠傘を掛け、スレインがスーパーの自動扉の脇にひっそり佇んでいた。意地の悪そうな笑みが浮かんでいるのは、一部始終を見ていたからだ。

「なんだ、来てたの」

住居を分かれひと月あまり。顔を見るのも久しぶりだ。健康状態を多少心配していたが、元気そうに見える。

「急に雨が降ってきたから、お前のことを思い出した」

雨の季節に、彼の所に足繁く通った日々を思い出す。会話の糸口が欲しくて、度々わざと濡れて絡んだものだ。いつからだっけ。無関心が変化して、小言とタオルが返ってくるようになったのは。思い出すという言葉が相応しいくらい、時は流れ人は変わった。

スレインが顔を少し傾けて、日向を見るように眩しそうに目を細める。

「濡れる前で良かったよ」

そんな言葉は、初めて言われた。顰め面はどうやら笑顔のつもりらしい。

急な雨に、思いもかけず傘を届けに来てくれる。そんな人だったんだ、とまるで知らない人に出会ったように思う。でもそれは逆だ。きっと、これまで彼にこびりついていた色んなものが剥がれ落ち、やっと今、彼はそのものなんだろう。

「ウチくる?」

言った後で、先に傘の礼を言うべきだったと思い至り、早口で付け加える。スレイン はきょとんといった風に数秒目を丸くして、斜め上を見て頷いた。

「行こうかな」

スレインが伊奈帆の隣に移動し、買い物袋の一つと傘を交換した。傘が広がる小気味好い音が二つ続いて雨に響き、水溜りだらけのアスファルトを二人分の足裏が踏み、水飛沫が雨の波紋にまた散った。


[傘2つ]





「はぁ、暑い」

「言うな。余計に暑くなる」

茹だる夏の盛り。強い日差しを背に浴びて舗装もされていない田舎道、途切れることのない蝉の大合唱にうんざりしつつ、スレインは顎を伝う汗を拭った。

「君も暑いの?」

伊奈帆は火照って赤くなった顔をぐるり向け、きょとんと目を丸くした。

「当たり前だろう。人を何だと思ってるんだ」

足元に次々と現れる小石をそこらに蹴っ飛ばす。寒さには慣れているが、暑いのはどうも良くない。特に地球の夏などは、幼少期以来だ。

「涼しい顔をしてるからさ」

ぐい、と顔を近づけてくる同行者の額をぺちんと叩いて、スレインは足を速くした。畦道にならってすぐ先に、花弁の色も鮮やかに黄色い向日葵畑が広がっている。あそこまで行けば、少しは涼しくなるだろう。

前に向日葵を見たのはいつだっけ。地球を離れ火星に行くよりもっと前。お父さんがいて、その顔は見上げても影しか見えないくらいに遠かった。長い影法師に隠れて、向日葵の落とす格子のような黒い影を踏んで歩いたことがある。

その時から、色んな事が変わってしまった。お父さんは居なくなって。戦争は始まりそして終わって。僕は生きていて。地球はこの通りの有様で。

それでも向日葵は咲くんだ。空に向かって茎を伸ばして。

「あ、スレイン」

伊奈帆の声。そういやこいつ、さっきから後ろをずっと歩いてきてる。

「ん?」

肩越しに振り向く。逆光になり、伊奈帆を見るより先に、眩しさに目を細める。


「パシャ」


という間の抜けた擬音を、伊奈帆が抑揚のない真面目くさった声音で発した。

「…何だ?それ」

両手の親指人差し指が作った長方形のハンドサインの意味もさっぱり分からなくて、スレインは聞いた。

「シャッター音」

伊奈帆は飄々と言い、もう一度彼の言うところのシャッター音を口にした。

「はぁ?」

何の真似だ、と首を傾げるスレインに、伊奈帆はへらっと軽い調子で笑ってみせる。

「カメラがあれば良かったな、って思ったんだ」

そうして弾む足取りで隣に並び、日焼けと暑さで真っ赤な顔を左右に向けた。

「向日葵が綺麗だったから。夏もそんなに悪くないね」


[田舎道]





カフェのテラス。伊奈帆は二人がけのテーブル席の椅子に座る。使い込んだ藁座面がしなやかに撓み、木製の背に凭れ息を大きく吸うと汐の香りが爽やかに香った。

「海が近いんだね」

起伏のある石畳に、洗い晒しの色が褪せたテーブルクロス。鮮やかなペンキで彩られた家々の窓と扉。海街の風情に視界を巡らせて、伊奈帆はようやくテーブルの向こう側の困り顔に気がついた。

「どうしたの?座ったら?」

スレインが椅子の背に両手を置いたまま、眉をハの字に下げている。何か彼の神経に障ることがあったろうか、と伊奈帆は胸騒ぎを覚えたが、スレインは口元に微かに笑みを浮かべた。

「猫が…」

「猫?」

伊奈帆が立ち上がりテーブルを回り込む。なるほど。丈夫に張った藁を腹に、茶トラが一匹微睡んでいた。昼を過ぎて、猫の周囲はひだまりが出来ていた。

「先客がいたんだね」

スレインが少し屈んで毛並みのつやつやした横腹にそっと手のひらを押し付けた。ゆっくり撫でると、猫はゴロゴロと喉を鳴らして気持ち良さそうに前脚を伸ばした。

丸く柔らかに曲げられた指の形と、細く筋の張った腕の細かな産毛が夏日の白さと汐風にきらきら光った。痩せてはいるが温かそうな白い手に、茶色の毛並みを金に輝かせて猫は大きく口を開いて欠伸をする。のどかな光景を、しばらく伊奈帆はテーブルに片手をつき見入った。

「良かったら、椅子をどうぞ」

いつまで経っても座らない客に、店員が事情を察して追加の椅子を持ってきた。二人の旅人は礼を言い、猫を含む正三角形の頂点の位置に椅子を置いた。

「何にする?」

伊奈帆が聞くと、魚の料理はあるか?とスレインが答えた。


[猫のもてなし]





ひし、と力強い五指に掴まれた肩越し。スレインは振り向き、相手の表情に言葉を失い立ち尽くす。ベランダにはぬるい風と人工光が半分開いたガラス戸から漏れ出した。肩に手。半身で向き合う二人の影は手摺の先に伸びている。夜に溶ける呼吸は静かだが浅い。

暗闇に慣れていた目が、蛍光灯の落とす影に慣れていく。

「…何してるの?」

室内灯の逆光でもはっきり分かる緊張した表情で伊奈帆が聞いた。スレインは彼の顔を見て、彼の裸足を見て、そして無遠慮な光で目に霞む光年を仰いだ。

「眠れないから、星を見ていた」

手の力が弱まり、そして離れた。

「…そう」

風には音がある。そして、色もあるのだろう。肩に残った彼の温度を藍の風が攫っていった。

手摺に凭れて息を吐く。正面向いた四歩の素足に目を落とす。

この寒がりが、上着も羽織らず、ベランダに裸足で飛び出してくるなんて。

「飛び降りると思った?」

伊奈帆は口を引き結ぶ。眉の形が、滅多に見ないハの字になった。

「うん」

「そうか」

「ごめん、早とちりして」

彼の向こうの室内は明るい。この光は宇宙から見たら多くの街の灯と融合して地球の人間の生活を形作るだろう。

「寒いね」

「うん」

驚いたことは二つ。伊奈帆が、安堵を浮かべて微笑んだこと、そして、それに僕も笑えたこと。

「お茶を淹れるよ。一緒に飲もう」

「ああ」

夜に光るのは月と星だけではない。一つ一つの家の光は、こうしてスイッチを押され、灯る。お節介で、お人好しで、ささくれのできた少し荒れた手の指に。

僕を待って立っている。一歩、また一歩近づく。肩が並ぶ。僕より低くて僕より厚い肩に触れる。

「伊奈帆、大丈夫だよ」

五指に力を込める。伝わるように。

「僕は大丈夫」

お前の光の中にいると。


[光と]

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