From heavenly blue.
- μ

- 6月20日
- 読了時間: 15分
~空の色~
目が見えなくても、どこへなりとも行けるものだ。
それは、彼の用意周到さのおかげだけれど。パスポートまで入っていたのは自分が死んだ後のか。全く、お節介というか何というか。
結局、何から何まであいつの思い通りになったな。
スレインは見えない空を見上げる。ここの空気は、少し酸っぱい。
五年ぶりの日本。
伊奈帆と最期に会ってから、色々な場所に行った。まず、自分の生まれた場所。見えないし、匂いにも感触にも懐かしさは感じられなかった。その後は、行き先のない旅を続けた。
地球には、色んな場所があって、色んな匂いがして、色んな人がいた。そうして日々を過ごすうち、伊奈帆は旅したことは無かったのかもしれない、と考えるようになった。彼に訪れた死はあまりに早い。戦いと傷と病ばかりの生き様ではないか、と彼の生涯を想うようになり、やるせなさが募った。
だから、スレインは日本に戻ることにした。戻るという表現が正しいかは分からないが、やり残したことがずっと心にこびり付いていたのだ。
界塚ユキ。
彼女に見送られたままだ。
新葦原に向かうことにする。空港からバスと電車を乗り継ぐが、彼女がどこにいるのか知らない。軍人だが、そうかといって、自分が軍に出向くわけにもいかないだろう。こんな厄介者、今更軍も持て余す。
まあいいか。巡り合わせがあれば、きっと会えるだろう。
適当に新葦原を歩き三日が経った。
この国は本当に不思議だ。見ず知らずの男に、悪意なく手を差し伸べる人間の多いこと。女性や子どもも無警戒に世話を焼いてくれる。界塚伊奈帆のことをお節介だと思っていたが、彼だけではないようだ。
混雑した道で、人にぶつかった。
若い女性だ。親切なその人は、謝罪の後に何かできることはないか、と心配そうに聞いてくれた。立ち去ろうとしたが、腕を掴まれ強引だ。友だちなのか、もう一人の女性がどこまで行くんですか、と質問を重ねる。
……逃げられそうもない。人を探している、でもどこにいるのかわからない。名前しか知らない、と答えた。
「その人の名前は?」
「界塚ユキ」
「ユキさん⁉」
驚くべきことに知り合いだったらしい。彼女らは伊奈帆の幼馴染と友人だそうだ。
彼女は、界塚ユキの連絡先と、伊奈帆の墓の所在地を教えてくれた。界塚ユキに引き合わせてくれるという申し出を断る。伊奈帆の姉には、僕が墓へ行くことを伝えて欲しいと頼む。
界塚ユキは、僕に会いたくないかもしれない。会う、会わないの選択肢は、彼女にあった方がいい。
親切な二人組は案内すると言って聞かなかったが、個人的なことだし、墓前には一人で参りたいと断った。
界塚伊奈帆の墓は、石でできていた。
ここに亡骸がないことは、僕が誰より知っている。空虚な墓の前で突っ立っていると、雨が降ってきた。挨拶代わりか、と笑みが浮かぶ。どうも界塚伊奈帆という男には、雨のイメージが強い。よくずぶ濡れで面会室に現れていた。あの濡れた頭を、よく拭いたものだ。
わざとか。と聞いたことがある。
やっと気づいた、と彼は言った。笑っていた。
雨は止まない。しとしとと降りしきる雨に、髪が水を吸って、体の上から順に雨の中へ沈んでいく。
こんなことを何度も。馬鹿なやつ。
あいつ、死んだんだ。
雨の中、どれくらい経っただろうか。人の気配がした。
スレインはそちらを向いた。足元の砂利が鳴る。
この気配は知っている。
「ただいま」
雨の音が変わった。ポツ、ポツ、ポツ、と弾く音。傘を差し掛けられたようだ。ふわりと柔らかい匂いがした。日の匂い。
「おかえりなさい」
界塚ユキの声が、傘の中で優しく響いた。
「なお君に、会えた?」
「はい」
「よかった」
雨粒が傘を叩く音がこだまする。彼女は、濡れていないだろうか。半歩だけ身を寄せる。髪の匂いがした。
会いに来てくれた。
「ここに来るのが、遅くなってしまいました」
優しい空気が傘の下に満ちた。今、笑ったみたいだ。
「そうね。でも、行ってきますって、貴方言ったじゃない。きっと帰ってくると思っていたわ」
行きましょう。ユキはスレインの手を握った。一つの傘の中、彼女の斜め後ろを歩く。
前もこうやって、手を引いてもらった。無茶をして、きっと沢山迷惑を掛けたろう。
合わせた掌の温度。
界塚伊奈帆も、小さい頃はこうやって手を引かれたのかもしれない。幼い界塚の手を、この優しい手が包んだ。きっと家に帰る所。界塚は、この人の背中や横顔を見上げる。
大切な姉。大切な家族。大切な人。
守りたかったはずだ。
「貴方に、会ってほしい人がいるのよ」
ユキの手は雨で濡れているが、温かい。少し、涙が出た。
「スレイン」
軽い衝撃が、胸に飛び込んだ。ずぶ濡れで、きっと汚れている胸元を握る手を知っている。小さくて、とても白くて、たおやかに柔いはずだ。大きく上下し震える肩に手を降ろした。小さく薄い肩。その人の髪が手の甲を滑る。前より、髪が長くなった。
「レムリナ様」
泣き声が大きくなった。流れているだろう涙を拭ってあげたいが、顔が胸に押し付けられていて叶わなかった。子どものような泣き声に、この人が泣いているところを初めて見た、と気付いた。
「御足は、良くなられたのですね。地球にいらっしゃれば良いと、そう願っていました」
「勝手な人ね」
わあわあと声を上げつつ彼女は言った。確かに。こんな勝手な男はいないだろう。
「生きていて、良かった」
レムリナの言葉に、スレインはどうしたものかと立ち尽くした。
もっと早く、ちゃんと探して会いに来るべきだった。
「長い間、辛い思いをさせてしまいました」
「……全くよ」
顔を上げたのか、体が離れた。柔らかい皮膚が頬に触れる。レムリナの手だ。小さく柔らかくで、自分と同じくらいの温度の手。
「おかえりなさい。貴方の故郷へ」
『楽しみにしているのですよ。新しい王国も。貴方の故郷に行けることも』
あの時口をついた、自分の地球へ抱く憧憬と憎悪を、彼女は覚えているのだろうか。……覚えて、何度も反芻したに違いない。そういう人だ。
「地球は、素敵だわ。空も、海も、花も木も風も。不思議な生き物たち。朝や夜は、空気が変わるのですね」
まだ騎士ですら無かった頃、彼女に語った地球。美しい言葉で飾った。たとえ故郷ではなくとも、嘘でも真実でも、彼女は聞いた地球を愛した。
僕は、地球に捨てられた。火星にも入れなかった。残ったのは月と戦場だった。
その月も遠い。今では、はっきりと思い出せないくらいだ。
「でも、貴方のいない地球は綺麗なだけ。珍しいだけ。とても寒いの。心が」
唐突にレムリナが押し黙った。スレインの胸にしがみついた手がぐっと握られる。
「貴方が好きよ」
スレインは何も言わず微笑んだ。レムリナは手を離した。一歩遠退く。
「そう、貴方はいつもそう。……でもいいの。言いたかっただけよ」
スレイン、と。あの頃と変わらない、ほんの少し拗ねた声音で名を呼ばれた。
「私は、もう一人で立てるわ。私は貴方のものではないし、貴方は私のものでもない。あなたが生きている。それだけで十分」
また会えて、嬉しいわ。レムリナがスレインの手を握った。かつて何度も引いた手を握り返す。
「はい」
スレインはレムリナに界塚伊奈帆のことを話した。彼女の主治医が、界塚伊奈帆と同じ船に乗っていた船医だと聞いたからだ。
レムリナは連絡を取り、その医者と引き合わせてくれた。
「耶賀頼蒼真です」
手を引かれ、椅子に座る。耶賀頼の手は温かく、大きい。
「僕は…」
肩にぽん、とその手が乗った。続く、穏やかな声。
「いいよ。知っている。君に直接会えるとは、思っていなかった。よく生きていてくれたね」
……そんなことを言われるなんて。
耶賀頼が、スレインの手の中の球体を持ち上げた。手から離れ、微かな喪失感が胸を翳める。
「さて、このアナリティカルエンジンだけれど。伊奈帆くんの左眼窩で、脳と神経接続されていた。これをどこで?」
思い出すのは、伊奈帆の汗ばんだ冷たい手。
「界塚伊奈帆から、手渡されました」
『形見かな』
――僕の手に残るのは、形見ばかりだ。
「僕は、彼を看取りました」
あんなに長い夜は無かった。あんなに一人ぼっちの夜も。
「……そうか。ありがとう。礼を言うよ。……友人として」
耶賀頼の言葉が胸に刺さった。伊奈帆には、友人も家族もいたのに。
彼に後悔はなかったのだろうか。
「……君はこれを、どうしたいと考えているのかな?」
はっとする。いけない。伊奈帆のことを考えると、袋小路に陥ってしまう。死んだ人間は、もう語ることはできない。
でも。残ったものがある。彼の記憶の欠片。
「……それは、初期化されていますか?」
「どういうことだい?」
「この目に入れたい。できれば、あいつの記憶を一緒に」
耶賀頼が低い声で僕の名を呼んだ。くん、なんてつけなくてもいいのに。
「賛成しかねるね。命を縮めることだ」
知っている。あんな殺しても死にそうにないやつが死んだ。拳銃で左目を撃っても死ななかったやつが。
「他人の記憶を得る、というのは一つの身体に二人で住むようなものだよ。精神が耐えられると思えない」
そうかもしれない。でも。
「見てみたい。あいつが見たもの」
そう、見たい。
「見るはずだったもの」
だって、それは。
「僕が奪った」
これから、あいつの未来。全ての綻びは、あの時。ノヴォスタリスクから。
僕が界塚伊奈帆を殺した。
「……しばらく、ここにいなさい」
彼女も喜ぶ。ずっと、探していたんだから。
「ありがとうございます」
まだ、語り合うことができる。生きてさえいれば。
春風の中を歩く。きっと、隣を歩く人の髪は舞う桜のように見えるだろう。彼女からは目を逸らしてばかりだったが、この期に及んで、その姿が見えないことが惜しまれた。桜色の髪を揺らし、地球の大地を両足で踏みしめ歩く彼女の姿は、きっと素敵だ。
「地球に来て、貴方のことを考えない日はなかったわ」
少し鼻にかかる、囁くような声。
「死んだわけがないと思ったの」
理知的な話し方。
「忘れられないうちは、生きていると思ったわ」
素直な言葉。
不幸な生まれを背負い、運命に翻弄された女性。月にいた頃から、彼女は変わらない。真っ直ぐで、しなやかだ。
よく、生きていてくれた。本当に。
「スレイン」
「はい」
「界塚ユキさんを、ご存知ですね」
「はい。ここに僕を連れて来てくれました。他にも色々と、お世話になって」
レムリナが笑った。空気で分かる。
「とても優しい方だわ。私のことも気に掛けて、よくしてくれる」
草の香りがする。あと、昆虫の羽音。レムリナが「あれは蝶ですね」と囁いた。
「あの方が、一度、貴方のことを話したの。弟の、界塚伊奈帆さんのことも」
飛べる生き物は鳥だけではないと知った時、彼女は何を思っただろう。
「それで私、かっとなってしまって。全部しゃべっちゃったわ」
その現場を想像する。界塚ユキもレムリナも、自分の感情に率直な人間だ。
「泣いちゃったの」
レムリナが、スレインの手に触れた。細い指先に引かれて立ち止まる。これまでこの手に、何度触れただろう。
今繋いでいる手は、これまで幾度、自ら涙を拭ってきたのだろう。
「貴方は知らないでしょうけれど、私は泣き虫なのよ。貴方が知らないところでは、泣いてばかりいたんだから」
「申し訳ありません」
「謝ってどうするの」
「いえ……、どうしましょう」
「もう、馬鹿ね」
繋いだ手が放れて、ぱし、と肩に軽い衝撃。レムリナの軽やかな笑い声。
「これからは、貴方の前でどんどん泣いてやるわ」
肩の手が放れた。手探りで手を伸ばす。彼女の手。触れた。ああ、やっぱり。
涙で、手が濡れている。
「ごめんなさい」
「……うんと、困らせてやるんだから」
この鼻声は、涙のせいだ。濡れた手の甲を両手で包む。手の甲に、雨のような雫が落ちた。
スレインが耶賀頼の病院に身を寄せ数日後、エデルリッゾがやって来た。
界塚ユキが、連絡を取ってくれたらしい。彼女はスレインの無事を喜び、レムリナとの再会に涙を流した。
「これから、お二人はどうなさるのですか?」
一頻り再会を喜び、これまでの経緯を話し終わると、エデルリッゾが聞いた。
「私は、足がもっと良くなったら旅をしようと思います。地球の景色をこの目で見てみたいわ」
ロビーのソファ、隣に座ったレムリナがそう言った。
「スレイン様は?」
「僕は……」
未来。そんなものは、自分には必要ないと思っていた。
「何かを、探しているんです。でも、それが何なのかわからない」
心が死んで、惰性で生きていた僕のたった一つの生きる意味。それは、アセイラム姫の幸せ。願っても何もできない無力な自分。彼女の思いを置き去りに願いを実現しようとした自分。願う資格を失った自分。ずっと僕は、生きながら死んでいた。生きる意味が、分からなかった。
だけど。
「界塚伊奈帆の残したアナリティカルエンジンをつければ、前に進める気がするんです」
エデルリッゾが息を呑む音が聞こえた。彼女は界塚伊奈帆と知り合いで、鍵を託された友人だった。
「危険ではないのですか?」
「分かりません。でも、もう、死ぬ気はありません」
生きる意味は、今でも分からない。生きていいていいのかさえも。でも、このまま死ねば、界塚伊奈帆の死は。言葉は。無駄になってしまう気がした。
あいつが一人であんな寂しい場所にいたのは、僕のせいだから。
……あの場所から。あの窓から。何が見えたのだろう。
「また、色んなものを見たい。あいつが見られなかったものも」
「そう。スレインも、旅をするのね」
レムリナの、少し弾んだ声音。
「旅……」
そうか、旅か。
旅をするのか。僕は。
「地球のどこかで、ばったり会うかもしれないわね。その時は、一緒に食事をしましょう」
可愛らしい思い付きに、つい笑みが浮かぶ。地球のどこか。レムリナと会い、彼女の後ろの空を見上げる。割れた月が、そこにいた時と変わらず白く浮かんでいるだろう。月の思い出を、地球の美しい風景の中、内緒話のように語る。あるかもしれない現実を想う。
ああ。これが、未来か。そして、夢。
面会の時に伊奈帆は、いつだって夢の話をしていたんだ。
「はい。喜んで」
約束よ、と小指を交わす。エデルリッゾが二人の名を呼んだ。
「また、日本にもお立ち寄りくださいね」
私は、お花と一緒に待っていますから。
「手順は、説明した通り。始めていいかい?」
手術室の寝台で、スレインは耶賀頼の言葉に頷いた。
アナリティカルエンジンを、左目奥の神経と接続する。
見えない目を閉じる。瞼の裏で、オレンジ色が瞬いた。
星と、波と、ストロボライトの光。あの時そしてそれまでの左目が、一体何を見ていたのか。
伊奈帆。お前が知りたい。
呼吸器から麻酔が注入され、意識が遠ざかる。最後に浮かんだのは、面会室の手の感触だった。
――ああ、あの時。
「……手が冷たいな」
「冷え性なんだ」
「着こんでいるな」
「寒がりなんだ」
「冷たいか」
「……すごく」
「柔らかい肌だ」
「日本人だからね」
「……眼帯を、取ってもいいか?」
「いいよ」
「……額を、撃ち抜いたつもりだった」
「感想は?」
「……あたたかい。君は生きて、僕の前にいるんだな」
「僕も、君に触れていいかな」
「……ああ」
「……ここを」
「撃てばよかった?」
「そうだな」
「でも、僕は撃たなかった」
「たとえ時間が巻き戻ったとしても、撃たない」
「君が……どれだけ願っても、僕は君を殺さない」
「そうか」
「また会おう」
ああ。
この、大馬鹿野郎。
もっと、何かあるだろう。何も言わず来なくなって。普通、死んだと思うだろう。お前は僕を何だと思ってるんだ。僕が脱獄して、こんなところまで来られるなんて、よく思えるな。目も見えないんだぞ。
僕が行かなかったら、お前は一人で死んでいたんじゃないか。
伊奈帆――。
「目を開けてみて」
「はい」
視界、いや、画面は真っ暗だ。耶賀頼がパソコンのキーを操作して、電源コードを入力した。
ブウン、と脳が揺れる感じがして、視界に赤い文字と図形が映し出される。
界塚伊奈帆から譲り受けたアナリティカルエンジンは、拒否反応もなく、生体に馴染んだ。
「電源が入った。次に、同期を始めるよ」
ピピ、と機動音が耳に聞こえ、視界と脳にアナリティカルエンジンが能動的な干渉を始める。
ユ―ザー名を問われる。
「Inaho Kaiduka」
音声と思考で返答したその途端、バックアップがインストールされ、過去の記憶が脳へ送られる。久しぶりの視覚情報に、錆びついた脳が悲鳴を上げる。
まず視界。
そして音。
生々しい五感の感触。
伊奈帆の記憶。
自分のことのように、肉体が認識する。
――暗い。一度、二度、光が差す。瞬きのリズム。視界がクリアになる。
白い病室の壁。
界塚ユキの顔。
リハビリ用の手すり。
連合軍の青い制服。
顔の前の階級章のついた袖。
様々な機械類。
軍の施設のホール。
軍用車。
青空。
カタフラクトのコックピット。
友人たち。韻子、ライエ、カーム、ニーナ。
ペンダント。
夕焼けに染まる空と海。
鳥の群れ。
星の中。
月の破片。
宇宙の色。
アセイラム姫。
涙。
言葉。
アストロスーツ越しの手。
タルシス。
大気圏の炎。
海辺。
標準を合わせた額。
下ろす銃の黒鉄。
焦点が結ばれていく先にあるのは――。
――二つの碧。
「伊奈帆……」
何だっていうんだ。何だっていうんだ。どうして。どうして、お前は。
僕を、探して。生かして。
どうしろっていうんだ。
これじゃあ、僕は。
――お前を。
「もう行くの?」
界塚ユキの声。振り向く。彼女は風に靡かせた黒髪を右手で押さえた。
勝気そうな目元と耳の形が、伊奈帆に似ている。
「お世話になりました」
ユキが微笑む。笑った顔も、伊奈帆によく似ている。優しい顔だ。左目が、相槌を打つようにキュイ、とピントを細かく調整した。
こいつ、照れてるな。
風が頬に心地いい。もう、夏の風だ。
「お世話だなんて…。ここは、貴方の場所よ」
居場所。そんなもの、ずっと諦めていた。帰る場所なんて、自分には失われたと思っていた。
レムリナ。エデルリッゾ。界塚ユキ。
再会を願う人の存在が、こんなにも心を満たすなんて。
「帰ってきてね」
「ええ」
見上げた空。見える。分かる。空の色が。
白い雲が風で流れ。
飛ぶ鳥の形が小さくなる。
どこまでも青く続く、地球の空。
薄暗い部屋。大きなモニタ。隣には韻子がいる。荒い映像。アセイラムのふりをしたレムリナの姿。
『光が屈折し、空と海が青く見えるほどの沢山の水と空気を持つ―――』
『違う』
ノイズ交じりのレムリナの声を、伊奈帆が遮る。
『空が青いのは、レイリー散乱だ』
スレインは笑う。声を上げて笑うのなんて、いつぶりだろうか。
全く、記憶の中でも細かいことをいちいち。情緒がないやつ。いいんだよ、嘘でもごまかしでも。彼女たちはその地球を愛したんだから。
でも。
お前と、遮るものの何もない中で。この空を一緒に見ることができれば良かった。鬱陶しい小言も、我慢してやるのに。
「後悔ばかりだ。お前が死んでから」
伊奈帆の目が映す鮮明な視界は、思い出の景色と少し違う。瞳に映る、僕の記憶と、お前の記憶。そして、生きる僕が想うこと。
二人で旅をして、話をしよう。昔の話も、今の話も。この目に映る、未来の景色も。
「まず、何処に行こうか」
ピピ、と電子音。なるほど、確かに。そこしかないな。
「泣くかな」
――いや。きっと、笑うだろう。
頭の中で、伊奈帆の声が聞こえた気がした。



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