And Blue Sky._1
- μ

- 6月20日
- 読了時間: 18分
~旅の空~【2018-02-07】
白、白、白。
真っ白い室内の壁が、ブラインドから差し込む陽光に照らされ目に痛いほど眩しい。ドアを開けたはいいがなかなか次の一歩が踏み出せないのは、眩しさと裏腹の冷たく重い空気のせいだ、と伊奈帆は思った。
ベッドの傍には数種類の機械類、器具が設置されていて、狭い病室は人が三人も入れるのがやっとだ。心臓モニタは電子音を規則正しく刻む。点滴、ケーブル、太さの違う何本もの管の先。細く長い針。伸ばされた白い腕に針山のように繋がれていた。
白い壁の中、仰々しい装置に囲まれた白いベッドの上に横たわる人物を見下ろす。
「寝てるのか……」
意識が戻ったと聞いて来てみれば、部屋の主は穏やかな寝息を立てていた。急にどっと疲れて、伊奈帆はベッドの横に丸椅子を引き寄せ座った。
出張先から軍の病院へ航空機で文字通り飛んできた伊奈帆は、あと三十八分後にはこの部屋を出なくてはならない。それまでに、彼は目を覚ますだろうか。
「早く起きてよね。スレイン」
伊奈帆は緩やかな呼吸を繰り返す胸部を見てから、掛け布から出ている部分、スレインの腕と体と顔を見た。初めてこの病室に訪れた時に比べて、包帯やガーゼの覆う面積は減り、素肌が見える。皮膚の痣がところどころ茶色に変色していて、腕の中ほど、針の密集する箇所が内出血で青黒い。生来の肌が白いので、色が変わっている場所がとても目立つのだ。包帯がぐるぐると頭部に巻きつき、スレインの顔の半分ほどを覆っていた。包帯の隙間からこぼれる髪が、枕に広がり乱れている。
ふと、髪を整えてやろう思った。手を伸ばす。
「……ぅ」
伊奈帆の指が髪に触れる前に、スレインの口から声が漏れた。さっと手を引っ込め、腰を浮かせて顔を覗き込む。口は小さく開いていて、前歯が見えた。
「やあ、起きた?調子はどう?」
「……あ、ここは?」
声はがさがさしていた。唇は荒れて薄皮が剥けている。ケホ、と一度小さく咳をして、スレインは大きく息を吸った。薄い胸が大きく上下した。伊奈帆は浮かせた腰を下ろす。椅子の足が耳障りな音を立てた。
「病院だよ」
「……ああ、そうか。……そうだった。お前は界塚か?」
伊奈帆は眉を顰めた。仕方のない質問とはいえ、腹の奥でじりじりと憤りが沸き起こった。丸椅子に座ったまま、一度目を閉じる。瞼の裏の赤い血管が見えた。
この部屋は明るすぎる。
どれだけゆっくり目を開けても、目に見える現実は変わらなかった。
「……そうだよ。今は、僕しかいない」
「そうか」
静かな場所だ。音がする。機械の音。階の違う廊下の足音。滑車の音。窓の外の微かな風の音。耳が、微細な物音を次々拾い出す。スレインの薄く開いた口から、それらの音に混じって息を吐く音と吸う音がはっきり聞こえた。彼は生きて、呼吸をしている。
「そうか、生きていたのか」
呟いたスレインの声には、自分が生きていたことに対する安堵と落胆が滲んでいた。伊奈帆は吐きそうになった溜息を飲み込み、努めて冷静に口を開く。
「君はどうして抵抗しないの」
伊奈帆の言葉に、スレインはシニカルな笑みを返した。癇に障る笑い方で、その口を睨みつける。…見てはいないだろうが。
「できるものか。僕は死んだ人間だ」
伊奈帆は、スレインの首に痛々しく残る痣に拳を握った。薄くなっているが、折れそうなほど強く握られ絞められた首は、黄色い痣が溢したインクのように斑に残っている。
この首が折れていたら。彼はもうここにも、どこにもいなかった。華奢な、筋や血管が浮き出た青白く黄斑な首を凝視する。首筋の血管が血液を運ぶ動きが目に見える。少し汗ばんで、髪がいくらか張り付いていた。
「捕虜虐待は軍規違反だ。暴行した人間は移送されたよ」
こいつのせいで!口汚く持論をまくしたてた暴行犯は、それでも職を失うことはなかった。このような事態は想定して然るべきだった。しかし、想定しても予防は難しい。伊奈帆にできることもそうないのだ。
スレインの処遇に関して、軍は存命に積極的ではない。スレインの命というのは、連合軍では大いなる厄介事、そして取るに足らないロマンティシズムの具現なのだ。
処刑はしないが、不測の事態は仕方がない。そういうことだ。
「死人に関わったばかりに、気の毒なことだ」
伊奈帆は、スレインのこういう物言いに神経を逆撫でされる。他人事のように自分を扱い、自分の傷や苦痛にも無頓着だ。今に始まったことではないが、伊奈帆はいい加減にしてほしい、と思った。口には出さないが、言葉の端々で彼の考えていることは手に取るように分かる。
死んだ方がいい。死にたい。死なせてくれ。
一体、いつまで。
「そんな言い方はやめろ」
思わず大きな声が出た。スレインが、管が絡みついた腕の人差し指をぴくりと動かした。
「どうして君が怒る。界塚」
落ち着いた、低い声だった。声音には、諦観があった。伊奈帆の心を、分かってないのか気付いてないのか、気付かないふりをしているのか。
「……君が死んだら、困る」
もっと言い方があるだろうに、それしか言えなかった。理屈を並べれば嘘っぽく聞こえそうだし、理屈以外に言葉は思いつかなかったからだ。スレインは伊奈帆の返答の後、息を長く吐いた。
「……ふうん。姫様との約束だから?」
こんな問答はもう、うんざりだった。
「それだけじゃない。それにもう、姫じゃない」
「……よく分からないが、この通り僕は生きている。傷はそのうち治る。問題はない。またあの場所へ帰るのか?」
帰る先があの地下の独房を示すことに、無性に腹が立った。しかし、それで彼を責めるのは八つ当たりに近い。
「そうだね。……医者が判断すれば」
ブウン、という機械のノイズが意識された。伊奈帆は目を向ける。スレインは目を覚ました。意識もはっきりとしている。もう、必要のない装置だ。
スレインの頭に巻かれた包帯を見る。顔の上から半分以上を覆うそれの下の眼窩。
「傷は治ると言っても、目は治らないよ」
伊奈帆は言った後で、皮肉と受け取られたら困ると思ったが、スレインは素直に返事をした。
「知ってる。しかし、別に何も困らないだろう。独房で、食べて寝るだけの毎日だ」
話をする気力を失って、伊奈帆は立ち上がった。もう時間もない。
「……もう行くよ。お大事に」
「…………何を大事にするんだか」
何か言い返したいのに、言葉が浮かばない。体が重い。伊奈帆は常より重い足取りで踵を返し、白いドアを開けた。
スレイン・ザーツバルム・トロイヤードが独房で暴行を受け、地下の極秘施設から軍の病院へ救急搬送された。界塚伊奈帆がその知らせを聞いたのは二週間前の深夜だった。病院に駆けつけた伊奈帆は、ICUの前で事情を聞いた。
加害者は連合軍特務機関の人間だったそうだ。正規の手続きで面会許可を取り、独房を訪問し、尋問をした。看守と監視官が立ち会った。
独房に入るなり、特務官は囚人に飛び掛かった。慌てて取り押さえようとした看守と監視官は突き飛ばされ、壁で頭を打ち意識を失った。その後、監視カメラで異常に気づいた他の職員がやってくるまで、囚人への暴行は続いた。負傷した職員たちは囚人と共に病院へ移送され、今は意識が戻り当時の状況について報告を終えている。
訪問者は独房の扉が開くなり、囚人の首を絞めた。看守と監視官が止めに入って死ぬ前にそれは中断したが、その後倒れ込んだ囚人の顔、体を殴り、蹴り、床に打ち付けた。駆け付けた職員数人が男を取り押さえたことには、囚人は血を吐いて体の数か所から血を流していた。顔は血まみれで、眼窩から血が流れ出ていた。床は血が一面に広がっていた。囚人の意識はないが、まだ息があった。
左眼球は破裂して、もう戻らない。右の眼球は網膜が半分以上剥離して、視力は著しく低下した。明るさや、近くの物はぼんやりと認識できるかもしれないが。集中治療室の前の長椅子で、緑色の手術着を着た医者は伊奈帆にそう言った。
看守に開錠された頑強な扉を押す。中は薄暗い。寒そうな場所だ。伊奈帆は足を踏み入れた。
伊奈帆がスレインの独房を訪れるのは初めてだ。病院から独房へ移された彼は、まだ絶対安静だ。ベッドに仰向けで寝かされている。
体に繋がる管は随分減ったが、針から伸びる管の先には、等張液のパックと抗生剤のボトルがあった。ベッド脇のスタンドに、重々しく吊り下げられている。
「スレイン」
「ああ、お前か」
身動きしないので寝ているかと思ったが、呼び掛けるとすぐ応答があった。口元が微かに動き静止した。微笑もうとしたのかもしれない。包帯よりも白さの際立つ顔を見下ろす。
「調子は?」
「まあ、悪くない」
「そうかな」
顔の包帯は少なくなったが、両眼の周りはまだ取れない。ガーゼに覆われた眼球の一つは失われ、もう一つは機能をほとんど失った。知らず伊奈帆は自身の眼帯に手を伸ばしていた。
ここにも、もう何もない。
「別に、いらないものだった」
投げやりな声と言葉で頭にかっと血が上った。しかし、伊奈帆は何も言わなかった。ベッドを見下ろし拳を握りしめる。スレインが、言った後で口を引き結んだ。
黙りこくる二人の間に、恐ろしいほど重く長い数秒間が横たわった。石のように重い口を、先に開いたのはスレインだった。
「……すまない。君の前で、失言だった。………僕は、別に平気だ。痛いのには慣れている。今は身動きできないが、そのうち治る」
ぽと。ぽと。
伊奈帆は、チャンパーに薬剤が落ちる様子を眺める。その雫の音が聞こえるように神経が尖っていた。落ち着け、と自分に言い聞かせ、細く長い息を吐き出す。
伊奈帆は室内を見渡した。冷たそうな壁はコンクリの打ちっ放しで、冷え冷えとした色合いをしている。あとは剥き出しの小さなトイレと、生白い洗面台。清潔だろうが、どこか場違いだ。明り取りの窓は高く小さく、その外には何も見えない。あの窓では、空が青いのかさえ分からない。薄暗く肌寒い室内では、何もかもを鈍く、重く感じるようだった。
資料で見た。想像はしていた。しかし、この場所がスレインの唯一の居場所になってしまったことを、このとき伊奈帆は現実のものとして明確に理解した。
白い掛け布の上、スレインの胸と腹の間に手を乗せる。体が強張ったが、すぐに脱力して息を吐いた。伊奈帆は薄い体をぽんぽん、と軽く叩く。
馬鹿なやつ。慣れていても、痛いものは痛い。怖いものは怖い。そんな、何でもないようなふりをしなくてもいいのに。
「また、来るよ」
独房を出ようと背を向けると、ああ、という声が聞こえた。彼の反応を意外に思いながら、扉の外に出て天井を見上げる。蛍光灯の素っ気ない光が目に刺さった。
もう来るな、と言われると思った。
……あいつ、弱っているし、寂しいんだ。
伊奈帆は一度だけ厳重な鍵と格子で仰々しい扉を振り返り、大股で歩きだした。
「調子は?」
「……お前も、飽きないな」
二週間後、いつもの面会室で差し向かう。スレインの体からは、点滴も、包帯も、ガーゼも取り去られていた。体の痣も薄く目立たない。伊奈帆はテーブル越しに真向かいの、以前よりも更に青白く痩せ細った顔を見つめた。左目は閉じられ窪んでいる。右目はどこか遠くを見るように細められ、眉間に皺を寄せていた。視力がほぼ失われた右目でそれでも、伊奈帆の顔を認識しようと目を凝らしているらしい。目つきが悪くて、すごい悪人面だ。
「不便はないかい」
「別に。僕には、することは何もないから」
強いて言えば、息をすることくらいか。そう言って乾いた笑いが二度三度ひび割れた唇から漏れた。ジョークが壊滅的に下手なことは知っているが、今回は特に酷い、と伊奈帆は眉根を寄せる。まあ、ジョークのセンスがないのはお互い様だが。
「チェスでもしようか」
「ああ、そうだな」
テーブルの上には、何もない。二人は、それぞれの頭の中にチェス盤を広げた。しばらく、面会室にはアルファベットと数字、チェスメンを示す声だけが響く。
「チェスにおける可能な手は、地球中の砂の粒より多いんだ」
駒を取り合い対戦が佳境に入った頃、伊奈帆が言った。スレインは伊奈帆に顔を向ける。目が合えばいいのにな、と伊奈帆の隻眼はスレインの右目に焦点を合わすが、視線が交わされることはなかった。
「一手目には四百の選択肢、二手目には七二,〇八四、三手目には九百万以上。四十手目には、選択肢が宇宙二十個分の原子の数を超える」
スレインは椅子に凭れ、眉間を指でほぐし瞬きを数度繰り返した後、面倒くさそうに髪を搔き上げた。
「何が言いたいのか、分からないな」
伊奈帆は右手で、空中のチェスを抓む動作をし、首を傾けた。
「チェスは、飽きないってことさ」
チェックメイト。伊奈帆がそう言うと、スレインは口をへの字に曲げて悔しそうに腕を組んだ。
「彼の様子はどうですか」
面会の後、応接室のソファで伊奈帆は監視官に聞いた。伊奈帆より二回り以上年上の彼は、ソファの向かいで背筋を伸ばし頷いた。
「変わりありません。大人しいですし、受け答えはしっかりしています」
監視官は、その、と言葉を詰まらせた。膝の上で組まれた指が、言葉を探して数度手の甲を叩いた。
「以前よりも、穏やかな様子です」
伊奈帆は監視官の戸惑ったような声音に、微かな胸騒ぎを感じた。
「調子は?」
今日も今日とて、面会室で向かい合う。スレインは、小さく顎を引き頷いた。
「悪くない」
伊奈帆は、スレインの顔を観察する。左目に、表層義眼が装着されていた。眼窩・眼瞼の形状を正常な状態に保つ目的で宛がわれたそれの虹彩はブラウンだった。伊奈帆は大いに違和感を感じたが、本人は気にした風もない。
「ねえ、どんな気分?」
スレインは無表情に伊奈帆のいる方向を眺めてから、左右非対称に口の端を上げた。伊奈帆は、スレインのこの笑い方はあまり好きではない。しかし、笑顔が見られるようになったのは悪くない、と心の中で頷いた。
「今更だな」
それもそうか、と思ったので、うん、と返答した。スレインは椅子に背を預け瞼を閉じた。
「………見えない、というのは安心する。世界を、見なくて済むのは」
スレインは重そうな瞼を持ち上げ、焦点の合わない碧玉を伊奈帆に向けた。不思議な目だ。どこか遠くを見ているようで、ずっと見ていると彼の存在が伊奈帆から遠のくようだ。ここにいるのに、触れられるほど近くにいるのに、彼の見ているものはここにない。
心は、ないようにさえ思える。
でも、それは違う、と伊奈帆は自身の想像に反論した。スレインはここにいて、伊奈帆の声を聞いている。この狭い部屋の中で、心臓は動き血液は体内を巡り、同じ空気を吸って、吐いている。現実の中で生きている。
「でも、君は世界の中で生きている。現実は何も変わっていない」
「そうかもしれないな。でも、不思議と安らかだ」
微笑みを浮かべた顔は、美しかった。儚くて、繊細で、触れたらきっと冷たくて。病的で、自然ではない。作り物のような美しさだ。籠に入れられた鳥のような。窓枠に切り取られた空のような。花瓶に活けられた切り花のような。
なんという、不自由な美しさだ。
そんな顔が見たいわけじゃない。そんな言葉を言わせたいわけじゃない。
そんな風に、生きてほしいわけじゃない。
「閉じ込められていれば、目を失えば、羽を切り落とされれば、安心か? 何もしなくていいのか?」
いつもより感情的な伊奈帆の声音に、スレインは戸惑った表情を浮かべた。張り詰めた空気が室内に増殖する。スレインは伊奈帆の声に向けて目を細め、口を開いた。
「……何が言いたい?」
「君は一生ここに閉じ籠っているつもりか」
思わず口をついて出た言葉に、面会室でこれは不味いな、と思うが伊奈帆は続ける。後の面倒は後で考えよう。だって、今言わないといつ言えるか分からない。真っ白な病室での、針の密集した青い腕を思い出していた。
この管が、機械が、薬液がなければ。
ぞっとした。
死んでいたかもしれないのだ。彼は。自分の知らない間に。
伊奈帆が立ち上がると、椅子の足が床を擦る音が尾を引いた。スレインの前に手を置き、前屈みになる。思いっきり首を伸ばして顔を近づけると、碧玉が見開かれた。
見えているか。見えていてほしい。瞳の奥に心があれば、と穴のあくほど伊奈帆は瞳孔を見据える。
「違うだろう」
その気になれば、こんなところ出て行けるんじゃないのか。
伊奈帆の言葉に、スレインはこれ以上ないほど両目を見開き、そして不機嫌そうに俯いた。何も言わなかった。
伊奈帆は、また来る、と背を向け面会室の冷たいドアノブを握った。
「調子は?」
もう何度目だろうか。
面会室で向かい合う。スレインは何度も瞬きをして、眉間に消えないのではないかと思うほど深い皺を刻み伊奈帆を睨んでいた。伊奈帆の姿を判別できているかは分からない。伊奈帆は、その顔を見つめに見つめた。
いつ来ても、生きている彼に会うのはこれが最後かもしれない、という思いがどこかにあって、だから何度も彼が生きていることを確認するようにここに来る。まだ生きている。彼も、自分も。
「……一つ、お願いがあるんだが」
珍しく、今日はスレインが自分から言葉を発した。内容も、とても珍しい。彼がお願い事をするのは、初めて面会をした時以来だ。その時のお願いは、到底聞き入れられるものではなかったが。
「何?」
緊張した声が出たかもしれない。フォルマウント分析をしたら、ばれただろう。しかしそんなことのできる義眼はもう伊奈帆の左眼窩にはない。もちろん、彼の眼窩にも。
「君に、その、……触ってもいいか?」
伊奈帆は呆気にとられ、無言で眉を上げた。若干の動揺は空気で伝わっただろう。スレインは目を伏せ、きまり悪そうに続けた。
「本当に、君がそこにいるのか確認したい。……嫌ならいい」
「いいよ」
しばらく、何も言わなかった。スレインがテーブルの上で組んでいた手を伸ばしたので、伊奈帆は身を乗り出してその手を握る。スレインの手が伊奈帆の手を撫でた。スレインの指先は冷たく固いが、掌は温かかった。細く華奢な指が、伊奈帆の手の形を、温度を、確かめるようにゆっくりと肌を滑った。
「…手が冷たいな」
「冷え性なんだ」
スレインの手が、伊奈帆の手から手首へ、肘へ上がる。おそるおそる、という感触がくすぐったい。伊奈帆の二の腕のあたりに、青白い血管の浮き出たスレインの手の甲が見える。ごわごわとした軍服に包まれた腕を、その手がゆるく握った。
「着こんでいるな」
「寒がりなんだ」
二の腕から肩を辿って、首のあたりにスレインの指が触れると、伊奈帆はびくりと体を震わせた。スレインの手が冷たくて、ぐっと奥歯に力を入れる。
「冷たいか」
「……すごく」
すまない、と彼は言ったが、声は少し笑っていた。ああ、その笑顔はいいな、と伊奈帆は思う。こんなに近くで彼の顔を見るのは初めてかもしれない。口の近くに一つ、小さな笑窪ができていた。瞼を閉じていて、瞳は見えなかった。手は首から耳を確かめて頬に至る。指先は冷たい。両手で頬を包み込むようにして、スレインは伊奈帆の顔を瞼の裏に描いたようだ。
「柔らかい肌だ」
「日本人だからね」
掌がそっと浮き、指先が触れるか触れないかのところをなぞっていく。肌の産毛がさわさわして、とてもくすぐったい。鼻や、頬骨や、額。そして、右の瞼。指が触れた。反射的に伊奈帆の背が緊張し強張ったが、二人とも何も言わなかった。
「……眼帯を、取ってもいいか?」
「いいよ」
外気に晒された左瞼を、スレインの指の腹がなぞる。紙一枚を隔てたような感触だった。目尻でその指は、少し震えた。
「……額を、撃ち抜いたつもりだった」
スレインは、初めて聞く声でそう言った。色んな彼が同時に喋った。そんな感じの、茫然とした声だった。
ならば、額でなくて何よりだ。伊奈帆は、スレインもそう思ってくれていたらいいのにと思う。聞いていないし聞くことはないから、分からないが。
唐突にスレインが伊奈帆から手を離して、体を離して固い椅子へすとんと座った。背を深く預けている。顔は床を向いていて、表情は見えない。伊奈帆は尋ねる。
「感想は?」
スレインは息を潜めてじっと動かなかったが、しばらくしてぽつりと言った。
「……あたたかい。君は生きて、僕の前にいるんだな」
最後に触れた瞼がぴくりと震えた。
静かだ。
お互いの息遣いまで聞こえるような静寂だ。スレインとは、時々こういう時がある。不思議と嫌ではない。
この静けさは、カタフラクトで時折感じた種類の静けさだ。海の底のような。夜の果てのような。孤独で、誰にも何にも触れられない。それでも、どこか安らかな。この静けさを誰かと共有するのは初めてだ、と伊奈帆は気付く。
「僕も、君に触れていいかな」
スレインが顔を上げた。なんとも酷い表情だが、彼は頷いて背筋を伸ばした。
「……ああ」
伊奈帆は腰を上げて、机越しにスレインの頬に指を伸ばす。隈のある青白い肌に触れると、乾いて冷たい。さらさらとした感触が指に伝わる。スレインは死人のように静かに瞼を閉じていた。伊奈帆の固い指先は、彼の華奢な顎から頬骨までの骨格をなぞり、こめかみを通る。そして、目と目の間を右手人差し指の腹で押さえた。スレインの体が強張る。左手を後頭部に回し、指を開き頭の形を確かめる。細い猫毛が指の間を通った。なだらかに丸く、小さな頭蓋だ。
「……ここを」
スレインは息を詰めてじっとしている。口元は弧を描いた。また、笑窪ができた。今度は左右両方とも。安らかな微笑だ。
「撃てば良かった?」
そう聞くと、スレインは小さな口の隙間から、本当に小さく、聞き取れないくらい小さな本音を吐き出した。
「そうだな」
二人で地球に落ちたあの時。
夜の海岸で、波に濡れて、ぼろぼろで。向かい合った。伊奈帆は、スレインに銃口を向けた。その時の彼の表情を、伊奈帆は決して忘れられないだろう。もともと、撃つ気はなかった。しかし、撃つ理由が失われたのはその顔を見たからだった。
今も、そんな顔をしていた。そっと指を眉間から離す。押していた場所は、少し赤くなっていた。
「でも、僕は撃たなかった」
伊奈帆はスレインから離れ、椅子に深々と座った。スレインは、瞼を閉じたまま姿勢よく座っている。もう口元の笑みは消えていた。塑像めいた形の良い唇で、無表情に佇んでいた。
「たとえ時間が巻き戻ったとしても、撃たない」
――あの夜。あの海。銃口の先。
スレインは笑っていた。
お前なら、僕を殺してくれるだろう?
誰もかれも、傷つけはしても殺してはくれない。お前はどうだ? 敵である僕を、報復のために殺してくれるだろう?
もう、何もかもに疲れてしまった。僕にはもう何もない。もう、何も。
表情が、そう語っていた。
ふざけるな、と思った。
「君が……。どれだけ願っても、僕は君を殺さない」
「そうか」
今では、お互いのことが少しずつ分かってきた。友人と呼べるくらいには。できれば、まだまだ時間が欲しい。会う時間。話す時間。未来の時間。
「また会おう」
伊奈帆は立ち上がる。慣れ親しんだ面会室は足を運ぶ毎に、まるで彼の部屋であるかのように錯覚する。月に数度、自分と同じ回数、ここで過ごす彼はどう感じているのだろうか。
「そうか」
スレインは茫然とそう言った。最近は、こうして返事をしてくれる。伊奈帆は扉から出て、マジックミラー越しに彼の姿をもう一度見た。項垂れて座っている。
冷たい、寒々しい、切り離された場所だ。こんな所に、自分は安らぎを感じ始めているなんて。
もっと違うところで話がしたいと、伊奈帆は思った
そして。
界塚伊奈帆は、来なくなった。



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