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Blue Rain,

  • 執筆者の写真: μ
    μ
  • 6月20日
  • 読了時間: 22分

~祝福~【2017-07-01】

 

 

 降りしきる雨の中、一機のヘリコプターがその島に降り立つ。

 海岸に不時着した機体は、横倒しで砂浜を大きく抉った。上面になった操縦席が、がんがん、がんと音を鳴らし、荒々しく扉が開く。

 中から、二人の人間が現れた。雨水を吸って重い砂浜に足を下ろす。一人は怪我をしているのか、病気か、自力で歩くことが難しい。もう一人が彼を担ぎ上げ、そして歩き出す。その足跡は、強い雨で次々と均され消えた。

 彼らが歩みを進める前方には、白い外壁と青い屋根。少し草臥れすぎた外観は、使われなくなって長い年月が経っていることを窺わせる。石造りの階段を歩く途中、強い風が鐘塔に吹き込んだ。がらん、がらんと鳴る鈍い音に来訪者は顔を顰め、木製の扉の閂に手を掛けた。

 雨の海は灰色だ。

 まるで獣のように波が暴れ、小型のモーターボートは、もう何度も飲み込まれそうになっていた。ハンドルを取られないよう注意しつつ、彼は目的地をレーダーで確認する。

 ここに来るまで、長かった。悪天候だが、日を変えることはできない。そもそも、宇宙空間でのカタフラクトの操縦に比べれば、なんてことない。

 小さな島が視認できた。スピードを緩め、停泊できそうなところを探す。どこにも桟橋はない。

 仕方なく、海岸に横づけする。レインコートを着て、雨でじくりとやわらかい砂浜を踏みしめる。

 いくらも歩かぬうちに、それはあった。

 白い外壁に、青い屋根。

 砂浜から続く斜面に整備された石造りの階段が、大きく重そうな扉へ続いている。

 木製の扉は黒ずみ、金属が雨に濡れ、光を鈍く反射していた。白い外壁は色あせ、汚れて斑だ。丸窓にはめ込まれたガラスは風雨に晒され汚れている。屋上から続く尖塔には鐘つき堂が設置されていたが、ロープは見えない。

 海辺の古びた教会だ。

 教会の反対方向、砂浜を眺める。この雨の中、傘も差さずに立ち呆けている男がいた。

 見つけた。

 ゆっくり、少しずつ近づく。あと五メートル、と近づいた時、男が喋り出した。

「お客さんなんて、珍しいな」

 天を仰ぐように立つ男は、来客に半身を向けた。髪も服も泳いできたかのようにびしょ濡れだ。濡れていないところなどない。この距離でこの雨音の中、朴訥としているが遠くまで通る、いい声だ。

「遭難したわけではないね。用向きは?……といっても、大体の想像はつくけれど」

 柔らかく穏やかで、理性的な声だ。顔がよく見えるところまで近づくと、日焼けした精悍な顔の中、橙の目が真っ直ぐこちらを見つめている。敵意も緊張もない、穏やかな光だった。

「貴方が、オレンジ色」

 オレンジ色と呼ばれた男は、ははは、と声を出して笑った。

「その呼び方は、随分と久しぶりだ」

 オレンジ色と呼ばれた男が客人に近づく。大股ですたすたと、警戒は感じられない。

「界塚伊奈帆です」

 握手を求めて差し出された手を握り返す。小柄な外見とは裏腹に、厚くてごつごつした掌だった。

「ハークライトです」

 名乗ると、そうだろうねと界塚伊奈帆は頷いた。

「もう、知っていると思うけれど」

 手をだらりと体の横に下ろして、伊奈帆は顔を横に向けた。ハークライトからは、彼の一つ残った瞳が海に向けられ細められるのが見えた。ぽつりと、雨粒にかき消されそうな声で伊奈帆が言った。

「スレインは、死んだよ」

 雨の中、立ち話もなんだから。伊奈帆はハークライトを教会へ招いた。扉の中は礼拝堂だ。

 薄暗く古いが、埃などなく、よく手入れされて清潔そうだ。ずっと奥に、大きな十字架と像がある。よく見ようと目を凝らすが、伊奈帆にこっち、と指示され脇の通路へ足を向けた。通路が狭まり、小さなステンドグラスが等間隔で並ぶ廊下を歩く。

「貴方は、連合軍の捕虜だったと記憶しています。解放されたのですか?」

 伊奈帆が口を開いた。ハークライトは、伊奈帆の濡れた後頭部を見ながら答える。

「ええ」

「今は何を?」

「姫様のお傍におります」

 そこで伊奈帆は少し黙った。雨粒が壁やガラスと叩く音が響く。静けさが、狭い通路に沈殿していく。

「ああ、妹君の?」

 得心がいった、という風に伊奈帆が言う。この男は敵ではないようだ、とハークライトは考え頷いた。

「ええ。レムリナ様です」

 通路を曲がると、右手の壁面にドアが現れた。奥の方に三つほど、赤茶けたペンキの、色あせた簡素なドアが並んでいる。

「彼女、どうしてる? 僕は、会ったことはないけれど」

 伊奈帆は一番奥の扉を開けた。どうぞ、と先に入る伊奈帆の後ろにハークライトは続いた。

「お健やかであられます。スレイン様を、ずっと探していらっしゃいました」

 狭い室内だ。四つの本棚が、壁に張り付くように並んでいる。箪笥、机と椅子があった。質素だが、かつては、神父の私室だったのだろうか、と想像する。伊奈帆は箪笥の引き出しからタオルを出して、一枚をハークライトに渡した。手に持ったレインコートを畳み、椅子に掛ける。濡れた顔や手足の水滴を拭く。

「着替える? 服はあるけど」

「お構いなく。私はそれほど濡れていませんから」

「そう。悪いけど、僕は着替えるよ」

 何が悪いのか、と思うと箪笥から服を取り出し、濡れそぼった服に両手を掛けた。ここで着替えることに対する気配りらしい。全く警戒されていない様子は、まるで友人の家を訪ねたようだ、と不思議な心地がする。席を勧められたので、タオルを置いて腰を下ろした。

「どうして、今日彼女は来なかったのかな」

 乾いた服に袖を通し、伊奈帆は聞いた。痩せ気味だが、筋肉のついた背中は軍人らしい。

「外出は、体力を削りますから。お止めしました」

 絶対に行く、と仰っていましたが。付け加えると、そう、と短い返事があった。

「さて、何から聞きたい?」

 着替えた伊奈帆はわしわしとタオルで頭を拭き椅子に座った。テーブルを挟み向かい合う。ハークライトは、正面の橙色の瞳を睨みつけた。

「スレイン様のことを教えてください。連合軍に捕らえられて、お亡くなりになるまでの間のことを。貴方は、ずっと一緒にいたはずです」

 伊奈帆はその視線を受け止め、うん、と一度小さく頷いた。テーブルを指先でトン、トン、トン、と何度か叩く。俯き、目を閉じた。

「長い話になるよ」

「構いません」

 突然伊奈帆が立ち上がり、ハークライトはさっと身構えた。伊奈帆はテーブルに手を接したまま、ハークライトに尋ねる。

「紅茶を淹れるよ。それとも、コーヒーがいいかな」

 その佇まいにはっとして、ハークライトは刮目した。詰めていた息を吐く。

「……紅茶にしましょう」

「少し待ってて」

 そう言って扉の外に消えていく伊奈帆の背中が、見覚えのあるもののように感じた。

 

 ――かつて、月にいた頃。

 まだザーツバルム卿も存命の頃。連絡や要件で部屋を訪ねるとスレインは、使用人に過ぎない自分にいつも聞いたものだった。

「お茶を淹れますね。それとも、コーヒーがいいですか?」

 忘れていた。そんな穏やかな時間も確かにあったのだ。

「お待たせ」

 湯気の立つカップを持って伊奈帆が現れた。一つをハークライトの前に置き、自分は立ったまま一口飲んで椅子に座る。テーブルに置いたマグカップからゆっくり手を離すと、伊奈帆は両手を組んで視線を落とした。

「僕がスレインを連れ出したのは、表向き処刑されてから三年後のことだ。もちろん無断だ。それで僕はスレインと二人、軍に追われることになった」

 伊奈帆の眉が寄せられ、数秒の沈黙が降りた。

「理由は、彼が病気だったからだ。そのまま獄中死するのを、黙って見ていることはできなかった」

 ハークライトは息を呑む。想像していたが、現実を突きつけられて悔恨の念が沸き起こる。もっと早く。これまで何万回そう願ったことか。

「面会の度、みるみる痩せていく。もともと細い人だったけど、こんなに人間は痩せるのか、と思ったよ」

 肉がないから、関節が床ずれをして、肘や足首を赤くしているんだ。僕はよく、そこに絆創膏を貼ってやった、と伊奈帆は語った。

「そのうち、独房のベッドで会うようになった」

 当時のことを思い出しているのか、伊奈帆の表情は寂しげに映る。ハークライトは、感情の起伏が表情に出ないらしい眼前の男を見て、自分でなければただの無表情に見えるのかもしれない、と思った。伊奈帆が悲しそうに見えるのは、自分がとても悲しく、目の前の男も悲しく感じているらしいと信じたからだった。

「衰弱して、支えがなければ立つことも出来なくなっていたから」

 伊奈帆はふと顔を上げ、どうぞ、と紅茶を勧めた。ハークライトは、生温くなったそれをごくりと飲み込む。柑橘系の良い香りがした。

 伊奈帆が室内をぐるりと見渡す。

「この場所はスレインがそうなる前、もっと元気な時に偶然見つけた。誰もいないし、見つかることはまずない。そんな場所だよ。その時には、彼にはこんな場所が似合うだろうな、くらいの気持ちだったけれど」

 確かに、晴れていれば絵になるだろう。青い海と青い空。小さな教会とウミネコの鳴き声。そこに佇む、美しい人の姿を想う。しかしそれは、どこまでも一人で孤独で、悲しい風景だと感じた。

「もっと早く決断すれば良かったと、今となっては思うよ」

「決断とは?」

 話が飛ぶのは、頭の回転が速いからか、聞き手の存在を考慮していないかだろう。スレインにも、そういうことがあったとハークライトは思い返す。

 伊奈帆は、ハークライトの疑問に真っ直ぐ答えた。

「他のものに別れを告げて、二人で生きていく決断だ」

 この島で、二人きりで寄り添う青年たちの姿を思い描く。それは先ほどの想像よりも一層淋しく、悲しい光景だった。

 

「少し、歩こう」

 伊奈帆が立ち上がり、扉を開いた。ハークライトその背中に付いていく。

 来た道路を戻る。晴れ間が覗き、狭い通路は柔らかい光が差し込んでいた。先ほどとは、まるで違う場所に迷い込んだようだ。廊下の中ほどで伊奈帆が口を開いた。

「ここに来てからは、のんびり過ごしたよ。彼は相変わらず死にかけていたけれど、前より笑顔を見せるようになった」

 どうも彼は歩いているときの方が話しやすいようだ、とハークライトは察した。

 通路の先、両開きの扉を開けると、広い空間に出た。最初に入った礼拝堂だ。今はステンドグラスが光を通し、幻想的な空間だ。もしここに天使がいても驚かない。死んだはずの人間がいても、きっと驚かないだろう。

「ああ、スレインの調子がいい時は、あそこのオルガンを弾いていた」

 先を歩く伊奈帆が示す場所に、小さなオルガンがあった。足で踏むタイプの、簡素で古ぼけたオルガンだ。ハークライトは、スレインがこのオルガンに向かう姿を想像する。楽器を弾くところなど見たことは無いけれど、似合いすぎで笑みが漏れた。

「……といっても、三回くらいだけれど。アセイラム姫に教えてもらったと言っていた」

 僕が言うのもなんだけど、と伊奈帆は少し笑った。

「下手だったな。でも、もっと聞いていたかったよ」

 

 ――回想。

 

 オルガンの音が聖堂に響く。長らく放置されて、音程が所々狂っていた。弾き手も達者とは言えない腕前なので、鍵盤遊びをしているような覚束なさだ。心地いいとは程遠い演奏だが、それでもその光景は伊奈帆の心を慰めた。

「楽器を弾けるなんて、知らなかったな」

 演奏が止まったところで、伊奈帆は傍に近づいて声をかけた。スレインはゆるく首を振った。苦笑いしているようだ。

「弾けるなんて大層なものじゃない。音が鳴る仕組みを知っているだけだ」

 伊奈帆は、オルガンに立てかけてある楽譜を覗き込む。茶色く変色して、虫食いがあった。音楽に縁の遠い自分にはよく分からないが、音符が細かく並んでいて難しそうに見える。

「昔、アセイラム姫にピアノの弾き方を教えてもらった。楽譜の読み方も」

「そう」

 お前、音楽は?そう聞かれて、ピアノは弾けない。学校で鍵盤ハーモニカとリコーダーならしたことあるけど、と曖昧に返事をする。へえ、とスレインが面白がって笑った。

「お前にも、不得意なことがあるんだな」

 スレインの指が、鍵盤の上を滑る。伊奈帆はその白い指の動きを目で追った。

「この、白い鍵盤がド。黒い鍵盤は半音上がる。ほら」

 スレインがその鍵盤を交互に押す。確かに、半端な音が出た。

「何か、知っている曲を弾いてよ」

 伊奈帆の言葉に、スレインは少し考えて右手を鍵盤に乗せた。重さのないような手のひらだ。

「じゃあ、そうだな」

 ――ド ド ソ ソ ラ ラ ソ  ファ ファ ミ ミ レ レ ド

「きらきら星だ」

「知っていて良かった」

 笑う彼の顔と調子はずれのオルガンの音が忘れられない。

「ここでよく、祈っていた」

 礼拝堂の、最前列の長椅子。中央の通路に面したそこに座ると、十字架と像がよく見えるのだ。ステンドグラスの光に包まれた、美しいピエタの像があった。

「ここで、スレイン様は何を思っていたのでしょう」

 伊奈帆は首を振る。

「さあ。願い事は、人に話すと叶わないと言うから」

 伊奈帆は長椅子を見る。

 あの日―――。

 

 俯き祈るスレインに近づく。少しでも目を離すと、スレインは礼拝堂に行く。病の重さを感じさせない穏やかな様子で、伊奈帆はほっとする反面、ステンドグラスの淡い光に包まれて、そのまま召されてしまうのではないか。いつも、そんな不安を感じて隣に座る。

「ああ、いたのか」

 伊奈帆に気付き、スレインが顔を上げて微笑んだ。よく笑うようになった、と思う。しかし日増しに透明になっていく微笑みは、彼の命がそう長くはないことを物語っていた。

「冷えるよ」

 持ってきた毛布を掛けようとすると、手首をぎゅっと握られた。どこにこんな力が、と目を丸くする伊奈帆をスレインはさらに引っ張る。バランスを崩して伊奈帆が長椅子の背もたれを両手で掴むと、スレインは伊奈帆の頬を両手で包み唇を重ねた。

「ちょ、ん、…」

 少し苦い。舌が絡み合って腔内を深くまで追われる。刺激に頭がくらくらとする。

 背中に腕を回され、引き倒された。長椅子の上で、仰向けのスレインの上に覆いかぶさった格好になる。彼の顔の横についた自身の右手が、小さく震えているのが分かった。

「……どうしたの」

 伊奈帆が聞くと、スレインは眉尻を下げ目を細めて笑った。

「……今日は、気分がいい。きっと最後だ。こんなに体が軽いのは…」

 明日からは、きっと動くこともできない、と彼は呟いた。

「だから……」

 固く閉じた瞼に、今度は伊奈帆から口づけた。睫毛に滲んだ水滴を舐め取る。甘い味がした。

 顔を近づけて、視界の中はお互いの瞳だけ。碧の瞳が、左右に泳いだ。伊奈帆は目を閉じ額をくっつける。スレインの額は熱かった。

「好きだよ。君が生きていてくれて僕は幸せだ」

 服の下から手を入れた。ぼこぼこした肋を辿って、固く浮き出た胸骨を撫でる。指先にペンダントの金具が当たった。じっとりと汗に濡れた胸から少し速い鼓動が伝わる。

「ありがとう」

 スレインの頬が濡れた。伊奈帆の目から、水滴が雨のように彼の顔に落ちた。白い頬。白い額。白い唇。白い瞼。…碧の瞳。白い枝のような腕が持ち上がり、伊奈帆の頭をぎこちなく搔き抱いた。

 

 長椅子に座り込んだ伊奈帆は、開いた膝の上に肘を乗せ、両手を組んだ。肘置きから間を開けている。きっとそこに、スレインが座っていたのだろう。ハークライトは、かつて並び座った光景が見えるような気がした。

「スレインは、この場所で死んだ。その時、僕は隣に座っていたよ。もう毎日、そうしていた。いつ死ぬか分からないから、できるだけくっついていた。食事も水も、もう無理だった。入れても吐いてしまうから」

 伊奈帆の声は淡々としているが、視線はじっと自身の掌に落としている。見えない涙を受け止めているようだった。

「その日も、夜明け前からここで祈っていた。寒いから、毛布を何枚か持ってきてスレインを包んだよ」

 白み始めた空が赤みを帯び、橙に変わって美しく青く染まる過程。時よ止まれ、と何度も願った。

「そのまま死んだ。何も言わず。目を閉じたまま」

 抱き寄せた熱い体から体温が消え、硬く冷たくなっていく感触。気付いた時には、もう夕暮れだった。はっとして、その名を呼んで顔を寄せた。何度も名前を呼んだ。何度も、何度も、何度も。死んだなんて、とても信じられなかった。あまりに安らかな表情だったから。

「それは、いつの話ですか」

 ハークライトが聞いた。伊奈帆は立ち上がり、光を見上げた。

「三十年も前になる。彼は、まだ二十三歳だった。」

 ――その日も、スレインは礼拝堂の椅子にいた。手を固く組み合わせ、微動だにせず、彫像のようにそこに佇んでいた。

 ステンドグラスから差し込む光が彼の頭上から降り注ぎ、まるで聖像のように厳かだった。青白く隈濃い顔色も、痩せた頬も、節くれだった手足も、淡い光に包まれ絵画のように美しく静止していた。

 きっとこのまま、神様に連れて行かれてしまう。

 伊奈帆は、足早に歩み寄った。

「……ああ、おはよう」

 祈りを邪魔されたことに怒るでもなく、スレインは穏やかに微笑んだ。その笑顔があまりに儚くて、胸が痛む。どうして笑うのか。笑えるのか。もう、今日、明日、死ぬかもしれないのに。

「何を考えていたの」

 少し上ずった伊奈帆の声に、スレインは何も言わずに微笑んだ。あたたかな眼差しで伊奈帆を見て、次にマリア像を見上げる。伊奈帆は前を回り込み、スレインの隣に腰を下ろした。彼の視線を追う。 

 ピエタ像。

 十字架から下ろされたキリストを抱くマリア。

 母親とは思えないほど若々しく、美しいマリア。

 マリアの膝に横たわるイエスの、あまりに生き生きとした死相に伊奈帆は目を瞠る。マリアの左手は途方に暮れたように空で静止している。

 ――ああ、哀しい。どうして。愛しているわ。……そんな声が聞こえてくるようだ。

 この彫像はあまりに目の前の青年に似合いすぎていて、伊奈帆はぞっとした。

 ピエタ。悲しみと慈悲。死してなお、その腕に抱かれるのならば。愛されるのならば。

 妹のような、母のような、娘のような。恋人のような。美しいマリアの腕に抱かれるならば。

 この隣人は、きっと躊躇いなく命を投げ出すことだろう。

「伊奈帆」

 我に返り、伊奈帆はスレインを見た。彼はマリアを見ていた。…いや、違う。注意深く視線を追うと、イエスが下ろされた後の十字架を見ていた。

「ありがとう。感謝している」

 思いがけない言葉に、伊奈帆はぽかんと口を開けた。

「何、急に」

 伊奈帆の反応が意外だったのか、スレインはくく、と笑った。その途端、恐ろしいほど大きく咳き込み、伊奈帆はスレインが死んでしまうのではないかと思った。冷汗を流しながら、すぐそこの彼の背中をさすってやる。背骨の感触も、跳ねる体の軋む音も、感傷を抱くには慣れすぎてしまった。はあはあと息をして、スレインはありがとう、と伊奈帆の手をそっと押した。スレインは寝そべるように背もたれに体を預け、目を閉じる。

「今まで生きてきて、こんなに穏やかな気持ちは初めてだ」

 小さな声だった。今まで、というには短すぎる青年の道程を思い描く。生きてきた、というには苦痛が多すぎる人生を想起する。

「これまで、君は忙しすぎたんだよ」

 お前だって、と彼は小さく笑った。注意深くゆっくりと息を吐いて、凭れる背がずり落ちた。目をゆっくりと閉じて、開き、もう一度閉じた。開いたときに一瞬見えた瞳の色に、どうしようもなく不安になる。

「……もしかしたら。僕は今、幸せなのかもしれない」

 その瞬間、伊奈帆はスレインを見失ったような感覚がした。右目をぐっと閉じてすぐ開けると、スレインは相変わらずの青白い顔で目を閉じ隣にいた。不安を感じて薄い肩に触れる。呼吸するたび上下する肩に、生きていた、と安心する。

「海の音が聞こえる。……地球の音だ。空は青い。ウミネコが飛んで、時々浜辺に降りてくる。マリアは美しい。光が差し込む。少し古びた誰もいない教会に、僕とお前の二人だけ」

 スレインが目を開き、目線だけで伊奈帆を見た。もう、首を動かすこともできないのだ。

「そして、僕とお前は生きている」

 瞳は、生気を宿し美しかった。

「前は死にたいと思っていたけれど、死ななくてよかった」

 死にそうになってから、そんなことを言う。

「まだ僕には、願いがあった。いや、違うな。願いができた。それを祈ることができた。幸せだ」

 スレインの手が懸命に持ち上がり、肩に触れる伊奈帆の手を包んだ。冷たく乾いていたが、優しい感触だった。

「お前を、一人残していくのは辛いな」

 スレインの声は、迷子になった子どものようだった。独り言のようにも聞こえた。

「空もいいけれど、海がいい。波に揺蕩い、溶け、海にまざる。海水は蒸発し雲になり、雨になる。大地に滲み込んだ水は、また海へと戻る。……その方がいい」

「……さっきから、何を言ってるの」

 伊奈帆の言葉に、スレインはそっと微笑んだ。閉じた目を開けた時、美しく透き通る瞳が伊奈帆を映し細められた。それでも彼は、何も言わなかった。

 

 本当はわかっていた。

 あれは遺言だった。

 その二日後、スレインは死んだ。

 裏口から外に出ると、雨上がりの生温い風に包まれた。ハークライトは、外壁に沿って歩く伊奈帆を追う。目の前に、ぽつぽつと苔むした十字架が現れた。

 墓地だ。

 雨上がりの空にウミネコが飛び立つ。ばさばさいう羽音が聞こえなくなるまで見送り、ハークライトは聞いた。

「スレイン様の亡骸はどこに?」

 この墓地に埋葬したのだろうか。しかし、どれもこれもやけに古い。朽ちているものもある。

 墓石を眺めるハークライトに首を振り、伊奈帆は言った。

「そんな所にはいない」

「……どういうことです」

 眉を顰めたハークライトに、伊奈帆は微笑んだ。墓地の先を示し、歩き出す。

「こっちへ」

 

 墓地の先は、土を均したなだらかな斜面だった。その下は砂浜だ。振り向くと、緑の目立つ墓地と鐘つき堂がすぐそこに見える。振り返らない伊奈帆の後ろを歩いて行く。ぐるりと教会の外壁を半周した。目の前に、鉄錆だらけの茶色いヘリコプター。その更に向こうは、ハークライトが乗ってきたモーターボート。

 最初の場所に戻ってきた。

 伊奈帆は雨の中で見た時と同じように、海に顔を向けた。ハークライトはその視線を追う。青い空と青い海で、一面真っ青な景色の中、数羽のウミネコが飛行する。

「海に沈めた」

 独白のように、伊奈帆が言った。

「どうして」

 伊奈帆は海を見たまま微笑んだ。困ったような横顔は、どことなくスレインに似ていた。

「雨になるんだってさ」

 海がいい、と語った彼を思い出す。生気のない顔の中、瞳だけが命の火を灯し輝いていた。

「遺言だよ。ロマンチストすぎるね」

「……」

 ハークライトは海を見る。青い海。白い波。砂浜の小さな砂。生き物のように唸る波音。

 ここに、いるのか。

 火星で生まれた自分には、地球の生命観というのは時折理解を越えて映る。しかし、スレインの願いは彼らしく、そして美しいと感じた。

「だから貴方は、傘も差さずに雨に濡れていたのですか」

 海辺で雨に濡れていた目の前の男。きっと、雨の日の決め事なのだろう。

「貴方も大概、ロマンチストですね」

 ハークライトは振り返る。濡れた砂浜には、二人分の足跡が残っていた。

 

 命日は星月夜だった。

「スレイン」

 心は分かっていたらしい。涙が抵抗なく流れ、あれは遺言だったのだ、と頭がようやく言葉として理解した。頭で理解するのに、時間がかかることがある。心で理解するのに、時間がかかることもある。どうして、自分の体なのにこんなタイムラグがあるのだろう。頭と心が同時に理解できれば、自分の感情にもっと素直に行動できるのに。

「君の話は抽象的で分かりにくい」

 ずっと前、薄暗い面会室で向かい合った。雨と、チェスと、生きていた君。

「それは前にも、言ったけれど…」

 スレインの体は海へ送った。

 冷たくなった硬い体を抱き上げて運んだ。質量的にはとても軽いのに、踏み出す一歩一歩がやけに重かった。

「どうして、君がいなくなってから涙が出るのかな」

 抱き上げたスレインの衣服に水滴が模様を作り、雨か、と空を見上げた。夕暮れの後の群青の世界で、空には降るような星と白い月が出ていた。あれ、おかしいな、と何度か瞬きをして、その水滴が自分の目から出ているのに気付いた。

「僕はさ、君が思っていたよりずっと喜怒哀楽が激しいんだよ」

 沖まで、どんどん歩いて行く。浮力でスレインの体が手から逃れる。ああ、こうして君がいなくなるんだ、と思うと涙が止まらなかった。

「……もっと、君といたかった」

 肩まで浸かり、海水が君の体を覆った。離れがたくゆっくりと手を放す。君はあっさり僕の腕をすり抜け沈み出した。沈んでいく君の姿は、幻影のようだった。ずっと見ていた。君が波に攫われ、どこにも見えなくなって、真っ暗な空に白々しい日が上がるまで。

気が付くと、足の裏がずきずきと痛んだ。涙を拭うと潮水が目に染みて、余計に涙が出た。空を仰ぐと明け方の空に溶ける月の形が目に映った。行かないで、と引き留めるように纏わりつく海の中を歩く。陸に上がると、足に激痛が走り転んだ。触ると生温かく、塩と鉄の臭いがした。足の裏を酷く切ったらしい。教会まで長い時間をかけて歩いた。

 

 毎日、海を眺める。海に入る。海の中で目を開ける。

 

「君は、今どこにいるのかな」

 海の中で漂っているのか。もう、溶けだして海に滲み込んだろうか。それとも、鮫か何かの血肉になり、海の中を自由に泳ぎ回っているのだろうか。

「雨になるだって? 全く、いい加減にしてよ」

 その雨は、いつかこの身に落ちるだろうか。

 雨の日は、君に会える。そう思うと、元々嫌いだった傘は無用の長物になった。レインコートも、もういらない。

「また、雨に濡れてしまうよ」

 雨の日は、君を抱く。君に濡れて、君を嗅ごう。君を飲んで、君の中で下手な歌でも歌おうか。

「雨、雨、降れ、降れ」

 今日は、雲一つない快晴だ。ウミネコが空を横切り、太陽の方角へ向かった。

「愛してる、って。言えたら良かった。生きている君に」

 雨の日には、恥ずかしいくらいの告白をしよう。空を真っ赤にしても知るものか。

 踵を返し、今日も生きるために伊奈帆は海から遠ざかる。

「きっとスレイン様は、貴方のことを祈っていたのだと思いますよ」

 ボートに向かう道すがら、ハークライトは言った。

「いい加減なことを言わないでほしい」

 伊奈帆の鋭い声が後ろから聞こえる。今日聞いた中で、一番感情的な声音だった。

「私はスレイン様の部下です。あの方の背中をずっと見てきましたから」

 思い出されるのは、無造作に翻る赤い伯爵服。真っ直ぐに伸びた背中と、消えない傷跡。その眼差しの先にあるもの。

「後ろに立っていると、何を見ているのか、誰を見ているのかよく分かるものです」

 その瞳が、何を映していたかまでは分からない。しかし、スレインが視線を送る先にいたのは、いつも彼が触れられないほどに深く心を残したものだった。

「スレイン様は、貴方を見ていた」

 界塚伊奈帆は、途方に暮れた幼子のような目をしていた。

 

 帰ります、とボートに足を乗せるハークライトに伊奈帆は駆け寄った。首の後ろに手を回して、何かを外す。

「ああそうだ、これを」

 手渡されたものを見る。丸い銀のペンダント。所々、スレインの瞳の色によく似た装飾が施されている。

「これは、スレイン様の……」

 モニタ越しだが、一度だけ彼が身に着けているのを見た覚えがある。

「私が聞くのもおこがましいですが。大切なものなのではありませんか」

「いいんだ」

 深く頷き、伊奈帆は言った。

「きっと、スレインが生きていたら、貴方に渡したと思うから」

 手の中のペンダントを、そっと撫でる。小さな傷がある。それが優しく感じられた。

「地球のお守りだってさ。僕には、必要ないから」

 そう言って伊奈帆は笑った。笑っているのに寂し気な表情は、やはりスレインによく似ていると、ハークライトは思った。 

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