top of page

Deep Sea Monster_8&9

  • 執筆者の写真: μ
    μ
  • 6月19日
  • 読了時間: 24分

8、都市

 

 

 既に光は、潜水艇の電気照明だけである。

 太陽光の届かぬ水深四,〇〇〇メートルの底の亀裂の更に先、潜水挺デューカリオンは、垂直方向に船体を移動させていた。深海シティ“ヴァ―ス”への行程が、最終局面に差し掛かった十四日目のことである。スレインは伊奈帆とともにブリッジにいた。二人の外、六人の乗組員がそれぞれの持ち場についている。

「伊奈帆。あの青い光は何ですか?」

 岩壁を照らすデューカリオンの白色ライトではない色彩光が、下方から上方に向かっている。

「“アルドノア”のバリアだ」

「“アルドノア”?」

 スレインは反芻した。この船で過ごして初めて聞く単語は大いにあったが、“アルドノア”という言葉は他の言葉とは全く異質の響きを持って聞こえた。

「古代のスーパー・テクノロジーだ。アセイラム姫を始めとする血の継承者を守っているんだよ」

 スレインは次第に強くなる青い光を見つめてしばし考え、伊奈帆に向かって口を開く。

「守る?何から?」

 伊奈帆はスレインに顔を向け、常の無表情のまままた前方に戻した。

「色々さ。中に入って、見れば分かる」

 

 

 

 まず、大気の層があった。シャボン型の張力に形成された水球面内部には、ほとんど同じ大きさに並んだ黒色と白色のそれぞれのドームが二つのブリッジで連結され、瓶底眼鏡のような配置となっている。バリアはその一方、白色ドームのみを覆っていることがスレインには分かった。

「キャプテン、通信です」

 ブリッジ左前方、通信士の青年が伊奈帆を振り返った。伊奈帆やスレインと同年代の、茶髪の青年だ。彼をはじめ、デューカリオンの乗組員は皆若い。一番の年長者はドクター耶賀頼だろうが、その彼もいって二〇代後半だろう。年若い乗組員たち。彼らを乗せた地上の科学の限界を超えた潜水艇。謎は多く、日に日に増えるようだった。

 自分の頭と感覚が前より“まとも”、クリアになったのかもしれない。スレインはそう合点した。

「オープンして。翻訳も」

「了解」

 ジジ、ジー…。耳障りなホワイトノイズ。そして声。

『ディスィズ、ヴァ―ス、エンパイア、オーヴァー?』

 “ヴァ―ス”からの交信は、翻訳機能により不自然な棒読みでブリッジに響く。

「ヴァ―ス、ディスィズ、デューカリオン、オーヴァー」

 間があり、音声の種類が変化した。

『潜水艦デューカリオン号。進入軌道を指示します。三番ゲートを経由して、第五格納庫へどうぞ』

「ラジャー、アウト」

 バリアの壁の四か所に、円形に建造されたゲートがある。その一つに、デゥーカリオンは船底から降下した。

 

 

 

「我らはアセイラム姫殿下の騎士である」

 大気が充満する発着場の船内で小一時間ほど待たされた後、デューカリオンに使者が二人現れた。じゃらじゃらと装飾された騎士のような赤い服を着て、反重力で宙に五〇センチメートルほど浮いた卵型の移動ポッドを持参している。彼らは二本の脚や体つきは一見して人間と同じに見えたが、防護マスクの下の顔に人間の皮膚とは違う凹凸、光沢があった。鱗だ。伝説上の水魔マーマンに酷似している。

「レムリナ姫殿下を、こちらへ」

 挨拶もねぎらいも愛想も欠如した物言いで、彼らはハッチの外へレムリナを連れてくるよう言い放った。

「相変わらず、胸糞悪い連中ね」

 伊奈帆を先頭に、レムリナを乗せた小型水槽の台車、それを押しつつライエが鼻を鳴らした。彼女の隣で台車の持ち手を握りしめ、スレインは足を前後に動かした。

「本音を言うと、スレインやライエさん、伊奈帆さん、…デューカリオンの皆さんと別れるのは寂しいわ」

 レムリナが進行方向に向けていた顔が緩く振り、振り向いてスレイン、そしてライエを見た。

「でも、それぞれに相応しい場所があるのも分かります」

「望むと望まないにかかわらず、ね」

 ライエが諦観を滲ませた声音で呟く。スレインはライエを見て、レムリナを見た。レムリナは切なげに微笑む。

「でも、それは貴方達も同じでしょう?」

 抗いがたい運命のうねりの中、誰もが何かを選んで何かを捨てて生きている。

「スレインに出会えた。海底の素晴らしい景色を貴方達と泳いだ。夢のような出来事だったわ」

 本当にありがとう、と彼女は三人の名を呼んだ。伊奈帆、ライエ、そしてスレイン。

 ハッチまであと数メートル。レムリナは毅然と顔を上げ、背筋を伸ばし目を閉じた。

「この国で、“ヴァ―ス”で私は生きていく。生きていけると今なら思います」

 種類の違う光。発着場の強いライトの下に出る。騎士服の海底人が跪き、レムリナを丁重に移動ポッドへ乗せあっという間に連れ去った。

 

 

「本国の滞在期間は。四十八時間リミットです」

 入れ替わりに、防護マスクに手袋と、見える部分の素肌は皆無の装備で濃紺の制服数人が現れた。発着ゲートの作業員で、こちらも先ほどのの二人組と同じく二息歩行の人間タイプ。ただし、ビニル越しの肌の感じに人間の皮膚との違いは見いだせなかった。

 伊奈帆は一口に海底人と言っていたけれど、今ここにいる彼らは地上の人間と一体何が違うのだろう?

「潜水艇に残る乗組員も含め、地上人にはセキュリティ・リングを身に着けていただきます。出発の際、脱着手続きをいたします」

 船員は既に全員が甲板に整列している。デューカリオンは二度目の来訪、手続きについて心得ているものが大多数。紺服の海底人が流れ作業で全員の右の手首にリングを装着していく。太さに合わせて形状を調整するリングは、素材は多分ゴムに近い。余談だが後にスレインがふと尋ねたところ、伊奈帆は「シリコンゴムに近いけど」と数分間のミニコラムを展開し、一緒にいたマズゥールカが「キャプテンは博識だが話が長い」と自分を棚に上げた発言をして失笑を買った。

 紺服の一員のうち、細身の一人がコンピュータ・タブレットを片手に前に出た。腰の位置と歩き方から見て、おそらく女性なのだろう。

「謁見は明日。アセイラム姫殿下のご友人カイヅカイナホ氏、スレイン氏二名。それ以外の方はホワイト・ドームへは同行できません。その他の方はブラック・ドームのみの入国となります。手荷物の持ち込みは禁止です。必要なものは配給します」

 規定事項を聞くだけで、“ヴァ―ス”の地上に対する悪感情が透けて見える。

「お二人の警備は軌道騎士が務めます。謁見の時刻は後程、ホテルと母艦に伝令を送ります」

 タブレットをフリックし、女性係員はきびきびとした動きで伊奈帆に顔を向ける。

「キャプテン・カイヅカ。アセイラム姫殿下のご厚意で、乗組員の皆さんにシティのホテルをご用意しました。キーを発行します。利用する人数は?」

 伊奈帆は一歩前に出て、乗組員を見渡した。

「行く人、挙手」

 伊奈帆が右手を上げ、スレインも手を上げた。横を見ると、見える腕はあと二本。

「四人で」

「了解しました。リングにデータを同期しますので、利用者は前に出てください」

 四人のメンバーは伊奈帆、スレイン、マズゥールカ、耶賀頼である。タブレットにリングを翳し、リングのライトが点灯した。

 列に戻り、スレインは聞いた。

「ライエさん、行かないんですか?」

「やめとくわ。船の方が気楽でいい」

 ライエは言って肩を竦め。その隣でカームは首を振った。苦虫をかみつぶしたような苦々しい表情である。

「前みたく、センジョーさせられるんだろう?俺らはバイキンか、っての。俺、前の時に一生分、身体洗ったわ」

「ちょっとカーム、ちゃんと毎日お風呂に入っているんでしょうね?」

 あんまり近寄らないで、と距離をおくライエとそれはその、とまごつくカーム。

「センジョー?」

 疑問符を浮かべるスレインの背後に伊奈帆がやってきた。乗組員は船内に戻る人の流れを形成している。甲板には年齢の近い四人組。

 伊奈帆は珍しいことに、げんなり、とありあり顔に書いてスレインを見た。

「すぐに分かるよ。確かにあれはうんざりだ」

 面倒だけれど仕方がない、と伊奈帆が愚痴をこぼす間にマズゥールカ、耶賀頼が合流し、四人は案内のアナウンスに従って移動した。

 

 

 

「ライエさんとカームさんの言ったこと、今ならよく分かります」

 洗浄室を出て更衣をし、待合室で先に座って待っていた伊奈帆に向けてスレインは大きく肩を落としていった。素っ裸の状態で何十回も水や風や光で洗浄され、身体の重さが半分減ったような心地である。

「これが一番の難関。後はまあ、郷に入ったら郷に従え」

 たった二日の辛抱だ、と伊奈帆が言う間に、マズゥールカそして耶賀頼も草臥れた顔で洗浄室前更衣室から現れた。

 

 

 シティの街並みは、スレインの想像をはるかに超えた異世界だった。

 ブラック・ドーム内、白亜の建造物は見た事もない高さで連なっている。透明度の高いガラス窓。光るパネルに、同じ素材が敷き詰められた平坦の道。整理された区画、清潔な街並み。山や木や、土や草花は見当たらない。上を見る。ドーム内側のカーブの中心部にはドームと地表を繋ぐタワーがある。天井曲面全体がクリーム色の光を発していた。陸の文化が、急速に年月を重ね社会学者の文献の一頁となったような感覚だ。

 それらは全て、眼下の光景だった。巨大なチューブの通り道を、車輪も運転手もいないカプセル型の移動装置に乗って、シティ・ホテルに向かう道中。ツーシートの二両、前に伊奈帆とスレインが、後ろにマズゥールカと耶賀頼が乗車している。

「伊奈帆の言っていた通り、まさに未来都市ですね」

 伊奈帆もスレインが右手に見ている光景を身を乗り出して眺めている。伊奈帆にとっては二度目の来訪だと聞くが、隻眼の右目には純粋な好奇心がはっきりと浮かんでいた。

「アルドノアは、クリーン・エネルギーなんだ。石炭も石油も燃やさない。継ぎ目の見えない建物も、重力装置も完全なウェザーシステムも、技術的には、どう見積もっても地上の十数世紀先だ」

 着替えた服装は、シンプルなシャツと足首丈のズボンで、形状は全員同じ。色を選ぶことが出来たので、伊奈帆はイエローのシャツにダークブラウンのズボン、スレインはブルーのシャツと黒のズボンをそれぞれ選んだ。手荷物の持ち込みは許可されなかったが、アセイラムから伊奈帆、スレインへと届いたペンダントだけは許可を得て今も胸に提げている。

「綺麗な場所ですね。伊奈帆」

「上から見える所はね」

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 案内された宿泊施設には、ドームの中心に天を貫き建造されたタワーの中層部の二部屋だった。部屋割りは伊奈帆・スレイン組と耶賀頼・マズゥールカ組となった。二部屋とは言うものの、二つのエリアが内側で行き来ができるようになっている広い空間で、ベッドが二つ設置された寝室が二つと、バスルームが二つ、リビングも二つ。二つの部屋の中央にはラウンジまであった。スレインにとっては用途不明の様々な道具が部屋のそこら中に設置されており、伊奈帆はそれらを手あたり次第に起動させ、それぞれの機能に対してスレインに向け所感を述べた。その間実に数十分。スレインは、短い付き合いだが伊奈帆の講釈について止められないし聞くしかないと悟りの境地に達していたので、座り心地が抜群のソファに凭れて適当に頷いたり相槌を打って聞いていた。

「盛り上がってるところ水を差して悪いんだが、こっちに来てコーヒーでもどうだい?」

 ラウンジからマズゥールカが顔を出した。伊奈帆とスレインは移動して、ラウンジのカウンター席に座る耶賀頼の隣に伊奈帆、スレインと腰を下ろした。マズゥールカはカウンターの内側で棚や食料保存庫を物色し、コーヒーメーカーなる機械をにこにこ笑って操作している。

「スレインくん、調子はどうだい?」

 耶賀頼が聞いた。スレインは会釈を返し微笑んだ。

「おかげさまで。この通りです」

「不調は、すぐに言いなさい。そのために僕はここにいるんだからね」

「相変わらずの顔色だけど、随分元気になったよねえ」

 マズゥールカがウォーターのボトルの封を開けつつ肩目を瞑る。

「伊奈帆と二人、そうしてお行儀良くしているとまるで学生みたいだよ」

「学生か。年下扱いはあまり面白くないな」

 伊奈帆が憮然とそう言って、カウンターに肘をつく。マズゥールカはコーヒーカップを両手に持って微笑んだ。一つを伊奈帆の、一つをスレインの前に置く。

「年相応って意味さ。童顔とか、生意気とか、そういう他意は欠片も無い」

「自分で言ってちゃ世話ないよ」

 軽口の応酬に気がほぐれ、スレインはコーヒーを口元に近づけた。香りは薄く、色も薄い。口に含むと、苦味はあるがそれより水の味が濃い。

「相変わらず、味気ないコーヒーだよね」

 伊奈帆が言って、マズゥールカと耶賀頼が苦笑する。

「僕は前、居残り組だったから、ある意味これは新鮮だよ」

 耶賀頼が言って、マズゥールカも頷いた。

「私も、乗組員に加わったのは半年ほど前のことだから」

 伊奈帆は耶賀頼、マズゥールカを見て、首を巡らせスレインを見た。

「ここでは二回目、僕だけか、」

 しかし実に興味深い、とマズゥールカは声を弾ませた。

「“ヴァ―ス”とはどんなところかと思ったけれど、なかなかどうして、コーヒーの味と保存庫にある食べ物と、入国手続きと海底人の態度以外は悪くない」

「悪いところ、はっきり色々言ってるように思いますけどね」

 耶賀頼が言って、四人は笑った。

「忘れていた。食べ物は、確かに良くないね」

 伊奈帆が渋い顔をした。滅多に見ない顔である。

「食べ物って、どんな?」

「主食はオキアミとクロレラ。バリエーションは甘いか辛いかしょっぱいか」

 想像して、スレイン、耶賀頼、マズゥールカも揃って渋い顔をした。

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 一頻り話が済んだ後、来客を知らせる電子音とともにヴァ―ス皇室からのメッセンジャーが現れた。灰色の服を着た、おかっぱ頭の若い男。謁見は翌日の正午。その一時間前にホテルの部屋に迎えが来るので身支度を済ませておくように、とのことだった。その後、マズゥールカは散策に出かけ、耶賀頼は部屋で休むと引っ込んだ。伊奈帆とスレインは、自室のリビングのローテーブルを挟んだソファで向き合った。

「明日の正午、僕と君は、ヴァ―ス皇室に赴く」

「はい」

 スレインは伊奈帆の目を見て、首をしっかと縦に動かす。マリアナ海溝四,〇〇〇メートルの底の亀裂の更に底。深海シティ“ヴァ―ス”、海底人、第一皇女アセイラム、第二皇女レムリナ。船長室で聞いた荒唐無稽な言葉の羅列が今となっては全てが意味を宿し胸に落ちる。伊奈帆は嘘など吐いていなかった。全ては真実。そのことに、スレインは今更ながら強い感謝の念を抱く。

 伊奈帆と、そしてアセイラムがいなければ、レムリナも、そして僕も底なしの不幸の連鎖に落ちていた。

「君と僕がアセイラム姫に直に会い、話ができる可能性は高い」

「はい」

 アセイラム。浮かぶ姿はいつも、朝焼けを背景にした振り向きざまの笑顔と言葉。

 

『また、会えるといいですね。スレイン』

 

 会いに来た。会いに来れた。伊奈帆と、ライエと、カームと耶賀頼、それに他の乗組員の力を借りて。命を繋いでくれた。居場所を与えてくれた。守ってくれた。連れてきてくれた。そしてなにより、彼らの襲撃は首まで浸かった不幸から抜け出すきっかけをくれた。

 我に返ると、伊奈帆がじっと見つめていた。大きな緋色の瞳の色が瞬きで深くなり、彼はつと口を開く。

「それで、謁見の後、君はどうするつもり?」

 スレインは呆気に取られて口を開き、言葉の意味を数秒間考えた。

「どう、とは?」

 しかし意味が取れなくて、スレインは問い返す。伊奈帆は真剣な表情で膝に肘をつき、前のめりの姿勢でスレインを見据える。

「未来の話をしてるんだ。君の」

「未来…?」

 考えたこともなかった。今日の事、昨日のこと、もっと前の色んなことはいつも頭の中を巡っていたが、未来、今日から続く明日のことさえこれまで考えにのぼったことはなかった。

「今日死ぬよりも、明日生きるために力を尽くそう」

 伊奈帆が悔しそうな、やりきれない微笑みを浮かべ、スレインは初めて彼の半生について思い至る。彼もまた、不幸を背負って戦った一人の少年なのだろうと。

 スレインは伊奈帆に微笑み返す。伊奈帆も、口の端を曲げて笑みを深くした。

 彼と出会い、笑顔というのを思い出した。ずっと昔に失っていた顔のかたちと心のかたち。それを向ける人のこと。

「行く当てがあるなら、送ってあげるよ。生まれ故郷や、昔の家。それがたとえ、世界の反対側でもね」

 潜水艇デューカリオンならば、どこへなりともいけるだろう。しかしスレインは首を振る。

「行く当てはない。家族もいないし、故郷は知らない」

「そう」

 今の僕と同じだね、と伊奈帆は言って指を組む。スレインは、未来のことを考えようと目を閉じた。しかし、言葉が浮かばない。浮かんでくるのは、船上のさまざまな映像記憶で、それも医務室の手洗い鉢台の反射や食事の時の皿の配置、自室のベッドの枕の縫い目やシューズの爪先の形といった、些細で意味のないものばかり。

「スレイン」

 テーブルの一点を見て黙り込んだスレインに、伊奈帆は呼びかけ続ける。

「単刀直入に聞くけれど」

 スレインは視線を合わせ、顎を引いて頷く。

「はい」

 伊奈帆はその目をじっと見た。初めて見た時、手負いの獣のようだと思った。炎と氷を内包する痛々しく凶暴な碧。美しいが、危うく儚いモンスターの瞳だと。

 今は違う。誠実で優しい、純粋な思いを抱くヒトの目だ。

「僕の船に、乗る?」

「…伊奈帆の、船に?」

 伊奈帆は頷き、机に身を乗り出してスレインの手首を握りしめた。次の動きが無いままに、数十秒か数分が経過した。

「人間の一般的な脈拍より、かなり遅い」

 脈を取っていたらしい。伊奈帆の行動は唐突だから心臓に悪い、とスレインは胸を押さえ細く長い息を吐く。

「でも、心臓は動いているし君はこうして生きている。光に弱い体質と、偏食と、あと血の色が、まあ、その、ちょっと変わっているけれど。世界に一人くらい、そんな人間がいたってかまわないんじゃないかな」

 伊奈帆の言葉、人間と言ってくれて、スレインは胸の隙間が満たされる心地だった。

「深海なら、太陽光は届かない。潜水艦は君の住まいにうってつけだと思うけど」

 その条件は、それはヴァ―スも同じことだけど、と伊奈帆は付け加え腕を組む。

「それにそのうち、その身体を人間に戻す方法が見つかるかもしれない」

 それは夢だ、と咄嗟に思う。しかし、なんと明るく美しく、希望に溢れた夢だろう。

「ま、考えておいて」

 伊奈帆はそう言い残し、「お茶でも淹れよう、薄味だけど」と立ち上がって部屋を出た。

 ソファで目を閉じるスレインの脳裏には、レムリナの手を引き見た光景。貝殻の砕けた平らな砂と光の水と飛ぶ魚、サンゴとイソギンチャクの花畑。海藻のカーテンに彩られた、素晴らしい海の記憶が蘇っていた。

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

9、再会

 

 翌日、指定時刻より二時間早く軌道騎士が現れた。

「アクシデントのため、謁見の時刻を変更します。速やかに支度を済ませおいでください」

 支度と言っても、荷物も何もありはしない。伊奈帆とスレインは彼らをほとんど待たせることなく、タワーを出発した。

 

 

「さっきのあれは、レジスタンス絡みだ」

「迎えの男が言っていた、アクシデントのことですか?」

「そういうこと」

 ホバーカーの座席の隣で伊奈帆が言って、サイドウィンドウを指した。スレインは顔を近づけ走行路の下の街並みを覗き込む。昨日は見えなかった民間人の姿が、数か所の地点に集まりつつあるのが見えた。デューカリオンから見下ろした青いバリアのその理由に、スレインはおおよそ察しがついた。

「片方のドームにのみ張り巡らされたバリアは、市民から皇族を守っているというわけですか」

 伊奈帆は頷く。

「アルドノアを占有する皇族。皇族に阿り市民を見下す貴族階級。努力では覆すことのできないカーストに生涯を縛られる市民」

 同じ海底人だけれど、彼らの出自は少し異なると伊奈帆は言った。スレインは、昨晩マズゥールカが話したことを順に攫って口に出す。

「シティの海底人は、地上人の子孫だと。人魚や半魚人を祖とする皇族貴族に虐げられているが故の暴動ですか」

「そう。皇族貴族によるアルドノアの占有が根本なんだ。マズゥールカさんが言っていただろう?深海シティ“ヴァ―ス”は科学技術が際立って発展した代償として、芸術を置き去りにしたと」

 伊奈帆は両腕を頭の後ろで組み、背もたれに体重を預ける姿勢でフロントガラスの上方を見た。

「心を鎮める術を知らない。バリア内の彼らにとって、市民はひとくくりで敵なんだ」

 スレインは、アセイラムとレムリナの境遇を思った。故郷が安息の地ではないという現実がつきつけられる。

「何とかできないのでしょうか」

 スレインの独白に、伊奈帆はちらりと視線を寄越した。

「セラムさん、…アセイラム姫は、決して今の状況が善いとは考えていない。海底市民に対しても、それに、地上人に対しても、偏見を持たぬよう努めている。これは口で言うほど簡単なことではないだろうね。博愛精神ってやつかな」

 伊奈帆にしては珍しい、シニカルな物言いだ。スレインは次の言葉を静かに待った。

「でも、ずっと昔からなんだ。地上と海底の種族の諍いも、海底人同士の蟠りも。二つのドームが出来たのだって、アセイラム姫やレムリナ姫が生まれるよりも、ずっとずっと前のことなんだよ」

 ドームの壁面が近づいてきた。道の先に、ブリッジへと続く巨大な不等辺五角形のゲートが見える。

 伊奈帆の声が言葉を繋ぐ。

「人魚の時は長い。寿命という観点では、およそ僕らの五倍は生きる。紫外線や重力の人体への影響はそれほど強い。地上の天才科学者が生まれて育ち、文字を学び学問を拓き、置いて死ぬサイクルを五度繰り返す間、海底では一人の天才がベストコンディションでテクノロジーを前進させるんだ。シティに顕在する科学力は、アルドノアだけを根拠としているわけではない」

 ゲートが開く。抜けると深海の暗闇と、アルドノア・バリアの青が頭上を冷たい色に変えていた。前後の車の走行ライトが目に眩しい。

「人の一生は、人魚にとっては短すぎる。そして人魚の一生は、人にとっては長すぎる」

 人魚の長い一生を、と伊奈帆は続ける。藍色の深海で青い影を顔に落とし、深く翳る隻眼の眼差しは年老いた賢者のようだ。

「これからの人魚としての長い生を、アセイラム姫もレムリナ姫も、バリアの内側に閉じ込められて過ごすんだ。潮の流れも、海の神秘も月の光も星の並びも、バーチャルでしか知らないまま。僕らが死んでいなくなった後もずっと」

 伊奈帆の言葉と表情で、スレインはこの航行が腑に落ちた。寄り道の水中散歩と回り道の航路。それらは全て、レムリナのためだったのだ。海に魅入られ海を愛する海賊の、人魚の姫への贈り物のひととき。その後、故郷に戻った彼女の境遇を慮っての精一杯のプレゼントだったのだ。

「彼女たちが、貴い血と生命の危険を冒して、海面を目指した理由が分かるだろう?」

 囚われの人魚が二人。一人は城を抜け出し水圧に適応するため何か月もかけて、一人は敵と嵐に攫われて人に捕らわれ運ばれて。

 波も星も大気も知らなかった彼女らは、次第に水が黒から青く変化して、朝焼けや夕焼けの赤を透過し、波に揺れる水面の月の光の影を見た。アセイラムの海の浅瀬色の瞳が。レムリナの晴れた空色の瞳が。

 その目に映り込んだ空の時間を想像する。曙の金星。朝焼けの水平線と、真昼の月と夕焼けの鴎。黄昏の空の変化の色に、夜も更けて、南の空に燃える火星。

「ええ」

 アセイラムと見た朝焼けの海。レムリナと見た月の海。波の飛沫や砂の粒、風の温度と潮の匂い。スレインはそれらを、鮮明に思い出すことができる。

 美しい。赤く、青く、瞬く光の、美しい思い出だ。

「君に出会えたことは、姫たちにとって幸運だったと僕は思う。」

 伊奈帆は急にそっぽを向いた。

「それは僕もだけどね」

 見える後頭部は少年らしく丸みを帯びてなだらかで、言葉はは不機嫌を装った早口だった。

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 連絡路であるブリッジを抜けたホワイト・ドームの内部の景観は、市民のシティと違う様相を呈していた。まず目につくのは木々の緑。地面が土の区画にはふんだんに花と果樹が植えられている。白を基調としたデザインの景観にはアーティスティックな模様や造形が散りばめられ、様々な高度から流れ落ちる水のカーテンが細かな飛沫を上げていた。開いた花のような形をした建物が、ドームの内側に点在している。ざっと三〇以上はある。その中で、最も高く最も巨大で最も入り組んだドームの中心に位置する建造物が、アセイラムのいる城だ。

 

 

「この部屋で、お待ちください」

 そう通された一室は、四方の壁に水が流れる、涼やかな庭園だった。拾い直方体の中心にはアコヤ貝をモチーフにした噴水があり、天井には草花が咲き、床は緑の芝生に覆われている。

「謁見室ではなく、庭園ですね」

 スレインが言い、伊奈帆が答える。

「土と緑は、“ヴァ―ス”の富の象徴だからね」

 二人並んで立って部屋を眺めていると、楽器の音色のベルが鳴り、続いて人声が聞こえた。

『殿下がお見えです』

 水のカーテンが途切れ、伊奈帆たちが入室した反対側の壁のはめ込み型のモニタが光る。滑らかな映像処理で、高画質の人物映像が映し出されてスレインは呻くような声を上げた。

「アセイラム姫…!」

 電子モニタの向こう側で、アセイラムが微笑んだ。カナリア色の豊かな髪を編み上げて、垂らした一房が鎖骨に接し束になっている。白い布地のショールを掛け、パールの連なるネックレスには月と太陽と雫を模した宝石飾りがついていた。微笑む顔は、記憶にあるより大人びて美しく、色付いた唇の動きがスローモーションのようにゆっくり見える。

『私はアセイラム・ヴァ―ス・アリューシア。深海シティ“ヴァ―ス”の皇位継承者です』

 モニタの向こうでアセイラムが目礼をして、伊奈帆とスレインはそれに応えて腰を追って礼をした。

『スレイン。私のことを、覚えてくれていますか?』

 スピーカー越しのアセイラムの声。スレインは彼女に届くよう、声を張り上げ言葉を発す。

「勿論です。姫様が、僕の命を救ってくれた。あの時だけではありません。死に向かう心を、いつも引き留めて生に繋いでくれたのは姫様との約束があったから」

 喋るにつれてどんどん胸が苦しくなって、言葉の最後の方をスレインは絞り出すように声に乗せた。右手は胸元のペンダントを服の上から強く握り締めていたことに気付く。

『また、お会いできましたね』

「はい…。全て、伊奈帆のおかげです」

 画面のアセイラムがゆっくり大きく瞬いた。その時背後の扉から、宙に浮く移動ポッドを押して侍女服の少女が現れた。伊奈帆とスレインは振り向いたまま動きを止めた。

『伊奈帆さん。ありがとう』

 アセイラムの声。

『私の二つのお願いを、叶えてくれてありがとうございます。伊奈帆さんのおかげで、私はスレインと再会し、妹レムリナと会うことができました』

 侍女とともに入室したのは、発着場で別れたきりのレムリナだった。彼女は桃色の髪を揺らし、明るい笑顔ではんなり笑った。

「ありがとう。船長さん」

 二人の姫に前後に挟まれ、伊奈帆とスレインは前と後ろに体を向けた。レムリナのポッドを侍女が押して二人の横を通り過ぎ、モニタの隣で浮力を失い床に着く。

『モニタを介してではありますが、皆さんとこうして会うことができ、私は大きな喜びを感じています』

 アセイラムが微笑み、レムリナもモニタの隣で微笑んだ。二人の笑顔は、隣り合うと実によく似ていた。

『スレイン』

「はい」

『伊奈帆さん』

「はい」

 モニタの左から現れた金髪の軌道騎士が、背後から彼女に耳打ちをした。謁見は終了だ。

 次が最後の言葉になる。

『トモダチですね。私たち』

 返事を声に出す前に、ブツンと回線が切れた。始まった時の典雅さとは裏腹に、唐突に謁見は終了した。

 ざあざあと、水の落ちる音がする中立ち尽くす伊奈帆とスレインに。

「お二人とも、こちらへ!早く!」

 侍女の少女が小声で激しく手招きし、伊奈帆とスレインは小走りにレムリナへと近寄った。

「ありがとう、エデルリッゾ」

 レムリナはそう言って、自身の胸に手を当てる。何かを呟き、彼女の身体が光に包まれ変化した。桃色の髪はピンクベージュ、空の瞳は海の色へ。黒い尾鰭は白銀に。

「…セラムさん!?」

 伊奈帆が驚きの声を上げた。

「スレイン、私のことがわかりますか?」

 セラムと呼ばれた少女はにっこり笑って顔の左右の髪を握る。スレインは躊躇うことなく彼女の名を呼ぶ。

「アセイラム姫…!」

 アセイラムは尾鰭を跳ねさせ飛び上がり、二人の首に抱きついた。

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 アセイラムとレムリナの入れ替わりで行われた謁見は、伊奈帆、スレイン、侍女の他にはその真実を知られることなく終了した。前日に生まれて初めて顔を合わせた姉妹は、胸の内を語り合い今回のことを計画したということだった。手品の仕掛けは光学迷彩とのことで、彼女ら二人の血のみが有するアルドノアが為し得る奇跡の力だ、とは帰路を案内する道中に侍女が語ったことである。

 メインホールで迎えの車を待つ間、吹き抜けのガラス天井をスレインは見上げた。

「どうしたの?」

「伊奈帆、上、見てください」

 スレインは顔を天井に向けたまま言った。伊奈帆も彼の視線の先を追って見る。

 ガラスの天井の向こうは、ドームの内側の壁だ。外部から見たドームの色は白かったが、内側からだと外が透けて、バリアの色がここまで届いて見えるのだ。

 それは青。

「僕ら陸の生き物は、あの青い色を空と思います」

 スレインの言葉を、伊奈帆は青を見上げて耳で聞く。初めて聞いた彼のがさがさ声を思い出した。今この時、澱みなく滔々と流れる彼の声を、ずっと聴いていたいと思った。

「でも、海底に住む“ヴァ―ス”の民は、地上の青い空を見たとして、アルドノアの光と見做すでしょうね」

 伊奈帆がスレインを見ると、スレインも伊奈帆に顔を向けて静かな瞳でそこにいた。

「以前ここを訪れた時」

 伊奈帆は、自身の頬に笑みが浮かぶのを自覚した。

「僕も君と、同じことを考えたよ」


最新記事

すべて表示
Deep Sea Monster_10

10、Deep Sea Monster     「二人揃って、帰って来たね」  ホテルの部屋に戻ると、マズゥールカが挨拶もそこそこにそう言った。 「お帰り、伊奈帆君。スレイン君」  耶賀頼も安堵の表情を浮かべている。ラウンジ、四人掛けのテーブル席で向かい合う大人二人の前には...

 
 
 
Deep Sea Monster_6&7

6、船員   「彼の血液は、異常だね」  伊奈帆はその言葉の意味を考えながら眼下の身体を見下ろした。ベッドサイドのガートルスタンドにぶら下がる二種類の輸液パウチから、上に向けた右肘裏に二本の針が刺さっている。仰向けに横たわる身体、洗い晒しのブルーの患者着の上衣を診察のためた...

 
 
 
Deep Sea Monster_4&5

4、邂逅      階段を駆け下りた一階で、伊奈帆は乗組員の一人カームと鉢合わせた。 「いたか?」 「追いかける」  横をすり抜け短く言うと、カームが伊奈帆の肩を掴む。古い馴染みである。言いたいことは口を開く前から目を見るまでもなく分かる。 「お前がか!?俺が行く」...

 
 
 

Comments

Rated 0 out of 5 stars.
No ratings yet

Add a rating
bottom of page