Deep Sea Monster_4&5
- μ

- 6月19日
- 読了時間: 16分
4、邂逅
階段を駆け下りた一階で、伊奈帆は乗組員の一人カームと鉢合わせた。
「いたか?」
「追いかける」
横をすり抜け短く言うと、カームが伊奈帆の肩を掴む。古い馴染みである。言いたいことは口を開く前から目を見るまでもなく分かる。
「お前がか!?俺が行く」
船長が現場を放棄することに対する懸念に拠る。カームは正しい。しかし伊奈帆は首を振った。
「駄目だ。手強い。僕が行く」
数点の指示を伝え、後は頼むと言い残す。カームは右手を額に翳し神妙な顔で頷き言う。
「お姫様のお願いだからな」
カームは駆け出す伊奈帆の背を押した。
水跡は一階洗濯室で途切れた。伊奈帆は逃亡者の思考を辿る。絞り機。アイロン。天井に張り巡らされた物干しロープ。かけっぱなしのリネンの一ヶ所、不自然に開いた間隔があった。
シーツを調達したのだろう。体を拭いたのか。
いや、と伊奈帆は壁面の通用口から外に出た。見える所に井戸がある。近づくと、靴裏に濡れた土草の柔らかい感触があった。ロープも、木製の桶も滴りが落ちるほどに濡れている。伊奈帆は井戸の中を覗き込んだ。積み上がった石の曲面と真っ黒な水面。息を潜めて隠れているかと思ったが、そうではない。
人魚の身体が乾かぬよう、シーツを濡らして体を包んだ。腕に抱える重量は二倍もしくはそれ以上。しかも、自分の着ている濡れたドレスを脱いではいない。
「すごい怪力だな」
進路を定め、数キロに及ぶアプローチを横切る間、荷を運ぶ手下の何人かが確認事項を幾つか寄越した。伊奈帆は手短に答え、巨大な門の内側で指揮をしていた仲間のライエにボートの手配を頼む。無表情で頷いた彼女の紫色の猫目が門の外側上空を経由し屋敷を見返り伊奈帆に戻った。
「私が行く。文句ないでしょ?」
「それならすぐだ」
伊奈帆は頷き微笑んだ。
門を出て、石畳の街道を海の方角に走る。理屈はある。人魚の彼女は、自力で逃げることはできない。ならば、連れ去られたと考えるのが正しい。しかし、それは外部の人間ではない。
こじ開けた形跡の無い錠前。倒れた二脚の重い椅子。ランドリーの天井ロープの空間。濡れた井戸の周りの草。そこにあったもので、何とか凌いだといった様子だ。そしてそれを隠すことができないくらい切羽詰まって逃げている。
水を吸ったシーツとドレスの総重量、そして人魚一体分。それらの荷物を抱えている。
まだ、そう遠くへは行っていないはずだ。
シーツと井戸の一件に、人魚に対する労りが感じられた。逃げる場所などありはしない。それも分かっているはずだ。ならば、行先は一つしかない。
海に向かうのが自然だ。たとえ人魚が、自分の尾鰭で泳げぬことを知ってはいたとしても。追手が来ると分かっていても。海を目指す他はない。
伊奈帆の口角が自然に上がる。そんな馬鹿は、嫌いじゃない。
細い道に差し掛かる。港町特有の、アップダウンの激しい曲道。重心を低くして、音もなく道を下る。潮風に晒され痛んだ漆喰の壁面を何枚も左右を見送った。
海岸が見えた。星月夜の海。絵の具の一筆のような砂浜。伊奈帆は目を凝らす。パノラマの視界。まだ遠い。急勾配を跳ぶ。右、左、右。壁を蹴る。上空で服が風に泳ぐ。
…見えた!
砂浜に動く人影。よろよろと、ゼンマイが切れかけたブリキのオモチャのようにおぼつかない足取り。向かう先はやはり海。伊奈帆との距離は五〇〇メートル前後。
伊奈帆が踏む砂浜の音に気付いたのか、人影は速度を上げたように見えた。しかし、もう力も残っていないらしい。歩行の速度は壁伝いの幼児のようにじれったい。
あと、およそ一〇〇メートル。
あっという間に距離が縮まり、逃亡者の後ろ姿が良く見えるようになった。下半分が大きく膨らんだバッスル・スタイルのドレスは濡れて裾が窄まり、砂浜に海牛の通った跡のような窪みを残している。
驚いた。本当にあんな格好で、人魚を抱えて逃げて来たのか。
執念。いや、情念という言葉が浮かぶ。予測通りの結果を、これほど意外に思うとは。
これはそう、中々できない経験だ。
間合いを詰め、刃を抜く。赤い布地が整美な曲線を描く背に、伊奈帆はコリシュマルドの切っ先を向けた。波打ち際との距離は約一〇メートル。
「停まれ。人魚を渡せ」
月明かりを逆光に、その人物は振り返った。潮風が吹きつけ、乱れた金髪を肩にはらう。
予想外に年嵩の女だ、とまず思った。
二十代半ば、いや、それ以上かもしれない。すらりと背が高く、肌が死人のように白い。深紅のドレスは勿論のこと、片方しかない耳飾りも、首のチョーカーも、ほどけた胸元の飾り紐も、身に着けているものはどれも特級品だと分かる。技を凝らして結われたに違いない金色の髪はほどけてほつれ絡まっている。隈の濃い、憔悴した顔だったがそれが魅力を増すような、不思議な顔立ちをしている。秀麗ではあるが、どこかが僅かに欠けたようなアンバランスな顔立ちは、一度見たら忘れられないに違いない。
特別なのだ。あの金持ちの妻…ではないが、それに近い立場だろう。
最も印象的な部位が瞳だ。近づくと、不思議な色の瞳をしていることに気がついた。
割れた流氷のような、彩度の高い透き通る碧色。炎のようにぎらぎらとして、氷のように底冷えのする目まぐるしく温度を行き来する眼差し。手負いの獣のようだと感じ、その通りだと伊奈帆は思った。貴婦人らしい上品な風貌の中で、これ以上ないほどの違和感と存在感を放つ野性的な瞳。その目は今、鋭い矢となり射貫くように伊奈帆の右目に向けられている。引き結んで噛み締めた唇の色は蒼白だった。
確かに、屋敷にいた他の奴隷とは格が違う。美しく、妖しく、儚げで、魔性の魅力がある美人だ。あの富豪は少年趣味だと評判だが、大人の女であってもこの奴隷を手放さなさず重宝していたことが理解できた。
女が両腕で強く抱く嵩張る白い布の一部から、黒い尾鰭が覗いている。女の胸の辺りで子どものように華奢な手が布をかき分け、桃色の頭髪と小作りの顔が現れる。愛らしい人魚の顔は怯えに引き攣り痛々しいが、その目は気丈に伊奈帆を睨んだ。濡れて光る白い剥き出しの腕が、女の首にしがみついた。
捕らわれの人魚を見つけた。
女が大地を踏みしめ向き直り、少女を抱く腕に力を込めたのが分かった。
女は何も言わない。
伊奈帆は剣を構えたまま、一歩、二歩と近づいた。あと一度踏み込めば、切っ先が女の首を刎ねるに造作もない距離。しかし流氷の碧は切っ先ではなく伊奈帆をじっと睨んだままだ。
「……」
静止して、三秒。ずぶ濡れの貴婦人が唇を開いた。
何を言う?
伊奈帆は神経を張り巡らせて集中した。目と耳を唇に。他の全ては防御のために。
「……」
青褪めた口はわなわなと痙攣した。しかし、閉じた唇の合わせ目が大きな歪みを形成しただけで、言葉は発せられなかった。
腰を落としてじりじりと後ずさるドレスの裾を伊奈帆は踏みつけ、左手で力いっぱい引いた。女がバランスを崩して倒れ、ドレスの裾を股に逆刃に剣で刺し、砂浜へと貫通させ動きを封じる。
「やめて!」
人魚の少女が叫んだ。倒れる瞬間背を丸め、少女を傷つけないように抱き込んだ女の手首を両手で掴んで引きはがそうとする。しかし見た目の割におおよそ釣り合わぬ凄い力でびくともしない。
「スレイン!」
人魚の少女がまた叫ぶ。伊奈帆は驚き、気が逸れた。
ヒュ…!
横に転がり間一髪で避けたのは踵。美人は少女をそっと砂浜に下ろし、ゆらりと立ちあがり。剣を手に取り裾を裂く。コリシュマルドを右手に構え、腿まで露わになった脚の膝を曲げ、重心が下がる。平らな踵の尖った靴がざり、と砂を踏み込んだ。
来る…!
咄嗟にピストルのバレルでその攻撃を受け留めた。金属の焦げる臭いが火花とともに生じ、キイキイと金属同士が擦れ合う音が神経に触る。
「うおっ…!?」
後方転回で伊奈帆が避けたのはドレスシューズの鋭利な爪先。鼻先を掠め、前髪がチリチリ焦げた。凄まじい切れ味の蹴り。続いて突き。そして蹴り。衣服に穴が開き、数か所の皮膚が薄く切れた。
「この…!」
左胸を狙った刃を脇で挟んで身を捩る。ひねりの力で剣は相手の拳から抜け、伊奈帆は腹を蹴り上げた。よろめいた首を腕4の字固めで締め上げる。
逃れようと、伊奈帆の腕を引っ掻きもがく手の力が次第に弱まり、足から力が抜け、体重が伊奈帆の腕にずしりと掛かる。
気を失った美人を伊奈帆はしゃがんで横たえた。
「その人を、どうするのです」
震えを押し殺した固い声。声の主に近づく。彼女は逃げなかった。いや、逃げることができなかったのだと伊奈帆は知っている。シーツに包まった背筋を伸ばし、伊奈帆を見据えていた。口の端がぴくぴくと痙攣していた。気丈で勇敢だ。この状況で泣き出さないというのは好感が持てる。向こうはどうだか知らないが。
「自分のことより、他人の心配ですか」
伊奈帆は身を縮こまらせた少女の身体に巻き付いた、砂だらけのシーツを花占いのように剥がし取り、砂浜を数歩ゆき膝まで海水に浸して水流に布を開いた。
「…何をしているの?」
困惑をありありと滲ませて少女が言った。伊奈帆は肩越しに少女を一度見て、また手の中に視線を落とす。
「布を洗って、海水に濡らしています。貴方の身体が乾くといけないので」
汚れの酷い部分は擦り合わせ、じゃぶじゃぶと音を立てて布を洗う。
「…私とこの人を、殺すのではなくて?」
「そんなことはしない」
沈黙が下り、再び少女の声が言う。
「それなら、捕まえて、またどこかの水槽に閉じ込めるんでしょう?」
「それもしないな」
伊奈帆の呼気に苦笑が混じった。少女は途方に暮れたような声で何かを呟き、静かになった。伊奈帆が布を抱えて少女の近くに戻ると、彼女は勢いよく顔を上げ、毅然とした表情で伊奈帆を見据えた。少女の白い手の平が胸の前で重なった。
「私はいいわ。人間に捕まってしまったのだから、とうに覚悟はできています。でも、この人は自由にしてあげて。貴方と同じ人間なのよ」
少女のブルーの瞳が横に逸れ、伊奈帆は彼女の視線を追った。水死体のようにぐったりと横たわる、深紅のドレスの美人の姿。
「助けてくれた。今日だけじゃないわ。もうずっと。私の代わりに傷を負って、私のことを助けてくれたの」
この人を、助けてあげて。少女は言って、彼女の頬を雫が伝う。
人魚の涙が月の光に照らされる。画家が筆を取り、詩人が謳い、ピアニストが陶酔を込める夢のようなひとときだ。しかし伊奈帆は、たとえそれが人魚でも、女の子が泣くのを見るのはきまりが悪いと思うのだ。
少女の眦に溜まる水滴を指で拭い、伊奈帆は片膝をついて恭しく一礼をした。
「深海シティのプリンセスの、おっしゃる通りにいたしましょう」
少女が見開いた目で伊奈帆を見つめた。伊奈帆は顔を上げ、彼女の視線を真正面で受け留める。
「貴方のことは、丁重に保護し、故郷へ送り届けて差し上げます。貴方の命であるなら、この人も同様に保護します。船に医療設備があります。手当を受けさせましょう」
伊奈帆は地に臥した逃亡者に視線を送る。少女の瞳が、その視線を追った。服も髪も乱れてぐしゃぐしゃだ。スカートの裾が捲れ上がって、形の良い足が見えた。腿のあたりに、ひどい痣があった。気を失った顔は、無防備にあどけない。思ったよりも、ずっと若いのかもしれないと思った。
「あなた、一体、何者なの?」
伊奈帆は恭しく礼をした。海の男が恋をする、海の魔性の伝説に。
「海に生き。海に死す。とりわけ深い海の底を棲み処の一海賊さ。レムリナ姫殿下」
お迎えに上がりました、と伊奈帆は海水で洗われた冷たいシーツを彼女の身体にくるりと撒いて人魚の身体を持ち上げた。
5、和解
気がつくと、知らない場所にいた。
スレインは瞼を開き、半覚醒のぼんやりとした意識の中で飾り気のない無機質な天井の、鋲の並びを数え眺めた。直線に等間隔の丸い点を三〇数える頃には、徐々に意識がはっきりしてきて、身体の酷い痛みを自覚した。指一本を動かすことも億劫なほど、体が重い。仰向けの不自由な視界に入るのは、低い天井と、四辺に埋め込まれた光量の多い小型ライト。天井と素材を同じくする鋼鉄製の壁面が左右。右の面には長方形のドアがある。ドア周囲の壁に、目盛りのついた複雑そうな機械がいくつも設置されていた。
正面の壁は、一面ガラス張りでその向こうは金属の覆いが掛かっている。その覆いは、横方向の窪みが平行に並んでいる。部屋の中央付近にはスチール製のデスクと回転椅子があり、椅子に座るとガラスの面が正面になるよう配置されている。デスクには、見た事のない機械が一部を点灯させ整然と並べられていた。
ここは、一体どこだろう。
左手の壁に接したベッドに寝かされているようだ。一人用で、マットレスが硬い。白い掛け布は、僅かに清涼感のある香りがした。近くに簡易テーブルと丸椅子があり、読みかけの本が一冊置いてある。タイトルが気になったが、背表紙は向こう側だった。
砂を踏んで沈む感触。
波の音。
月の光が反射する。
刃の銀と。
銃身の金色。
火花のオレンジ。
少女の声。
彼女は…。
そう、僕の名前を呼んで…。
「……レムリナ!」
スレインは急に何もかも思い出し、勢いよく飛び起きた。瞬間、電流を流されたかのような耐え難い痛みに襲われる。
「い…ってぇ!」
反射的に背中を丸め蹲る。痛みが強い脇腹と肩を押さえつつ、聴覚から得た驚愕が脳から全身を駆け巡った。
いてぇ、って?
今のは、声か?
誰の?
「…声、…僕、の?」
スレインははっとして、鉛のように重い腕を必死に持ち上げ自身の首に触れてみた。包帯が薄く巻かれていて、ガーゼの感触。ひりつく痛みは大したことない。
その下は皮膚。何も無い。あの忌々しい首輪は、もうそこには無かった。
「首の輪っかは外したよ」
ノブがガチャリと回る音とともに他人の声。スレインは顔を巡らせ唯一の出入り口であるドアを見た。一人。見たことのある顔。
夜の海で殺し損ねた海賊だ。あの時は暗くてよく分からなかったが、見るとまだ少年。声も軽く柔らかい。今は帽子とコートを身に着けておらず、シャツとテーパードパンツの軽装だ。サッシュベルトに昨日の剣と銃はなく、飾り気のない細身の短剣だけを身に着けていた。
「やあ。気分はどう?」
小柄で東洋系の顔立ちをした、大きな瞳が隻眼の男だった。抑制された発声といい、理知的な表情といい。海賊などには到底見えない。左目の眼帯が唯一の海賊らしい要素だった。年は僕より下だろう、とスレインは思った。
「いいわけないか。丸三日、君は眠っていたんだよ」
少年はベッドの頭のすぐ横に、丸椅子を引き寄せ腰を下ろした。手を伸ばして、ぎりぎり届かないくらいの距離。
「君がここにいる理由について、色々と説明が必要だと思うのだけれど。今聞きたい?それとも食事か、少し休んでからにする?」
「今聞きます」
スレインは間髪入れずに答えた。何年も声を出していなかったため、がらがらの掠れ声だった上、勢い込んで咳き込んだ。咳をすると肋骨の辺りが痛んだ。動きを止めて痛みが引くまでの間、海賊の少年は何も言わずに待っていた。背中の汗が冷える頃、痛みが落ち着きスレインは顔を上げた。少年が頷き、濃い茶髪の前髪が眼帯の上に揺れた。
「まず、君が今いるこの場所はもはや陸ではない。船の中。僕の部屋だ。船医が君の手当てをした。首の拘束具は、技師が分解した」
ここまではいいかい、と念を押され、スレインは頷く。
「レムリナさんは無事だよ。君と一緒に船に保護した。怪我も体調不良もない。ちゃんと健康体だよ。サロンに設置した水槽の中で、君が目を覚ますのを待っている」
安堵して、スレインは詰めていた息を吐く。屋敷を飛び出し海に向かって走る時、様々な先の予想をした。そのどれと比べても、今の状況は悪くない。良すぎるくらいだ。
「良かったね」
心を読んだわけでもあるまいが、少年の訥々とした一言が胸に滲みた。スレインは頷き、彼に向って頭を下げる。
良かった。それだけで、もう十分だ。
スレインが顔を上げ、少年は口を開いた。
「僕は界塚伊奈帆。海賊船デューカリオンの船長をやってる」
「あなたが船長…?」
この言葉には、少なからず驚いた。屋敷に押し入った海賊たちの手早く統率の取れた行動を想起する。目の前で姿勢よく椅子に座る界塚伊奈帆は、海賊の頭らしい無骨さや豪胆さ、凶暴さや貪欲さ、ギラついた野心が、全く見い出せない男だった。
「一〇〇,〇〇〇フランの海賊船長に攻撃をし、返り討ちに遭った相手に対しては、破格の処置を施したといえるんじゃないかな」
賞金首だったのか。道理で強いはずだ。彼の攻撃を受けた腹と首のダメージは大きい。
「ありがとうございます」
スレインが礼を述べると。伊奈帆は小さく吹き出した。
「素直だね、君」
君を助ける理由は僕の方にはちゃんとあるんだ、と付け加え、伊奈帆は両腕を自身の首の後ろに回した。スレインの位置から、彼のシャツの胸元にちらりと細いチェーンが見える。ペンダントの留め金を外したのだ。伊奈帆は手繰り寄せた鎖を頭の後ろで右手に束ね、手の中に握り込む。スレインの目線よりも頭一つ分上の位置に拳を突き出し伊奈帆は言う。
「これに、見覚えがあるだろう?」
チャリ、と重みで鎖が伸びきって、その形状が露わになった。スレインは腰を浮かせ、目を大きく見開いて眼前に揺れるその細工を食い入るように見る。
「これは…!僕の…」
細い銀の鎖の折れ曲がった先端にある、コインサイズのペンダント・トップ。十字の彫りと翠の飾り石。宙で裏と表が裏返る。スレインは腕を伸ばし、指で小さな傷の在り処に触れる。爪の先に懐かしい引っ掛かりを見つける。
間違いない。かつて、持っていたことということすらも忘れていた。父の形見だ。
「セラムさん…、アセイラムと出会った“スレイン”は、君?」
スレインは頷く。美しい記憶が蘇り、目頭が熱くなる。死人が生気を取り戻したように瞳が希望に輝き、表情は万感の思いで歪んだ。先ほどまでの、タールの海で溺れた水死体のようにも見えたその顔が、感情を持ち合わせた一人の若者に変化する様相を伊奈帆は見守った。
「預かり物だ。持ち主に返すよ」
茫然とするスレインの手に伊奈帆はペンダントを握らせて、両手で痩せた手を包んだ。
ありがとうございます、と聞こえた声は震えていた。伊奈帆は青年の俯く横顔を何も言わずに眺める。やがてスレインが顔を向け、声は最初の方よりも芯を持って強く言葉を唇に乗せた。低く柔らかい、青年の声だった。憂いを帯びた、優しい声。この声を封じるとは、値打ちの分からぬ阿呆だと、彼のかつての境遇について不謹慎な考えが浮かんでしまい、伊奈帆は気持ちを切り替えた。
「伊奈帆。貴方は、これを、どこで?」
真摯な光が瞳に宿る。悪いやつじゃない。伊奈帆はその目を見つめ答えを返す。
「深海シティ“ヴァ―ス”」
スレインが息を呑み、ヴァ―ス、と密かに静かに囁いた。彼の手はペンダントを両手で握り締めている。伊奈帆は頷き、太平洋マリアナ海溝一〇,〇〇〇メートルの底、と言葉を続ける。
「海の底の更に底。太陽光が届くことない地球の底に、海底人の皇国がある。深海シティ“ヴァ―ス”。レムリナさんは、そこの第二皇女なんだ」
海底人。シティ。ヴァ―ス。第二皇女。思いもよらない言葉の羅列が脳内を四方八方に駆け巡り、スレインはこめかみを押さえた。
「僕はちょっとした縁故で、ヴァ―スの姫君から二つのことを頼まれた」
伊奈帆は人差し指を立てる。
「一つ、行方不明の妹の捜索」
続いて中指。数字の二を表すハンドサイン。
「二つ、そのペンダントの持ち主の捜索」
一つの仕事で二つの目的が果たされた、と伊奈帆は満足気に微笑み、声のトーンが少し上がった。
「僕に二つの難題を依頼したのは、深海シティ“ヴァ―ス”第一皇女アセイラム」
「アセイラム…姫、様」
名前を声に出したことで、感情の堤が決壊したのだろう。スレインは嗚咽を漏らし自身の胸を搔き抱いた。
「そうか…良かった」
何年も封じていた感情が一時に溢れたのだ。くしゃくしゃの顔は、第一印象よりもずっと若々しいと伊奈帆は気付く。
「誤解は解けた。…君に敵意がないのなら、診察の後一緒に食事でもしよう」
顔ははにかんだように笑っていた。眉尻が下がって、吊り上がった目が優しく丸みを帯びて細められる。近寄りがたい、刃物のようなとげとげしさが消えると、温かい、優しい空気が彼を包む。血色の悪い唇が開き、にっと笑った口の形に白い前歯がのぞく。
「はい」
なんだ、いいやつじゃないか。



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