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Deep Sea Monster_10

  • 執筆者の写真: μ
    μ
  • 6月19日
  • 読了時間: 8分

10、Deep Sea Monster

 

 

「二人揃って、帰って来たね」

 ホテルの部屋に戻ると、マズゥールカが挨拶もそこそこにそう言った。

「お帰り、伊奈帆君。スレイン君」

 耶賀頼も安堵の表情を浮かべている。ラウンジ、四人掛けのテーブル席で向かい合う大人二人の前にはコーヒーカップが乗っていた。

「アセイラム姫には、会えたかい?」

 耶賀頼が問い、伊奈帆とスレインは顔を見合わせ頷いた。

「はい」

「ちゃんと、会えました」

 マズゥールカが耶賀頼の向こうで片目を細めた。

「もしかしたら、帰ってくるのは一人だけかと思っていた」

 よく姫が、君を手放したねとマズゥールカはスレインに視線を留めて眉を下げた。

 変装をしたアセイラムとの短い会話を、スレインは思い出す。

 

 

「スレイン、“ヴァ―ス”に留まり、力を尽くしてくださいませんか」

 再会を喜んだ後、セラムの姿のアセイラムはスレインに問うた。

「私とレムリナは、貴方の力を必要としています。“ヴァ―ス”には今、私たちの本当の味方はいないんです」

 彼女らの祖父であったレイレガリア皇帝が崩御し、皇室周辺では貴族の暗躍が目まぐるしく展開している。レムリナが人間に捕らえられたのも元をたどればアセイラムの政権を快く思わぬ反乱分子の手によることだと彼女は言う。

 スレインはアセイラムと、侍女と、伊奈帆の顔を順に見た。伊奈帆は何も言わない。静かな瞳で、事の運びを静観している。前日の彼の言葉が蘇る。

 

『未来の話をしてるんだ。君の』

 

 アセイラムもまた、スレインの未来の話をしているのだ。スレインは固く目を閉じ、定めた心の言葉を探す。

「僕は、伊奈帆と一緒に行きます」

 そう。心は既に決まっていた。それを今、自分で気付いて言葉に落ちた。それだけだ。

「彼に出会い、世界は僕が思っていたよりずっと大きいことを知りました」

 月の光の海の匂い。ハッチの外の、見た事のない生き物たち。潜水艇を形成する人の技術と執念の結晶。潜水服を着て歩いた海の底。

「僕はある因果から、とても人とは呼べない身体になってしまった」

 スレインは、伊奈帆と出会う前の自分について思いを巡らす。

「覆いなしには太陽の下を歩くことはできず、パンもワインも味がない。人の血肉で生きながらえるモンスター」

 地下室の実験のおぞましさを、とても口にできはしない。繰り返される夜の淵、人間を諦め、世界を諦め、僕は僕を諦めた。

「伊奈帆は、僕を信じてくれている。一人の人間としての僕を」

 ―――その身体を元に戻す方法が見つかるかもしれない。

 僕が諦めた僕の未来を、彼は諦めていない。

 

「僕は、人として生きたい」

 だからどうか、許してください。深く頭を下げるスレインの肩を、アセイラムの手が支え、彼女は微笑み別れの言葉を口にした。

 

 

「僕は、伊奈帆と一緒に行きます」

 隣に立つ伊奈帆を見る。彼は隻眼を見開いて、照れくさそうに口を歪ませ頷いた。

「うん。一緒に行こう」

 座る二人が顔を見合わせ、マズゥールカが立ち上がる。

「コーヒーを淹れてあげよう。種類はスペシャル・アメリカン」

「ただ、薄いだけですけどね」

 やがてコーヒーメーカーが仕事を終えて、彼らはテーブル席で和やかに語る。コーヒーを飲み終える頃、迎えが表れ、デューカリオンの乗組員四人は母艦へと帰着した。

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 レムリナは、彼女の他に誰もいない謁見室で、何も映らぬモニタを見つめて待っていた。

 

『モニタを介してではありますが、皆さんとこうして会うことができ、私は大きな喜びを感じています』

 

 台本通りの台詞だったが、レムリナの思いに最も近しい一文だった。モニタ越しの愛しい人。甲板で別れ、自室と言う名の豪奢な牢獄に押し込められ。もう彼に、二度と会うことはないはずだった。

 初めてこの目で見た姉は、綺麗で優しかったが、レムリナは彼女の世間知らずのわがままを所作と言葉の端々に感じた。全てを持ちうる者特有の無邪気な残酷さが垣間見えたが、想像していたよりずっとまし、とレムリナは思った。

「…スレイン」

 呟く声は聴きなれない姉のもの。レムリナは、未だアセイラムの姿のままで、姉の知らせを待っていた。

 ノックの音。侍女の声。扉が開く。レムリナは、謁見用の式典用カプセルの肘置きに両手をかけ、身体を捻って振り向く。レムリナ姿のアセイラムが、侍女とともに入室した。

「どうだったの?」

 レムリナが聞く。アセイラムはレムリナの顔で微笑んだ。

「スレインは、行ってしまいました」

 自分の顔に浮かぶ寂しいばかりの笑みを見てレムリナは、スレインと船で別れた時の自分もこんな顔をしていたのかしら、と考えた。

 気付くと光が溢れ弾け、アセイラムがアセイラムの姿に戻り、右手をそっと差し出した。

「ありがとう。レムリナ」

 向かい合うアセイラム。偽のアセイラムは差し出された手をじっと見て、同じ姿の同じ瞳を睨み、そしてゆるゆる首を振る。

「別に、お姉さまのためじゃないわ」

 遠い目でモニタを見つめる自分の横顔を、アセイラムは手を出したまま眺め思う。

 お別れの時、私もこんな顔をしていたのかしら、と。

「スレインは、お姉さまにずっと会いたかったんだもの」

 スレインのためよ、と彼女は差し出された手に手を重ね、光が溢れ光学迷彩が解き放たれる。

「スレインには、海の底より空が似合うわ」

 そう言ってくしゃりと笑うレムリナを、アセイラムは抱きしめた。深海の人あらざる姫二人、人の少年を想って互いの肩に涙を落とす。

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

「その格好が、しっくりきますね」

 スレインの言葉にブリッジの乗組員も一様に頷いた。

「ヴァ―スのあの格好も、着脱が楽で悪くはないけど」

 やっぱり、これが落ち着くな、と伊奈帆は船長服の襟元を正して照れくさそうに首を傾いだ。

 伊奈帆ら四人が船に戻ると、乗組員は全員既に持ち場を守り、出発準備は完璧に整っていた。

「じゃ、行こうか」

 待ってました、と操舵手である黒髪の若者が朗らかな笑顔で腕を捲る。

「韻子とニーナを、そろそろ迎えに行かないと」

 通信士の青年がにししと笑い、隣の眼鏡の青年が何やら呟きニヒルに笑う。二人が軽口の応酬をして、伊奈帆に向かって明るく頷く。

「進路は北西。ノヴォスタリスク」

 ノヴォスタリスク、と乗組員が笑顔を交わす。流した涙の一滴が、消し去ることもできないままに溶け出たようなそんな笑み。スレインは彼らの笑顔の寂しさを色々考えてはいたが、伊奈帆と目が合い彼が言う。

「僕らの街だ。仲間が待ってる」

 伊奈帆たちの街。

「ノヴォスタリスク…」

 スレインは、初めて聞いた街の名前を声にする。ノヴォスタリスク。連想するのは風と雪。朝も夜もなく吹き荒ぶ雪の中の白い街。そんな響きの音だった。

「船長、命令を」

 ブリッジ内はしんとして、心地よい緊張の糸が張り詰める。

 伊奈帆が大きく息を吸った。視線を前に、少年の色を残した声が通信機器を通して船内中の乗組員に伝達される。

 

「潜水艇デューカリオン、発進」

 

 船長の指示で、巨大な鋼鉄艦が浅い眠りから醒め動き出す。

 伊奈帆はぐるりとブリッジ内を見渡した。皆、若い。そして笑顔だ。

 隣を見ると、スレインはメインモニターを見つめていた。その目に暗い影はない。背筋を伸ばし、床を踏みしめ、軽く握った拳を垂らし、口と眉は微笑みの形に弧を描く。そして瞳は、まだ見ぬ海の世界への輝かしい期待に満ち、真っ直ぐ前を見つめている。

 一緒に行こう。世界の海の底をまた、潜水服を着て歩こう。見た事のない海の生き物、海の山、海の谷、海の森をともに行こう。

 水深一〇,〇〇〇以上、ヘイダパラジックの地球の底。大洪水の神話の神の名を戴く、鋼鉄艦が浮上する。

 

 

 

 

 

エピローグ

 

 

 

 

「伊奈帆」

 珍しく、スレインの方から話しかけてきた。ソファにしどけなく座り、読んでいた本を無造作に閉じる姿に立ち尽くす。振り返った顔はもの言いたげだった。

「だらしない恰好しないで。…何?」

「ちょっと、甲板で話さないか」

「いいけど。ここじゃ駄目?どうしたの」

「いいから」

「お前と、並んで月を見たことがないなと思って。それだけだ」

「今日は満月か」

「…お前は、夜は寝ているな」

「そりゃあね。どこかで寝なくちゃ、仕事の効率が悪い」

「どうも僕は、夜は眠れない。そういう生活が長かったから、体がそういうふうになっているのかもしれない」

 

 それが、二年前のこと。

 結局、チェスは伊奈帆が勝ち、スレインは乗組員になった。最初は不器用で何もかもが不慣れだったが、彼はよく働き、すぐに掃除と整理整頓にかけては右に出るものはいなくなった。あと、拳銃の扱いが上手い。筋がいいのだろう。これもすぐに戦力になった。集団の中ではあまり口を利かず、控えめに微笑んでいる。一人の時は、甲板で本を読んでいた。時々、二人でチェスを指す。彼は強かった。

初めて陸へ降りた時、一緒に街を歩いた。物珍しそうに瞳を輝かせる彼を見るのはいい気分だった。そのへんにあった適当な、サイズの合わない服を着ていたので、服を見繕ってやろうと思ったのだ。好きに選ぶよう伝えると、薄くて丈の短いシャツと大判のスカーフを柄も選ばず手に取った。街娼のような服装に意図を図りかねたが、彼は楽な格好がしたい、と言った。ズボンくらいは履いてくれ、と二揃い買ってやった。着替えると、よく似あった。しかしやはり堅気には見えない。布地の少ないシャツから胸や腹や背中の傷跡がのぞき、剥き出しの腕や腰がやたらと眩しく感じた。船ではシャツとスカーフだけで歩き回るので、再三注意する。他の乗組員が誘惑されても困るので、寝床は船長室のソファに落ち着いた。そこで彼は、伊奈帆と話したり、本を読んだり、チェスをする。それだけだ。

 彼はいつも穏やかで優しい。しかし、事あるごとに死にたがる癖は、まだ残っている。まあ、それも彼の一部だ。

 戦闘となると、冷酷で苛烈な姿を見せた。銃の扱いもさることながら、短剣を上手く使う。懐に飛び込んで生き血を浴びる姿はぞっとするほどだ。だって、笑っているのだ。

 

 

 

 

「…月が好きなの?」

「好きだ。月も。星も。花も。空も海も、好きになった」

「そう」

「伊奈帆のおかげです」

「何。急に」

「いつか言っておかないと、悔いが残るといけないから」

「僕は、何もしていない」

「助けてくれた。未来をくれた」

「感謝している」

「もう、死にたくはない」

「…これから、どうするつもり?」

「伊奈帆の傍にいます。いいですか?」

「ああ」

「あなたが好きですよ」

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