Deep Sea Monster_1
- μ
- 6月19日
- 読了時間: 17分
プロローグ
夢の中で、僕は波音に目を覚ます。口の中が砂っぽい。それにしょっぱくて、喉がカラカラに乾いていた。
「気がつきましたか?」
磯の匂い。砂浜だ。人影が視界を覆う逆光で、僕は瞼を開き瞬きを繰り返す。カナリア色の、濡れた長い髪が頬に当たってくすぐったい。金の髪に囲まれた小さな輪郭。同じ色の、雫の乗った睫毛のカーブ。大きな目の瞳の色は青と緑の間の色。南国の海のような透き通るエメラルド・グリーン。女の子だ。心配そうな表情で、僕のことを見下ろしている。
「…あなたは?」
何度も呼吸を繰り返し、喉のつかえが無くなる頃やっと出たのはその問いだった。金の髪の少女は微笑み、身体を起こした。僕の上から影が消え、彼女の姿が良く見える。素肌の肩と腕と腹。眩しいくらいの白い肌は水に濡れて光をきらきら反射している。
「アセイラム・ヴァ―ス・アリューシア」
アセイラム、と僕は心の中で何度もその名を繰り返した。アセイラム。アセイラム。決して忘れないように。
「あなたの名前は?」
「…スレイン、です」
アセイラムは両手を胸の前で合わせ、ぱあっと明るい表情で笑みの形で口を開く。
「スレイン。スレイン、スレイン。私は今日、初めて地上を見ました。なんて広く、なんて輝かしく、なんて美しいんでしょう。人間を、初めて見ました」
彼女が何度も僕の名前を呼んでくれたのが、とても嬉しかったのを覚えている。これが足ですね?すごいわ、と純粋そうなきらきらした目で、彼女は体の向きを少し変えた。パシャンと水が跳ね、彼女の腰から下が視界に入る。銀の鱗がスパンコールのように輝く、魚の尾鰭の形をしていた。
「…人魚?」
アセイラムは半身を向けて僕を見下ろし胸に垂れた髪をはらう。
「人間は、私たちをそう呼びますね」
困ったような笑顔だった。
「スレイン。あなたは、嵐の海に落ちたのですよ。人間は、水の中では生きられないと聞きました」
その説明で僕のぼやけた頭の中で記憶がはっきり蘇り、来たる未来を認識する。強い時化。怪物のように襲い掛かる高波。嵐の海で難破した、一隻の三本マストの奴隷船。
そのブルワークを蹴り、僕は荒れ狂う渦に身を投げたのだ。
溺れて死んだ方がマシだった、と未来の僕は思うだろう。それはまさにその通りだったから、未来というものはそういう悲観的な予測で構成されているのかもしれない。。
「ありがとうございます。僕を、助けてくれたのですね」
しかし彼女に、アセイラムに出会えたというそのことだけで、僕はその最低で最悪な未来を生きてみようかという気になったんだ。だから僕は嘘偽りのない気持ちで彼女に礼を言った。
砂が軋む音がする。足音だ。人がやってきたらしい。アセイラムが怯えを含んだ表情で顔を上げ、身を翻し浅瀬に体を滑り込ませる。
「ああ、もう行かなくては」
僕は身を起こそうとしたが、身体が壊れたおもちゃみたいに言うことを聞かない。首を持ち上げ顔だけやっと彼女に向ける。朝日を鏡絵にした美しい海を背に、アセイラムは肩から上だけ大気に晒して僕を一度振り向いた。
この目で見たその瞬間を、僕は死ぬまで決して忘れはしないだろう。
「また、会えるといいですね。スレイン」
遠方に小さな飛沫と尾鰭が見える。彼女の仲間だろうか。アセイラムは僕には分からぬ言葉で同胞らしき人魚の名を呼び、海面から姿を消した。
「…アセイラム、様」
砂に伝わる乱暴な歩行の振動が次第に大きくなり、僕は見つかり捕まった。
1、玩具
懐かしい夢を見た。
スレインは重い瞼をこじ開け、のろのろと体を起こし、右手の人差し指と中指でこめかみを強く押す。頭が重い。節々が痛む。情事の後、そのまま眠ってしまったらしい。変な姿勢で寝たから、肩が強張っている。いつものことだが、うんざりする。
キングサイズの天蓋付きベッドには一人。服はベッドの下方と床に汚らしく散乱している。室内の温度は低く湿っぽい。獣のような嫌な臭いが鼻をつく。
スレインはベッドから這い出して、カーテンを開けた。陽射しが目に刺さり、反射的に腕が戻り開いたカーテンがまた閉じた。毎朝繰り返すこの行動に、スレインは自嘲して笑った。まだ、自分がヒトだと勘違いをしているらしい。
もうすっかり日は高い。
体がべたべたして気持ち悪い。湯を使おうと、スレインは裸のまま浴室に向かう。
栓をして蛇口を捻り、バスタブに湯を溜める。気が遠くなるペースだ。水深五センチメートルにも満たないが、スレインは浴槽の中に座る。心もとない水嵩の湯を両手で掬って肩に掛ける。濡れた場所から鳥肌が広がり、自分の身体が冷えていたことが分かった。
「…!」
熱い湯をかけると、背中に痛みが走った。火傷みたいに熱くて長引く痛み。前の傷が治る前に、また同じ場所にあいつは傷をつけたらしい。反射的に跳ねた腕が、浴槽の内側の壁に跳ね返り、悴んだ指先が首を引っ掻く。
その指先が、首を一周する金属の温度と硬度を脳に伝えた。圧迫された喉から、ヒュッと笛のように呼吸が鳴った。
自分の声を、もう何年も聞いていない。
傷の具合が気になったが、気にしたところで仕方が無いと割り切って、スレインは浴槽のアーチに凭れて背中を伸ばし、どぼどぼと下品な音で蛇口から放出する水の流れがぼんやり眺めた。
時間をかけて風呂を終え、体を拭いて下着をつけて部屋へと戻る。服と髪をどうにかしようと思うが、億劫だった。どうせ、夜まであいつはここには来ない。
もう少しいいか。
窓際応接セットの椅子に片膝を立て座った。ゴブラン織りの締め切ったカーテンの裾から、ちらちらと健康的な光が漏れてテーブルで踊った。スレインは、光の粒を人差し指でおいかけてみる。ちょこまか逃げて可愛らしい。
「……!」
誤って爪の先が光に触れてしまい、スレインは呻いて指をひっこめた。少し焦げた指先をひらひら振って辺りを見回す。床には何もない。ベッドも、いつの間にか整えられていた。体臭の匂いも消え去り、澄んだ空気に甘い花の匂いがした。部屋の花瓶に、新しい花が活けてある。ルスカス、アレカヤシ、アルストロメリア、ボロニア。清潔なベッドで花の香りに包まれた真昼の二度寝も悪くない。
コンコンコン、と控えめなノック。スレインは二度寝を諦めた。
「スレイン様。失礼致します」
理知的な声音とともに扉が開き、使用人が食事を運んできた。黒髪で長身の、若い男の使用人。彼は静かに、人間の朝食をテーブルに並べ始める。名前も年も知らないが、彼は屋敷の雇われ人の中で唯一、入室の際ノックをする変わり者だった。名前を呼ぶのも、さらに「様」をつけるのも。
スレインは陽だまりの点々に彩られた、テーブルに並ぶ湯気の立つ朝食を眺める。スレインにとって、栄養補給の意味をなんら為さない食物を。自分がもはや受け付けないと、あいつは知っているはずだ。
怒りはない。虚しく思うそれだけだ。不平や不満は許されない。それに、下らない感情で変わり者の使用人の仕事を奪うこともない。
「お風邪を召されませんように」
食事の支度を終え、言葉とともにガウンを肩にかけられた。黒髪の男はきびきびとした動作で「失礼します」と言い残して出て行った。
スレインは静物画のように整えられたテーブル上を一瞥する。半熟のオムレツ、フレンチ・ソースのサラダ、クルトンの浮くポタージュに、パン籠にバタ・ロール。ケーキスタンドにはサンドウィッチとスコーン。その横に、グジェリ揃えのティーセット。
食欲など皆無だが、喉は渇いている。スレインはカップの取っ手に指を通して、温かい紅茶を飲み干した。黄金色の水色に透き通る青い模様が美しい。味は分からないが、果実のような瑞々しい良い香りがした。
舌はすっかり馬鹿になったが、鼻は前よりいいようだ。
三口ほどで飲み干して、スレインはティーポットから二杯目をカップに注いだ。今度は目を閉じ、香りをゆっくり味わう。あの彼は紅茶を淹れるのが上手いと気付く。
黒髪の使用人。今度、名前を聞いてみようか。
そんなことを考えて紅茶をちびちび啜っていると、食事の用意は重い感じに冷めてしまった。
いい加減、身支度をしないと。
クローゼットに首つり死体のように並んだドレスの一つを、適当に掴み取る。リボンの網目が沢山ついた深紅のドレス。いつも思うが、こんな面倒な服ばかりよく集めたものだ。どうせすぐに脱ぐんだから、もう少し簡単な服にしてくれればいいのに。
袖を通して腰ひもを調節していると、別の使用人が三人現れた。ノックはない。無言で鏡台を整え、ワゴンの上の様々を標本のように配置している。スレインは彼らに近づく。機械人形のように無駄のない動きで二人がドレスの着付けを引き継いだ。肋骨が折れるくらいきつく腰を絞られる。もしも朝食を平らげていたら、吐き出してしまったことだろう。
与えられた高い踵の靴を履き、転ばないよう慎重にスツールへ腰かける。二人が左右に一人が背後に、割り振られた仕事を感情の窺い知れない単調さで各々始める。
彼らは家主の命令で、決まった時間にやってくる。
髪を引っ張られ複雑な編み込みで結い上げられる。ふわりと近くに花が香った。編んだ髪に生花のバラを差したのだ。蕾をやっと終えたばかりの、咲き初めの赤いバラ。
こんなの、すぐに枯れてしまう。たった一日僕を飾るために手折られ枯れる哀れな花だとスレインは思う。僕ひとりより、この花一輪の方が値打ちだろう。花は見る者すべてを心地よくさせるが、僕が満足させられるのは死んだ方がいいような屑野郎ひとりだけなのだから。
香油で髪を固められ、粉で顔を作られる。これがとてつもなく長い時間に感じられる。鏡に映る自分は困った顔をしていた。背後の髪結いの無表情と目が合った。居心地悪くて目を逸らす。
どうせすぐにぐちゃぐちゃになるんだから、そんなに念入りにしなくてもいいのに。
最後にチョーカーを背中の側で結ばれる。今日のものは、天鵞絨生地に黒水晶のあしらいだ。
支度が済むと、三人は何も言わずに足音も立てずいなくなる。ワゴンの車輪の音だけが、キュルキュル耳障りに遠ざかる。スレインは重い頭と強張る顔と、卒倒しそうな身体を不安定な足取りで支え窓の近くに歩み寄る。光の色は、淡い暖色へと変化していた。
もう、正午よりは夕暮れに近い。日が沈むまでは、することは何もない。どうやって時間をやり過ごそうかと考える。読みかけの本が何冊も棚に積んであるが、今は読む気がしない。
できるだけ、この場所にはいたくない。
頭上でバラが香る。そうだ。庭園の花を見に行こう。この靴では嫌になるほど遠い道のりだが、歩いて行けないことは無い。
黒いブリムのボンネットのリボンを顎下で結び、レースの装飾がごてごてしいパラソルを手に部屋を出た。
一つ目の角を曲がるまでに、すでに踵と腰が悲鳴を上げた。しかし戻るもの癪なので、速度を上げてスレインは足を交互に動かした。いくつかの角を曲がり、外廊下に出る。
風が吹いていた。頬を撫でる空気が涼やかだ。庭園へ距離はあと半分。
向かう途中、小さい子どもと出くわした。一人だ。一〇歳くらいだろうか。
「こんにちは」
変声期前の高い声。スレインは驚いた。返事が無いことを分かり切っているのに挨拶をするものは余程のもの好きだけだから。自分の事を知らないらしい。
大部屋の新入りだろうか。
「……」
スレインは頷き、膝を折って返礼する。子どもはぺこりと頭を下げて、タタタと駆けていった。
もしかしたら、自室を与えられているのかもしれない。足取りはしっかりしているし、顔色も悪くない。元気な様子だ。今はまだ。
歩くうち、天井のある外廊下ですら日差しが目と肌を焼く。目を開けるのが辛くなって足を止め、スレインは日傘を開いた。柄を肩に当て、影の傾きを調整する。少し楽になって、まだ歩けそうな気がした。
庭園の薔薇は、どんな頃合だろう?綺麗に咲いているだろうか。
花を思うと、足取りが少し軽くなる。花は好きだ。綺麗だし、良い香りがするし、何も言わずに咲いている。
庭園の入り口で、日傘を持っていない方の手でドレスの裾を持ち上げる。別に汚しても構わないが、裾を踏んで転んでしまうとまた着替えをしなくてはならない。それは面倒だった。
白い蛇のような石畳を進む。左右に、春の花が種類に分かれて咲いていた。オーニソガラム、ツルバキア、ラナンキュラス、リューココリーネ。部屋の花瓶の四種の花も咲いていた。
そしてバラ。バラ園は、硬い蕾でいっぱいだ。蝋燭型の蕾の色は赤、ピンク、黄色、白と緑。蕾の近くの茎の棘は剪定されて白い皮下が見えていた。
よく手入れされた人間好みの、身ごろの花だけが露を纏ってそこにある。
屋敷の主人の性格は、こんなところにも表れている。自分の欲望のまま、棘を抜き蕾を摘み花開く前に枯らす。
眩暈と耳鳴りが辛く、スレインは片隅にある古い方のガゼポに入った。影が濃いので日傘を畳み、意思を切り出して造形された椅子に座る。服が窮屈だが、胸を反らせて息をいっぱい吸い込む。青空が見えるのは悪くない。小鳥の鳴き声がした。
ああ、空が高い。雲が流れる。花の香りが風と踊る。暖かい光。美しい場所。
こんな天気のいい日は、無性に死にたくなる。
試しに、手首に思い切り爪を立ててみた。痛いが、なかなかいい気分だ。肌が傷ついて、血が滲む。ぷくりと盛り上がった血の一滴を舌で舐め取り嚥下する。鉄の味と匂いのため、眩暈は遠のき耳は木々のざわめきを拾い出す。
自分の血で、腹が膨れればいいのだけれど。
もう少し力を入れてみたかったが、馬車の蹄音が止まったので立ち上がる。
この屋敷に飼われ、五年になる。
父を亡くし、身寄りのない僕は人買いに買われた。その船は嵐の海で難破して、僕は人魚に命を救われた。
金の髪の美しい人魚。アセイラム様。
思い返す程に、あの時、僕の人生は終ってしまったらよかったと思う。
浜辺で倒れていた僕はやはり人買い攫われ、そして売られた。買ったのはここの家主。悪趣味極まりない、とても嫌な奴だ。
その時僕は十一歳で、僕の他にも、同じ年頃の子どもが何人もいた。みんな蝋人形のような白くて真っ直ぐな細い腕と脚をしていて、宝石のような透き通る赤や青や金などの、珍しい色味の瞳は暗い影を宿していた。その理由は、すぐに分かった。屋敷の主はペドフィリアのサディストだったからだ。遊びで、いろんな場所を縛られて、溶けた蝋を垂らされる。かなり痛いが、すっかり慣れた。ただ、跡が残って消えないようになってきた。そこを責められると、痛みとおぞましさに思わず悲鳴があがる。奴は僕らに色んな道具を使ったが、一番のお気に入りは鞭で背中を打つことだった。
手足を縛られ蹂躙される屈辱の中、芽生えたのは諦観だ。奴隷船の船長と同じだ。奴らにとって、僕は人でも子どもでもなく、ただの獲物に過ぎないということ。それは、二段ベッドがひしめく大部屋で家畜のように飼われる大部屋の他の子どもも同じだった。
こんな僕の、一体何が気に入ったのかは分からないが、ひと月ほど経つ頃には特別扱いになった。まず首輪。これは声帯を圧迫する器具で、僕のことを会話を解する人ではなく奴の欲望の捌け口である媚肉の塊としてしか見做していないということを示していた。クローゼット一杯の絹のドレスと五人は楽に寝転がれる巨大なベッドの鎮座するバスルーム付の広い自室を与えられ、身の回りの世話に何人もの使用人が配属された。僕は屋敷の中を歩き回ることも許され、時折、社交場へ連れ出される。毛足の長い赤絨毯を敷き詰めた豪華絢爛なホールでは、僕と同じように不自然に飾らせられた少年少女が同じように引き回されていた。まるで犬の散歩だった。
屋敷を歩き回るうち図書室を場所を見つけた。だから、あいつのいない昼間は本を読むことが多かった。一度、読み耽って夜になり、屋敷中を探し回らせ手酷い折檻を受けてからは、自室に持ち込み読むようにしている。亡くなった父が学者だったから、僕は文字を読めるし辞書の使い方も知っている。ノンフィクションが多かったが、詩集や小説が埃を被って幾つもあった。心躍る海洋ロマンや素朴な恋を謳う詩が好きだ。本の中にいる時だけは、現実を忘れられた。
黒髪の使用人の名を知った。指文字で彼の掌に書き尋ねたところ、彼は僕の手を取り甲に同じく指で名を書いた。―――HARKLIGHT―――
『光を聴け』とは哲学的で面白い、と僕は指で書いて伝えた。あいつ以外の肌に触れるのは実に久しぶりのことで、無骨で硬い彼の手は労働のあとが通い好ましかった。
それからというもの、彼は僕の世話を焼く熱心さを隠すことをしなくなった。ほとんど残す食事について丁重な言葉で次第に小言を言い出して、食事の間も下がらない。
それが、不思議と嫌ではなかった。世界でただ一人僕を人間扱いしてくれるハークライトのことを、僕は決して嫌いじゃなかった。
あの日。
あの日、彼が花を摘んできた。花は好きかと彼が聞き、僕が頷いたからだろう。
彼の摘んできた花を、その色も形も香りすら僕は思い出せないままだ。
僕が花は好きだが、切ると枯れてしまうので、近くに行って見たり嗅いだりするのが好きだと心の中で思ったが、伝えることをしなかった。自室に飾ったその花を、夜来たあいつが見とがめた。
次の日、朝食を運ぶ使用人が変わった。黒髪の長身は、屋敷で全く見かけることはなくなった。
彼が摘んだあの花は、どんな色と香りだったろう?季節を三巡した後も、僕は見つけられていない。
ハークライトがいなくなってからも、不毛な生活が続いた。僕の他の男娼は短いスパンで入れ替わり、屋敷では常に十歳前後の少年たちが三〇人ほど暮らしていた。大部屋の少年たちの衣服は簡素で、剥き出しの腕と脚の裸のような服装だった。彼らのテリトリーは狭い。しかし、彼らは声を取り上げられてはいなかった。なぜなら、僕が一人で過ごす夜には耳を覆いたい悲鳴が幾重もの壁をすり抜け届いたからだ。
いつの間にか、僕はその子たちよりも随分年上になってしまった。関節痛に苛まれる頃には、あいつが僕を飽きて捨てないのが不思議だった。
丁度一年前だ。部屋に現れたあいつは僕の服も脱がさず目隠しをして、別の場所へ自分で手を引き連れていった。九回曲がって、四八段降りた。目隠しのまま服を裂かれて、硬くて冷たい台に押し付け、横たえられる。腕と足を皮のようなもので固定された。目隠しが外される。そこは薄気味悪い実験室で、変なチューブが幾つもと、光る液体に満たされた円柱形の水槽が見えた。
「君は素敵だ。私は実に気に入っている。その目だ。その美しい瞳の色。傷の無いエメラルドより透き通り、マラカイトより妖しく、ペリドットより輝きを放ち翡翠よりもなお鮮やかなその碧。他の子たちを束にしても敵わない。私は君を愛しているよ。ただそれ以上、年を取るのは惜しいのだ」
奴は気がふれたように笑い、銀の台から注射器を手に取りその先端を僕の腕に刺した。その薬物は血管の内側血液と混ざり、数秒後怖ろしい苦痛が声にならない悲鳴を僕に上げさせた。陸に上げられた魚のように背が上下に激しく跳ね、口から泡状の血反吐が溢れた。どのくらい意識があったか分からない。僕はその後のことを知らず、三日後の昼のベッドで目を覚ました。
そのおかしな薬の作用は発作のように唐突にやってくる。自我を失う酩酊と、ひどい頭痛と吐き気が続く。数日は現実と乖離したような感覚で、なにもかもよくわからない。
―――地獄があっても、ここより多少はましだろう。そう思えるほど辛かった。
定期的に行われるその「実験」で、徐々に体質が変化していくのが分かった。小さい子たちの入れ替わりが激しいのは、体質に合わなかったからだろう。人を「人あらざる者」に変える薬だ。この薬のせいで、僕はテーブルディナーで腹が膨れず生き血を求める体になり、良く晴れた日には日傘と帽子が必要になった。肋骨の浮き出た胸、日に日に蒼白くやつれる面差し、病的に大きく血走った焦点の定まらない瞳。そういうものが、あいつのお気に召すらしい。
『私の愛しいヴァンパイア』
あいつの陶酔した声と表情に吐き気をもよおす。しかし、一理あるかもしれない。朝焼けの光る海ではなく、夜更けの地下の棺桶が、僕にはお似合いなんだろう。
―――地獄があるなら、ここより少しはましだろう。なのにどうして生きている?
音のしない夜の闇。あいつのいない自室の鏡を前にして、鏡の僕がそう聞く。幾度となく繰り返された自問。答えはいつも決まっている。僕はスツールにへばり付いた、サテンの化粧着からベルトを抜き取り首に巻く。首輪の金具の上の位置。交差した紐を左右に引っ張り呼吸が止まる。
―――気がつきましたか?
記憶の声。振り払おうと首を左右に振っても、彼女の姿が瞼の裏に甦る。
あどけない少女。心配そうにのぞき込む瞳の温度の温かさ。
―――スレイン。スレイン、スレイン。
鈴のように軽やかに、彼女は僕の名を呼んだ。
―――私は今日、初めて地上を見ました。
好奇心でいっぱいの瞳で、陸の美しさを語る彼女。
―――また、会えるといいですね。
朝焼けを受け真珠のように散る飛沫。
水面に揺れる、尾鰭の白く輝く鱗。
黄金の長い髪が張り付いた、少女の大きな翠の瞳。
笑みの形で開く口。
―――スレイン。
アセイラム、様…。
もう一息で死ねるのに。その間際、たった一つの生きる理由が浮かび上がって僕はベルトを床に頬る。
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