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BLUE MOON_08

  • 執筆者の写真: μ
    μ
  • 6月19日
  • 読了時間: 12分

Al-d-Noah

 

「バラムとセニョール・パブロが話をして、きみたちは祭りのあと部族を去ることになった」

とマヤクが言った。

「なんの祭?」

「月追いの祭りだよ。十二番目のね」

シェバは問い返すように、マヤクを見つめた。

——ジクリト・ホイク「月の狩人

アマゾンで見たわたしだけの夢-Mondjager」

 

 

白い白い白い月

赤い赤い赤い星

 

花は月に濡れ

川は赤く光る

 

月の涙に星の声

 

白い白い白い涙

赤い赤い赤い声

 

白い月を追いかけて

赤い星に口づけを

 

 

 柔らかく低い声で歌われる素朴な旋律。手が届くほど近くにあるのに一度も行ったことのない地球の歌だ。余韻が消え去った無音の中で伊奈帆は聞く。

「その歌は?」

「ノアとアルの歌」

 スレインが囁くように答える。知らない歌なのに、たまらなく懐かしい感じがした。

「南半球の熱帯地方。月と火星を信仰する部族です。ノア、アルはそれぞれ神様の名前。僕と父は、その部族と数年間を共にしました。僕の父は研究者で、その部族の文化は興味深い研究対象だったようです」

 彼は嘘みたいな真実を語り出す。伊奈帆は、彼の話をずっと聞いていたいような、すぐにでも耳を塞ぎたいような、相反する気持ちに襲われた。

「僕が十四歳の時、父が死にました。そしてその夜。火喰いの祭りが行われた」

「ヒクイの祭り?」

 スレインは胸を押さえ、苦しそうに指を握った。

「火とは火星。心臓のことです。死んだ人間の心臓を、食べるんです」

「まさか……」

 僕も食べた、と言った声は消え入りそうに掠れていた。スレインは口元をひきしめ、伊奈帆に視線を送った。

「……それから二年後。日照りのひどい月が続いたある夜。月追いの祭りをすることが決まりました」

 伊奈帆は眉を寄せる。

「ツキオイ?」

「数年に一度。満月の夜に、月の子を追いかける祭りです」

 古代の地球の習俗があまりに想像の外で、とても理解が追いつかない。

「月の子、って?」

 口に出すと背中に氷が滑り落ちたような寒気があった。不吉な響きを持った言葉。スレインはそんな伊奈帆を見て、気の毒そうな表情を浮かべる。

「人柱ってわかりますか? スケープ・ゴート。非論理的な犠牲者です。祭りの夜、逃げる月の子を追い、捕まえるんです」

「捕まったら、どうなるの?」

 スレインは無言で笑う。眼の丸みも口元のカーブも左右対称の完璧な微笑。瞳だけが暗く光るその表情はあまりに壮絶で、伊奈帆は言葉を失い、許しがたい様々な光景が脳裏を目まぐるしく駆け巡った。

 スレインはしゃがんだ。風もなく銀細工のように静止した月の花に、語り掛けるように続ける。

「……族長の娘が、月の子に選ばれました。月の子は人々の苦しみを引き受け、その夜、月に登るのです。……どういうことかわかりますか?」

「人間の死を、月や星で表現する文化があるのは知っている」

 スレインはこくんと頷き、瞼を閉じる。睫毛が震え、唇の色は噛み締め白い。

「僕は、その少女のことが好きでした。父を失った僕の、唯一の心の拠り所だった。彼女がいなければ生きられない、と思うくらい」

 

 

「スレイン……」

 鮮明に覚えている。野生の濃い熱帯の匂い。熱帯植物を揺らす夜の風。傘のような葉の隙間から見える星の瞬き。僕の名を呼ぶその声と、陽光を束ねたような彼女の長い金の髪。真珠のような涙の粒。梳るように欠けた月の光が青く包む夜のことを。

「やっぱり、私が……」

「もう決まったことです」

「どうして、こんな……」

 あの夜。少女の頬を流れる涙を何度拭ったことだろう。

「泣かないでください。……これを」

 手渡したものを見て、彼女は大きく目を見開く。こぼれそうな大きな瞳で僕を見つめた。

「でも、これは、亡くなったお父様の形見でしょう」

 スレインは彼女の手を包むように握る。父が死に、父の持ち物は奪われてしまった。たった一つ残ったのが、幼い頃から身に着けていたお守り代わりのペンダント。形あるもので残せるものはこれしかないのだ。

「いいんです。父も喜ぶと思います。それに、天国までは持っていけませんから」

「ああ!」

 受け止めた体に踵が浮く。彼女は女神でも聖女でもない、生身の身体を持っているのだと知った。胸を打つ彼女の鼓動としゃくり上げる呼吸に、生の匂いが強く香った。

「お願い、逃げて。スレイン」

「いけません」

 彼女は激しくかぶりを振る。駄々っ子のように泣きながら、彼女は腕にしがみつく。

「私と一緒に逃げて」

 見つめる視線に心が揺らぐ。彼女は爪先で立ち、吐息が唇に当たる。

「……姫様」

「おねがい……。貴方となら、私……」

 肩を抱き、そっと体を押しやる。顔が見られなかった。きっと、ひどく傷ついた顔をしているに違いなかったから。

「僕は、ここへ来た道を覚えています。険しい山を幾つも越えます。空気は薄く、水は乏しい。齧る草木もありません。……僕ら二人の足では、とても逃げきれない。二人とも死んでしまいます。姫様は、生きてください」

 立ち尽くす彼女の右手を持ち上げる。

「僕の目を見て?」

「スレイン……」

 彼女の冷たい手を包み、濡れそぼった瞳の奥を覗き込む。語る瞳に微笑みかける。

「大丈夫です。ほら、そのペンダントを見て。同じ色をしているでしょう。僕は、ずっとお傍におります」

 白い手の甲。この汚れない肌に誓おう。もう、僕にはこの命一つしかない。その全部で、今、貴女を守ることを——

 

 

 瞼を開くと、蝶が左へ横切った。その先にいる宇宙服の青年にスレインは笑いかける。ヘルメットの中の表情はいつもと同じように見えた。しかし、彼が自分の話に集中しているのは分かる。スレインは話の続きを語り出す。

「彼女の代わりに、僕が役目を引き受けました。族長の一族のルーツは、亡命の末にそこへ辿りついた北欧人でした。身体の色素が薄いことで、先住民から神秘的な存在として扱われるようになっていた」

 遠い昔に失われた王家の末裔だと父は言っていた。どういう理由で彼らは旅をしたのだろう。地球の裏側に近い場所まで、一体何から逃げたのだろう、とスレインは思う。

「そういう理由で、月の子は、僕でもかまわないということになったんです。余所者に代わりが務まるかという反対もあったのですが、強引に決定された。族長も、大切な娘を失うのが忍びなかったのでしょう」

 古い疵が、電流が奔ったように疼く。胸。背中。腕と足。耳。眼球。咥内。直腸や内臓。すっかり治って痕の残っていない箇所までも。羽を失った時よりもずっと深く、その痛みと恐怖は神経に刻まれている。

「惨い祭りでした。僕も数百年の長い時を生きてきて、様々な惨状を経験しましたが……。そんな今でも、あの夜のことは思い出すと寒気がします」

 打たれ、切られ、抉られ。身体中を暴かれて、裂いた腹の腑を直に掴まれる恐怖。意識を手放したいと願っても、煙となって立ち込める香の作用がそれを許してくれない。永遠のような時間。もはや自分が生きているのか死んでいるのか分からないまま、切り取られた自分の部位の幾つもを、開いたままの目が映した。

「死んだはずでした。僕は」

 どこかで意識が途絶え、どこかでまた、意識が再び現れた。真っ暗で、土と、腐った花の臭いがした。本能的に上に向かって腕を動かすと棺があり、こじ開け、そして土を掘った。爪が何度か剥がれ落ち、その度生え変わるのを知った。やがて頬にねっとりとした夜の外気を感じ仰ぎ見たのは夜空。月は爪の形をしていた。

「墓の中で生き返り、……その時にはもう、この身体は変わってしまっていた」

 

 ——蝶が舞う。宇宙線に青く光り。花が咲く。クレーターで血に蠢き。語る声は柔く優しく真空を貫く。

 

「君は、これを作り話だと思いますか? 伊奈帆」

 月の裏側でスレインは笑う。防護服もマスクもつけず、生身の身体をそこに晒して。伊奈帆は考える。彼の話と、彼の現状。彼にとっての真実について。確かなことは、彼の身体の無数の傷痕。身体から離れると灰と化す彼の血と肉。宇宙空間において生命活動を存続できる体が今、そこにあること。困ったように笑う顔の角度も笑窪も、コーヒーショップで向かい合った時と変わらない。凄惨な宇宙線のただ中だというのに。

 人間なら即死。彼は果たして人間か。

 伊奈帆はきっぱり首を振る。

「いや。事実だと思う。そして、仮説はある」

 そんなの、人間に決まっている。

「仮説?」

 思いがけない切り返しだったらしく、スレインは目を見開いた。

「君の身体の変化について。カニバリズムがタブーとされている理由を、君は知っている?」

 その言葉に彼は眉を顰め、小さく首を傾ける。

「人道的な理由以外なら、病気になるってことでしょう?」

「うん。代表的なのはプリオン病。僕は、星間連絡員として開拓星をいくつも巡った。それで、わかったことがある」

 人間は徐々に、その惑星に適応していく。岩石の惑星。鳥の惑星。風の惑星。夜の惑星。そして、雨の惑星。

「様々な要因で、ヒトの体は変異する」

 視力を失い、聴覚が特化するもの。空気抵抗を無くすため皮膚の凹凸が消えたもの。鱗めいた皮膚をもつもの。様々に変異した人間の記録を星々へ届けた。彼らの望郷の思いとともに。

「君の身体も変異したんだ。その二つの祭りで。おそらく、酵素と光線。それに薬物。危機的状況における神経伝達の異常」

 スレインはふっと笑った。口の片側を曲げ片方の目を細めた皮肉な笑みだが、瞳はどこまでも澄んでいる。吹くはずのない風が吹いたかのように、金糸の髪が宙に踊った。

「貴方、それを信じてますか?」

「僕は、思いついた理屈を口にしてるだけ」

 スレインは目を細め、二人の間に静寂が訪れた。音一つない花園で、青い蝶の羽ばたきだけが時を刻む。やがて彼は伊奈帆に問う。

「僕を、どうします?」

「今、考えてるとこ」

 スレインは、手に持っていた拳銃を大切そうに懐に仕舞った。両手を肩の高さに上げる。

「いいですよ。捕まえるのなら抵抗しません。研究施設に連行して、人体実験でもなんでも。2区のサイバネティクス研究所に僕のカルテがありますよ」

 伊奈帆は顔を顰める。

「そういうのは、好きじゃない」

 スレインは呆れたようにふふっと笑う。

「好きとか嫌いとか……。ほんのさっき、理屈を言っているだけ、と言った人物の発言とは思えませんね」

 そして、彼は首を振る。前髪で顔が見えなくなる。

「どうして、僕にこだわるんです?」

 伊奈帆はスレインの髪に隠れた額を眺め、彼が服に仕舞った海賊の形見を思い、そして彼がかつて見たであろう地球から見た月の形と、月から見た地球の色を闇空に懸命に思い描いた。

 好きとか、綺麗とか、また会いたいとか。寂しいとか。怒りとか。そういう感情を知っていた。つもりだった。

でも。

 宇宙服の内側に鼓動がエコーする。あんなに重かった身体が軽い。言葉ではない意思が神経を巡る。色んな回路が繋がって、心の中で何かが噛み合った音がした。

「スレイン。……僕はね」

 今までのどんな気持ちより透明で、どんな気持ちより純度が高い。こんなのは初めてだ。

「君が好きなんだ」

 こんなに、何かに、誰かに、執着したことはない。見ていたいのに見ていられない。伝えたいのに伝えられたい。言葉にしたいのに、思うはしから溶けていく。ずっとこの瞬間が続けばいいと思うと同時に、全く別の瞬間が訪れるのを待ちきれない。思いもよらないことを思ったり、口走ったり。そんな自分が生じたことが、どうしようもなく喜ばしい。

「好きだから、君のことを考える。そういう理屈」

 きょとんと目をまんまるくして、その後、スレインは声を上げて笑った。

「僕を好きになる理由なんかありません」

 仰け反り、屈んで、気がふれたような、痛々しい笑い声で彼は言い放つ。

「じゃあ聞くけど」

 伊奈帆は彼と距離を詰める。スペース・スーツの重さと厚みがもどかしい。

「君が……、名前を知らない、ほんの数時間会話をして過ごしただけの海賊を今でもそんなに好きな理由は一体なんなの? 地球を飛び出して、この花畑を、百年単位で作るくらいの」

「それは……」

 口籠る彼の手を握る。感触が薄い。でも、さっきよりずっと近い。

「変えられたからじゃないの?自分の世界を」

 もっと。もっと近づきたい。

「僕もそう。裸足で月のクレーターを歩くのも、月の地表に蝶が飛ぶのも花が咲くのも。なにもかも衝撃だ。大ショックだよ。明け方のカフェで、デートする?って、色っぽく言われるのもね。いろんな星に立ち寄ったけれど、比較にならない。とびきり特別。スペシャルだ」

 同じ虚空で話をしたい。

「そのくらい、僕の見る世界は変わった。月が、人工知能に支配された無機質な世界じゃなくなった。この花畑は綺麗だ。それは、文字通り君が血を流して作り上げたからだ。この花畑も蝶も君も、御伽噺みたいに綺麗で、悲しくて、すごく優しい。僕は君と出会って、苦いコーヒーを飲めるようになったし、都市の模擬自然に懐かしみを覚えるようになった。それは全部君のせい。今の僕が、僕は好きだ。僕は君が好きなんだ」

 同じ虚空で触れ合って。

「だから、ずっと見ていたい。君のこと。見てみたい。たとえば未知の星で、見た事のない色の夕日を浴びる横顔なんかを」

 スレインは激しくかぶりを振った。だらんと垂れた彼の手の、皮膚の感触は直にこの手に伝わらない。

「冗談はやめてください」

「冗談じゃない。本気」

 この手を離せば、いなくなる。影も残さず、彼は消える。そんな予感がした。だからこの手を、絶対離しちゃいけないんだ。

「遠くへ行かない? 僕と二人で」

 どのくらい力を籠めていいのだろうか。痛くはないか。壊れたりしないだろうか。そんな怖さを感じつつ、慎重に指を握り込む。

 スレインは戸惑った表情で、問うために口を開く。語尾は苛立ちを含み上擦って震えた。

「正気ですか?」

 そんなこと、僕の方が聞きたいくらいだ、と思い伊奈帆は笑った。

「わかんない。でも、こういう時に正気って必要?」

 こんな風に笑うのは生まれて初めてかもしれない、と思うほど自然に、素直に笑える。

「君と、どこかに行ってみたい。楽しそう、ってそれだけの理由」

 同じ虚空で夢を見たい。彗星の住処を潜り、オールトの雲を越え。どこまでも行こう。そういう願いが、今生まれた。

「どう? 乗る?」

 しばらく経って、スレインは迷った末、という感じにか細い声で答えた。

「条件があります」

「何?」

 このときの彼の顔を、どう言えばいいのだろう。レースのように青く透ける額の静脈。眉間に寄る皺。笑みの形で震える唇。ぎこちない頬と、怒ったような碧の双眸。悔しそうで、怒っているようで、でも、嬉しそう。いや、幸せな瞬間を生まれて初めて感じ、その大きさに怯えているような、そんな泣き笑いだった。

 なんて綺麗なんだろう。この人の心は。

「伊奈帆が、僕の血を飲んでくれたら」

 スレインは自身の首筋に揃えた二指をそっと当てた。爪が皮膚に当たった場所の影が細かく揺れている。伊奈帆の口角が夏の少年のように持ち上がる。

「乗った」

 生身の額とヘルメットのアクリルがこつんと重なる。真珠のような涙が宙に浮かび、白い粒子に変化する。まるで雪の結晶だ。花々の幾つかは雪のような白い欠片を浴び、風を受けるように揺れた。

 
 
 

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