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BLUE MOON_07

  • 執筆者の写真: μ
    μ
  • 6月19日
  • 読了時間: 8分

Marginis

 

「空気、空気……空気はいらんかね……水のような空気に氷のような空気……いっぺん買ったら、つぎも買うよ……こちらは四月の空気……こちらは秋のそよ風……こちらはアンティル諸島のパパイヤの風……」

——レイ・ブラッドベリ「夢見るための緑のお酒」

 

 

 真空に剥き出しの地表を伊奈帆は歩く。クレーターの丘を越え、岩石を迂遠し、時折、降るような星を目に映し。

1/6の重力でも、宇宙服での移動は不自由な上、体力を大きく削られる。サージカル・ヘルメットを取り去れば、呼吸ができず死に至るだろう。たとえ呼吸ができたとしても、宇宙線に体細胞を破壊される。それは、人間も、昆虫も、植物だって同じはず。なのに。

 ポリカーポネイトの向こうに見えるのは白いシャツ。歩行に従い微妙に揺れる裾も髪も、月の重力のせいで浮力があるかのように見える。丘陵を登る彼の周りを、青い蝶が燐光を散らし舞い従う。

 生身の身体で月を歩く。やはり彼はあの日見た、月の白い影なのだ。

「伊奈帆。海の終わりです」

 スレインはふわりと頂を蹴った。縁の海の最果て。伊奈帆も最後の一線を越える。そして見えた光景に、伊奈帆は思わず声を上げた。

「すごい……」

 縁の海を越えた場所。〝月の裏側〟の領域。太陽の光の届かない残骸の散る荒れ果てた大地であり、月面都市の繁栄という光の、影の部分を担う場所。だと、認識していた。

「どうして、こんな……」

 火星のプラントでも見られない。もはや映像や無機物でしか見ることのない、いや、それでも再現できないだろうと思われる、薄紫の美しい花園が広がっていた。夢か、幻か。信じられない情景。数え切れない花々が、見渡す限りの地表を覆い尽くしているのだった。咲き乱れるのはブルームーン。その茨が覆う地表近くで、モルフォ蝶が白色矮星のような光を放ち羽ばたいている。

「生きた人間が、ここに来たのは初めてです」

 スレインの声がスペース・スーツのスピーカー越しに聞こえた。彼は、宇宙服も酸素ボンベもなく、シャツとジーンズの軽装で花の中に立っている。彼の周囲に、螺旋を描いて蝶が飛ぶ。

この草花や蝶と彼は同じだ。真空の宇宙に生身を晒しているというのに、絶命しない不思議な命。

 伊奈帆はすう、と深く息を吸った。ボンベの無機質なにおいが脳と視界をクリアにする。

「ここで、僕を殺す?」

 スレインはぽかんとした顔で数秒押し黙った後、声を上げて笑った。

「あははっ。やけに無口だと思ったら。そんなことを考えていたんですか」

 スレインは笑いすぎて眦に浮かんだ涙を拭った。今まで見た彼の表情のどれよりも、人間らしく思われた。真空の月面において、涙は玉となって宙へと浮かび、すぐに白い灰となる。

「僕は、貴方を殺したりしません」

 涙だった白い灰が、花々の上に消えていく。

「どうして、月に花が咲くの?」

 スレインは肩を竦める。

「全部、僕の血を吸った花です」

 枯れることはありません。この場所で、新たに蕾をつくることも。

 スレインが人差し指を肩の辺りで軽く曲げる。一羽の蝶がそこに留まった。

「この蝶も、君の?」

「ええ。消えたり、現れたり。不思議な蝶。もう随分長いこと、僕に纏わりついている。……元々は死体に群がる蝶です。僕は死臭がするのでしょう。だからせめて、家には花を飾ったのですが」

 彼がコーヒーショップに勤めていたのは強い香りのせいかもしれない、と伊奈帆は思った。

 蝶が彼の肩に留まる。

「この庭で……。眠りたかった」

 スレインは俯き首を振る。

「空腹が過ぎると理性は消え去り、僕は夢遊病者のように彷徨い……」

 どこか虚ろな瞳が伊奈帆を映す。

「気がつくと、喉笛に噛みついているんです」

 そんなことの繰り返し、と彼は茫然と呟く。伊奈帆は、シャトルから見た彼の姿を思い出していた。あの時。スレインは意識を失った状態で、生き血を求め、街を目指して歩いていたのだ。彼はただの人ではない。場所や時代によっては、迫害の対象となる異質な存在に違いない。けれど、人と同じ温度の肌、流す涙と、脈打つ心臓がある。生きているのだ。人と違うメカニズムで。

「ここで死ねれば。でも、空気もなく、宇宙線を浴びて、それでも生きている僕が、どうやって死ぬことができるんでしょう?」

 スレインは背中側の服の中に手を入れて、何かを握って取り出した。それは宇宙光を冴え冴えと照り返し白銀に輝く。

「伊奈帆」

 金具の錆びついた拳銃は、本物の木と鉄を手仕事で組み立てたフロントロック銃。化石めいたその武器は、彼の目が悲壮でさえなければ、レプリカか何かと思う程の代物だ。伸ばした腕の先。銃身は握られ、グリップは伊奈帆を向いていた。

「僕を、ここで撃ってください。……銀の弾丸ではないけれど」

 運が良ければ死ねるかも、と全く期待していない顔で彼は言った。

「どうして、僕が?」

 伊奈帆の問いにスレインは笑った。眩しそうに目を細め、くしゃりと左頬に笑窪ができて、口の端に牙が覗く。

「僕は、この時のために生きていた。そんな気がするんです。……伊奈帆。ここで君に撃たれるために」


Grave

 

「きみがかわいそうな気がする。固い岩ばっかりの地球で、とても弱く見える。いつか、自分の星への思いがあんまり募ったら、きみを助けてあげられる。きみを……」

——サンテグジュペリ「星の王子さま」

 

 

「この銃は?」

 受け取らず、伊奈帆は両腕を下げたまま静かに聞く。スレインはゆっくりと瞬きをした。

「七百年ほど前。君と同じ顔で、同じ声の、孤独な海賊が残していったものです」

 掟を犯した海賊は、一つの銃弾が込められた銃のみを与えられ無人島に取り残される。そのほとんどは飢え死ぬより先に喉の渇きで自ら引き金を引くのだ。

「その人は、どうして使わなかったの?」

「弾がもったいない、って言って」

 スレインはくすりと笑った。

「死蝶が、彼の目と胸に群がっていた。命の終わりが近いことを、僕は悟りました」

 無人島に、死にかけの海賊と不死のヴァンパイアが二人きり。

「その後、どうしたと思います?」

 スレインは宇宙を仰ぐ。虚空を見つめる遠い目は、月の裏側から見える筈のない地球を映しているように思えた。もしもそこに地球があったなら、鈍い濁った灰色の星が、青さを取り戻したかのような錯覚に陥る横顔だった。

「二人で並んで、話をしながら月を見たんです。可笑しいですよね」

 その泣き笑いの顔を見ていられずに、伊奈帆は視線をそっとずらした。しかしまた、すぐに彼の顔に視線が吸い寄せられてしまう。

「彼と浜辺で見た月は、記憶の中のどれより綺麗です」

 スレインは拳銃の錆を愛おしそうに撫でる。銃弾の場所がその少年の心臓の位置であるような眼差しで。

「海賊の少年は、死なない僕を……。生きていない僕を、生きている気持ちにさせてくれた」

 自分は死んでしまうのに、と彼は小さく呟く。

「……彼の問いが、……もうずっとこの耳に残ってる」

 

 ——月の裏側には、一体何があるのだろう。

 

「その問いかけが、いつしか僕の理由になった」

「理由?」

「生きる理由」

 スレインは瞼を閉じた。睫毛が頬に落とす影が震えている。

「僕は初めてその言葉を聞いた時、何もないんじゃないかと思った。どこまでも、死の世界が広がっているだけだと。月は何も隠していないと」

 現れた双眸は純粋な光を灯し、澄み切っていた。

「そのうち、何かあればいいと願うようになった。楽園でも。地獄でも。ありふれた日常でも、戦火の荒廃でもいい。何かがあれば、と」

「……この庭は、その願いの果て?」

 最初は何も無かった、とスレインは周囲をゆっくり見回した。

「だから僕は、花を植えました」

 彼は自身の手を見る。その手の周囲を二羽の蝶が戯れに舞う。

「僕の血に浸した種を蒔く。ダメだった。次は苗。ダメだ。成長した花なら? 気が遠くなるような作業を繰り返しました。地表が赤く染まる頃、成長した草花がようやく根付いた。そのほとんどはすぐに枯れてしまいましたが、血に塗れた月の大地に、ブルームーンだけが適合した」

 彼がたった一人で造り上げたのだ。蝶を纏い、その指で花を植えた。何百何千の夜を越えて。

 スレインは拳銃を持った手をだらりと下げ、天を仰ぐ。百億千億の星々があり、そのどれもがけたたましく光っている。

 月の裏側には夢のようなブルームーンの花園があり、寂しい目をしたヴァンパイアが一人そっと花を摘む。その美しい情景は、彼の願いの結晶だ。名前も知らずに死んでいった海賊への弔いなのだ。

 伊奈帆は、その海賊が羨ましいと思った。そしてその海賊が、自分のために人生を捧げる存在を、きっと望んでないだろうとも。月の裏側だって、自分で確かめたかっただろう。それが船で暮らすことを選び、故郷を持たない人間の生き方だから。

「……でも、僕は知っている」

 スレインは茨を握る。皮膚を突き破り血が流れ出る。流れ落ちた血の雫は真空で白い灰と化し、茨の棘に吸い込まれるように消えていく。脈動するかのように茨が蠢いた。まるで生き物のように

「この庭は偽物。どの花も、地球のように生きてはいない」

 彼の血液がブルームーンを生かすのだ。血を与えるのは花のため? いや、違う。血を求める衝動に抗えなかった。罪の贖いとして花を生かすようになったのか。どちらにせよ、彼が殺した人間たちは、結果的に花の養分となった。

「僕もそう。死なない。それは、生きていないということと、同じじゃあありませんか? 何百年もこんなことをして、結局元に戻るんです。何度だって思い知る」

 人間の僕は死んだ。ここに在るのは、醜悪な命の抜け殻だと語る声が悲しく響く。彼の手には白い灰が握られており、指を開くとそれは真空へさらさらと漂った。

「君は、いつからその身体に?」

 スレインは瞼を閉じ、風を受けるように頬を晒した。

「——こんな歌を知っていますか?」


 
 
 

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