BLUE MOON_06
- μ

- 6月19日
- 読了時間: 11分
Lost Boys
私の知るかぎり、ピーターが怯えたのは、一生でこの時だけです。「明るくしないで」とピーターは叫びました。
——ジェームズ・M・バリー
「ピーター・パンとウェンディ」
十月三十一日二十時十五分。
「いらっしゃいませ」
カフェのカウンターに大股で歩み寄り伊奈帆は聞いた。
「スレインはいますか?」
「え」
若い店員は目をぱちくりとさせ、やがて怪訝な顔で問う。
「もしかして、あんた……カイヅカイナホ……さん?」
「はい」
ほんとに来た、と背後に彼は言い、奥からもう一人店員が現れた。見覚えがある。時々、スレインと一緒に深夜のシフトにいた青年だ。
「あ、いつも来てる……。カイヅカって、やっぱりあんただったんすか」
「スレインはいないんですか」
「辞めたんだ、今日。来たの、つい一時間くらい前だよ」
彼はエプロンのポケットから折りたたんだ小さなメモを取り出した。
「あんたが来たら、これを渡してくれって」
伊奈帆は受け取りそれを開く。
——10/31 21:35 ルナゲートA-cape31連結通路にて——
「スレイン、何か言ってました?」
店員二人は顔を見合わせる。伊奈帆と顔見知りの方の店員が口を開いた。
「俺らには、お世話になりました、って。新しい仕事が見つかったって言ってたよ」
「わかりました」
ちょ、待って、という慌てた声に振り向く。
「あの、あんた、おまわりさんだろ? あの子なんかしたの?」
伊奈帆は二秒ほど逡巡し、ぺこりと会釈をして答える。
「非番なんで。デートの迎えに来ただけです」
「で、でーと? あ……なんだ」
付き合ってたんだ、やっぱり、という声を尻目に。ガラン、と律義に電子音が退店を知らせた。
十月三十一日二十一時十五分。
数時間前に死体があった場所。そこに今、青年が一人。外壁沿いの高架通路の欄干に肘をつき、古くなった剥き出しの配線に光るグリーンランプの点滅を眺めている。ジーンズにシャツ一枚の薄着で、持ち物は何もない軽装。彼は伊奈帆が近づくと髪を耳に掻き上げた。影の濃い指の形を無意識に見つめる。この手は。
この手は、人を殺した手なのだろうか。
「来てくれたんですね」
古い金属とオイルの匂い、耳障りなノイズの中のその声は、うっとりするほど柔らかい。怖いくらいに。
二人の間は約二メートル。これ以上近づくことは躊躇われた。ピリピリと肌に感じる、張り詰めた危うさ。衝動的に飛び下りたら、という懸念が拭えない。
伊奈帆はポケットに右手の親指を引っ掛けた。
「デートに誘ったのは僕だよ。すっぽかすわけない」
「ふふっ」
スレインは伊奈帆を見た。困ったような微笑みは、これまで何度も見たことがある。だけど。
「……ムービーは中止ですね」
「うん」
どうしてだろう。初めて見るように思うのは。
「ピーター・パンのストーリーを知っていますか?伊奈帆?」
「実は知らない。予習しようとは思ったけど」
スレインが、それどころじゃなかったですからね、と微笑む。
「悲しい恋のお話なんですよ」
スレインはくるりと体の前後を入れ替え、欄干を後ろ手で握った。腰掛けるような姿勢で彼は上を見る。
「ウェンディという女の子が、大人にならないピーター・パンという男の子と不思議な島で冒険するお話です。いるのは子どもばかり。お母さん代わりに、ウェンディは子どもたちの世話をします。ウェンディはピーターが好き。けれど、ピーター・パンは永遠の少年。ウェンディは大人になって、やがて彼女の子どもがピーターに……」
伊奈帆は彼の視線の先を追う。ドームの縁の天井は、様々な機械類が赤と緑と白色にずれたパターンで点滅していた。
「伊奈帆。フック船長って、知っていますか?」
「フック?」
「ジェームズ・フック船長。ピーター・パンの宿敵です。ワニに食べられた片手が、義手ではなく、フックになっています。海賊らしい海賊、船乗りらしい船乗りほど、どこかが欠損しています。手や、足。そして目」
スレインは上を見たまま微笑む。
「僕は、本物の海賊に会ったことがあります。詳しい事情は知りませんが、海賊の罰を受け、無人島で野垂れ死ぬ寸前でした」
彼には天井の明滅が、星の光に見えているのかもしれない。
「彼もまた、身体の一部が不具だった」
配電盤の光を受ける横顔は悲愴で美しい。
「貴方と同じ、左の目」
スレインは伊奈帆を見た。彼の瞳は淡い碧の色をしている。彗星の尾のようでもあり、暗闇に光る鉱石のようでもあり、凍てつく星の氷の断面のようにも見えるその色。
「初めて貴方を見た時。僕、びっくりして。だって、顔も声もそっくりなんです」
その眼が激情に揺れていた。氷のようにも、炎のようにも、そのどちらにも見える。目まぐるしい感情の揺らめきと輝き。目を逸らすことなどできない。伊奈帆は渇いた喉をこじ開ける。
「……僕は、その人の代わり?」
スレインはふるふると首を振った。
「伊奈帆は伊奈帆です。似てるところもあるけれど、全然違います。それに僕、その人の名前も知らないんですから」
彼は胸の上で手を握りしめる。
「伊奈帆。僕、君が好きですよ」
スレインが一歩、また一歩と足を進める。伊奈帆は後退りしそうになるのを堪え、ぎり、と奥歯を噛み締める。
「……スレイン。……僕は」
一歩。
「僕を捕まえに来たんでしょう?」
また一歩。
「わかりますよ。そのくらい。伊達に長生きしていません」
もう、手が届く。唇を湿らせ、彼は微笑み次の言葉を口にした。
「月面都市ムーンバレー第6区連続殺人事件。事件コード:ヴァンパイア。八人の男の頚脈から血を抜き取った。その犯人は僕です」
伊奈帆はポケットに手を入れる。証拠品である花弁を取り出した。スレインは無感情にその様子を見つめている。
「この花弁は〝ブルームーン〟だね」
ビニール袋に入ったそれを見て、スレインは頷く。
「そうです」
「どうして証拠を残したの?」
そこで彼は小さく笑った。首を傾ける仕草は軽やかだ。
「伊奈帆以外には、証拠だってわかりません」
伊奈帆は、袋から花弁を一枚取り出した。握られ褪せたバラの色。欄干を越えはらりと舞い落ちる。これは証拠隠滅にあたるのだろうか、と考える。
「僕の仕事を知っていた?」
「ええ」
「どこまで?」
「連絡員でしょう?」
スレインはさらりと言った。ほら、アパートで鉢合わせた時、と彼は手を翻す。
「月で暮らして長いの? なんて。普通聞きませんよ。迂闊でしたね」
まだ名前も知らない頃。アパートの部屋の前での会話を思い出す。確かに迂闊だ。通常なら考えられないあの行動。
そうか、と気づく。あの時。僕はもう、君のことが好きだった。
伊奈帆は花弁の最後の一枚を袋から出し指から離した。換気口の風でそれは下層へ運ばれていく。
「スレイン。人を殺したの?」
「はい」
「血液は?」
「……ここに」
彼はみぞおちの辺りをさする。腰周りの布が、空気を含んではためいた。
「偽証は罪になるって知ってるよね」
スレインは腹に上で両手の指を重ね微笑む。
「本当です。僕は、人間の生き血を飲むんです」
スレインでさえなければ、話も聞かず連行しただろう。僕は。
「ほら。ドラキュラ伯爵ですよ。伊奈帆は詳しいでしょう?」
いつか読んだ本の話だ。そうとは知らず僕はあの時、残酷なことをしていたのかもしれない。
「御伽話としてはね」
「御伽話で済むなら、良かったんですが」
スレインは人差し指を唇に引っ掛けた。横向きに引く。犬歯が覗いた。通常よりも大きく鋭い。狼のような尖った歯。
「ある時、僕の身体は作り変わり。それからずっと、長い時を生きています」
「作り変わったって、どういうこと?」
「歳を取らず、死なない。ピーター・パンと同じです」
昔は飛べたと言っていた。あの話は本当だったのかもしれない。
「殺しの理由が、聞きたいんだけど」
ドーム内の殺人は、どの惑星でも最も重い罪になる。それを立て続けに八人も。どんな事情があるにせよ、二十六世紀の人類としては禁忌に等しい。決して許されない犯罪だ。
スレインは感情の凪いだ表情で言う。
「楽しんで殺しているわけではないので。……僕にとって、殺しは食事ですから」
いつかのレイプ現場が脳裏に浮かぶ。結果的に助かったのは、暴行していた男たちの方だったのだ。
「ラボから逃げて第6区へ?」
スレインが双眸を見開く。ラボのことを知っていたのか、という表情だった。
「背中の傷は、その時のもの?」
死に値するひどい傷痕。彼の犯罪が残酷な実験の結果なら。それなら、仕方がないという気持ちに伊奈帆はなっていた。
「違います。もっとずっと前ですよ」
しかし、スレインは呆気なくそれを否定した。
「あのラボにいたのは、七〇年くらいかな。ほとんど眠っていました」
「眠っていた?」
「コールドスリープの開発実験に使われていたんです」
伊奈帆の肌は無意識に冷たくなった。凍眠の前後のまどろみと乖離の感覚を体が覚えているからだ。コールドスリープの技術が確立されたのは二四五五年。それから四十九年。話の先を待つ。
「完成してからも眠りは覚めなくて、僕としては、その方がきっと良かったのですが」
スレインは首を振る。
「ポッドを開けた人がいて、眠っている間に連れ出されました。三ヶ月くらい前のことです。それは科学者でも何でもない、スポンサーの一人だった。施設見学中に興味を持ったようで、要するに僕は盗まれたんです」
呆れたような表情だ。彼を翻弄する運命に憎しみを表さないのが不思議だった。
「面白いペットを手に入れた、そういう感じでしたね」
「その人は?」
「死にました。僕に血を奪われて。第4区の出来事だから、君たちは知らないでしょう?」
その通り。もみ消されたに違いない。
「その後、君は6区に?」
「いえ。昔の住まいが4区にあって。しばらくそこに住んでいたけど、引っ越しました」
「引越しは必要だったの?」
「すごく古い建物で、床が抜けちゃったんです。それに、追跡の気配があった。そこからは区を転々と」
話が繋がった。繋がってしまった、と言うべきか。
「君が来たから。バレているんだなぁと思ってました。何も言わないのが不思議でしたが、貴方、知らされていなかったのですか?」
「囮捜査」
「ふふ、何世紀前のシチュエーションでしょうね」
可笑し気に笑うスレインを見つめ、伊奈帆は疑問を必死に探す。こんなの全部作り話で、僕をからかっているだけって言って欲しい。
「昼間出歩かないのはなぜ?」
スレインは複雑そうな表情で、眩しそうに両目を細めた。月面を歩いていたのが彼ならば、宇宙線をまともに浴びて生きている。人工太陽が駄目なわけではないのだろう。それとも、概念が身を焼くのか。
「そういう暮らしが、もうずっと長かったから。……それに、人に会わなくて済む。家族連れや子どもにね。第6区でもいるんです。家族がいて、まともに暮らしている人たちが」
見た事のない暗い瞳。表情を失った顔で彼は呟く。
「理性を失い僕が襲い掛かる相手は、救いのない男がいい」
氷のような声。第2区で、モルモットとして生かされていた以外にも、様々なことがあったのだろう。非人道的で悪趣味な想像がいくつか浮かび、伊奈帆は思考を切り替える。
スレインは歌うように次の言葉を口にした。
「〝空は非常に暗かった。一方、地球は青かった〟——知っていますか? 初めて地球を見た人間が残した言葉」
ブルー・プラネット。その眼差しに、失われたブルーが焼き付いているようだった。今やプラトニウム灰が大気を覆う死の惑星。彼はそうなる前の、たくさんの水と空気で満たされていた青い地球を知っているのだ。
「地球からの開拓移民?」
「その時は流刑者として。つまり奴隷です」
断片的に聞いただけでも、あまりに過酷すぎる生。彼の真実を聞きたいような、これ以上聞きたくないような心地になる。
「だから、この身体にチップはありませんよ」
「そんなので、どうやって生活してたの?」
いや。聞かなければならない。
「初代開拓移民は、チップを埋め込む代わりに、申請すれば市民登録がなされ身分証を発行してもらえたんです。チップの手術は当時コスト高でしたから」
スレインは左側の髪を搔き上げ、顔を横に向けた。耳の後ろにコードが彫り込まれている。
次々に引っ掛かりが溶けていく。それは同時に、彼がこの事件の犯人であることを真実に変えていく。
「有効期限も更新もありません。場当たり的な処置ですが、この世代はドーム建設で肉体を酷使し、宇宙線を浴びて早死でしたからね。まさか、数百年も長生きする市民がいるとは考えていなかったのでしょう」
確かに、そんなのは想定の外だ。どんなに優れたコンピューターも。作ったのは人間なのだから。
「住まいや職の手続きは、カグヤでオートですから。僕の登録年月日や年齢が人目に触れることもありません。機械は不便ですね?」
スレインは穏やかな表情で伊奈帆を見つめた。どうしてだろう。嘘のような話を信じたくない僕がいる。眼差しに込められた年月で、それがまごうことなき真実だと分かったから。
「……懐かしいな。初め月面を歩いた時のこと。空が無いのに驚きました。クレーターに覆われた色の無い大地。どこまでも続く漆黒の宇宙と夥しい数の星々。その中に、奇跡のような青。地球がぽっかり浮かんでいた。もう四〇〇年くらい前になります」
「四〇〇年?」
「僕が生まれたのは、西暦一七六三年。人類が月に到達するずっと前のことです」
もう何一つ、聞くべきことは無くなった。伊奈帆は腿の横に下げた両手の拳を握る。
「僕は、君を捕まえに来たんだ」
「知っていますよ」
スレインはくしゃりと笑って、ダストゲートの先に視線を向けた。
「でも、せっかくだから。少し歩きませんか?」
一歩、二歩と彼の背中が遠ざかる。彼の周囲に、いつの間にか青い蝶が舞っていた。一羽、二羽、三羽……。どんどん増えて、守るように彼の周囲を戯れ飛ぶ。それは彼が特異な存在であり、荒唐無稽な彼の話が現実だったと示していた。
伊奈帆は咄嗟にその後を追って駆け出した。スレインが肩越しに振り向く。
「〝ブルームーン〟の花弁の理由。僕の秘密を見せてあげます」
時刻は0時をちょうど回った。



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