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BLUE MOON_05

  • 執筆者の写真: μ
    μ
  • 6月19日
  • 読了時間: 8分

Rampage

 

分らぬ。全く何事も我々には分らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きていくのが、我々生きもののさだめだ。自分は直ぐに死を想うた。しかし、その時、眼の前を一匹の兎が駆け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。

——中島敦「山月記」

 

 

「これは、ブルームーンです」

「ブルームーン?」

「品種の名称です。青いバラは、自然界に存在しない、人工的に作り出された植物です。だから、製作者好みの名前をつけるんですよ」

 怪我の具合はどうかと、伊奈帆は翌日、隣の部屋をノックした。インターホン越しに会話をし、夜なら、と会う約束を取り付け今に至る。

「僕には、紫色に見えるけど」

「僕にもそう見えます。赤みを残した、とても淡い青色ですね」

 赤、黄、白、ピンク、黒、オレンジ。バラの色は様々にあり、そこに青は存在しないとスレインは続ける。

「長い間。青いバラを作るのは、不可能だと言われていました」

 消毒やテープの張り替えを終え、スレインがせっかくだからお茶でも、と淹れてくれた本物の紅茶をソファで飲んで、花の話を聞いている。

「でも、科学はそれを可能にした。だから、青いバラには二つの花言葉があります」

 複雑で有機的なバラの香りが漂う室内。スレインは木製の椅子に座り、机に頬杖をついている。暖色灯は彼の頬を柔らかく染め、花を見つめる眼差しはどこか遠く。幻想的な光景だった。

「不可能。そして、奇跡」

 花の色を照り返す唇が花のまじないを告げる。彼は物想いに沈んでいるようだった。伊奈帆は彼の物憂げな横顔を眺めているうち、その話を続けたくなった。

「ブルームーンはかつての地球で十九年に七回起こる、大気中の塵の影響により月が青く見える現象。その名をつけられた花が、月で咲く。ロマンチックだね」

 スレインの顔が伊奈帆に向く。

「そういう話、嫌いですか?」

「いや。興味深い」

 伊奈帆は空のカップを持って立つ。スレインも立ち上がった。

「ごちそうさま」

 キッチンに向かおうとしたらスレインが両手を差し出した。足を止め、彼にカップを手渡す。スレインは眉尻を下げて困ったような笑みを浮かべた。

「ごめんなさい、お菓子かなんか、あれば良かったんですが」

 手当の礼だろうか、と思うが、善意一〇〇%というわけではない。それは聡い彼ならわかっているはずだが。……だからこその言葉だろうか。

 僕が彼を好きなように、彼も僕を好きなのだ。

「どうして謝るのさ」

 伊奈帆はこういう交流に、これまでとんと縁がない。なんだかくすぐったい感じ。だけど、うん。悪くない。

 玄関のドアノブを握って振り向く。スレインは両手を体の前で軽く握って立っていた。

「またお店で頼むよ。甘いやつ」

 笑った額に髪がかかり、ツンと湿布の匂いがした。

「来てくださいね。今度はケーキをサービスしますから」

「うん。その前に、明日。迎えに来るから」

「はい」

 バタン。伊奈帆は閉じた扉を凝視する。

『生花の流通ルートは意外に手広い』

『俺も知らなかったが、プラントで鑑賞花の生産を始めているそうだ。桁が二つ違うんじゃねえかってくらいの値段でたまげたぜ』

 鞠戸から、そんな話を聞いたばかりだ。書物によると、ヴァンパイアは、日の光を嫌い、バラの花を好むという。

殺害現場に残っていたのは、バラの匂いじゃなかったろうか。

「……何を考えてるんだか。僕は」

 生花の流通ルートは想定より広かった。あのコーヒーショップだって、花を飾ることがあるかもしれない。スレインがプラントで昼間働いている可能性だって。伊奈帆は心の中で首を振る。これは確証バイアスだ。

 犯行は全て夜。人目のつかない場所。衣服の乱れた死体。首筋の噛傷。花の香り。

 スレインは疑わしい。先日の暴行は、もしかしたら未遂現場だったのではないか。〝マーダー〟の。

 

 

 十月三十一日十八時。

「まるで、ヘンゼルとグレーテルだな」

 照度の低い薄汚れた高架通路。錆の浮いた欄干に凭れ鞠戸は言った。

「何ですか? それ」

 伊奈帆はしゃがんだ姿勢のまま、振り返らずに聞く。

「森に置き去りにされた兄妹が、帰り道を残すためにパン屑を落とす。御伽噺さ」

「なるほど。言いたいことはわかりました」

 死体の固くなった拳をこじ開ける。やはり。グチャグチャになった薄紫の残骸を一片、伊奈帆は摘み上げた。

「でもこれは、帰るために残したわけではないのでは」

「もののたとえさ」

 ルナゲートA-cape31連結通路に濃厚に残る死と花の匂い。死亡推定時刻は十四~十二時間前。八番目の死体は花を握り、その周囲には花びらが散っていた。

「ルナゲート……。名前ばっかり格好いいが、開拓時代の搬入口だ。その先は機能を停止した作業ロボットの掃き溜め」

 掃除屋だって見向きもしない骨董品だ、という鞠戸の言葉を聞きながら、伊奈帆は、今はもう使われていないゲートの先を見つめた。450km/hのトロッコを収める3.4×4.5の楕円形のゲートは三層になっている。恐ろしいことに、その開閉は手動で可能だ。旧式のスペース・スーツとボンベが申し訳程度に壁に掛けて設置してある。正常に使えるのかは不明。

 伊奈帆は立ち上がり、ゲートを見つめ口を開く。終点である縁の海を越えた先。そこは月の裏側だ。

「鞠戸さん」

「なんだ」

「まどろっこしいことはやめましょう。犯人の目星はついているんですね」

 半身を向けると、鞠戸と目が合う。見据えるような視線に酔いは見られない。伊奈帆は確信を得る。

「僕の仕事は隣人の監視ですか?」

「そうだ」

 鞠戸はあっさり頷いた。

「お前の隣人。脱走したんだ」

「脱走? 監獄ですか?」

「それならとっくにお縄だ。違う。2区のラボ」

「まさか、被検体?」

 伊奈帆は驚き声を上げる。電流が流れたような衝撃だった。2区のラボ。この文脈でその言葉が指し示すのはサイバネティクス研究所。あそこにいたのか、彼もまた。

「そうだ」

 思わず口元を覆う。手当ての時に見た凄まじい傷痕。あの傷は、まさかラボでの?だとしたら……。

「どんな……、実験の?」

 鞠戸はきっぱり首を振った。

「何もわからん。捜査の際、知らされたのはフォトとコードネームだけだ」

 彼はシニカルな表情で口角を上げる。

「事情は秘匿された情報量で察したさ。……連れ戻すのは気が咎めたから、報告を怠り時々様子を見ることにした。なあ、界塚。俺のこの行動が理解できるか?」

「はい」

「細かいお前が、職務怠慢、って言わないんだな」

「続けてください」

 鞠戸はポケットに手を入れ欄干に凭れる。俯く視線は自身の靴を見ていた。

「6区で変死死体が上がった。まあ、アンダーシックスだからな。変死くらいなくはない。しかし、他殺と判明。あいつがやって来て三日目だ。まだその時は関連付けて考えてはいなかった」

「三日……」

「そして、調べてみたらあいつが〝カグヤ〟にいないことがわかったんだ」

「え?」

 鞠戸がゆるく首を振る。

「チップがない。迂闊だった。被検体のレベルによるが、そもそも登録されない人間がいる。2区もまた無法地帯だ」

 チップがない……。月面都市ムーンバレーにおいてカグヤに存在しないというのは、人間として存在していないということだ。

「生体反応も、生体データもない。実態がそこにあるのに、だ。そもそも、だ。現場に痕跡がない。出どころの分からない白い灰だけ。証拠がないんだ」

 切羽詰まった響きがあった。伊奈帆は今聞いた話を脳内で反芻し、そして聞く。

「どうして僕なんですか? それに、なぜ初めから言わないんです?」

 悪かった、とまず謝罪があった。鞠戸は下げた頭を上げて言う。

「先入観を植え付けたくない、ってのが一番だ。お前の頭と運と直感を信頼してる」

 頭と、運と、直感。それは僕も同じだ。それを頼りに生き延びてきたのだから、と伊奈帆は頷く。

「それで、界塚。お前から見て、どうだ」

「……」

「イエス、と受け取るぞ。いいか?」

「……はい」

 現場に残る花びらは、薄紫のバラの花。ブルームーン。輸入品目にもプラントにもない奇跡の意味を持つ花だ。色も、匂いも覚えている。スレインの部屋で、この花について話した言葉の一つ一つも。

 鞠戸が伊奈帆の正面に立つ。真剣な表情だった。

「ムーンバレーで人死はまずい。たとえそれが治安最悪のアンダーシックスでも、他殺なんてもってのほかだ。ここは人工知能によって完全にコントロールされた生命空間だということを忘れるな。空気も水も、当たり前にあるんじゃない。生きられるだけで奇跡なんだ」

 詰め寄り見下ろす壮年の男。彼は火星からの移住者だとデータにあった。開発初期のテラ・フォーミングでできたドームは、月とは比べ物にならない脆弱さだったと聞く。宇宙テクノロジーは衰退し、今ではアイソトープ農場として管理者以外は無人となった星で育った境遇。それが彼の人格形成に大きく関わっているのは理解できる。だが。

「僕は星間連絡員です。人間の脆さは身に染みて知っています」

 隕石事故でどれだけの宇宙船が虚空に消えていったろう。開拓星の謎の病。ドームの不具合。冷凍睡眠装置のボルトの緩み。スペース・スーツの小さなキズ。地球を離れ帰る場所を失った人類にとって、不測の事態は死を意味する。

「……そうだったな。頼んだぜ」

 誰も特別ではない。どこで生まれ、どこで育っても、人間はあっけなく死ぬ。

 

 

 十月三十一日十九時四十五分。

 心象と裏腹に電子音が軽やかに鳴る。インターホンを押して待ったが反応はない。伊奈帆はドアノブを回した。開く。

「スレイン?」

 照明が落ちた室内。誰もいない。気配がない。伊奈帆は扉を開いたまま、室内に足を踏み入れる。

「これ……」

 蒼白い燐光に眼を見開く。暗闇に不規則な動きを描くそれは蝶。

「……あれは、やっぱり君だったのか」

 主を失った部屋の中をうつろに舞い飛ぶ蝶の先。机の上のバラの花弁が、握りつぶされたように散っていた。


 
 
 

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