BLUE MOON_04
- μ

- 6月19日
- 読了時間: 11分
Undead
蒼穹の風は、わが耳に一つの音のみを囁き、海のさざ波もいつまでも繰り返し呟くのだ——モレラ、と。しかし、その娘は死んでしまった。私は自分の手で娘を墓へ運び、そして思わず長く、苦々しい笑い声をあげてしまった。二人目を埋葬しようとした納骨堂から、跡形もなく消えていたのだ——最初の——モレラが。
——エドガー・アラン・ポー「モレラ」
〝——伯爵の顔は精悍な荒鷲のような顔であった。肉の薄い鼻が反り橋のようにこんもり高くつき出て、左右の小鼻が異様にいかり、額はグッと張り出し、髪の毛は横鬢のあたりがわずかに薄いだけで、あとはふさふさしている。太い眉がくっつきそうに鼻の上に迫り、モジャモジャした口ひげの下の「へ」の字に結んだ、すこし意地の悪そうな口元には、異様に尖った白い犬歯がむきだし、唇は年齢にしては精気がありすぎるくらい、毒々しいほど赤い色をしている。そのくせ耳には血のけが薄く、その先がいやにキュッと尖っている。顎はいかつく角ばり、頬は肉こそ落ちているが、見るからにガッチリとして、顔色は総体にばかに青白い——〟
「何、読んでるんです?」
深夜のカフェ。いつもの席でモニタを眺めていると、スレインがひょい、と背後から覗き込んだ。伊奈帆にとって、書籍の閲覧は左目だけで事足りる。わざわざモニタを広げての一般的な読書スタイルは周囲への配慮である。焦点の曖昧な無表情で椅子に座り微動だにしない来客は、店側も扱いに困るだろう。まあ、理由はそれだけではない。
「怪奇小説」
「小説うぅ?」
想定以上の反応に逆に驚く。話題作りは大成功だが、声の響きが引っ掛かる。
「何、その反応」
スレインはだって、と両手を腰の後ろで組んで言う。
「意外です。情緒がなくてデリカシーゼロ、朴念仁のザ・理系男伊奈帆が、フィクションなんか読むんですね」
「……君、失礼だって言われるだろう。勿論悪い意味で」
「そんなこと言うの、伊奈帆だけですよ」
スレインは空のトレイを持ったまま向かいに座った。この行動はいつものことだが、今日は店員がもう一人いる。こんなに堂々と仕事をさぼっていいのだろうか。こっち見てるけど。
「怪奇小説って、どんな?」
スレインは同僚の視線に気付いているのかいないのか、そう言って目を輝かせている。
「つっこむね」
「お話、久しぶりなので」
「ブラム・ストーカー著『ドラキュラ伯爵』」
はっとした表情になり、彼はわざとらしく口角を上げた。こんなあからさまな作り笑いも珍しい。スレインは黒目を瞼の縁に沿ってぐるりと回し、首を傾げて頬杖をつく。
「ハロウィンも廃れませんね」
ハロウィン。伊奈帆にとっては、起源も知らないお祭り騒ぎだ。第6区で目に付く空想上のモンスターや血なまぐさい偉人、童話の登場人物などをモチーフにした飾りつけや商品は、星間連絡員としての暮らしが長い伊奈帆にとって新鮮だ。どこもそれほど豊かではなく、地球の文化が継承されているとは言い難い現状なのだ。
などと口に出すこともできず、伊奈帆はカップを口に運んだ。以前も頼んだカボチャのホットドリンク。視線を滑らせると、目と口に切れ込みを入れたカボチャのレプリカが店内のそこかしこに配置されている。
「この店も寄せてるよね。そんなに大事な行事なの?」
「本来は古代ケルトの魔除けの行事です。あの世とこの世の間の門が開いて悪霊などがやって来るので、人間だと気付かれないように仮装をして身を守ったとか」
悪戯っ子には、お菓子をあげるといいんですよ、と彼は手を翻す。
「へえ」
いつぞやのジンジャークッキーが一瞬脳裏を過ったが、考えすぎだと結論付ける。
「スレイン、よく知ってるね」
「こういう話、嫌いですか?」
「興味深い。月にも悪霊がいるのかな」
スレインがくくっと笑った。ジョークが珍しく成功したらしい。
「たとえいても、皆、身を守るなんて考えてないでしょう。仮装がしたいだけじゃないですか?」
ファンファンファンファン、と天井の風車が眠たそうに鳴く。伊奈帆は思考を一巡りさせ口を開く。
「ねえスレイン」
「はい」
「十月三十一日の夜って、仕事?」
「コスプレはしませんよ? 僕」
「先読みしすぎ。ま、図星だけど。残念」
スレインはくすりと笑った。
「コスプレはしませんが、いいですよ。それが、デートのお誘いなら」
「…………え? デート?」
「違うんですか?」
「いや、違わない」
そういえば、以前冗談半分にデートの誘い文句を言われた。これは脈ありか? とにかく、この機会を逃す手はない。デート。……デートか。デートなんかしたことないから、すぐに言葉が出てこない。
「え……っと。じゃあ。……ムービーでもどう?」
「はい。あ、でも……」
スレインは眉尻を下げた困り顔で口籠る。
「何?」
「ハロウィンだからって、……ドラキュラは、……ちょっと。もっと楽しい、子どもも見るような映画がいいです」
うん、と頷き伊奈帆はモニタを出して十月三十一日の上映スケジュールをポップアップする。
「じゃあ、これとか」
伊奈帆が示すモニタを引き寄せ、スレインは目を瞬かせる。
「ピーター・パン……? はは」
苦笑い。流石に子どもっぽすぎただろうか。
「駄目? なら……」
「いえ。これにしましょう」
スレインはピ、と上映時刻を表示させ、レイトショーでいいか、と聞いた。もちろん異存はない。第6区ノースタワー二十一時三十五分の上映回を選んだ。
「迎えに行く? 待ち合わせ?」
「僕たち、お隣さんですけど」
「形から入るタイプ」
スレインはくすりと笑いを返し立ち上がる。仕事に戻るようだ。椅子を戻し、背もたれに置いた指を揃えて彼は言った。
「じゃあ、迎えに来てください」
「わかった。家にいてね」
「はい」
そしてくるりと踵を返し、大股でカウンターに消えていく。彼のこの去り際の潔さは、いつ見ても爽快だ。
銃を使うことにならず良かった。
「スレイン、大丈夫?」
足音が遠ざかり消え、伊奈帆は聞いた。そして聞いてから、大丈夫なわけ無いだろう、と自身を詰る。
月面都市ムーンバレーは第1区から第6区の6つのエリアで構成されている。人工知能カグヤが位置し、政治、産業、ターミナルが集結する中枢都市第1区。医療機関、研究施設が集結する第2区。第3区は食料プラント。第4区から第6区が市民の生活圏。区のナンバーはランクを示し、第6区は開拓時代からの名残を残す最も古く、最も入り組んだ、最も治安の悪いエリアだ。だから機動隊の本部は第6区にある。循環処理系の不具合からくる不潔な裏路地が存在し、そういう場所で犯罪行為が横行しているためだ。強盗。薬の売買。売春。暴行。開拓星では珍しくもない光景。こういう現場は初めてではないが……。
「大丈夫です……」
言った後、口を覆いごほごほと咳き込む彼の背を咄嗟にさする。口から粘性のある液体が吐き出され、指の間から零れた。服の破れた部分から真新しい傷が見える。四種類の体液が服と地面に染みこみ、肌をべっとり濡らしていた。
「そうは見えない」
つり上がった目がこちらを睨んだ。いつもにこやかで温和な彼の、こんな顔を見るのは初めてだ。
「それなら、どうして聞くんですか」
それもそうだ。この状況で無神経に過ぎる失言だった。スレインは口を固く閉じ、衣服を整え始める。ボタンを留める指が悴んだようにぎこちない。
何か拭くもの、とポケットを探るとハンドタオルがあった。差し出すが受け取ってもらえない。伊奈帆はかまわず顔の周りをそれで拭い、彼の腕を肩に回した。弱々しい抵抗があったが、スレインはそっぽを向いてぽつりと言った。
「……汚れますよ」
「洗えばいいから」
スレインの身体を支えて歩き出す。入り組んだ、狭くて臭い路地裏を、前後を警戒して進む。
「……こういうこと、よくあるの?」
伊奈帆が聞くと、スレインは伊奈帆の顔を見た。すぐに視線を横に流す。
「……時々」
「気をつけたほうがいい。君は目立つ」
くくっ、とくぐもった笑い声がした。こんな笑い方を聞くのは初めてで、内心ぎょっとする。
「心配してくれるんですか?どうして?」
突き放した冷たい声だが、体重をこちらに預けた頼りない足取りだ。相手の立場や気持ちを想像するのは不得手だが、彼が屈辱的な最低の気分でいることは分かる。
「仕事だから」
好きだから、と言ったらきっと傷つくだろうと思った。だから二番目の理由を伊奈帆は言った。スレインは怪訝な表情でこちらを見上げる。
「……仕事?」
「人助けが仕事。って、僕は思ってるんだけど」
言い訳めいて聞こえたら不本意だが、これが本音だ。青臭くてセンチに過ぎるから、誰にも言ったことは無い。スレインは不思議そうな目でじっとこちらを見つめている。
「現実はなかなか。組織っていうのは難しい」
「ふふっ」
いつもの笑い方が見られて、伊奈帆は安心した。スレインは顔を向こう側に向け、ぽつりと呟く。
「……嫌いになりました?僕のこと」
「まさか」
歯の音がカチカチと鳴るのが聞こえた。伊奈帆はぐったりとした身体を引き寄せる。
「君が無事で良かった。……ごめん、無事じゃないか。でも、命があって」
スレインは返事をしなかったが、ふっと小さく息を漏らした。
路地を抜けた夜更けの街に、人通りはほとんどない。これなら、さほど目立たず歩いて帰れるだろう。
「家まで送るよ。隣だし」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
スレインの部屋に入り、伊奈帆の視線はあるものに固定された。カーテンを閉め切った部屋に暖色の照明。家具も持ち物も非常に古い、というか、アンティーク。年輪が歪な木製の椅子なんて、月面によくあったな、と驚く。
その机に、在り得ない物があった。
「花が珍しいですか?」
「珍しいよ」
透明なアクリルの水差しに飾られているのは、既に失われたもののはず。地球の花。咲き誇る白い花が。……いや。よく見たら、仄かに紫がかっている。淡い色の花弁が緑色の茎の上部に密集していた。華やかで豪奢な造形と裏腹の儚げな色彩。なんとも美しいものだな、と伊奈帆は花をじっと見つめた。火星の空にどこか似た色のその花は、怖いくらい綺麗で、少し異様な感じがした。
「いい匂いでしょう?」
言われて、聴覚に香気成分が知覚される。
「本当だ……。あ、それよりも手当しよう。薬とかは?」
伊奈帆は目に付いたソファにスレインを座らせ、ざっと周囲を見回した。
「そこの棚に」
スチールの棚の右端に、プラスチックの容器があった。中身を確認し、伊奈帆は首を振る。あるのは包帯と絆創膏が少し。消毒液などはない。
「足りないよ。僕の部屋から持ってくる」
伊奈帆は玄関先で振り向く。スレインはこちらを見ており視線がかち合う。不安そうな瞳だった。
「その間に、君は体を洗って」
「……ありがとう、伊奈帆」
「この背中……」
「……まだ、残ってます?」
凄まじい傷の痕。いや、さっきついた傷ではない。その部分は不思議なことに既に血が止まり、再生の兆しがある。そうではなくて。
「飛べたんですよ。僕」
そう。その位置と数はまるで、翼を引きちぎられた痕のような様相を呈していた。肩甲骨の辺りを中心に縦横に奔る無数の傷痕。引き攣れた皮膚は白く盛り上がり組織の色が透けている。
「飛べたって、どういうこと?」
「コウモリのような羽があって。時々、夜空を飛びました」
嘘か本当かわからない。彼の話はいつもそうだ。何かを秘めていて、そこに触れないように外殻を抽象的な言葉で語る。とりとめがなく、いいかげんで、冗談みたいにきこえるそれは、御伽噺のようだといつも思う。
「でも、……随分前に無くしてしまった」
スレインが自嘲の声で笑った。
「冗談です」
多分、嘘ではないのだろう。しかし事実でもない。
「君の話は、事実と空想の判別が極めて難しい」
「はは」
おそらくは、彼にとっての真実というだけ。その真実を伊奈帆は知りたいと思う。
「……こんな大怪我。よく生きてたね」
「そういう身体なんです」
どういう体なんだろう、と思ったが、今のこの状況ではとても口にできる問いではない。
「でも、あまりに痛かったから。……僕は記憶を失ってしまった。次に目を覚ました時には、地球のアパートのベッドの上でした」
「地球……?」
罪滅ぼしか、それとも優しさだったのか分かりませんが、とスレインは俯いた。
「それまでのことを忘れていました。書き換えられた偽りの記憶で、僕は地球の学校に通った」
「学校って、どんな感じ?」
スレインは肩越しに振り向く。悪戯っぽい微笑みが目元に浮かんでいた。
「君と同じ名前の、同じ顔の男の子がいましたよ」
「僕と?」
「ええ。話し方もそっくりです。理屈屋で、話が長くて、時々すごく子どもっぽくて」
「……そんな風に思われてるんだ、僕」
「あ、拗ねました?」
「別に」
「ふふっ」
スレインは肩を揺らした。血の滲むその肩に伊奈帆はそっとガーゼを当て、チョキン、と鋏で大きさを整える。
「僕はその子を、オレンジ色って呼んでいた」
「オレンジ色? どうして?」
「雨の日にぶつかって。転校初日で。彼はオレンジ色のレインコートを着ていたんです」
「クラシックなコミックにありがちの展開だ」
「運命の出会いってやつですね」
スレインはにっこり笑ってこう言った。
「今の話はどうですか?」
拍子抜けして目を瞬く。嘘か本当か。荒唐無稽な話だ。作り話でからかったのだろうか。それにしては、笑顔がひどく寂しげだ。瞳の色が揺れている。
「雨の日の転校生って、詩的だね。展開はベタだけど」
「ふふ」
伊奈帆は最後のサージカルテープを指で押さえた。青褪めた白い背に無数の傷痕。その上にはり重ねられたガーゼと包帯が病的で痛々しい。
「……君が別の人間だって、心の底ではわかってるんです」
スレインは自身の背中に触れようと、肩の上から手を伸ばす。肩甲骨のテープの上を白い爪がぎり、と引っ掻く。
「でも……。面影を探してしまう。よく似ているから」
とても小さな、吐息のような囁きだ。伊奈帆は聞こえないふりをした。



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