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BLUE MOON_01

  • 執筆者の写真: μ
    μ
  • 6月19日
  • 読了時間: 9分

Crater

 

月は、地球の二倍ほど離れたところにあるように見えた。われわれに向いている側の月面のある部分は非常に暗く、またある部分は非常に明るい。月の表面は、多数派の哲学者が考えているような完全な球形でなめらかだとはいえない。それと反対に、地球そのもののように、起伏があり、多くの凹孔や突起がたくさんある。月の全表面にいろいろな大きさの斑点が密接して散らばっている。

——ガリレオ・ガリレイ「Sinderes Nuntius」

 

 

 西暦二五〇四年九月

 界塚伊奈帆は、見えたものに思わず身を乗り出した。

「あれは……?」

 舞い遊ぶ青い光が、帯状の群れとなり移動している。

「昆虫? あれは蝶?」

 四枚の翅。羽ばたく度に燐粉を踊らせるその光は数多。俄かに信じがたい。ここは、三〇世紀の月面だ。時空酔いか、それとも夢か。手首のモニタに表示されるバイタルサインを確認するが正常だ。

 月は既に天体としての活動を終えた天体。重力は1.62m/s²、表面温度はマイナス一八〇~一三〇℃。大多数の生命体にとって、まごうことなき死の世界だ。大気のバリアの存在しないモノクロの地表に昆虫。真空の宇宙を舞い遊ぶ、絶滅した青い蝶。シャトルの窓から見える光景は、あまりに非現実的だった。

 伊奈帆はさらに信じられないものを目にする。

「人? ……じゃあないか」

 クレーターの丘を歩く白い影がある。スペース・スーツもマスクもない。生身の身体で、まるでここがドーム内部の自然公園のような足取り。裸身に近い細身の、おそらくは青年。彫刻のようなソリッドな美貌。その金の髪は、記録映像映画で見た、地球から見た月の色のように見える。横顔は怜悧で、蝶と戯れるような立ち姿は、ゾッとするほど美しい。

 作業用アンドロイドだろうか? それにしては、作りがアーティスティックにすぎる。観賞用に作られた個人所有アンドロイドが主役の、ムービーの撮影かもしれない。しかし、撮影ロボットが周囲にないのでそれもまた、違うのかもしれない。

 その影は、やがて見えなくなった。月の亡霊、と詩的な表現が浮かび、伊奈帆はシートに頭を強く押し付けた。

 

 

 翌日。出勤した伊奈帆は、真っ先に直属の上司のデスクへと向かった。伊奈帆の気配に気づいたのか、彼は数歩の距離でくるりと椅子を回して顔を見せた。伊奈帆は額に手を翳す。

「よう。おかえりさん」

「鞠戸警部。しばらく」

 ムーンバレー機動警察隊本部。鞠戸孝一郎警部。彼はニヒルな笑みを浮かべ、スキットルを煽った。白色とブルーが基調の照明と流線形を多用した内装。清潔で無機質な空間において彼の人間臭い佇まいは、数世紀前の人間がタイムスリップしたかのような違和感がある。

「火星はどうだった?」

 職務は主に治安警備、災害警備、雑踏警備、警衛警護、集団警邏及び一斉取締まりである。伊奈帆は星間連絡員として星々を飛び回っており、自分のデスクに座ったことは一度もない。というか、デスクがあるのかさえ知らない。探せばきっとあるのだろう。本部に出勤するのさえ初めてだが、所属はムーンバレー第6区。通称アンダーシックス。要するに治安の悪い無法地帯だ。伊奈帆の階級は警部補にあたる。

「プラントの増設は順調です」

「そっちじゃない」

「ゲリラ組織の存在は認められませんでした。チンピラ程度です」

「真面目腐った顔で俗っぽい言い回しをするから面白いぜ。そういうところ、似てるな」

 鞠戸が椅子を勧めたが、伊奈帆は立ったまま首を振る。ビデオ通信で顔を見た事はあったが、実際に会うと彼に関する心象を改めざるを得ない。臭いが強烈。はっきり言って酒臭い。月でのアルコール摂取は違法ではないが、今は勤務中である。注意などされないのだろうか。生身の人間がほぼいなくとも、交通課のパトロールロボットがそこらにいるはずなのだが。

「月に帰るの、何年ぶりだ?」

「十五年と三ヶ月です」

「普通に年を食ってれば、いいおじさんだな」

「連絡員の特権ですね」

 基本的に、移動中はコールドスリープ・モード。肉体の経年変化はストップする。伊奈帆の実年齢と肉体年齢には大きな隔たりがあるのだ。

「早速悪いが、次の仕事は俺のバディだ」

「月の調査ですか? 僕は連絡員ですが」

「話はもう通してある。月の仕事は不本意か?」

「いえ。仕事ですから」

「そう言うだろうと思ったぜ」

 これを見ろ、とポップアップするモニタ。

「第6区で変死事件が立て続けに起こっている」

「変死事件……」

「ここひと月で六人。多いか?少ないか?」

「異常です」

 鞠戸が片眉を上げた。ご名答、という表情。

「何故犯人が上げられないのか、解せない顔だな」

 さらに重なるモニタ・ウィンドウ。

「月面都市の住民は人工知能〝カグヤ〟に市民登録される。名前、性別、生年月日、住所、健康状態から秒単位の行動まで、極小のマイクロチップで全て記録されているのに、ってな」

 でもそれが、と鞠戸は続ける。

「実は、全員ではない。って知ってるか?」

 伊奈帆は話の先を促すため、鞠戸の顔を見た。

「開拓移民の中には、未登録者が結構いる」

「開拓移民の子供は登録義務があるはずです」

「つまり?」

「月面都市〝ムーンバレー〟建設の第一次開拓移民は二一〇九年。最後の第二十二次移民がやってきたのは二一八五年。カグヤは二一一五年完成。コールドスリープの技術が確立されたのは二四五五年のことです」

「だから未登録者はいないってか?」

「いえ。第6区は無法地帯でしょう」

「イエス、と見せかけてノーだ。月で生きていく上で、カグヤをちょろまかすことはできんさ。子ネズミ一匹の生体反応さえキャッチしているんだ」

「ムーンバレーに子ネズミなんていませんよ」

「ものの喩えだ」

 鞠戸はデスクの引き出しを開く。私物が雑多に詰められており、整理整頓が必要だ。

「界塚弟。調査書読んどけ」

「了解」

 差し出された直径5センチメートルほどの光学記録装置を受け取る。左目に照射し、デバイスにインプット。ファイル名に、伊奈帆は思わず呟きを漏らす。

「〝ヴァンパイア殺人事件?〟」

「上もふざけてやがるのさ」

 鞠戸は両手の平を天井に向け肩を竦める。

「大昔の怪奇小説か? ぞっとしないね」

 

 

 第6区ウエスト第3ステーションから始発のバスで帰った街には、青い空気の幕が張り、まだ起き出してもいない。バスを降りると、木枯が強く吹き付けた。模擬自然のクオリティはタイタンとは段違いだな、と感心しつつ、伊奈帆はコートの襟元を掻き寄せる。

 寒さと空腹で体が冷え切ってしまった。家に帰るまでに、何か温かい飲み物が欲しい。

「……あ、開いてる」

 視界に入った照明の灯った小さなカフェ。地球二十一世紀スタイルの、クラシカルなデザインの店構え。こんな時刻に、とは思ったが、助かるのは事実。そこに入ることにした。

 ガラン、とドアベルを模した電子音が鳴る。夜明け前で、店内はほぼ空席だ。伊奈帆はレジカウンターへと足早に近づく。店員が小さく会釈をする。

「カフェ・モカを」

 若い男性店員が頷く。揃えた指が、メニュー表の片隅を示す。真っ直ぐに伸びた指の形にはっとし伊奈帆は顔を上げ、驚いた。くすんだ金髪に青褪めたような白い肌、猫のような釣り上がった眦と透明度の高い碧眼。

 月の上を歩く人——。

 同じだ。シャトルの中から見た月の亡霊。遠目だったから顔まではよく見えなかったが、佇まいというか、存在感。重力場というか、引力。間違いない。

「はい。店内でお召し上がりですか?」

 しかし、それは気のせいだろうかと思えるくらい、今目の前にいる青年は人間らしい。洗い晒しの白シャツに、制服らしい緑のエプロン。シャープに整った造作の割に表情は穏やかで、下がり気味の眉が親しみやすく、つい声をかけさせてしまうような魅力がある。ネコ顔、という形容があるが、それがしっくりくる。少なくとも、ロボットだとか幽霊みたいな感じはしない。

 人違い? だとしたら、シャトルの窓から見た風景。あれは、一体なんだったのだろう。白昼夢?でも、夢にしてははっきりしている。

「あ、持って帰ります」

「テイクアウトですね。サイズはどうなさいますか?」

「大きいので」

「ホット?」

「はい」

 ランプの下でお待ちくださいと言われ、伊奈帆はカウンターの先にある吊り下げランプの下に移動した。

 店員も移動し、器具を操作してドリンクを作り始める。内側に複雑な道具が沢山並んでいて、それぞれがどんな用途か何とはなしに考える。カチ、とスイッチが入り、クリーマーの電動音。遠くの梢の鳥の声が聞こえてくる。

 人の少ない店内はとても静かだ。

「……昨日の昼間」

 柔らかな声が囁く。上目遣いの猫目を見つめる。

「AZハイツの二〇七号室」

 伊奈帆は眉を顰める。それは宛がわれた伊奈帆の住所だ。近隣への挨拶はまだ。表札だってあるわけない。このカフェは目についたから入っただけだ。……というのは楽観が過ぎる。

 なぜバレた、とまず思い。

 どの時点で仕組まれた、と考えながら、伊奈帆はコートの下にそっと手を入れ、ホルスターの金具を外す。

 シーリングファンの音が大きく耳に障る。俯き加減の青褪めた顔。調理中のドリンクへ視線を落とし、微笑みを浮かべているこの青年は。

 この青年は、何者だろうか? 蝶の乱舞が脳裏に青い残像を刻む。

 伊奈帆は聞こえないように喉を濡らし、カウンターに肘をついて口を開く。

「どういうこと?」

 くすり、と小さな声がした。こちらのあからさまな警戒に気付いてない訳もないだろうが、屈託なく笑っている。マドラーをくるくる回し彼は言う。

「僕、二〇六号室に住んでいて。昨日、貴方を見かけました」

「お隣さんだったの」

 合点がいって、つい大きな声が出てしまった。借り受けたのは一般人が利用する集合住宅の一室。隣の部屋なら引越しに気づくだろうし、向こうはこちらを見かけていても不思議はない。

 伊奈帆は居住まいを正し、ぺこりと軽く頭を下げた。

「こんなところでなんだけど、隣に越してきた界塚です。よろしくお願いします」

 こうなったら、自己紹介くらいはしておいた方がいいだろう。隣人トラブルは避けたい。

「ふふっ。こちらこそ、よろしくお願いします」

 青年はカップに蓋をし、マジックペンを手に取った。店のロゴマークの横にペンを走らせる。その白い指がランプを赤く照り返す。

目が覚めるような美形で、物腰が柔らかくどこか茶目っ気もある。これはもてるだろうな。こんな客の少ない時間の勤務はもったいない、と伊奈帆は無責任な感想を抱く。

「はい、熱いうちに」

 どうぞ、と差し出されたコーヒーを受け取る。大ぶりサイズの紙カップの側面にはコウモリのイラストがあった。

 
 
 

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