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BLUE MOON_0000

  • 執筆者の写真: μ
    μ
  • 6月19日
  • 読了時間: 10分

Epilogue

 

——西暦三四〇四年。

 

 個室。食堂。パントリー。トレーニングルームに娯楽室。デッキ。伊奈帆は船内案内の添乗員のように宇宙船の中を歩き回っていた。こういうのを、虱潰しというのだろうか。虱ってなんだろう、と重要度の限りなく低い疑問が意識の表層部分に浮かぶ。低重力の外周通路を、両手を気にしながら歩く。カップに蓋がついていて良かった。

居住モジュール内に不在。だとすれば、おそらく機器/推進モジュール。最初からそこに行けばよかったな、と思いながら伊奈帆はブリッジの扉をオープンにする。

「スレイン、ここにいたの」

 三つ並んだ操舵席の真ん中。ビューポートを向いていた顔がこちらを向いた。にっこり笑って彼は小さく会釈する。

「伊奈帆。おはようございます」

「おはよ」

 傍に立ち、少し屈むと瞼を閉じた顔が上を向いた。触れるだけのキスをして、右手のカップを差し出す。スレインはそれを嬉しそうに受け取った。

「コーヒー、欲しかったんです」

おそらくここで、航路の先を眺めているとわかっていたが、先送りにしたのは、どのように接するか考える時間が欲しかったから。どんな様子か心配だったが、いつもの笑顔で安心した。

 太陽系時刻の設定による多少の気温や照光操作はあるものの、時刻の定められた業務が皆無の気儘な宇宙船暮らし。朝や昼、夜は気分の問題だ。寝る前にはおやすみ、起きたらおはよう。その程度。一人では意識に上らない些末事。でも、今は一人じゃない。すなわち重要事項だ。起き抜けのキスとコーヒーは。

 伊奈帆は左隣の座席に腰を下ろし、自分の分をずず、と啜り顔を顰める。

「君ほど美味しくできないな」

食堂のコーヒーメーカーから出てきた合成化合物は匂いだけは取り繕っているものの、苦いだけで正直あまり美味しくない。

「何言ってるんです。ボタンを押すだけですよ」

「なんか、違うんだよね」

計器類が静かなブルーグリーンに発光し、断続的なイエローの点灯がある。無機質な淡い光を照り返す横顔が、時折カップを口に運びふう、と小さく息を吐く。オレンジの点滅。首元で反射が連なった。銀のチェーン。スレインは鎖の先の丸い飾りを手のひらに乗せ、じっと視線を落としている。瞬きがどこか緩慢なのは、瞼の裏に遠い景色を映しているからかもしれない。なんとなく、おいてけぼりにされたような気分になる。

 航海は順調だ。時折、プラズマがうねるように時空を奔り、別銀河から来た彗星が長い尾を引き通り過ぎる。

 眼前を通り過ぎるコメット。スレインの手のひらの中、飾り石が氷のテイルを照り返した。

「その石の色、君の瞳と同じだね」

 スレインがはっとした様子で勢いよく顔を上げた。びっくりした顔で伊奈帆をまじまじ見つめている。何か、変なことを言っただろうか。やがて彼はふっと小さく息を吐き、ガラスの向こうに視線を送る。

「なんだか、夢を見ているようです」

そこに見える太陽系の星の並びを伊奈帆は懐かしく感じた。木星を抜けてから、ワープ数をダウンした巡行モードに切り替えてある。一週間前に火星を抜けた。あと数時間で月と地球が見える計算だ。

「……このペンダントが、僕のところに戻ってくるとは思いませんでした」

 とても古い首飾り。その意匠を、彼はそっと指でなぞる。伊奈帆は、彼にそれを渡した小さな手を思い出す。一五〇年ほど前に訪れた、とても遠い惑星のこと。美しいエメラルドグリーンに輝く森の惑星。このペンダントの持ち主の菫色の瞳の少女を。あどけない声が歌う詩を。紡がれた物語のことを。

 

——白い月を追いかけて

——赤い星に口づけを

 

 同じ歌。スレインが月の裏側で歌ったあの、遠い地球の部族の歌。

「月と火星を目指したんだね。歌の通りに」

 緑に覆われた豊かな大地は清浄な空気が満ち、川が流れ、湖があった。霧深く広い森があり、その奥まった場所に石造りの神殿。子どもばかりが何十人か暮らしていた。その中で一番年上らしい少女の一人が、スレインへとペンダントを受け渡した。

「そして、……そこで滅びを迎えた」

 十二才と少女は言った。もう間もなく、彼女は大人になるのだとも。

「そうかもしれない。でも、ある意味では、彼らは永遠の命を得たとも言える」

 

——月追いの夜を、覚えていますか。貴方の心を、ずっとお預かりしていました。

 

 受け継がれるのは鮮明だが一瞬の映像記憶。ジグソーパズルのピースのような断片。遺伝子に刻み込まれたそれは継承を繰り返し、物語は紡がれた。一族が死に絶え、目指すところを追われて行き着いた最果ての惑星。森を作るのは人の名残を残す木々。大地と融合することを選んだ人類が息づいていた。彼らの祖先が地球の緑豊かな森の民であったと知っているのは、このペンダントとスレインだけ。

 

——地球へ立ち寄ることがあれば、姫さまにお伝えください。確かにお返しいたしましたと。

 

 首飾りの飾り石に、根付く前の少女が託した幾千幾万の夜が彗星のように輝いた。古びた石には傷があり、鎖のいくつかは継いだ後が残っていた。最初の少女の忘れがたい思い出が文字通り心によって受け継がれ、語り継がれ、悲しい御伽話あるいは創世の物語として時を越えて生きていたのだ。部族の血脈は失われたが、想いだけが憶光年先の銀河の果てまで届いていた。深い森の中のどれかは、スレインが愛した少女の末裔なのだろう。

霧の森と少女の笑顔を右の瞼に思い浮かべ、伊奈帆はシートに深く背を預ける。こういう仕草は久しぶりだ。

「こういうことがたまにあるから、連絡員って好きなんだ」

願いや思いは命を越えて届くのだ。どんなに時が流れても、どんなに遠く離れても。

 スレインはくすりと笑い、ペンダントを大切そうに服の内側に仕舞った。小さく首を傾ける。

「もう、何年になりますっけ?」

「何が?」

「ほら、二人で月を飛び出して」

「ああ。駆け落ちしてからね」

「駆け落ち……。どちらかといえば夜逃げじゃあ……」

 その時の脱出劇を思い出し、スレインは何ともいえない顔をした。連絡員は様々な状況下において臨機応変さを求められるのは知っていたが、まさかあそこまで力技のごり押しだとは思わなかった、と彼は言う。

「駆け落ちの方がロマンチックでいいじゃない。あれから、ざっと九百年」

「へえ、そんなになりますか」

 伊奈帆はふ、と笑みを漏らす。

「これで僕と過ごした時間が、君の人生の半分以上を占めるわけだ」

「嬉しそうなの、なんかちょっと腹立ちます」

永久指名手配をされてしまって以来、モグリの自称連絡員として、星々を巡る日々だ。そこに住む人々の記録と記憶を別の星へと届けるために。その中には、希少な生物や鉱石、文化、テクノロジーなど数多ある。宇宙海賊に狙われれば実力行使。トラブルを解決できるだけ、前より気楽で自由な身の上。それは永遠の命を約束されているからだ。

「お姉さん、元気そうでしたね」

「うん。小さいときに別れたきりだったけど、すぐに分かった」

「家族って、そういうものなんでしょうね」

 もう三百年も前のことだが、ケプラー1469cに立ち寄った。驚くべきことに姉は生存しており、邂逅が叶ったのだ。同じ開拓移民と家族となり、山岳地方で暮らしていた。

『ユキ姉、しばらく』

『なおくん⁉』

伊奈帆の事情を話すと姉は驚き、質問攻めにして、最後はケラケラ笑った。その笑顔は数百年前見た時のままで、頭を撫でられ伊奈帆は小さな子どもに戻ったような気がした。

『スレインくん、弟をよろしくね』

 出立の時、家族で見送りに来てくれた。一番小さな五歳の子どもは伊奈帆のやしゃごだ。きっともう、二度と会うことはないだろう。それがわかっていても笑顔で別れることができたのは、スレインが隣にいてくれたからだと思う。

「生きて会えるとは思ってなかったな。君のおかげだ。ありがとう」

「何言ってるんです」

 スレインははにかんだ表情で笑い、そしてあっと声を上げた。

「見て、スレイン」

 伊奈帆は立ち上がり前方を指差す。スレインが息を飲む。薄紫に輝くのは小さな衛星。あれは……。

「ブルームーンだ」

 伊奈帆の言葉にスレインも身を乗り出した。見えているのは月の裏側。太陽の光を照り返しているわけではない。光っているのは枯れない薔薇だ。月の裏側には、蝶舞う薔薇の園がある。それを、僕は知っている。

「夢みたい……。いや、こんな夢って見たことないや。そのくらい綺麗だよ」

「へえ。情緒のあること言えるんですね」

「なんか、引っかかる言い方だけど」

「めっずらしいなぁ、って。だって、前にムードのある事言ったの、五百年前くらいじゃないですか」

「は? 嘘でしょ。もうちょっとある。ほら、あれだよ。火星で、鳥を見た日」

「アイソトープの電気鳥? えっと……、なんでしたっけ。もう一回言ってください」

「もしも……。いや、やめとく」

「ああ、思い出しました。〝もしも君が鳥ならきっと……〟」

「わ、やめてやめて。やり直す」

「やり直す?」

「えーーーーっと………………」

 スレインは何度かコーヒーを口に運んだ。

「……………………まだです?」

「咄嗟に出ないよ」

「あははっ、似合わないことするから」

 今度はスレインが声を上げた。月を左に通り過ぎ、今では遺跡と化した月面都市を視界の端に見送る。

「あ。あれですよ、伊奈帆」

 伊奈帆が見たことのない色の地球。いつかの夜を思い出す。

「本当に青いんだ」

 ——〝空は非常に暗かった。一方、地球は青かった〟知っていますか? 初めて地球を見た人間が残した言葉——

 ああやってスレインが教えてくれたから、僕には今、地球がこんなに綺麗に見える。出会う前の出来事を、わかりあうことも分かち合うこともかなわない。その苦しみと共に生きていくしかない。でも、こうしていつか自分の一部になる。お互いの知らない傷も思い出も。そのための時間は、僕らにはたっぷりある。

「地球だよ、スレイン」

「見ればわかります」

「見ればわかるのがすごいね。僕は青い地球を知らないから」

「そういえばそうですね」

 回復した地球。そこには、澄んだ大気と水があり、雲と海と木々に覆われた大地がある。

 海を見たことがないわけではない。でも、あのブルーを見ていると、不思議な気持ちに気づくのだ。不安なような。寂しいような。でも、どこか安心する。そんな気持ち。

「僕は、不思議と懐かしい感じがする」

 そう。多分これは懐かしいって感覚だ。あの色を見ていると、と伊奈帆は呟く。

「波の音が聞こえるみたいだ」

「今日の伊奈帆は詩人ですね。どうしたんですか?」

 スレインはふふっと笑った。その微笑みで、伊奈帆には浮かぶ言葉があった。

「スレイン」

「なに……あ、さっきのやつですね?」

「うん。そう。ちゃんと聞いてね?」

「はい。伊奈帆、頑張って」

「子ども扱いしてない? いいけどさ」

 伊奈帆はコホンと咳払いをし、身体の向きを変えてスレインを見つめる。

「えっと。その、……地球に着いたら、僕と一緒に月を見ない?」

 その時の顔。スレインは見たことがないくらい目を見開き、ぽかんと口を開いた。しばらくの間時が止まったように静止し。やがて肩が震え出す。俯く彼が泣くかと思い伊奈帆は慌てた。また、何か変なことを言ってしまっただろうか。

「え?ちょ、スレイン?」

「ぷっ、……あはははは!」

 思いがけない豪快な笑い声。体を震わせ、目尻には涙まで浮かんでいる。

「ちょっと待って。これは笑うところじゃないから」

「あっははははは! ははっ、はぁ、ぶふっ」

「……スレイン」

「ごめん、なさい、ふふっ、ちょ、ほんとにもう……、ははっ!」

「もう。怒るよ」

「ははっ、はあっ、はあ……。いやぁ、びっくりしました。伊奈帆、すごいですね」

「今、驚くところあった?」

「ふふっ」

 スレインがくすくすと笑う。

「伊奈帆。こっち向いて」

「何?」

 頬に伸び、包む両手の指は冷たい。吐息が香り、重なる唇はほろ苦くほんの少し血の味がした。キスの味で脳裏に月での記憶がいくつも過ぎり、出会った時にコーヒーショップで彼が描いたコウモリの絵が思い出された。

「僕ら、海の上を歩けるんですよ」

コウモリの羽はないけれど、どこへでも行ける。そう言って、スレインはくしゃりと顔を歪ませた。楽しげだけどどこか寂しい、不思議な笑顔で彼は言う。

「いいですよ。月を見ましょう。月だけじゃなくて、朝日も、夕日も。海を歩いて、海に映る月の光を渡る。他愛もない話をして。二人で見ましょう。地球の空を」

 
 
 

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