BLUE MOON_00
- μ
- 6月19日
- 読了時間: 4分
Prologue
——西暦一八三〇年。
月の光が波に橋をかけたのだろうか。
「……やぁ、驚いたな」
少年は感嘆の声を漏らした。そして聞く。
「……君、海の上を、歩けるの?」
砂浜に降り立った黒い影を見上げる。逆光で表情はよくわからないが若そうだ。同じくらいの歳かもしれない、と少年は思った。
「人間じゃないね……」
黒い影がそっと笑う。
「僕が何に見えます?」
声は低く柔らかい。穏やかな発声だが、深い悲しみが滲んでいる。
少年は仰向けのまま、月を見上げて考える。夜空にぽっかり浮かぶ新円の月は、神秘的な感じがした。
「天使? ……それとも、月の使い?」
黒い影はふふっと笑った。
「ハズレです。わざとでしょう?もしかして、口説いてるんですか?」
「当たり」
ふわりと揺れる金の髪は、月の光を集めたような色をしている。岸壁の青い影が、切り絵のように白砂に映る。その先端に位置する二人。
「君は、ヴァンパイア?」
仰向けの少年を見下ろす人影が両手を軽く広げて微笑む。
「ええ。見ての通り。モルフォに誘われて」
ごつごつとした岩肌と、目が痛いほどの白い浜。それだけの島。生き物は青めく蝶と人と人ではない存在。
ヴァンパイアの青年がしゃがみこんで、少年の顔を覗き込んだ。
「貴方、どうしてこんなところに?」
少年は面食らったように右目を見開く。やがてその目は夜を映す。
「海賊が、無人島にいる理由は一つだよ」
事情を察し、人ではない青年は頷く。そして少年の近くに転がっている海賊の温情に目を向ける。
「銃、使わないんですか?」
「弾がもったいない」
少年の即答に、今度は青年が目を見開く。蝶の羽に似た色だ、と少年は口の中で呟いた。
「でも、……そんな体なら、死んだ方が楽でしょう?」
「死んだことがないからわからないね」
あっさりと答え、少年は右の瞳を数度瞬かせる。反対側の瞼には二羽のモルフォが眼帯めいて群がっている。
「……ねえ、君は、どこから来たの?」
「海の向こうから」
「歩いて?」
「時々飛びました」
少年がへえ、と声を漏らす。彼の視線が移動した。
「羽に、さわらせてくれる?」
「ええ、どうぞ」
青年は、少年の手をとり、自身の羽に触れさせた。指の感触は、分厚い皮膜に届かない。少年の目が好奇心に輝く。
「……コウモリの羽だ」
くすりと笑う。なんて素直で、なんて純粋な感想だろうか。
「ずっと昔。僕はコウモリだったのかもしれません」
他愛のない冗談を自然と言ってしまえるくらい。美しい心のあり方を忘れていたことを知る。
少年の手が砂の上にぱたりと落ちる。彼の呼吸はとても静かだ。
「……コウモリ。お願いがあるんだ。聞いてくれる?」
銃を手に取り、引き金を引いてくれ、と。殺してほしいと言われたら。
「何ですか?」
それでもいいか、叶えてやろうという気になっていた。命を奪うことは、僕にとっては初めてのことではないのだし、と言い聞かせ。しかし、少年の次の言葉は全く違って。
「一緒に、月を見ない?」
そのお願いは。無人島に、半死半生の状態で置き去りにされた少年が、渇いた声で口に出すものにしては、あまりに素朴で、ささやかなものだった。
「いいですよ」
青年は微笑みを浮かべ、彼の隣に腰を下ろした。膝を抱え、見上げた先にある星の海と満ちた月。少し朧で、光は柔く穏やかだ。
「……月なんて、海の上で何千回も見たはずなのに」
少年がぽつりと呟いた。
「陸で、片目の今の方が、何だかずっと綺麗に見える」
不思議だね、と言う彼に、青年は頷く。
「僕も……、随分前から、綺麗な夜を忘れていました」
「前って、いつのこと?」
「五〇年くらい」
すごい歳上、と少年は声を出さずに笑った。
「ねえ、コウモリ」
「その呼び方……」
「月の裏側には、何があるのかな」
不思議なことを聞く、と思いながら、青年は少年のただ一つの瞳を見て、月を見て、また少年の瞳を見た。虹彩のオレンジ色は、いつか見た、思い出の中の夕焼けに似ている。
月の裏側に、何があるのか。そんなことを、生まれて初めて考える。もしかしたら、そこは楽園のように草木の生い茂る場所かもしれない。煮えたぎる溶鉱に支配された地獄のような場所かもしれない。ただ同じ地平が繋がっているだけかもしれない。
「それがわからないから、綺麗なんじゃないですか?」
ただ、どれにせよ、そこに人がいなければいい。それがきっと、一番綺麗だ。
「君の言う通りな気がする」
少年が瞼を閉じる。二度と開かないかと思われたが、とてもゆっくり、もう一度だけ。
「月、綺麗だね」
「はい。とても」
潮騒が青く染まる。月色の音は海。夜に溶ける羽を重ね、彼の頬にモルフォの翅が鱗粉を落とす。蝶の雨に彼は呟く。
「……名前くらい、聞いておけば良かった」
夕日の隻眼。鮮烈なオレンジを、日の光の下見てみたかったような気がした。
目次
Kommentare