Blue Bird,_1
- μ

- 6月20日
- 読了時間: 18分
~青い鳥のすみか~【2017-07-28】
扉の前に立つと、それは意思があるように開いた。瞬間、隙間から不思議な空気が溢れ出す。
少女は眩しさに目を閉じた。おそるおそる瞼を開けると、様々な色が視界に飛び込む。赤、黄色、ピンク、白、紫、青…鮮やかな花々と、幾層もの色調を成す木々の緑。見上げると、生い茂った葉の間から帯状の光が差し込んでいた。空は青い。ふわりと肌を包む空気は、瑞々しい草花の香りを含む。湿った、生命の匂いだ。
きっと、これは地球の匂いだ。
「綺麗な場所だわ…」
高い所に三つ、小さく動く影が見えた。目で追いかけると、背景の空に凹凸があることに気付く。よく見ると、点のような小さな嵌め殺しの窓が等間隔で並んでいる。
晴れやかな青空は、ドーム型の天井に描かれていた。
白い石畳の小道を歩いた。噴水から、透明な水が吹き上がる。手を浸すと冷たい。水面は飛沫で波紋が広がり、常に波立っていた。先を見ると、道々に白いガーデンチェアが設えてある。その幾つかに時折腰かけ、天を仰ぎ、光を浴び、美しい花々に顔を近づけた。どれも、初めての経験だった。花は、とても良い香りがした。
「花の匂い。地球の匂いなのね」
だんだんと細くなる、曲がりくねった小道の先。庭園の片隅に、白いガゼポが現れた。数段の階段の上、六つの柱が円周上に等間隔で立ち並ぶ。丸い屋根は細い金属で、緑の蔦が複雑に巻き付いていた。
柱と一体化したベンチに、人が座っている。楽な姿勢で腰掛けて、本を読んでいた。少女の場所からは、その姿は遠く小さくしか見えないが、葉を翳め届く淡い光に金色の髪が輝いて見えた。少女は呟いた。
「なんて綺麗なひとなのかしら…」
導かれるように近づく。階段に足を乗せると、彼が気付き顔を向けた。二人の視線が重なる。その人は驚いたように目を丸く見開き静止した。
白い顔だった。火星人は肌が白いけれど、もっとずっと白い。青くて質素な服を着ている。短い裾から覗く手足は細く直線的で、裸足の足元は白い床と一体化するかのように白かった。足の甲に青白い血管が浮き出て、踝が硬く出っ張っている。美しい造形は精巧な彫刻のように思えた。
少女は階段の上で立ち尽くし、二人の間に時が止まるような沈黙が訪れた。
「…ねえ、ここのひと?」
少女が話しかけると、困ったような表情を浮かべた。切れ長の目が細められ、眉尻が下がる。口元が微かに綻んだのを見て取り、少女はたたた、と階段を駆け上がりその人の隣に座った。首を伸ばして、じいっと瞳を覗き込む。瞼縁の中心で、薄いグリーンの瞳が冬の湖面のように揺れた。さらに顔を近づけると、彼はおずおずと身を引いた。背中が柱にぶつかり、痛そうに眉を顰める。淡い金の髪が細い束になって、肩からふわふわとこぼれ落ちた。
「ここはどこ? あなたのおうちは?」
碧の瞳のその人は、何も言わずに少女を見返す。大人の人だけれど、不思議な人だ。少女の身近に、こんな大人はいない。子どもに見つめられて、まっすぐ見つめ返すことができる大人なんて一人も。
「おうちがわからないの?」
聞くと、彼は首を傾げ、ゆるゆると首を振った。
「じゃあ、どうして捕まっているの?」
少女はガゼポの柱に施された意匠をなぞる。ひやりと冷たい。見上げると、華奢で典雅な屋根の隙間から、ドームの天井に塗られた青色が見えた。
「わたし、知っているわ。この場所の形。絵本で見たのと、そっくり」
チルチルはミチルと、青い鳥を探しにいくの。その手に持っていた道具に似ているわ。
「どうして捕まっちゃったの? あなたがあんまり綺麗だから、だれかが独り占めしているの?」
思いついたままそう言うと、その人は目を泳がせて考え込み、そうして、また首を振った。
「いいえ」
喋った。低くて、柔らかい声だった。不思議と、懐かしい感じがする。瞼は固く閉じられたままで、睫毛が震えた。泣いてしまうのではないか、と緊張したが、睫毛は細く放射状に広がって乾いていた。
「自分の意志で、ここにいます。私は、とても悪いことをしたのです」
「うそ!」
あんまり悲しそうに笑うものだから、少女は彼に抱きついた。電流が流れたようにびくりと体が震えたが、ぎゅうっと腰に回した手に力を入れる。その人の両手が空を彷徨い、花びらのように静かに少女の肩に下ろされた。あたたかい手だった。
「ほら、やさしい。悪い人は、子どもがきらいなのよ」
ぱっと離した大きな手を、少女は捕まえてぎゅっと握る。力を失い小さく震える手を見る。
大人なのに、何をそんなに怖がっているのだろうか。
「優しさが、罪となることもあるのです」
「…よくわからないけど、それって、悪いことなのかしら?」
少女の言葉に、彼は小さく頷いた。
チイ、と鳴き声がして見回す。彼の足元に鳥がいた。初めて見る小さな生き物に、少女は喜びぴょん、と立ち上がる。しゃがんで手を伸ばそうとすると、小鳥はバタバタと翼をはためかせ外に飛び上がってしまった。名残惜しそうに、少女が追いかけて空を仰ぐ。小鳥は、青い天井を目がけ羽ばたきを繰り返す。
行ってしまった。少女は振り向き、ベンチに座ったままのその人に駆け寄る。
「ねえ、このお庭で遊びましょう!」
彼の手を握り、こっちこっち、と引っ張る。振り解くこともせず、されるがままに歩みを進めるその人は、温かな眼差しを少女に注いだ。少女はこんな風に優しく、綺麗な大人に会ったのは初めてだった。
「お花の名前を教えて」
手近にあった黄色い花を指さすと、マリーゴールド、と教えてくれた。かわいい名前、というと、ええ、と目を細めてくすぐったそうに笑う。素敵な笑顔で、もっと見たくなった。
「この赤いのは?」
「アスター」
「これは?」
「アネモネ」
「ねえ、これは?」
「シクラメン」
踊るように小道を駆けて、花を次々と指し示す。彼は、穏やかな声で全ての花の名前を教えてくれた。
「鳥が飛んでいるみたい! これは?」
白い、ギザギザした形の花びらだった。
「サギソウ。鷺というのは鳥の名前です」
白い花びらを摘まむ。繊細な形。羽のような部分を指で撫でる。
「鳥? さっきの鳥といっしょ?」
少女は、先ほど足元から飛び立った小さな鳥を思い出す。
「違います。色も違うでしょう。さっきのは、瑠璃鶫という鳥です。鷺はずっと大きくて、首が長い」
大きな鳥、と聞いて少女はどきどきした。どのくらい大きいのだろう。あんまり大きいと、少し怖いかもしれない。
「そうなのですか。鳥と言っても、いろんな種類があるのですね」
他にも、赤とか、黄色とか、ピンクとか。綺麗な色の鳥がいるのだろうか。青空を舞う、鮮やかな鳥の群れを想像する。
「はい。中には、空を飛ばない種類の鳥もいます」
「あら、どうして?」
翼があるのに飛ばないなんて不思議で、少女は聞いた。
「生きるために、選択したのでしょう」
大きな翼をたたんで、地面を歩く鳥の姿を想像する。
「翼があるのに? かわいそうね」
少女の言葉に彼は優しく微笑んで、何も言わなかった。
だって、飛べないのならどうして翼があるのかしら? きっとすぐに、死んでしまうんじゃないかしら。
言葉少なに歩いていくと、ぶわりという感触。濃厚で、馨しい空気に包まれた。湿った艶やかな花びらが、数え切れないほど咲き誇っている。
「まあ、きれい!」
少女は興奮しぴょんぴょん飛び跳ね、花の咲き乱れる垣根に指を伸ばした。花に触れる前に、白い手にそっと指を包まれる。
「棘に、気を付けて」
手を包まれたまま、その人の顔と花を交互に見る。青い豪奢な花から伸びる緑の茎は、つるりとしていた。
「棘なんてないわ」
少女は腕を伸ばし指先でぱき、と一輪の青い薔薇を摘み取った。手の中でさらに強くなる香りを胸いっぱいに吸い込んで空を見上げる。緑の木々の間を、小さな影が横切った。
「あれは?」
「さっきの瑠璃鶫です」
青い小さな生き物は、一羽だけで追いかけっこをしているようだ。空中を旋回する。少女が声を上げた。
「あんなに高い! 素敵だわ! …あ、天井にぶつかっちゃった。もっと、広い場所ならいいのに」
ふらふらと高度を下げる鳥を目で追いながら少女が呟くと、隣の人は首を振った。
「そうとも限りません。行く先がなければ、高くて広い空は孤独です」
「悲しいことを言うのね」
だって、飛べないなんてかわいそうよ。
彼は眉を下げて寂しそうに笑った。憂いを帯びた瞳が少女の握りしめた花を見つめる。
「これは、薔薇」
少女も視線を追って花を見る。近くで見ても、何枚か分からないくらい、沢山の花びらだ。深い青色は水気を帯びてきらきらと光っている。
「薔薇…。きれいだわ」
「不可能」
「え?」
聞き取れなくて、少女は聞き返した。彼は膝をつき、上目遣いに視線を合わせてくれた。
「花言葉といって、その花に与えられたシンボルです。青い薔薇は、自然界には存在しません。人工的に作ることも不可能とされるほど難しい花なのです」
もう一度手元の花をじっくりと見て、垣根で咲き誇る青い薔薇たちを眺める。どの花も、光を浴びて美しく輝いていた。
「だから、こんなにきれいなのね」
頷き、青年は立ち上がった。少女の手を引き、歩き出す。少女は花の美しさにうっとりとしたまま、手を引かれて歩いた。しばらく行くと、垣根の向こうに茶色い大きな扉が現れた。少女は青年を見上げる。いつのまにか繋いでいた手は離されていて、高いところにある瞳が少女の視線を眩しそうに受け止めた。彼は眉を下げて困ったように笑った。
「さよならです。もう、ここに来てはいけませんよ」
「どうして⁉」
いや、と首を振る少女の頭を撫でて、彼の手が扉に触れた。
「これは夢です」
笑う顔が痛々しくて、少女はこの大好きな大人を傷つけてしまったようだ、と悟った。本当は帰りたくなどないけれど、がんばって我慢をしようと口をへの字に曲げ、長いドアハンドルに手をかける。
「不思議なことを言うのね」
少女の手によって扉は開き、隙間から光が溢れる。
外って、こんなに眩しかったかしら。少女が振り向くと、彼は目を細めていた。
「また来ます。あなたに会いに」
開いた扉の外側に出た少女は、ガシャンと重い錠が落とされる音を聞いた。開けようと、急いで両手で押したり引っ張ったりを繰り返すが、扉はびくともしなかった。
―――どんどん、どん。
―――どん、どん、どん。
いつもの耳鳴りがする。
気が付くと、彼は赤い伯爵服を着ていた。いつもは履いていない靴も履いている。伸びっ放しの髪が襟や釦に絡まって鬱陶しい。背にはらう。いつの間に、こんなに伸びたんだろう。
ああそうか、今日か。
彼は安らかな気分で空を見上げた。ガゼポの中から見える、金具や蔓に切り取られた青空に目を細めた。たとえそれが紛い物だとしても。その青を瞼の裏に焼き付けるように固く目を閉じる。
「…その服は?」
小さいのが聞く。いつからか、隣に座っていたらしい。不安そうな顔をして見上げていた。何も言わずに首を振り、頭を撫でてやる。くしゃくしゃになった前髪の下で、大きな瞳が泣きそうに潤み、丈の長い袖で一度顔を拭った。ぐっと唇を噛みしめ、何も言わない。これは、そういう子どもだ。
「これを、あげます」
子どもが、自分の首にかけていたペンダントを外し、両手に乗せて目の前に突き出した。
「ご加護がありますように」
小さな手のひらから摘み上げ、その意匠を指でなぞる。
そうか、どこに置いてきたのかと思ったら、こんなところにあったのか。
それを首から下げて立ち上がる。歩き出すと、子どもは少し後ろをとぼとぼと付いてきた。
耳鳴りが大きくなる。どん。どん。どん。歩みを進めると、木々の間から大きな茶色い扉が現れた。扉が振動で小刻みに撓む。ずっと聞こえていたどんどんという音は、その扉からしていたと気付く。
扉の前に立ち、ハンドルに触れると重厚な扉は羽のように軽く開いた。眩しい光が差し込む。光の中から、見覚えのある青年が飛び出してきた。
「――迎えに来た」
差し出された手を見ると、彼の手は爪も剥がれてぼろぼろで、真っ赤な血で染まっていた。手首を握られ、ねとりとした感触に胸がざわつく。手を引かれ走り出しながら振り返ると、外側の扉は赤黒い色をしていた。
いったい、いつからあの扉を叩いていたのだろう。
白い大理石の階段を駆け上がる。広い場所だ。周囲は真っ白で、景色は何も見えない。靴底で硬い音を打つ階段を、連れ立って走った。すぐそこが天辺だ。十三段しかないのだから。
見なくても分かる。聞かなくても知っている。この先にあるのは…。
手を振り解こうとして喚く。掴まれた手に一層力が籠る。
「嫌だ。君は生きるんだ」
切羽詰まったような声で彼は言った。十三段目に彼の足が乗る。
―――パン。
軽い、乾いた音がした。
何の音だろう。そう思う間に彼が膝から崩れ落ちる。濃紺の背中に赤黒い染みが広がった。
「界塚…!」
スローモーションのように傾く。彼の体を支えようとして、足が縺れて転んだ。なぜか激しく咳き込んで、自分の口元に手をやる。掌に、べっとりと赤い血が付いていた。伊奈帆は床に伏せたまま微動だにしない。二人分の血で染まった、赤一面の床の上に倒れ込む。鉄の匂いに噎せ返り、口からごぽごぽと血が零れる。口の中は鉄の味がした。
赤く霞んで揺れる視界の先、断頭台が見える。黒く光る足が現れた。白い手に腕を抱えられ、一歩一歩を踏み出す。もう痛くもないし、それほど苦しくない。それに、何も聞こえない。
界塚は、どうなったのだろうか。そんなことを考え、仰向けにされ、断頭台に首が据えられる。ギロチンの刃が光を照り返し暴力的に輝いた。目を閉じると、自分の心臓が飛び出すように大きく脈打ち、今更ながら生きていることを懐かしむ。
界塚。あいつには、悪いことをした。迎えになんて来るからだ。胸を撃たれた。あの出血では、助からないだろう。
撃たれた?
……誰に?
――ヒュッ。
「ここは…」
噎せ返るような薔薇の香りがする。体を起こすと、赤、白、黄の薔薇が鮮やかに目に飛び込んできた。立ち上がり、ぐるりと周囲を見渡す。
丈の低い緑の木々と、鮮やかな花々。薔薇だけではない。百合、マリーゴールド、デイジー、牡丹、菫にラベンダー、桔梗、杜若、ポインセチア…。
そよ風がさわさわと葉を揺らす。近くに小川か噴水があるのだろうか、涼やかな水音がする。
あと―――。
……何の音だろう。
何か、木を叩くような鈍い音がする。耳を澄ませると、トントン、ドンドン、不規則に聞こえてきた。どこから聞こえているのかは、分からない。しかし耳障りな音でもないので、別のことに気を取られれば気にならないし聞こえない。綺麗な花とか。流れる水とか、頬を撫でる風や青い空とか。
整然と整備された庭園だ。人が歩く所は、白い石畳が丁寧に敷き詰めてある。立ち上がり、白い小道を歩き出す。道の両側には、豪華絢爛な花園が広がっていた。春、夏、秋、冬。季節に関係なく咲き誇る花々に見蕩れ、立ち止まる。
綺麗な場所だ。初めてのはずなのに、どこか懐かしい。
ふと、自分の恰好を見下ろす。大きな服を着ている。ぶかぶかで、長い裾を折る。靴は履いていない。首のあたりが窮屈で触ると、細い金属の感触があった。大きく開いた襟ぐりから手を入れ探ると、首飾りが下がっていた。ペンダントトップに触ると、小さな傷が引っかかり、それが手に馴染む。手から離し難くて、胸の上で握ったまま歩いて行く。
白い蛇のような道を歩き続ける。石畳はすべすべして、素足にはひんやり冷たくて気持ちがいいい。若木の青い匂いと涼やかな葉音に心が踊り、大きく息を吸い込む。澄んだ空気が胸を洗う。
……しかし、だれもいないのだろうか。
進むにつれて、道が細くなっている気がする。先に目を凝らすと、小さく鳥籠のような建物が現れた。建物というよりは、柱に屋根が乗っかっているだけの陽射し除けのような場所だ。地面に平行な輪が柱の内側をぐるりと一周して、その上に座れるように作ってある。
「人がいる」
柱に背を預け、腰掛ける人がいた。やっと人を見つけた嬉しさに、弾むように駆ける。数段の階段を登り、その人の全身が視界に入った。思わずそこに立ち竦む。
細身の身体に、金の長い髪。俯いているので顔はよく分からないけれど、柔らかな光と朧げな色彩に彩られた様子は神聖な絵画のようで、ぼうっと見入ってしまった。
綺麗だけれど、なんだか人間ではないみたいだ。
「あの…」
おそるおそる近づき、声を掛ける。本を読んでいた顔が持ち上がり、ゆっくりと視線が交わった。
極地で見るオーロラのような、不思議な色の目をしている。
目つきが鋭くて、思ったよりも近寄りがたい雰囲気だった。逸らすこともできず見つめていると、その人は苦いものを飲み込んだように顔を歪ませた。そのまま、口だけが三日月のように丸くなる。
「もう、そんなになるか」
予想外に優しい声に、勇気を出して話し掛ける。
「あの、ここはどこですか」
その人は本を閉じて、両手を膝の上で重ねた。鋭い視線が一度、ペンダントを握りしめたままの僕の左手に注がれた。
「どこだと思う」
そう言われて、周囲を見渡す。澄んだ青い空。草花に溢れ、花の馨しい香りに満たされている。そよ風が時折頬を撫で、せせらぎが耳に優しい。暑くも寒くもない。
ここはとても綺麗な場所だ。綺麗な花。綺麗な木々。綺麗な道。綺麗な水。綺麗な鳥籠に、近寄り難いけれど、綺麗な人。綺麗でないものは、一つもない。
「ここは、天国のような所ですね」
そう言うと、ははは、と笑い声がした。見ると目の前の人が口元に手を添え笑っている。立ち上がり、近づいてきた。体を固くして目を閉じると、大きな手でぽんぽんと頭を撫でられた。
「そうだね」
その人は目を閉じた。声は優しいのに、頬は乾いているのに、唇は微笑んでいるのに、なぜだか泣いているような気がして、僕は下を向いた。
ここは、不思議な場所だ。時が止まっているような気もするし、知らないうちにどんどん進んでいるような気もする。自分がいつ眠っているのかさえ、よく分からない。気が付くとあちらこちらのベンチに座り、寝転んでいる。一人でいる事もあれば、大きい人が傍にいる事もある。
大きい人に名前を聞いたが、分からないと言っていた。お前は、と聞かれて、そう言えば自分はどういう名前だったのだろう、と考えるが、思い出せない。…まあ、ここには二人しかいないから、名前がなくても別に困ることはない。
朝も夜もなく、食べ物もない。けれどお腹は空かないし、疲れたりしない。そういう、あまりにも不思議な事が多いので、どうやらこれは現実ではないらしいぞ、と考える。考えたところで、どうすることもできないけれど。
夢ならそのうち醒めるだろう。醒めない夢などないのだから。
大きいのは、僕が話しかけてもあまり喋らない。いつも本を読んでいる。分厚い硬そうな本を読んでいたり、小さなパラパラした本を読んでいたり。読んでいる時は、話し掛けても返事はない。それでも傍にいると、根負けしたように本を置いて話し相手になってくれた。
時々は二人で庭を歩いた。大きい人は、植物に詳しい。聞くと、何でも答えてくれた。
この花園を歩くのも何回目だろうか。もう花の名前も全て覚えてしまった。咲くことも枯れることのない花々を見て、やはりこれは夢のようだ、と思う。しかしたとえ夢であっても、ここに咲いている花は本当に綺麗だ。
「綺麗だなあ」
見事な薔薇に、思わず手を伸ばす。摘もうとしたわけでもないが、茎に触れる前、指先にちくりと痛みが奔った。
「痛っ」
引っ込めた指先から、血が丸く溢れる。慌てて吸うと、鉄の味がした。
「貴方を愛しています」
鉄の味に顔を顰めていると、大きい人の声が聞こえた。どきりとして、ばっと見上げる。彼は赤い花弁に指を伸ばし、触れないままその輪郭をなぞった。
「赤い薔薇の、花言葉」
その人があんまり悲しそうに笑うので、泣くのではないかと思った。大きい人の笑顔はいつも、泣き顔のように見える。薄く微笑んだ口元と、遠くを見る眼差し。見る度、どこかで辛い別れをしてきたのだろうか、と思ってしまう。
「誰か、もう、会えない人がいるんですか?」
「そう」
そういえば、自分だって一人ぼっちだ。この大きい人の他には誰もいない。
「でも、そんな人がいていいな。…僕は、誰のことも知らないから」
有り得ないとは思うけれど、僕の記憶には誰もいない。多分、これは夢だからだろうけど。
僕には、会いたい人も、会えない人もいないんだ。
とても寂しい気持ちになった。涙が出そうになって、腕に余る袖で顔を擦ると、肩にふわりと温かな感触。大きい人の手だ。
「そのうち、思い出すよ。いいことも。悪いことも」
大きいのは歩き出した。その背中を追いかける。指先の痛みは、いつの間にか消えていた。
――また眠っていたようだ。
気がつくと、鳥籠のような場所。「ガゼポというんだ」と大きいのが教えてくれた――に寝ていた。目を擦り腕を伸ばすと、何かに当たる。顔を巡らせた。隣に、大きい人が座っている。
驚いて飛び起きた。その人が、いつもとは違う赤い立派な服を着ていたからだ。黒いぴかぴかの靴も履いている。長い髪を邪魔そうに後ろにはらって、金色の肩章が見えた。物語の中で姫を救う王子様のようだ。
不思議なことばかり起こる場所だけれど、こんなに不思議な感じは初めてだ。胸がざわついて、寒くもないのに鳥肌が立つ。
「その恰好…。どうしたんですか」
大きい人は微笑んだ。いつもとは全然違う、初めて見る笑い方だった。
「そのうち、分かる」
立ち上がり、背を向け歩き出す大きい人の服の裾を引っ張り止める。
多分どこかに行ってしまって、もう二度と帰って来ないのだ。言うことを聞かない指先で首のペンダントを外し、その人に腕を伸ばす。
「これを…」
座りこんでしまった僕に、大きい人が膝をついて目線を合わせてくれた。口に力を入れていないと、涙が出そうだった。
「あげます。祝福がありますように」
大きい人が僕の手からペンダントを持ち上げ、自分の首に掛けた。すっくと立ち上がり、扉へ向かって歩いていく。
こんな場所に、扉なんてあったっけ。我に返り追うけれど、石畳の切れ目に足を取られ転んだ。身を起こすとその人はもう扉の前に立っていて、振り返って笑った。
「さようなら」
扉が開く。眩しくて額に手を翳す。赤い背中が光の中に消えていくのを、何もできずに見ていた。
光が収まり、扉が閉まる。立ち上がり、急いで駆け寄り触れてみたが、びくともしない。どんどん叩くが、扉はしんとしていた。
……行ってしまった。
――一人ぼっちになった。



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