top of page

My Sky

  • 執筆者の写真: μ
    μ
  • 5月19日
  • 読了時間: 15分

「オハナミ?」

「そう」

 聞き慣れない単語を問い返す。界塚伊奈帆はうん、と、頷き盤上チェスメンを進めた。ポーン。スレインは敵陣に配置していたルークを三つ引き寄せつつ言う。

「聞いたことはあるが、詳しく知らない。どういう行事なんだ?」

「桜を見るんだ」

「へえ」

 伊奈帆がキングを動かした。白の王はフットワークが小気味良いほどに軽い。

「それだけか?」

 黒のビショップ。

「あと、お弁当を食べる」

「ふうん」

 白のポーン。

「お酒を飲んだり」

「ほう」

 黒のルーク。

「カラオケとか」

「カラオケ?」

「歌を歌う」

 スレインはポーンをつまんだ手を止めて、ぱちりと大きく瞬いた。歌だって?

「歌?」

「歌」

 見返す伊奈帆は冷静そのもの。スレインは瞳を右まわりにぐるりと一周させた。

「外で?桜を見ながら?弁当広げて?」

「うん。よく見るよ。マイクは本物じゃないけどね」

 お箸とか、ビール缶とか。

「???よくわからないが、わかった」

 コツン。黒のポーン。

「それで?」

「それで、って?」

 白のナイト。

「オハナミするって、どういうことだ?」

「明日、ここの中庭で。お弁当持ってくるから」

「例の幼馴染の?」

「うん。期間限定でお花見弁当をやってるんだ」

「オハナミベントウ?」

「手が込んでるよ。一の重がおかずで、二の重がちらし寿司」

「イチノジュウ?ニノジュウ?」

「弁当箱が二段になってて、重箱っていうんだ。知らない?」

 少しの間。黒のナイトが白のナイトを飛び越える。

「おい。界塚伊奈帆」

「何?」

「桜なんか咲いてないが」

「ああ。問題ない」

 伊奈帆は手を止め、両手の指を軽く組む。隻眼がゆっくり瞬く。

「桜のような人が来るから」

 初期配置のe8を見て、伊奈帆は小さく微笑んだ。

[newpage]

 お姫様、という言葉を思い知るのは人生二回目。

 白い肌。綺麗な淡い色の髪。お人形のような目鼻立ちに、ダイエットなんかしたことないに違いない、華奢で繊細な体躯。迂闊に触れると、ガラスの置き物みたいに壊れてしまいそうで気後れする。

 何がどう、私たちと違うんだろう。そんなことをぼんやり思いながら、網文韻子は病室扉の内側に立ち尽くした。右前にニーナ。左後ろにライエがいて、全員私服姿。連合軍施設の一つだが、プライベートの訪問だ。

「こんにちは。お加減はいかがですか?」

 その理由は、ある患者の主治医である耶賀頼蒼真からのメール。"受け持ちの患者の話し相手、できれば友だちになってほしい"という内容。年が近い女の子で、戦時中連合軍に保護されたとのこと。家族もなく、ひとりぼっちだという。伏せた事情がありそうだが、デューカリオンチームの女子三人は快く引き受け、来訪という流れになった。それぞれに皆、戦争の悲しみを経験しているのだ。

「ありがとうございます。今日は、昨日より頑張れそうです」

 鈴の音のような声。六人用の大部屋だが、患者は一人。ベッドに腰掛け、足を垂らす姿勢で少女は韻子たちに顔を向けた。耶賀頼が三人に頷く。

「僕の、かつての同僚です。あなたと年が近いし、よい話し相手になってくれると思って相談したら来てくれました」

「まあ」

 無邪気な微笑みが向けられ、ああ、そっか。重さだ、と韻子は気づく。お姫様の理由。重さがないみたいな。汚れがないみたいな、消え入りそうな透明感。なんて言えばいいんだろう。そう、命の匂いがあまりしない。絵本の中から、出てきたみたいな……。

「ニーナ・クラインです」

「ライエ・アリアーシュ」

 気がつくと、ベッドの近くで自己紹介が始まっていた。韻子も近づき、両手を前で重ねて口を開く。

「網文韻子です」

「インコさん?鳥の名前ですか?」

 少女が驚いた顔で問い返す。あーそれ、小学校でよく言われたな、と韻子は苦笑。

「音は同じだけど、字が違って……」

 どっちでもいいけど、と笑うと少女は口に手を当てくすくす笑った。

「ごめんなさい。インコという鳥を、貰うことになっていたから」

「へえ、お誕生日とかですか?」

 少女は何も言わずに微笑み、この上なく優雅な所作で一礼した。

「申し遅れました。私の名はレムリナ・ヴァース・エンヴァース」

 そして、伸びた背筋が震えるような響きで告げる。

「偽りのアセイラム姫。アセイラム姫暗殺の首謀者として横死したスレイン・ザーツバルム・トロイヤードの妻です」

 思いがけない告白に、耶賀頼先生を含む私たちは全員言葉を失った。


 偽りのアセイラム姫。

「伊奈帆君が言ってたの、本当だったんだ」

「イナホ?」

 ニーナの呟きに、レムリナが問い返す。韻子はベッドへ一歩進み出た。

「えっと、伊奈帆は私たちと同じ、デューカリオンのメンバーで」

「デューカリオン……。そう。お姉様のお友達なのね」

「あなた、あの人の妹さん?」

 複雑そうに微笑む少女に、ライエが聞いた。レムリナは頷く。

「あまり似ていないでしょう?お母様が違うの」

「そう、なんだ……」

 これ以上、この話題に踏み込めず沈黙が降りる。屈んで少女の足を診ていた耶賀頼が立ち上がった。

「じゃあ、後は若い人で。帰る時は受付で声をかけてください」

「え?あ、はい!」

「それでは、レムリナさん。お大事に」

「はい。お心遣いありがとうございます」

 そうして、軽い音で扉が閉まる。残されたのは四人。韻子は話題を探して病室を見回す。六人の大部屋。他の患者はいない。一番扉に近いのが彼女のベッド。こんなに空きがあるのなら、窓の近くに変えてあげればいいのにな、と韻子は思う。窓もカーテンも閉まっているので、開けるために窓に近づく。

「窓を開けるの?」

 差し迫った声音にびくりと肩が震え足が止まる。

「あ、換気で風を入れようかなって。ダメですか?」

 レムリナはゆるゆると首を振り、韻子、ライエ、ニーナの順に視線を送る。

「お願いします。窓の近くに、連れて行ってくださらない?」

「あ、もちろん!」

 ニーナが近くにあった車椅子の座面を整え、ベッドに寄せる。ライエが少女の身体を支え、ベッドの上から移動した。そのまま三人が近づいてくるのを、窓の近くで韻子は待つ。

 こうしていちいちお願いしなくちゃ、窓の外も見られないんだ。

 目の奥がじんわりして、三人に背を向けカーテンを開く。シャッ、という小気味好い音と共に現れたのは青天。窓のロックを外し、そして開く。

 風。

「これが、風……」

 声と言葉が、詩のように耳を打つ。風は、色々なものを運ぶって。温度やにおい、花の種や雨の場所。そして、きっと誰かの涙も。

「……スレインが言った通り」

 振り向いて見た少女の頬に揺れる髪は、朝露の光る春の花のようだった。

[newpage]

「はい、お待ちどうさま」

「ありがとう」

 二〇時半のあみふみ食堂テーブル席。湯気の立つオムレツ定食を前に、伊奈帆は両手を合わせる。箸を持ち上げ、顔を上げて口を開いた。

「韻子。座って話せる?今」

「今?」

 給仕のため背を向けかけた韻子が、肩越しに振り向き問い返す。彼女は店内をざっと見回し、伊奈帆の向かいの椅子を引く。

「いいよ。何?」

「どんな人?」

 椅子に座るやいなや伊奈帆が短く聞いた。部外者が聞けばあまりに言葉足らずで素っ気ない五音だが、韻子は天井に視線を向けて口を結ぶ。

「んー」

 耶賀頼から一人の患者についての連絡を受け、ニーナ、ライエとお見舞いに行ったのが昨日。そのお見舞い相手のことをどう説明しようか言葉を探す。身体の線が折れそうに華奢で肌は真っ白。淡い色彩の髪と、こぼれ落ちそうに大きな瞳の淡い青。可憐。透明。そういう言葉が思い浮かぶ。

「人魚姫みたいな人かなぁ」

「人魚姫?」

 オムレツを箸で割り分けながら問い返す伊奈帆に、韻子は笑顔を向ける。

「すっごく綺麗な人でね。キンチョーしたけど、話しやすいし、笑ってくれたよ」

「ふうん」

「でも……。窓の外を見てる時なんか、光に溶けて消えちゃいそう、って心配になった」

 寂しそうに微笑む横顔、映画でも見たことない。そんな表情だった。

「そう」

 伊奈帆が味噌汁を啜る。そして無言。食事の音だけ、二分ほど。伊奈帆は淡々とマイペースに食事を続けていて、まったくもう、と頬杖をつく。

「今度はこっちの番。ねえ、どんな人なの?」

「どんな人って?」

 とぼけないで、と口を尖らす。伊奈帆はちらりと上目遣いを送ってきた。韻子は身を乗り出し、声を潜めて問いかける。

「あんたの目を撃って、奥さん一人にしてさ。その人、どんな人なの?」

 箸の動きがぴたりと止まる。急にすごく静かな空気が漂って、韻子もそのままの姿勢で言葉を待つ。店内のBGMの歌詞が耳に入り、韻子は高校の学食が懐かしいなぁ、なんてどうでもいいことを考えた。

 伊奈帆が箸を置いた。食事はまだ済んでいない。彼はぽそりと口を開く。

「……鳥、みたいな人かな」

「鳥?」

 うん、と頷く彼の目は、どこか遠くを見ているようだ。

「誰よりも速く、高く、光を目指して飛んでいくんだ」

 韻子の脳裏に、かつて経験した宇宙での戦闘が浮かぶ。この目で見た。無重力の真空で、引力の風をものともせずに鳥のように飛んだ機体がいたことを知っている。

「地上からは、自由で力強く見える」

 目の前の幼馴染の男の子が、その機体にどこか羨望めいた感情を抱いていたことも。

「でも、近くにいる人には違う姿に見えるんじゃないかな。特に、翼を持たない人魚姫には」

 伊奈帆は茶碗と箸を持ち上げた。食事を再開する。韻子は背もたれに体を預け、一度照明を見た。やや黄味がかった暖色が、天井模様に染み込んでいる。

「なんか、伊奈帆らしくないね」

「何が?」

 韻子は頬杖をつく。

「その、よくわからない話し方。ふわっとしてて、不思議な感じ」

 伊奈帆はきょとんと右目を丸くして、皿の上の半分残ったオムレツに箸を伸ばした。

「雨のせいだよ」

 ぱくり。もぐもぐ。謎の答えに続きも説明もない。いつものことか、とため息一つ。

「可哀想だよ。なんとかして会えないの?」

「合わせる顔がない、って言いそうだ」

「でも、会いたいんじゃないの?」

「それは、そうだと思うけど」

 器が全て空になった。伊奈帆は湯呑みを口へと運ぶ。一息ついて、彼は言う。

「明日、行こうかな。お見舞い」

「ええ?」

 韻子は慌てて両手で口を閉じ店内を見回す。少数とはいえ、お客さんの視線を感じた。気まずい。

「僕が行ったら、まずいかな」

 伊奈帆はどこ吹く風で続けた。こういうところなんだよね、と韻子は苦笑する。

「まずくはないと、思うけど……」

 韻子は想像する。たとえば、自分の知らないところに伊奈帆が閉じ込められていて、伊奈帆の目を撃ったあの子が私にのこのこ会いに来たら。

「うーん、怒られるかもね。理屈じゃないけど、そんな気がする」

 私だったら、ひっぱたくかも、と韻子は呟く。伊奈帆はくすりと笑みを漏らした。

「そのくらいはしょうがない。男の勲章ってやつだよ」

「うわ、鞠戸大尉みたいなこと言って」

「もう大尉じゃないよ」

「はいはい」

 ごちそうさま、と手を合わせる伊奈帆に、おそまつさま、と手を合わせ韻子は椅子から立ち上がる。

[newpage]

「調子はどうだ?スレイン・トロイヤード」

 ドアを開けての界塚伊奈帆の第一声に、スレインは数秒間動きを止め、やがて大きくため息をついた。

「こんなところまでよく来るな。君も」

 読んでいた本を閉じベッドの上に置く。いつもの面会室ではなく、ここは施設最深部の独房。伊奈帆が扉の中にまで入ってくるのは初めてのことだし、初めてのことはそれだけではない。

「貴方は?」

 そう。連れがいる。伊奈帆の斜め後ろには、同年代らしい私服姿の若者がいた。彼は軽く頭を下げる。スレインもベッドに座ったままそれに倣う。

「カーム・クラフトマンっていう。こいつの運転手」

「友だちだよ」

「運転手?」

 カームと名乗った青年と伊奈帆を交互に見遣り、スレインは伊奈帆に向けて口を開く。

「界塚伊奈帆。君は他の人に運転させて、毎日毎日、僕に会いにこんなところに来てたのか?」

 伊奈帆はふむ、と視線を一度上に向けた。頭の中のカレンダーを閲覧中なのだろう。

「毎日じゃないよ」

「昨日も来たじゃないか」

「昨日はユキ姉」

「お姉さんにも運転を?冗談だろう?」

 思わず大きな声を出して立ち上がってしまった。スレインは首を振り、ベッドに再び腰を下ろす。そして、膝に手をつき深々と頭を下げる。

「ええと、カームさん?すみません。この男がとんだご迷惑をおかけして」

「いや、あんたに謝られることじゃ……。こっちこそ、なんかすんません。伊奈帆のやつが押しかけて」

 カームがぎょっとした風に両手を胸の前で振り、困惑気味に伊奈帆に言う。

「あの……スレイン……さん?なんか、イメージと違ったわ」

「でしょ」

「僕にさん付けなんていいですよ」

「そんなら俺もカームって呼んでくれ」

「はい。カーム」

「おう」

「ねえ、僕もまぜてよ」

「いたのか、界塚伊奈帆」

「フルネーム?なんで?」

 ちょっとついてけない、と言いつつカームは腕時計を見た。

「おい、伊奈帆。ニーナたち待ってんぞ」

「あ、そうだ。はいこれ」

 伊奈帆はスレインにツカツカと詰め寄り、ずいと紙袋を押し付けた。スレインは戸惑いながらそれを受け取る。

「何だ?これ」

「服」

「服?誰の?」

「僕の」

「????」

「なあスレイン。あのさ、いつもこんな感じ?」

「ええ」

「やっぱなー。なんかすんません。悪いやつじゃないんだ」

「知っています」

 ふう、と息を吐き、スレインは伊奈帆に聞く。

「それで?伊奈帆。これをどうするんだ?」

 伊奈帆は右手で紙袋を示す。

「着替えて。すぐ」

「僕が?どうして?」

「お花見するから」

「君の服を?」

「急だったから」

「サイズが合うかな」

「もしかして、僕にケンカ売ってる?」

「よく分かったな」

「ま、時間がないから今日は買わないけど。ほら、早くして」

「はいはい」

「……イメージと違うなぁ」



「随分時間がかかるのね。男の着替えって」

 極秘施設中庭の壁に背を預けた姿勢で脚を踏み換えライエがこぼした。時刻は午後三時。伊奈帆、カームと別れもう一時間になる。

「レムリナちゃん、緊張してる?」

 ニーナが聞いた。ベンチの隣に座る少女が膝の上の手を握りしめる。

「……はい」

「最後に会ったのはいつ?」

 向こう端に座る韻子が聞いた。レムリナは手元の視線を空へと上げる。

「一年以上前かしら。桜を見るのは二度目だもの」

 そして彼女は髪を触ったり、スカートの皺を伸ばしたりと落ち着かない様子で三人を見る。

「私、変じゃないですか?」

「いつも通りかわいいよ〜」

 ニーナがふふっと笑ってレムリナの髪を撫でた。胸まで伸びた髪は柔らかな桜色を陽光に晒している。上品な白のワンピースは、数日前に四人で買いに行ったもの。シフォンの素材が春の季節によく映える。

「ありがとうございます、でも……」

 空色の瞳が地面へ。つま先を見つめ彼女は呟く。

「……会いたいと思っているのは、私だけかもしれません」

「そんなことない!絶対喜ぶよ」

 韻子の力強い声に、レムリナが顔を上げる。

「伊奈帆が言ってたから。ずっと奥さんのこと考えてるよ、って」

「そうなのですか?」

「そうだよ!だから、笑顔で待ってようよ」

「そう、ですね。はい」

「でもその子、あなたがいること知らないんでしょ?びっくりするんじゃない?」

「サプライズだからね〜」

 ガチャリ、とドアノブが回り金属製のドアが開く。

「よっ」

 息を止めて待つ四人の前に現れたのはカーム。ひらひらと手を振りながら歩み寄る。

「あれ?伊奈帆たちは?」

「もう来る。準備いいか?」

 デューカリオンチームの四人は顔を見合わせ頷く。韻子とニーナが立ち上がった。

「じゃあ、あたしたちはあの辺にいるから」

「がんばってね、レムリナちゃん!」

「はい。みなさん、本当にありがとうございます」

 四人を見上げ、レムリナは深々と一礼する。カームがぶんぶんと胸の前で手を振った。

「いえいえそんな!当然のことをしたまでで!」

「出た。男子はこれだから」

「タコみたーい」

「ほら、みんなスタンバイして」

 四人は走ってドアの左右の壁に張り付き、耳を澄ます。

 ーー……やっぱり丈が足りないな、スースーする。

 ーー次言ったら買うよ。そのケンカ。

 ーーはいはい。

「(来た来た)」

「(何の話してるの?)」

「(あいつらまだやってんのか。あ、開くぞ)」

 ガチャリ。

[newpage]

 正方形に区切られた青空からはいつも、光と風が降り落ちて、鳥の影が遊んでいた。それを見上げスレインが思い出していたのは、自分が語った御伽話のような地球のこと。

 光を歪めるほどのたくさんの空気と水。

 青い空を飛ぶ、鳥という生き物や。

 美しい願いを宿す花の名前。

 温度やにおい、雨や涙を運ぶ風。

 そして、そういう話を聞いた、地球を知らぬ少女たちの美しい眼差し。

 中庭は、スレインにとって思い出と再び出会い、今を確認する場所になっていた。

 でも、今日は違った。中庭へと続く扉の先にあったのは、吹き抜ける風と満ちた光。そして。

「レムリナ姫……」

 思い出ではない。今。そこにいる。

「スレイン」

 いつも座る場所で、名前を呼んで、微笑んだ。もう一度、と思わずにいられなかったその人が。

「……姫様!」

 駆け寄り、そして跪く。心臓の位置に当てた右手が震えていることに気づき拳を握る。どくどくどく、と拳に伝う鼓動。抜け殻めいたこの身体に、こんなに大きな心がまだあったのかと驚く。

「顔をお上げなさい。スレイン」

 いつか、同じことをおっしゃった。そう思いながら顔を上げ、瞼を開く。見上げる顔は微笑んでいた。ああそうだ。僕を許す時にいつも、こうやって気丈に笑っていた。

「姫様」

「もう、姫様じゃないわ」

 拗ねた声にくすりと笑う。スレインは心臓に置いた手をそっと、彼女へ向けて差し出した。

「レムリナ」

「ああ!」

 腕を伸ばす彼女を抱きとめる。温かい。そして、ちゃんと重さがあることに目の奥が熱くなる。月の重力では感じられなかった、一人分の人の重さ。ここは地球なんだ。地球にいるんだ。二人とも。

「信じていたわ、生きているって」

 耳の横で、しゃくりあげる声がする。肩に涙の雫が落ちるのがわかる。

「僕もです」

「会いたかったわ」

「ええ、僕も。ずっと」

 震える背と肩を強く抱く。大丈夫。この人は折れたりしない。

「泣かせてしまってごめんなさい」

「貴方の方こそ、泣いているわ」

「そうですね。でも、風が運んでくれるでしょう」

 風。僕は、僕のいないところで流した彼女の涙に何度、気づかないふりをしただろうか。

「この庭で。……貴女のことをずっと考えていました」

 体を離し、白い頬に伝う涙を指で拭う。座り込む彼女の右手を持ち上げ両手で包む。

「僕の手を掴んでくれたのに。離してしまった」

 小さな白い手。強く握ればガラス細工のように粉々に砕け、美しい破片となる気がするこの手。

「もう離しません」

 それは違った。力強く、そして優しく僕を掴んだ。守られる手ではなく、守る手なのだと今ではわかる。

 片膝をついて跪き、手を握る。少し見下ろすところで、僕の空が見つめている。

「レムリナ。貴女を愛しています。もう一度、僕と結婚してくれますか?」

 泣き笑いのその顔が、大きく一度頷いた。

「もちろんよ!」

 わー!と歓声。驚いて見ると、思い思いに走り寄る五人。

「おめでと!」

「ヒューヒュー!!」

「レムリナちゃん、よかったね〜!」

「韻子、クラッカーあったよね?」

「え?あるけどなにす、わっ!!」

 パパパパン!というクラッカーの破裂音と拍手喝采が青空に鳴り響き、紙吹雪が春風に舞った。

最新記事

すべて表示
Moonia Chloris-Goddess of Moon Blossoms-

Moonia Chloris   “Hey. How are you?” “Same as always, Kaizuka Inaho.” “I was asking how you were.” “You can see for yourself.” “I’m...

 
 
 
Moonia Chloris

ムーニア・クロリスー月花の女神ー         ツー―――。ピッ。 『やあ。調子は?』 「相変わらずだな。界塚伊奈帆」 『僕は、君の調子はどうかと聞いているんだけど』 「見ての通り」 『見えないから聞いてる』 「見えてても聞くだろう」...

 
 
 
1/6の空

「鳥は、どうして飛ぶのかしら?」  ガラスに映るレムリナの顔を見て、スレインは視線をガラスの向こうの青へと送りこう言った。 「翼があるから、と言ってしまえばそれまでですが。翼があっても、飛べない鳥もいます」 「そうなのですか?」...

 
 
 

Comments

Rated 0 out of 5 stars.
No ratings yet

Add a rating
bottom of page